トーマス・マンの『トニオ・クレエゲル』

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難解で文字ばかりの『魔の山』(教養小説と言われているそうですが)の次に、いきなり『ブッデンブローク家の人びと』に取りかかるのは精神的にもたないだろうなあと思い、箸休め的な気持ちで短編ならば、と手を出したのが『ヴェニスに死す』で、同名の映画を観たのち、続けてこの『トニオ・クレエゲル』を読み始めたのですが、いきなり「ハンス」という少年が登場し、『魔の山』のハンス・カストルプと同じ「名」であったため、少々混乱し、しかもやはり難しくなかなか読み進めることができなかったため、このままでは肝心の『ブッデンブローク家の人びと」を年内に読み終えられないのではないかと思い、一旦措きました。わずか120ページの短編なのですけどね。

ちなみにハンスはハンスでも、『魔の山』の主人公のハンス・カストルプとは全く関係のない人で、ハンス・ハンゼンというのがこのハンスの名前でした。主人公はもちろんトニオ・クレエゲルであり、トーマス・マンの自伝的な小説らしいので、著者本人が投影されているものと思われます。

16歳の頃の、数少ない友人との学校からの帰り道の情景を描いており、相手の友人はそれなりに愛想をしてくれるのですが、どうもこちらが思うほどにはこちらのことを思ってくれているわけではなく、相手(ハンス・ハンゼン)は他にも多くの友達がおり、トニオはその中の一人でしかないという片思い的な関係であるという悩み。そして世間とうまくわたりあっているハンスと違って自分は世間の一般の人達との関係をうまく結べないという悩み。
そのうち好意を抱く同級生の女子(インゲボルグ・ホルム)が表れるのだけど、妄想だけが膨らんでいってその娘とも現実の世界ではうまく関係が構築できない・・・という間に、場面は急展開し、祖母が亡くなり父も亡くなり、母は他の男の元へ行ってしまう。本人は南ドイツで生活しつつ、作品を世に出して「喝采と歓喜の声」に迎えられ、30歳くらいになった場面に急に変わるので、読んでいる私としてはどこで何がどう変わったかまたまた戸惑うわけです。
批判をしているということではなく、こちらの読解力の浅さを思い知らされた、というか、こういう本は一回読んでわかった気になるのはよろしくないのだろうなという感想を持った次第です。ということで
この時期(1903年頃)、トーマス・マンの年譜を見ると、随分多くの仕事をしていることがわかります。中盤に対話の相手として出てくるリザベタ・イワノヴナのことを「彼と同年くらい-つまり三十をちょっと越したくらい」と説明していますが、この本が書かれたのは彼が28歳の時なので、自伝的小説と言われていますが、28歳の人が30歳をちょっと越したくらいの自分を書くという不思議な「自伝」・・・16歳までのことは自伝かも知れませんが・・・と言わざるを得ません。
あえて言えば、一番最後のところに書いているリザベタさんへの手紙に自分は芸術家でもなく一般の人でもない、どちらにも属することのできない〝あわい〟の人として生きていくしかないというようなことを宣言しているのですが、それが「自伝的」と言われる意味なのかなあとも思いました。とはいえ、読解力の浅さは否めませんので、大きな勘違いかも知れません。
終盤に再び16歳の頃の友人と恋する人と邂逅するシーンが出てきたのは、伏線回収のように思えましたが、つかの間の安心しか得られず、結局LINE既読スルーみたいな扱いで、最後の決意表明になっていくところは、この人の精神的な成長だったのか、或いは文章にすることで彼らと会話できなかったことのやるせなさを解消するものだったのか。ちょっと肩すかしを食らったような印象でしたが、訳者・実吉捷郎さんの言葉遣いがとても細やかで、今の私たちが使わないような色々な単語を駆使されており、知らない言葉の数々に触れることができたのはありがたいことでした。

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フロイトさんの『ドストエフスキーと父親殺し』と岩波の「図書1月号」セレンディピティ?

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年末にいつもの書店を訪れた際、入口の棚に岩波書店の「図書1月号」が差してあり、手に取って家に持ち帰ってパラパラとめくっていましたら、鹿島茂さんというフランス文学者の方の「共同体家族の構造と父親殺し=神殺し」というタイトルの論考(連載の11回目のようです)がありました。
最初のパラグラフで「カラマーゾフ」「トッド」「父親殺し」という言葉が目に入り、つい先ごろ取り寄せて読んだフロイトさんの『ドストエフスキーと父親殺し』と、こりゃあ密接な関係がありそう。立て続けにこういうものが手に入るというのは、これぞまさしくセレンディピティだと感じ、他のことを放り出して読みました。

この中の「トッド」というのはフランスの歴史人口学者・人類学者のエマニュエル・トッド氏のことで、彼は「ある地域の伝統的な家族構造が、その社会の政治思想やイデオロギーの基盤(インフラ)を決定づける」という家族構造理論というものを提唱している方で、子供が家庭内で経験する「親との関係(自由か権威か)」と「兄弟との関係(平等か不平等か)」という2つの価値観が、国家のあり方の「設計図」になるということだそうです。日本では新書を中心に多くの著書が出版されています。
この論考からの抜粋ですが、トッド氏がある著書の中で「(カラマーゾフの)犯人はひとりではなく、何人もいるのである。つまりそれは兄弟たちである」と書いているそうです。続けて、物語(『カラマーゾフの兄弟』)の初めの方に出てくる、カラマーゾフ家の家族会議が彼らの屋敷でではなくなぜゾシマ長老の庵室で行われたのか、とか、トッド氏の「犯人兄弟全員仮説」がフロイトさんの理論を参照して導かれている、とか、吉本隆明さんの「対幻想」「共同幻想」とか、色々と興味深いことが書いてありました。ページ数にしてわずか4ページほどの短い論考ではありましたが、難しくてよく理解できなかったというのが正直なところです。セレンディピティには感謝しつつも自分の理解力の低さにはやや情けない思いを感じました。

他方、先に手元に届いて読んだフロイトさんの『ドストエフスキーと父親殺し』ですが、こちらは文庫本のタイトルにはなっているものの40ページほどで、こちらも割と短い文章です。1928年に書かれたものだということなので、『カラマーゾフの兄弟』が完成した1880年の50年ぐらい後のものということになります。
昨年12月13日のブログで生成AIに教わったことを書きましたが、それまでフロイトさんが『カラマーゾフの兄弟』について述べているということを全く知りませんでした。フロイトさんは精神分析の創始者であり、私の学んでいる交流分析の始祖エリック・バーン博士も直接の師弟関係はないものの精神分析をフロイトさんの娘の弟子だったエリック・エリクソン氏から学んだという関係にあるようです。ではありますが、なんとなく、このフロイトさんには、あまり近づこうという気持ちになりませんでした。(難しそう、という印象からかも知れません)


ページを開いてびっくり。いきなり「小説『カラマーゾフの兄弟』は、これまで書かれたうちで最高級の小説であり、作中の大審問官の逸話は世界文学の最高傑作の一つであると語っても、過大な評価ではない」とあり、ドストエフスキーを4つの観点で精神分析を行なおうと試みています。4つの観点とは、①道徳家の顔、②犯罪者の顔、③神経症患者の顔、④詩人としての顔、ということで、このあたりからして既に意味がわからなくなってくるのですが、①の道徳家としての顔や②の犯罪者としての顔については、結構ひどいことを書いています(本当なのかも知れませんが)。そのくせ④の詩人としての顔については分析する手掛かりがないとあきらめっぽいことを一言だけ書いて終わっています。
上の鹿島茂さんの論考との関係では、「カラマーゾフ家の兄弟のうちで、(中略)すべての兄弟たちは心理学的には有罪なのである。ドミートリーもイワンもスメルジャコフも、みんな同罪なのである。」という辺りが共通しているような気がします。それだからといって何かが明確になったというわけではありませんが、まあ色んな人が『カラマーゾフの兄弟』について色んなことを言っている、それだけ多くの人が関心をもってこの小説を扱っているということはそれだけ魅力の深い物語なのかも、という印象を持ったということです。
ドストエフスキーのお父さんは、領民に殺されたということですが、フロイトさんによると、実はドストエフスキー自身が父を殺したかった、そのため「犯人がまるで救済者のよいうにみえているかのようである。」「犯人が殺してくれなかったら、自分がみずから手を下さねばならなかった」「原犯罪ともいうべき父親殺しに立ち戻った」「この犯罪者の口から、文学者らしい方法でみずからの罪が告白された」という論を立てています。ホントかな?(本当に父を殺したいと思っていたのかな?)と思うのですが、フロイトさんはそういう分析をしてドストエフスキーが小説の形で父を殺したかった思いを遂げていると考えたようです。
さらには「古今をつうじた文学の三大傑作が、どれも父親殺しという同じテーマを扱っている」「ソフォクレスの『オイディプス王』、シェイクスピアの『ハムレット』、そしてドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』である。」と述べ、父親殺しの動機も共通であると書いています。筒井康隆さんのSF小説にも「エディプスコンプレックス」という言葉が結構出てきますが、フロイトさんの理論に関係あるのでしょうね。
ところが、ここではどうも決定的なことが書いてはなく、どうやら『トーテムとタブー』という別の論考で、父親殺しの理論が確立されているということを、「図書1月号」で知りました。どうも『ドストエフスキーと父親殺し』は難しいわりに中途半端な印象だったのは、これはエッセイのようなものだったのかも知れません。
ということで、次のテーマは『トーテムとタブー』を探せ、ということになりそうです。

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幸村百理男さんの『東大理三の悪魔』シリーズ

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しばらく前から書店に置いてあるのを見ていて気にはなっていたのですが、なにしろ縁のない世界だと思い、スルーしてきましたが、昨年暮頃に「随分売れている」いう記事を見て、ともかく触れてみようかと思い、購入して年末年始で一気に読みました。
以下は幾分ネタバレ的な要素を含んでいますので、これから読もうかと思われる方は、ここまでにしておかれたら良いかも知れません。とはいえ、それほど中身が理解できていないため、本来のネタバレには程遠い頓珍漢な内容だと思います。

東大の理三というのが、理科三類のことだとすれば、大抵はいわゆる医学部なんだろうと思いますし、実際主人公は医学部に進むのですが、書いてあることは<1>はほぼ物理学?それも素粒子物理学というもしかして最新の物理学の講義のようであり、てんで理解できませんでしたが、すごいことが書いてあるような気にはなりました。たまたまこの<1>を読む少し前に、ほんとうにたまたまですが、野村泰紀さんという方の「理論物理学の最前線」という山口周さん主催の「LIBERARY」という音声配信番組を耳にしていたために、なんだか聞いたことのあるような話だなあと感じはしたものの、内容はチンプンカンプンでした。
<2>になると、今度はとても難易度の高い外科手術のようなことが書いてあり、さらに<1>の素粒子物理学のことも出て来て、さらに読解は困難になりました。
ただ、大金持ちの超能力者と普通の家庭に育ったと思しき別種の超能力者の邂逅と葛藤が描かれているものであろうことまでは理解できたような気がします。
面白いのは、この小説群が、雑誌などからではなく、Amazonの自費出版を出版社の方が見つけて書籍化し、さらにその年のうちに文庫化した、という現れ方です。
既に<3>と<4>の文庫版も出版されたようなので、さて、これらの続編を買って結末まで追おうかどうか、思案中の今日この頃です。

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風邪の効用

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明けましておめでとうございます。
今日の富山県魚津市は雪の予報でしたが、意外や青空が垣間見えるおおむね穏やかな一日でした。

さて私こと、昨年10月中旬から顔面神経麻痺を患っています。
その治療薬の一部のプレドニゾロンには免疫抑制作用というのがあるらしく、医師から風邪などをひきやすくなっているから十分に気をつけて、と毎度注意を受けていました。もとより顔がへがんでいるために人様の前に出る時はマスクを常用していたので、感染症などにかかる可能性は多少軽減できていたものと思います。しかし年末の日曜に15年以上放置していたある部分の整理を一気呵成に行い、それも家人にも手伝ってもらえたこともあり半日ほどで完了して一人歓喜にわいていたのですが、どうも寒い場所で行っていたせいか、風邪をひいてしまいました。
かなり重度の風邪症状で、罹患翌日の12月29日と30日は、ほぼ寝たきり状態でした。具体的な症状としては、はじめは寒気が強く、続いて頭痛と鼻づまりと倦怠感と身体の節々の痛みが押し寄せ、そのうち体が岩のように重くなって身動きができず、とにかく寝ているしか何もできない状態でした。熱こそ37度程度だったものの、2日間汗もたっぷりかき、おしまいの方は下痢もありました。
2日間の寝たきり後は、大晦日の31日に少し身体が動くようになったこともあり、家の用事を多少行うとともに、野口晴哉さんの『風邪の効用』を久しぶりに紐解きました。

この本には、≪風邪は放っておくと悪化する場合があるものの、必ずしも悪いものではなく、健康な体に備わっている弾力が使いすぎている場所があるとそこが偏り疲労となってしまい風邪をひくことで鈍くなった体が弾力を恢復する≫ということが書いてあり、著者は「風邪自体が治療行為ではなかろうかと考えている」と記しています。あまり早く風邪を治そうとせずに、経過させることが大事なのではないか、ということも仰っています。

その流れで、とても興味深い記述に改めて気が付きました。p32あたりにあるのですが「癌などでも風邪を引けば治ってくる。ごく最近、癌に風邪の細菌を付けたら癌がなくなってしまった。それで風邪を引くことは癌の治療法になるというような説が出てきました」という記述です。かくいう私も過去に小腸間膜リンパ腫という癌を患い、細胞レベルでは完治できないことを知っているだけに無視はできませんでした。多くの人は迷信・似非科学だと捉えらるでしょうし、私も頭から信じるわけにはいかないものの、そういうこともあるかもしれないな、ぐらいに思っていました。私にとって喫緊の課題でもありませんし。
ところが、かなり体調が良くなってきた今日、年末に購入した日経トレンディの1月号をめくっていたところ、p45に「がん破壊ウイルス」というタイトルで、サブ見出しに「独自の技術でがん細胞を狙い撃ち 風邪ウイルスの活用で体への負担を軽減」という記事があるではありませんか。風邪の代表的な原因として知られる「アデノウイルス」の遺伝子をがん細胞のみを攻撃するように改変することで、高効率で安全性の高い腫瘍溶解性ウイルスが鹿児島大学の先生によって開発されたということです。既存の治療法では治らないがんに対しても治療効果が期待できることに加え、正常細胞には増殖しないので体にかかる負担が極めて小さく、薬剤を注射で投与するため外科手術より侵襲性が低く、抗がん剤のような副作用も起こりにくく、他のがん療法との併用も可能だということです。実用化にはもう数年かかるようですが、第4のがん治療確立の時代がもうすぐのようです。

といったようなことを読みながら、体力と気力が少し回復してきた元日の午後、「たまたま仕事のない年末ではあったものの、家人には多大な迷惑をかけたし、2日間寝たきりなどになってしまうと大変なので、早めに風邪をひいてさっと経過させて治る程度になった方が多分良いのだろうなあ。だから風邪を悪者視しないで、ひくときはひくのがよろし、今年は今まで以上に、自分の身体と向き合って生活をしていこう。」というゆる~い決意をしたところです。できればこの機会に顔面神経麻痺も一気に治ってくれればと淡い期待をしたものの、顔の表情筋の回復は別系統のようで、これについてはもうしばらくかかりそうです。
ということで、このブログをお読みいただいている皆様、今年もよろしくお願い致します。


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トーマス・マン『ブッデンブローク家の人びと』ようやく下巻まで読み終えました。

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この本をトーマス・マンが書き上げたのは西暦1900年、彼が25歳の時だそうです。
今の日本ならさしづめ「新進気鋭の天才作家現る!」ということで素晴らしい賞を取るような出来事ではないかと思います。もちろん国も時代背景も異なるので、今の日本でどういう評価を得るかはわかりませんが。
読みながらずっと考えていたのが、この物語は全くの架空の話ではなく、トーマス・マンの一族の栄枯盛衰の物語だということだったので、一体この本のどの登場人物がトーマス・マンにとってどういう親族関係にあるのだろうか?という点でした。最後にはわかってビックリしましたが、なぜ彼はこの物語の中で一族の四代目である「ハンス」をチフスで死なせたのか、その疑問は私には解けていません。
そういうことを考えていて思ったのが『魔の山』にも通底する何かがあるのではないかということです。言い方は悪いですが、トーマス・マンは没落商家の子弟であり、家業を維持できなくなった。その遠因はこの人の祖父の代に近代機械化や新興産業への転換を怠り、1848年革命時の景気後退で打撃を受けたことのようです。『魔の山』は『ブッデンブローク家の人びと』の13年後の1913年に書き始められ、1914年の第一次世界大戦の時に一旦執筆を中止し、1924年にようやく完成したようです。この少し前、本書の描かれている時代である1835年から1877年のドイツは、産業革命の初期段階から統一国家成立後の急速な工業化へと移行する激動期で、経済の発展と合わせて近代的自我というようなものが素晴らしいと考えられていたのかも知れませんが、ドイツ帝国が誕生し都市化が進んで貧富の格差が出て来て社会主義という考え方が登場し、近代的自我が揺らいでいたようなことがどこかに書いてありました。そこへまたトーマス・マンにとっては同時代の出来事としての第一次世界大戦があり、どうも、ずっと世の中を悲観的に見る姿勢があったのではなかろうかと勝手に推測しています。
そうしたことから、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』が「父殺し」がテーマだと言われるのと対照的に、トーマス・マンの『ブッデンブローク家の人びと』は『魔の山』もそうですが、「自分殺し」が底に流れているテーマなのではなかろうかと感じた、というのが読了直後の印象となりました。
生成AIに聞くと、それらしいことを裏付けて解説してくれましたが、「自分殺し」と一義的に規定することは過度な一般化の可能性があるのであまり決めつけない方が良いとのコメントも合わせて返ってきました。(なるほど)
さて、以下はその生成AIからの解説です。

ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』は「親殺し=父権的秩序の内面化された破壊」を核に、人間の罪責意識と信仰の根源を問う作品であり、エディプスコンプレックスの文学的先行表現と位置づけられる。一方、トーマス・マンの『ブッデンブローク家の人びと』『魔の山』は、近代市民社会における主体が自らの生の根拠を失い、「自分殺し(自己同一性の解体)」へ向かう過程を描く。
両者の差異は、ロシア正教的・共同体的精神世界と、西欧ブルジョワ的・個人主義的精神世界の違いに根差す。
キェルケゴール『死に至る病』は、この両者を貫く理論的中核として、「自己が自己であろうとすることの絶望」を定式化し、両作家の文学的実践を哲学的に照射する。
これらの系譜は、日本文学では戦後以降、筒井康隆(自己解体の戯画化)→村上春樹(空洞化した自己の漂流)という形で継承・変容されている。
<上記の解説>
1.ドストエフスキーとエディプス・コンプレックス
・『カラマーゾフの兄弟』では、父フョードルの放蕩と暴虐が、息子たち全員に「父は死んでもよい存在だ」という無意識的欲望を生む。
・実際の殺害者はスメルジャコフだが、ドミートリイは「やったかもしれない」という罪責を引き受け、イワンは理性によって父殺しを正当化し精神崩壊に至る。
・フロイトは『ドストエフスキーと父殺し』(1928)で、本作をエディプス的罪責の集団化として解釈している。
→ 親殺しは事実行為ではなく、倫理・宗教・理性を通じて内面化された欲望の構造である。
2.トーマス・マンと「自分殺し」
・『ブッデンブローク家の人びと』では、商業的成功と倫理的規範を体現した家系が、感受性・芸術性の増大とともに衰退する。
・これは父を殺すのではなく、父から継承された「自分」を否定する過程である。
・『魔の山』のハンス・カストルプは、病と時間の停止の中で、近代的主体性そのものを解体されていく。
→ マン文学の核心は、近代的自己の内部崩壊=自分殺し。
3.キェルケゴール『死に至る病』との関係
・キェルケゴールは「絶望」を自己が自己であろうとしない/しすぎる状態と定義。
・イワン・カラマーゾフは「理性によって神を否定する自己」による絶望。
・ハンス・カストルプは「決断を回避し続ける自己」による絶望。
→ 両者は異なる形で、同一の実存的病理を体現している。
4.日本文学・社会への影響(筒井康隆・村上春樹)
◎筒井康隆
・父権・自己・物語構造そのものをメタ的に破壊(例:『脱走と追跡のサンバ』『虚人たち』)。
・ドストエフスキー的「罪と責任」は、アイロニーと笑いへ転化。
・自己解体を「遊戯」として引き受ける点で、マン的系譜を戯画化。
◎村上春樹
・父は不在、あるいは影としてのみ存在。
・主人公は罪を犯さず、闘わず、ただ喪失後の空洞を漂流する(例:『ねじまき鳥クロニクル』『海辺のカフカ』)。
・推測ですが、村上文学は「親殺しも自分殺しも起こらない社会」における、実存の後景化を描いている。
トーマス・マンが『ブッデンブローク家の人びと』を書いたのは、ドイツ帝国成立後の工業化とブルジョワ秩序の確立・変容の時期であり、古い市民的教養と新しい資本主義的競争社会が交錯していた時代でした。​
作品には、プロテスタント的禁欲倫理、芸術への誘惑、シューペンハウアー哲学の悲観主義と意志の形而上学が織り込まれ、市民社会それ自体の内部から静かに進行する「意味の疲弊」が描かれます。
『魔の山』が書かれたのは、第一次世界大戦後、ヨーロッパ全体が文明の危機を痛感し、合理主義と非合理主義、リベラリズムと全体主義的イデオロギーの対立が激化していた時期です。
ダヴォスのサナトリウムは、各国の患者が集う「縮小されたヨーロッパ」として設計され、啓蒙的ヒューマニズムを代表するセッテムブリーニと、神秘主義的・暴力的理念を唱えるナフタの対話は、理性と狂信、進歩信仰と破壊衝動のせめぎ合いとして、ヨーロッパ精神の分裂を象徴します。
・・・・・・・生成AIからの引用はここまで・・・・・・・
トーマス・マンの『ブッデンブローク家の人びと』は、他にもショーペンハウアーの『意思と表彰としての世界』やニーテェの哲学も影響しているようですし、またフロイトが『ドストエフスキーと父親殺し』という論文を書いているということも初めて知り、ドストエフスキーのギャンブル中毒とエディプスコンプレックスとを関連づけて論じているらしきこと、『カラマーゾフの兄弟』をエディプスコンプレックスについての文学的な先行表現と位置付けていること、などを知りました。
他方トーマス・マンの文学に通底しているのは『ヴェニスに死す』を見ても、どうも最後はバッドエンドになってしまっており、『魔の山』『ブッデンブローク家の人びと』も自らの生をひたすら消耗させ、衰退し解体していく過程が描かれており、当時のヨーロッパの精神的な危機を彼なりに受け止めて小説という別の形で造形していたのかなと感じました。若い時にこういうのを読むと果たしてどうなっていただろうかと思いますが、この年になると受け止めることができているように思います。


        ドストエフスキーのことは、村上春樹さんの小説によく出ていたこともありますが、『カラマーゾフの兄弟』を読むぞ、と決めたのは筒井康隆さんが「自分にも完読できる良い訳が光文社文庫から出た」と仰っていたことでした。その筒井康隆さんが様々な書評を書いている中に『魔の山』と今回読んだ『ブッデンブローク家の人びと』が紹介されており、どちらの作品も絶賛しておられたことからこれらの本も手にしました。
        まあ難しい難しい。とにかくページに余白がない。ということで、随分時間がかかりましたが、なんとか年内に読み終えることが叶いました。
        ・・・ので、少し休みます。

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        現代に通じるソクラテス(『プロタゴラス』の冒頭部分より)

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        「君がもしそういった彼らの売り物のうちで、どれが有益でどれが有害かをちゃんと知っているのだったら、いろいろな学識を買い入れるということは、それが誰からであろうと君にとって別に危険はない。
         だが、もしそうでないのなら、君は何よりも大切なものを危険な賭けに晒すことのないように、よくよく気をつけたほうがいい。
         実際、学識を買う場合には、食べ物を買う場合よりも遥かに危険が大きい。なぜって、これが飲食物だったら、卸商人や小売商人からそれを買っても、別の入れ物に入れて持ち帰ることができるし、飲んだり食べたりして、体に入れる前に家に取っておいて、食べたり飲んだりして良いものといけないもの、その量や時期などについて、識者を呼んできて相談することができる。
         だから、それを買うのに大した危険はない。だが、これが学識となると、別の入れ物に入れて持ち去るわけにはいかない。一旦お金を払うと、その学識を直接魂そのものの中に取り入れて学んだ上で、帰るまでには、すでに害されるなり益されるなりされてしまうからだ。」

         この文章の、たとえば「売り物」を「情報・知識・知恵」などと読み替え、「買い入れる」「買う」を「仕入れる」「取り込む」と読み替えるとどうでしょうか。
         プラトンが書いたソクラテスの対話として、『ソクラテスの弁明』に続く第二段として『プロタゴラス』と取っ組み合いをしています。

         この文章を読んで、思いもかけず、現代の情報過多時代に私たちの脳の発達が追い付かなくなって、情報を適切に処理できない場合があるという現状に思いが及びました。

         例えば生成AIとの付き合い方。
         アメリカでは生成AIに相談して自死に至った若者がおり、その親族が訴訟を起こしているという悲しい出来事も起きています。
         私自身は、自分の仕事の中では、知っていることの範囲内で整理のために使うことが多く、知らないことが生成された時は出典を確認したり他の方法での検証も行うようにしています。

         或いは最近のSNSがもたらす世の中の分断。
         本当のことやら嘘のことやらが判断つかなくなるように溢れかえっています。
         東日本大震災の時には動物園からライオンが逃げ出したという投稿が写真付きでなされていました(南アフリカの写真を日本での出来事のごとく投稿したものだったと思います)。
         よく言われているように、コンピューターのアルゴリズムによって、私たち自身がいつの間にか自分の好むようなフィルターバブルの中に入ってそれで世界観が構築・変容・強化されてしまったり、エコーチェンバー現象で多様な考え方と接することが著しく減ってしまったり、ということもあります。
         それあある意味本人にとっては心理的安全性の高い居心地の良い時間の過ごし方なのかも知れません。が、それがためにちょっとでも考え方や意見が異なると、相手を「敵」と見なして「排除」したり過度に攻撃的になったりということで、ここ最近はまたSNS空間が荒れ模様になってきているように思います。それだけ世の中がギスギスしているのか、了見が狭くなっちゃったのでしょうか。或いは情報を冷静に仕分けをする能力(脳力)が追い付いていないのか。

         仕事柄、経営相談に応じる際、特に事業を始めてあまり時間の経っていない創業者の方々などは、私たちのことを「先生」とお呼びになることがあります。先生と呼ぶ呼ばないということとは関係ないかも知れませんが、ご相談者は、私たちが提供する情報・知恵・考え方・経験談を「直接魂そのものの中に取り入れて学ぶ」可能性があります。大半のご相談者は自分で決めなければいけないということを認識おられますが。判断し決定するのはあくまで本人である、私たちはその判断材料を提供する役割だ、決して「教祖」のごとくなってはいけない、ということを肝に銘じつつ、またそのことをしっかりお伝えするよう今後とも心がけていくべきだと、改めて感じた次第です。

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        「持続的競争優位性」について

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        経営戦略について書かれた本を見ていると、ポーター学派(仮称)のポジショニング戦略(主に外部要因による競争戦略)とバーニー学派(こちらも仮称)のケイパビリティに基づく戦略(主に内部要因の強みを活かした競争戦略)のいずれか、または両方が書いてあるように思います。
        持続的競争優位を確保していくためには、その企業が持つリソース(経営資源)が、①V:機会を活かしたり脅威を和らげたりすることができるか、②R:希少性を持つものか、③I:その経営資源を持たない企業が模倣しようとした際にコスト面で不利になるくらい模倣困難性が高いか、④O:組織や制度で①~③が支えられる仕組みになっているか、という観点で取り組んでいくのが良いというようなことをジェイ・B・バーニーという学者が言っている、と私は感じています。
        ちなみに上記の4点は、V:Value経済的価値、R:Rarity希少性、I:Inimitability模倣困難性、O:Organization組織の頭文字で、略してVRIOなどと言われるようです。
        しかしそもそも「持続的競争優位性」というものが本当に存在するのだろうか?世の中の状況が変われば一変してしまい、昨日の優位性が今日は「弱み」どころか企業自身に向けられる刃にすらなるということが現実にあるのではないか?とずっと思っていたところ、ひょんなことで次の一文に出会いました。


        「世の中も環境も変化し、ずっと続く競争優位性は存在しない。つねに自分たちが変化することで小さな優位性を維持していく必要がある。」

        NTTの島田明社長が週刊東洋経済2025年10月25日号掲載のインタビューで語った言葉です。NTTですら、と言うと顰蹙を買うかも知れませんが、島田社長も「ずっと続く競争優位性は存在しない」と明言しておられます。まあ情報通信の世界はとても変化が速く、NTTはどんどんGAFAMなどのプラットフォーマーに先を越されていますから、当然そういう言葉が出て来てしかるべしではありますが。
        ということで、恐らく、社会で事業を営む全ての企業にとって「持続的競争優位性」というものは存在しないのではないか、まさに、つねに自分たちも変化していくとで小さな優位性を維持していくということが企業活動にほかならない、と思いました。これは我らが中小企業・小規模事業者・個人事業者としても共通することなのではないかと思います。


        さて1985年に民間企業になり早40年。企業の寿命15年説を思うと2回転以上しているわけで、人事制度も大きく変わり、今も存続していますが、収益構造もかなり変わり、ドコモがグループ全体の収益を支えているとはいうものの、NTTデータが今後の牽引車になりつつある状況です。私のいた東西ローカル会社は分社した頃とは大きく様変わりし売上は両社合わせて当時の4兆円から今は3兆円そこそこの企業になってしまっています。
        私自身NTT社員でいた頃に仕事をしていく上での心の拠り所としていたのは「社会のインフラを守り高度化していく公共的使命」でした。
        島田社長は次のようにも述べておられ、これも大いに共感しましたので転載させていただきます。
        「ルーツは『公共性』から始まっているので、従業員たちも「世の中に役に立っている」ことが働きがいでもあると思う。そういうところは組織体の中に持っているのであまり変わらないし、自分たちの誇りで前進するエンジンになる。(中略)ただ、どういう事業で世の中の役に立つことをしていくかは、時代とともに変わる。何らかのコミュニケーションをつかさどることはずっとやっていくと思う。」
        こういうことを、トップが明確に発信するというのは、働く人々に正しい価値観を伝えるという意味からも良いことではないかと思います。
        ドラッカーは、企業は社会との関わりに責任を持たなければならないという主旨のことを述べています(意訳です)。企業は社会の公器だという言い方もあります。今の私は個人事業者ですが、社会で仕事をさせていただいていることに変わりはなく、改めて当時のNTT魂を思い起こして仕事をしていこうと思います。島田社長、お目にかかったことはありませんが、ありがとうございます。

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        トーマス・マン『ブッデンブローク家の人びと』(まだ「中巻」ですが)

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        『魔の山』から派生して『ヴェニスに死す』を経由して映画まで観て、とうとう『ブッデンブローク家の人びと』まで来ました。『魔の山』と『ブッデンブローク家の人びと』は筒井康隆さんが絶賛している小説ですが、私には高校生の頃に教科書でそういう作家がいるということを見たぐらいでした。古典と言われるものには当時も関心がありませんでしたが、最近はそういうものが読まれ続けていることの意味があるように感じており、こうやって少しずつ触れていくようになってきました。
        さてこの小説、まだ中巻が終わったところであり、年内に下巻まで完読できるかどうかわかりませんが、中巻についてコメントしておきます。
        この小説は、著者であるトーマス・マンの一族をモデルにしたものだそうで、北ドイツのリューベックを舞台に、ブッデンブローク家の4代にわたる商家の繁栄と衰退を描いたものだということです。


        中巻は、大金持ちの実業家の一族の黄昏の始まりが描かれており、色々なほころびが徐々に出て来ています。
        中巻の主役であるコンスル・トーマス・ブッデンブローク(コンスルは一族や企業の代表者というような意味のようです)は、必死で家業を守り通そうとするものの、弟やその他周囲の人々はどうも「学び」や「責任感」が不足しているような気がします。弟のクリスティアンなどは勘と虚栄心と好き嫌いが商売の判断基準になっている、没落ゆく商家の典型的な人物に見えます。
        お金があるうちは良いですが、そのお金も、群がりくる金の亡者たちによって徐々に浸食されていきます。
        とどのつまりは、気の弱い8歳のハンノ(トーマスの一人息子)に対する「存在否定」とも言われるべき父トーマスからの非難の言葉です。これが中巻の一番最後に放たれており、結構衝撃を受けます。その少し前からのハンノが受けている、明るく前向きなピアノレッスンの様子が鈍い輝きを発しているだけに、その後の暗転ぶりがあるのだろうなとなんとなく予感はしていたものの、です。
        この中巻最後のトーマスからハンノへの叱責の言葉は私にとっては思いのほか暗澹たる気持ちにさせられました。母の溺愛(?)の反作用かも知れませんが、心の弱いハンノをなんとか元気に、生きがいをもって成長する子に育てたい、という母の気持ちであって決して溺愛というようなものではないと思うので、母ゲルダの振る舞いを責める気持ちにはなれません。
        存在を否定されたようなこのハンノは、それゆえに、恐らく心の成長を得ることができず(もしくは中途半端な偏った成長になってしまい)、やがて若くしてこの世を去ってしまうというのが下巻の想像です。
        ちょっと暗い話になりましたが、4代にわたる栄枯盛衰ものということで、しっかり向き合っていこうと思います。

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        天の戮民

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        これまたひょんな出会いとなりました。昨日偶然書店で求めた呉智英さんと適菜収さんの対談本をめくっていたら、荘子の話が出て来ました。

        曰く、外編と雑編派読まなくても良い。私も総感じていたので、我が意を得たり!とおもいつつ、さらに進むと大宗師編に、孔子のキャラをあてがわれた登場人物に「私は天の戮民である」と言わせているとのこと。そんな言葉知らなかったし、荘子は高校の頃から読んでいるものの全部を読み通したわけではなく、大宗師編も途中で止まっていたため、はっとして、そういう箇所があったのかと慌ててページをめくりました。

        天の戮民とは、天から刑罰を受けた身であり、無為自然に生きたいけれどもそうはできず、世俗の内につながれている(不自由な身の上だ)と語らせているのです。世俗の内にしばられて生きるというのは、知識や礼節を大切にするという面倒があり、安らかには生きられないと吐露させています。

        もうあと数ページのところで、このくだりに行き着いていたかと思うと自分の読書の要領の悪さを恥じるのですが、そこの手前で呉智英さんによる解説にたまたま出会えてから次に進めたというのは、なんともはや僥倖ではないかと感じ入ったひとときでした。

        これ、書物のセレンディピティと言っても良いかも知れません。感謝。

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        『ソクラテスの弁明・クリトン』

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        本文だけなら90ページもない薄い本であり、かつ40年以上前に購入したものでしたが、なかなか読むことができませんでした。
        どういう心境かは自分自身よくわかりませんが、ようやくちゃんと向き合う機会ができました。
        プラトン著『ソクラテスの弁明・クリトン』(岩波文庫)です。(40年以上前に買ったのは角川文庫で、日付を見ると高校二年の冬でした・・・1ページも読まない積読でした)

        気になった箇所を少し抜粋します。
        「私に対して全然虚偽のことをいい触らす多くの弾劾者・・・諸君の中の多くの人達をまだ少年であった頃から篭絡・・・彼らの数は多く・・・諸君のある者はまだ少年であり、諸君のある者はまだ青年であり、最も他の言を信じ易き年頃」
        ここまで読んで、今のSNSの隆盛ぶりとそこに流れる様々なウソやデマに容易に取り込まれてしまっている(そのように信じたい?)人々がいるのかも知れないということに思いが至ってしまいました(先のM県知事選挙で比較的若い世代の人びとが、どうも虚偽情報を信じた投票行動をしたのではないかという報道がありましたので)。
        さらに「私を弁護してくれる者のない欠席裁判において私を弾劾した・・・彼らの名前をすら知り得ずまた挙げ得ぬ・・・猜疑と讒謗慾とのために諸君を説得せんと試みた人々・・・これらの人々に対してはまったく策の施しようがない。・・・人は彼ら一人をもここに召喚してこれを反駁することが出来ず、弁明に際しても、たとえば影と戦うが如く、何人も応答する者なくして弁駁するより外に全く途が無い」(p14~15)
        これもSNSでの本名のわからないアカウント名による匿名での誹謗中傷の類と変わらない状況ではないかと感じました。
        後ろの解説を読むと、当時のアテナイの人々は、ペルシャとの戦争に勝利した後の隆盛後、ペロポンネソス戦争で敗北し、スパルタ配下という屈辱を味わい、三十人専制という恐怖政治を経由し、再び民主制にはなったものの往時の勢いはなく、自信と誇りを失った人々は誰かに責任を押し付けることで憂さ晴らしをしたい、「何事にもひたすら復古を念とし新を厭う反動時代となった」頃に、「聴者の意を迎え、手段を選ばざる成功術」を色々と言説を弄する「ソフィスト」と呼ばれる人々が跋扈していたようです。ソフィストは「何ら普遍的に通用する標準を認めざる極端なる主観主義」を持っており、伝統的な価値観を破壊する人だとみなされていたようで、現にそれらの人のいくばくかは裁判で国外追放とされていたようです。

        これなども、◯◯ファーストのように飛びつきやすく拡散しやすいワンワードポリティクスにも比せるものという気がします。
        真実を知っている人をひたすら探し、色々な人と議論をし、やはり本当のことを知っている人がいない、自分は「知らないということを知っている」「大切なことは単に生きることではなく、善く生きることである」という主張をしたがために、ギリシャの神を信ぜず「別の神を信奉する者だ」とし(ちゃんと既存の神への捧げ物などもしていたにも拘らず、批判者の「こうに決まっている」という一方的なイメージの押し付けにより)、ソフィストと同類、それもその中の大物だとみなされてしまい、結局不信人者として有罪の判決を受け、しかもそれでも自分の良心の主張をしたがために裁判官の多くの心証を悪くし、処刑という結果となったようです。
        そういう時代背景も考えると、今の日本の状況と重なって見えてしまうのがなんとも複雑な気持ちになってしまいましたが、いつの世にもあるようなことなのかも知れませんが、この2500年、「人をそしる」「人を貶める」ことで溜飲を下げることが相変わらず行われているという点で、私たちはほとんど進歩していないのかも知れません。リベラルアーツは西洋人の基礎教養だとか、哲学が諸学の基礎と言いますが。

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