富山市の岩瀬という所に行った。
恐らく、私が生まれた後、幼稚園の1年目まで住んでいた所だ。
当時は誰かの家の離れにある納屋の2階に親子三人で住んでいたように思う。
納屋の2階で暮らしていたということは、豊かではなかったということだ。
しかしその頃私は幸せを感じていたように思う。
幼少の頃の記憶はあまり鮮明ではない。
色んなことが落ち着いてきて、足取りを確認できるのは、小学校の高学年以降だ。
それ以前の自分の人生は、やや空白のような感じがする。
親の転勤がしばしばあったせいもあるのだろうけど、理由がそれだけではないような気もする。
小学校の低学年の頃は地獄だった。
幼時を過ごした最後の1年間、樹心幼稚園というところに通っていた。
アルバムが残っているため、漢字もわかる。
その幼稚園には鐘があった。
お寺の幼稚園だったということと、その意味を大きくなってから知った。
鐘の回りに児童たちが集まって、何か行事があったことをかすかに覚えている。
夢でも見たことがある。
不思議な光景だった。
今でも樹心幼稚園があるということは聞いていた。
しかし5歳でその地を離れてから、一度も行ったことがなく、当然当時の友達など、名前すら覚えていないから、行ってもなんの感傷もわかないはずだ。土地だけを訪ねて行くほどの時間的余裕があるわけでもない。
たまたま仕事でその地へ行く機会があった。

偶然、樹心幼稚園を見つけた。
ひょんなところにあった。
お堂があった。
やはり寺の幼稚園だ。
そして・・・鐘楼があり、鐘があった。

40年前と同じ鐘かどうかはわからないが、とにかく懐かしの鐘だ。
なんとも言えぬ感懐を得た。
人生の空白のページが少し埋まったような気がした。
ああ、自分は幼時、ここに来ていたんだという足取りをつかんだ喜び。
人生の出発点を見出した喜び。
私が手塚治虫さんの「どろろ」に深いところで共感を覚える理由もそのあたりにあるのかも知れない。
百鬼丸は、人生の出発点において体中を魔物に、生まれながらにして取られてしまう。
そして、旅をしていく中で、それら魔物を一体ずつ退治して、その都度自分の体を取り戻す。
地獄のような子ども時代を経、大人になった今、少しずつ幼かった頃の思い出の場所や人に出会い、自分の失われた人生の感触をつかみ取る。
百鬼丸の人生と自分の人生を重ね合わせているのかも知れない。
次はどんな偶然に出会うことになるのか。
楽しみだ。
しっかり生きて行こう。
明日はいよいよ経営相談会第x弾
今の会社に入って、企業経営者の方とよく話をさせていただいている。
業界の動向を教えて下さい、というパターンだったり、経営改善の指導などというおこがましい言い方であったり、色々だが、それらと並行して、経営相談などというタイトルでお目にかかることもある。
経営相談の取組は昨年9月から始まり、かれこれ6会場ぐらいで実施したろうか。
明日はT町というところにある、我が社の支店での開催である。
地元の企業6社の経営者の方々と順にお話をさせていただく。
支店からの要望で実施するという点でははじめてのケースなので、先方の期待も大きいだろうし、私もしっかり対応して、少しでも何か経営のヒントになる智恵が提供できればいいなあと思っている。
気張りすぎてもだめだが、力を入れなければ熱意も情熱も伝わらない。
経営者の皆様の悩みにしっかり耳を傾け、何がしかの気づきを得ていただけるよう精一杯頑張る。
良い日にしたい。
アグネス・チャンが大学を開設
以前、アグネス・チャンのブログを紹介したが、今日はアグネスが開設した「アグネス大学」についての記事。
彼女がやっている「サニーサイドアップ」というラジオ番組がある。
我が富山では、KNBラジオで日曜朝の9時45分ぐらいから入っている。
その中で、今日おっしゃっていたのが「アグネス大学開設」についての話だった。
大学と言ってもどこかの建物でやっているわけではなく、インターネット上の動画を見る形式だし、卒業して学士号をもらっても、それは世間で通用する学位ではない。ということを前提として理解した上で、しっかり学べばそれはそれで楽しく、かつ自分の人生観を高められる学問の場だと思う。
人生大学だ、とのことのようである。
アグネス大学のURL:
http://sub.recordchina.co.jp/agnes_chan/
ということで早速先ほどいくつかの動画を見させていただいた。
コミュニケーション論についての話の中で、コミュニケーションを構成する要素として8つの要素があるとのこと。コミュニケーションの8つの要素は以下のとおり。
①送り手
②内容
③受け手
④共通の記号(日本語、英語、etc)
⑤媒介(喉、文字、手話、etc)・・・相手の立場に立つ
⑥到達度
⑦理解度
⑧反応
アグネスの言うコミュニケーションは、あくまでツーウェイコミュニケーションなので、送り手だけでは成り立たない。相手がいてちゃんと伝わって反応があって、ということである。当たり前のことだが、ちゃんと伝えるのは送り手の「相手の立場に立つ」ということであり、それが基本。そして、それ以前の大前提として「自分の価値を認める」ことが大事だと言っておられる。自分の価値を認めずして相手とのコミュニケーションなどできないよ、まず自分をしっかり認めてあげてね、と言っている。
毎週火曜と金曜に更新(講座の追加登録)がなされるらしいので、なるべく見ていこうと思っている。
ちょっと気になっています、太陽黒点ゼロ
去年の秋、太陽の黒点活動がゼロだということが一部で騒がれていた。
ちょうどリーマンショックの後ぐらいだったろうか。
それからずっと私も太陽の黒点活動の状況をウォッチしているが、一向に増える気配がない。
多いときは100を超えるときもあるようだが、ゼロがずっと続くというのは、異常事態らしい。
太陽の黒点は、周囲の他の部分よりも温度が低いらしいのだが、黒点の数が多いということは活動が活発だということらしい。この辺の理屈がよくわからないが、太陽活動の活発化=黒点数の多さ=人間の興奮度合いの強さ=経済活動の活性化や戦争の多発など人間活動の活発化、ということをかの栗本慎一郎氏が言っていた。
それが本当なら、今はまだ経済活動が上向きにはならない時期だと言える。
過去のデータを少し調べてみたが、すっきりとした相関関係は今のところ見当たらない。
他の人が書いているブログなどを見ると、相関関係があるのだよ、という記事もあるのだが、私の調べではまだそういう根拠には当れていない。
しかし、あちこち見ていると「太陽黒点の数のゼロ更新状態は100年に一度の異常事態」ということであり、グリーンスパン氏の言う「100年に一度の金融危機(経済危機)」と符合する。(誰かが意図的にそういうことを流布して不安を掻き立てているのかも知れないが)
そんなことで、しばらくは黒点活動と経済の動きから目が離せないなあと思っている。

写真はここから転載:http://swc.nict.go.jp/sunspot/
仏像窃盗について考える(収まり悪いんちゃう?)
朝からむかっ腹の立つニュースをやっていた。
どこぞのお寺(普段は無人らしい)で、仏像が盗まれたというニュースである。
仏像は私も大好きだ。
いつも眺めていたいという気持ちがある。
心安らげさせてくれたり、自分の内面を振り返らせてくれたり、もっといかれ(いかって魔を断ち切れ)と呼びかけてくれたり、色々な声を私の心に呼びかけてくれる。ような気がする。
それと同じ気持ちが窃盗の動機かどうかはわからない。
金目当てかも知れない。
しかし、自分の住まいの一角に置いて眺めるにせよ、他の誰かに渡してその人の家かどこかで眺められるにせよ、いずれにしても凡俗の人間のありかに置かれるわけである。
仏像はなぜ拝まれるのか。
仏像が置かれている場所=お寺は、我々庶民が信仰しようとして純粋な気持ちで訪れる場所である。
訪れる人々が崇高な気持ちで訪れる場所。
これは神聖な場所と言えるのではないか。
お寺が作られた動機は、人の不満を宗教で吸収(救済ではなく吸収)しようという、たとえば統治目的であったり、人々を救済するという名目での金集め目的であるかも知れない。
僧侶とて、必ずしも神聖とは限らない。むしろ、なまぐさナントカと言われるくらいだ。
でもそこを訪れ、そこにいます仏さまを拝もうという人々、我々庶民は、そういう、建立目的とは無関係な次元にいて、かなりピュアな気持ちで訪れているのである。
そういう場所は人々の気持ちを反映して、おのずと神聖な場所になるはずだ。
そういう神聖な場所にあるからこそ、俗人が作ったモノでありながら、仏像は崇高な面持ちを湛えているのであり、拝みの対象となりうるのである。
盗人さんへ。
あんたの家の仏間に飾っても、ちっとも崇高さはないし、ありがたみも感じられないはずだよ。
逆に、こんなすすけた人形に、なんでみんなお寺へ拝みに行くんだろう?って違和感すら覚えるのではなかろうか、と思う。きっとどんな立派な仏壇や飾り棚に収めても、収まりが悪いはずである。
そう感じられたら、それはあんたがまだまともな感覚を少しは持っていたことの証拠になると思う。
なぜって、あんたの家には誰も頭を下げやしないから、神聖な場所にはなりえない場所なのだから。
普通の人間が普通に暮らしている、俗なところに安置されている仏像は仏像ではなくただの人形でしかないのだから。
そのことに早く気づいて、元の場所にお返しすべきだと思う。(当然、世間を騒がした責任は負わねばならないが)
まったく。
念願叶って・・・納屋整理
家に隣接した状態で納屋がある。
戸板がはがれてきて、修繕をしようと友人のライフサービスに相談をした。
曰く「柱の中にシロアリが入り込んでおり、そのうち傾く、戸板の手直しでは何の解決にもならない」という見立て。
突如、納屋を建て直さなくてはならないことになった。
市道をはさんだ向かいにもう一つ納屋がある。
5年ほど前に父が購入したものだ。
我々の引越し荷物は、とりあえずそこに放り込み、ついでに手前の方を駐車場として使っている。
向かいの納屋には2階部分があり、そこにも色々と荷物を放り込んだ。
建て直さなくてはならない「家の横の納屋」にも2階部分がある。
そこには、大学時代の教科書以来、人事異動で転勤になって片付けきれずに放り込んだ昔の文庫本やらなんやら、本が山のようにある。数えたら段ボール30箱分にもなっていた。
そのほか、ものを捨てられない両親のストックも山ほどある。
使わないのに捨てられない。
なのに使わないから、さらに使い物にならなくなっていく。
徐々にゴミと化す。
納屋はいつの間にかゴミ箱になっていた。
しかし両親からするとそれらはゴミではなく、仮に置いてある生活必需品なわけだが。
とにかく、一つの納屋がしばらくの間消滅するわけだから、それらのものを整理しなくてはならない。
背に腹は変えられなくなった。
実は去年のGWに納屋の整理というのを一つの目標にしていた。
一昨年のGWを迎えるときもそう思っていた。
結局毎年何にも手付かずだった。
今年こそ、と今年は思っていた。
そこへ今回の建て直し騒動である。
天から機会がめぐってきた。
このチャンスを生かさない手はないと思い、先週末から下調べを含め、着手した。
整理と同時に大量のゴミも捨てなければならない。
というか、それを名目に捨てようよ、というわけである。
先週末、ざっと全体を見回し、どういう手順で何をどこへ置き、リサイクルショップには何を持っていってもらい、自分でゴミ処理場に持っていくのはどうして、とあれこれ工程の設計をした。
我が家の子らは、大学生と高校生のおのこである。
今日は二人の子どもたちにも手伝ってもらい、母や妻には本当に使うものだけを残すための検分をしてもらい(珍しく妻も休みだった)、大体の絵図面で工程を説明し、朝から一気呵成にやった。
二日はかかるかと思っていたが、思いのほか子どもたちの働きが良く、大変はかどった。
子どもたちにはそれぞれ用事があり、半日ずつの手伝いだったが、結局夕方五時すぎに全ての荷物の移設、ゴミの仕分けが終わった。
大変疲れたが、こんなにスムーズに行くとは思ってもみなかった。
子らに感謝である。
機会にも感謝。
妻と母にも感謝。
来週は山のような本の整理だ。
処分すべき本も相当あると思う。
それらはBOOK OFFかな。
処分できない本は、建て替えた納屋に入れよう。
ゴミはGW明けの週末に処理場に持っていく。
とにかく、積年の願いが今日、一気に片付き、大変心地よい。(ちょっと腰が痛いけど)
BIZねっと勉強会の感想
今日は敷居の低い異業種交流&勉強会「とやまキトキトBIZねっと」の第15回の例会だった。
「カラーユニバーサルデザイン」という、色に関して、なるべく多くの人にきちんと情報が伝わるようにしようという動きに関する講演だった。
色の情報が正しく伝わらない人・・・いわゆる色弱と言われている人が、男性の場合20人に1人いるらしい。
と、いうことは・・・。
それらの人に正しく情報が伝わるように、たとえば商品のパッケージの背景色と文字色を工夫することで、最大5%の売上増加が見込める余地があるということだ。
いや、なんでも商売のネタにする発想はね、とたしなめられるかも知れないが、ビジネスマンとしてはそういう目で色んなことを考えることも必要だと思う。
さらに、某清涼飲料水メーカーの商品は、黒い飲み物を透明のケースに入れ、赤い文字で商品名を表しており、色弱の方々にとってはとても見にくい、というより、ほとんど読めないようである。
わかっていてそうしているのか、気づかずにしているのかはわからないが、逆に、カップ麺でもケースの色を工夫して、文字がしっかり読めるように配慮しているものもあるようだ。
赤の背景色に黒の文字、などほとんど見えないそうだ。
どうしても赤が好きなら、せめて朱色かオレンジ色にしなさい、と講師は言っていた。
微妙な違いだが、それで随分見えるようだ。
ビジネスの現実の世界では、しっかりそういうことを考えながらパッケージングしているものもある、ということをしっかり認識して、これからは色んなものを見ていきたいと思う。
と感じた今日この頃である。
とやまキトキトBIZねっとのHPはこちら。
トイレにボチャン
今日、久しぶりに、トイレに携帯電話を落とした。
ぼちゃん。
ではない。
がちゃん、と言った方が正確だ。
トイレと言っても大便器ではなく、小便器だからだ。
従って、6年ほど前に京都の鞍馬寺の前の売店の公衆便所(大便器)に落としたときほどの汚れはなく、きったねえ、といったショックもない。
すぐに水洗いして、オッケー!と思っていた。
ところが、帰りがけ。
電車からかみさんに帰るメールをしようとしたら、キーを打っても字が出ない。
あちゃー。
しっかり水が中に入り込んでしまったみたいだ。
トホホ。
仕方なく、帰ってすぐに、バッテリーやメモリーカードを外して冷蔵庫へ。
丸一日も入れておけば乾燥するだろう。
だめなら保険に入っているし、と思ってはみるもののやはり愛着があるし、これまでのデータは消えてしまうものもあるだろうから、やはりちょっと困る。
なんとか復活して欲しいものだ、一晩で。
仕事ができる幸せ
仕事は結構大変である。
上司は鬼のように厳しく、せっかちでコロコロ優先順位が変わる。
ありえないくらいに方針がわかりにくい。
そういう人の下にいるのでさぞかし大変だろうと思う。
実際大変だ。
しかし、ふと思う。
まがりなりにも健康で、普通に仕事ができるというのは有り難いことだ、と。
今日外出した折、国道脇の石の囲いに入った仏さまに手を合わせている人がいた。
近くには県立富山中央病院がある。
自分は健康で、普通に仕事ができている。
仕事がしたくても、体の自由がきかず、できない人も大勢いる。
仕事がしたくて、体の自由がきいても、働く場所のない人も最近は多い。
そういう中にあって、自分は普通に仕事をさせていただいている。
なんと幸せなことか。
鬼の上司がどうしても気に入らなければ、企業倫理ヘルプラインに電話すれば良い。
数日以内に自分の首が飛ぶか、上司への注意のどちらかがあり、いずれにしろ状況は変わるだろう。
とりあえず首が飛ぶことの覚悟さえできておれば、恐いものはない。
そう肚を据えてから仕事に臨めば、全てこれ経験として楽しむことができる。
いけないのは、過度なスピード、過度なプレッシャー、過度な量。
こういうものを要求する上司はだめだ。
でも多くの日本のサラリーマンは、そういう状況にあっても、客観的にものを捉えられないかも知れない。
なんてったって、日本の社会は「ムラ社会」であり、自分のいる共同体のルールが全ての規範に優先すると錯覚しているからであり、しかもそれはほとんど錯覚ではなく、自分をもまた周囲の人をも縛りつけ、現実になってしまっており、そこを出たら死んでしまうというふうに思ってしまっているのだから。
う~ん、狭いニッポン、せせこましいことだ!
ともかく、自分は今、このしんどい状態を楽しめているし、仕事を普通にさせていただけていることに心から感謝している。
ありがたいことだ。
夜桜満開
最近、退社時間が午後9時を過ぎることが多い。
ということをまともに書くと、サービス時間外の問題となるので、あまりおおっぴらには書くわけにはいかないのだが・・・。
今日も、退社したのは午後9時20分過ぎ。
富山市の中心部を流れる松川。
その川沿いには多くの銅像が立ち並ぶ。
その銅像たちのたもとで、そこかしこで、今宵は人々が写真を撮ったり、夜桜を楽しんだりしていた。
おお、そうか、桜が満開になったのだ。
と、一人感懐にふけりながら、駅への道のりを急いで帰ってきた。
今年はいつもより早いのかな、桜。