タレントの清水ミチコさんの『米唄』『米がない』など最近の社会情勢を風刺したyoutube動画が静かに流行しているそうです。以前はこういったパロディに触れ、気に入らない偉い人や不条理な現実を笑い飛ばすことで私たち庶民は明日もなんとか頑張ろうという気持ちになっていたものですが、最近はすっかり鳴りを潜めてしまったような気がします。このネット時代では、様々な場面で「炎上」するリスクがあるために権威を笑う芸が避けられているのかも知れません。
そもそもパロディや風刺はかなり古い時代から存在しており、ある意味エンターテインメントの本質と言っても過言ではないのではないかという気がします(もちろんエンタメ全体としてはもっと色々な要素があると思いますが)。
西洋の偉い王様は常に道化師をそばに置いて自分の振る舞いを正すようにしていたと聞いたことがありますし、また中国でも唐の李世民は「諫議大夫」という官職を設け、あえて諫言を言う者をそばに置いていたと言います。ことほどさように上に立つ人は耳障りの悪い話を直接聞く仕組みを作っておくことも治世のバランスを保つ重要な工夫だと思います。
裸の王様にならないように・・・とここまで書いて、はて自分はどうか、ということに思い至りました。私はもちろん王などというご大層なものではありませんが、メンバーとスタッフ計22人と一緒に一定の目標を目指して取り組むチームのチーフという役割を担っています。先日も会議の後で、あるメンバーから「ものが言いにくい雰囲気がある」と苦言を呈されましたし、「言っていることとやっていることが違う」とも言われました。既にして耳障りの良いことを求めているではないか、こりゃまずい、ということに、清水ミチコさんの歌からの連想で気が付きました。
さて明日からちゃんと振舞えますでしょうか。とりあえず清水ミチコさんの他の歌も聞いてみることにします。
投稿者「kazuto nakajin」のアーカイブ
トオマス・マン『ヴェニスに死す』
今まで、難しそうな文学書を読む時には、その前に同じ著者の薄い本やエッセイなどに一旦目を通して、その著者の言葉遣いや書きぶりに多少「土地勘」をつけてから取り組むようにしていました。
ドストエフスキーの『罪と罰』を読む前には『貧しき人々』を、塩野七生さんの『ローマ人の物語』に挑戦する前には『サイレント・マイノリティ』や『ルネサンスの女たち』で先に肩慣らしをしました。
今回のトーマス・マンの『魔の山』にしても、相当難儀な読書体験になることが容易に想像できたので、それに取り組む前に入門書みたいなものがあれば、そこから手をつけようと、一旦は思いました。そこで有名な『ヴェニスに死す』を購入して読み始めたのですが、どうにもこうにもこれも難解。最初のページから「意志の透徹と細密とを要する労作で」とか「自分の内部にある生産的な機関の不断の振動を」とか「キケロによれば、雄弁の本体にほかならぬ」などという文言が私に襲い掛かってきて、いきなりお手上げになりました。
そういう次第で、薄い文庫本を「入門書」と勝手に思い込んだ私が間違っていたのですが、『ヴェニスに死す』で倒れてしまいそうでとても『魔の山』には進めないと感じたため、もう入門書は通り越して、いきなり『魔の山』に取り掛かりました。『魔の山』の読書メモは先のブログの通りですが、『魔の山』を終わった勢いでそのまま『ヴェニスに死す』に取り組みました。

しかしやはりこの本もよくわからないものでした。不条理文学というものなのか、『魔の山』の、ある種ドタバタとも言えるような雰囲気がこの物語にもありました。こちらはドタバタというより、おじさんの倒錯、最後は何がなんやらわからぬあっけない終わり方。おじさんの秘かな、しかし大っぴらな公然ストーカーの如き追尾行動の結果としての欲望は果たされず、病弱と形容されていたおじさんの恋慕の相手はやがて故郷へ帰っていくというなんとも不条理な結末でした。『葉隠』にも相通ずるような解説(同性間は、異性間の愛情よりも精神的な要素がつよい)がありましたが、そのまんまでは私には受け止めにくいのがこの本を読む際の抵抗感だったのかも知れません。
訳者の実吉捷郎さんの訳は名訳だということのようです。
文章の意味をしかと理解するためにはもう少し思索を深めなければならないと思いますが、気になった箇所をいくつか抽出しておきます。
・p46「自分がもし腹を立てていないとしたら、ともかくどんなにかゆったりと休むことができるだろうに」「物事をなりゆきにまかせるのが、最も賢明なのだ」・・・最近の経験から、なりゆきに任せることも必要だと感じました。たまたまそういう経験をしている最中にこの一文に出会えたのはラッキーでした。
・p90「彼の精神は陣痛の苦しみを味わった」・・・陣痛できない男に陣痛の苦しみを感じさせるくらいに大変な苦しみをということを言いたいのだろうなと思いましたが、それであっているかはわかりません。
・p98「彼の心臓は彼の冒険を思い起こす」・・・心臓がものを覚えているのだろうか?この意味を理解できるにはまだしばらくかかるだろうと思います。いや、永遠に理解できないかも。
読後、U-Nextの配信動画の中に「ベニスに死す」(1971年、ヴィスコンティ監督)があることを知り、観てみました。全編無声映画と言っても良いくらいにセリフが少ない。原作も会話はほとんどなく、ひたすらに主人公の心情や情景の描写に徹しているため、映画もそれに忠実に従ったものと思われます。これを『魔の山』の先に、読み、または観ていたら、やはり『魔の山』に挑戦しようという気にはならなかっただろなあと感じました。
ところで、筒井康隆さんがどこかで『魔の山」について書いておられたことが、私が『魔の山』を読むきっかけになったと前回のブログで書きましたが、どこに書いておられたのかを失念していました。が、見つけました。『本の森の狩人』という岩波新書の中で述べておられました。出版が1993年ですから、今から32年も前のことです。筒井さんは高校三年生の時に初めて挑戦し、第一章で中断し、その後三十代半ばまで何度か挑戦し、その都度「いや気がさして投げ出した」そうです。「上巻の三分の二あたりから急に面白く」なり、下巻に至るやその面白さがさらに面白くなり、初めの頃の「私たち」という一人称複数の語りがいやだったのが、「意味がわかった」となります。
筒井さんもこの小説は「不条理」を描いていると説明しておられますが、この稿の末尾には「教訓。名作といわれる作品はいくら面白くなくても、一応は最後まで読んでみないとえらい損をします。」と結ばれていました。ああ、そうか、これを読んだことが自分の脳裏に焼き付いていて、挑戦しなければと思ったのだったなあと随分時間が経ってから思い出した次第です。疑問が解消しました。
ところで別の岩波新書である『短編小説講義』の中で、筒井康隆さんは、ここでもまたトオマス・マンの『幻滅』という、これも同じく実吉捷郎さん訳の小説について、なんと17ページも割いて論評しており、『ブッデンブロオク家の人びと』についても絶賛しています。いつかこれらの小説についても取り組んでみようかと思っています。
トーマス・マン『魔の山』を読み終えて
年明けから挑戦していたトーマス・マンの『魔の山』をようやく読み終えました。1912年に書き始めて1924年まで12年間、1200ページの大作となったものです。私も意を決してから読了するまで5カ月かかりました。理解できたかというと文字を追うのが精いっぱいでほぼ理解できていないと思います。
そもそもどういういきさつでこの本を読むことにしたのか、記憶が定かではありません。大方、筒井康隆さんがお勧めしていたから、というような理由ではないかと思いますが。
最初は岩波文庫で上巻を買って読み始めようとしたのですが、全く歯が立たず、新潮文庫であればもう少し平易な言葉で書いてあるかも知れないと思い込み、新潮文庫で上下巻を買い、取り組みました。しかし新潮文庫の方も難解であることは変わりなく、これは原書がそもそも回りくどく難しい単語を並べ立てているからかも知れないなと観念して、そのまま続けました。
訳した高橋義孝さんが解説で「ユーモア小説」だと書いておられますが、どう読んでも面白おかしいという感じではありません。むしろ本当に難解で、書いてあることの1割も理解できていないような気がします。シーツ・オブ・サウンドばりの文字が敷き詰められている書面、観念的な言葉の羅列、しかも突然場面が変わったり、行間を読まないといけないような意味深な文脈。
ではありましたが、最後まで読んで「ユーモア小説」だと言われれば、そう思えなくもありません。むしろ、壮大なドタバタだったのではないかとすら思えてきました。小説であることを考えると、登場人物の死すら「出来事」として傍観的なものとして扱われているのかも知れず、私の中では筒井康隆さんの『俗物図鑑』が思い起こされてきました。
そうは言いつつ、箴言的な、「あっ」と気づくような文章もあちこちにあり、小説でありながら沢山のページの角を折り曲げ、線を引くというようなこともしました。
箴言ではありませんが、20世紀の前半に書かれたこの本で、こういうことを書いていたのだ、と感じた部分を一つだけ紹介しておきます。『魔の山』上巻p570に「だから意識なるものは、結局のところ、生命を構成している物質の一機能」という言い回しがあり、これは最新科学の一つかも知れませんが、毛内拡さんの『心は存在しない』(本は読中)という著書に関連してラジオで「結局肉体と別に魂というものがあるわけではない」というようなことをおっしゃっていたことに通じるような気がします。もちろん学説の一つであって、解明されたものではないのかも知れませんが。
わからないことが多いため、生成AIに色々尋ねてみました。得られた回答らしきものをnoteに投稿しましたので、ご関心がありましたら覗いてみて下さい。https://note.com/light_quokka2104/n/n1daf7d493f51
さ、次へ。
読書について(備忘メモ)
ショーペンハウエルではありませんが、読書について、今後の計画などを書いておきます。個人的なメモです。
先日このブログに書いた通り、今、トーマス・マンの『魔の山』と取っ組み合いを演じています。相手のトーマス・マンは既にこの世の人ではなく、そもそも書物との取っ組み合いなど相手のあるものではないので、独り相撲を取っているようなものです。
上巻が約700ページで、どのページも空間がなく、ページ全部を文字がひたすら埋め尽くしており、しかも書いてあることが日常的な会話からだんだん思想や哲学の難解な対話になっていき、とても理解ができません。ようやく上巻が終わったと思ったら下巻はなんと上巻よりも100ページも多い約800ページのボリュームです。

どのページもこのように、ほぼ文字で埋まっています。しかも難解。
本をまとめて読む時間が取れないこともあって、就寝前の10分20分がせいぜいですが、ようやくその下巻の600ページ辺りまで来ました。あと200ページほどです。ここまで来ると、色々な登場人物の特徴やそれぞれの人が何を象徴しているのか、或いは、この小説が書かれた二十年後に起こったドイツの悲劇を暗示するかのような登場人物のセリフなど、疑問に感じていたことを生成AIに尋ねてみる心の余裕も出てきました。
これが終わったら次は、ということを考えるゆとりも出てきました。これだけの重いものを読んだ後、すぐにまた大作に挑む気持ちはありませんが、今後読む予定の、ちょっと重めの本について自身の備忘としてリストアップしておきます。
生きているうちにあとこれだけは読んでおきたい、できれば現役で仕事をしている間に、と思っている本たちです。
・レ・ミゼラブル
・白鯨
・戦争と平和
・罪と罰、未成年、カラマーゾフ、白夜を除くドストエフスキーの残りの全著作(邦訳のあるもの)
・収容所群島
・ユリシーズ
・ローマ人の物語、海の都の物語を除く塩野さんの全著作
・知の果て至上の時、ほか中上健次さんの未読の書
・ほかに、孟子と正法眼蔵も、できれば読み切りたいと思っています。
学んで考えて動く。必ずしもこの順番でということではありませんが、学びと行動と思考をバランスよくやっていくことが必要で、そのためには、古典文学みたいなものも、なるべく現役中に読んでおきたいと考えています。確認し、学び直し、修正し、また動く。上の本を読み切るのに何十年かかるかわかりませんし、現役中には難しいかも知れませんが、仕事を退いても生きている限り、この姿勢でいきたいと、今は思っています。
富山県よろず支援拠点での相談員の仕事が11年目に入りました&最近の米国に思うこと
この4月から「富山県よろず支援拠点」のチーフコーディネーター(相談員 兼 他の支援機関との調整係)の職を拝命しました。前任者がとても素晴らしい方であり、私のみならず他のコーディネーターもその方を慕う気持ちでこの仕事をしてこられた人たちが多いと思われるため、この私で良いのだろうかという気持ちがありましたが、なったからにはしっかり務めなければと思っています。
かといって肩に力を入れすぎてはマネジメントに失敗し病を呼び覚ましたいつぞやの繰り返しになりますので、自分のため、また周りのみんなのため、そこは適度に。
よろず支援拠点というのは、中小企業・小規模事業者のための経営なんでも相談所、といった位置づけで、平成26年6月に国が全国47都道府県に設置したものです。毎年予算が組まれれば継続となる事業のため、来年はないかも、というスリリングな思いを抱きながらも、目の前の事業者さんのために全身全霊を打ち込んで相談対応をしてきました。私は事業開始の2年目、平成27年4月からこの事業に参画させていただいていますので、丸十年が経過したのですが、言ってみれば、昨日まで「ピン芸人」だったものが、翌日からいきなり19人の超有能なタレントさんを擁する芸能プロダクションのマネージャーになったようなものです。しかも自分自身も時々はステージに立たねばならない立場ということもあり、夢かエイプリルフールかのいずれかではないかと頬をつねってみても現実は変わらず、これまでとは時間の使い方も仲間との接し方も大きく変わりました。
やがてひと月が経過する段になって、この文章を書ける心持になりました。
今後「富山県よろず支援拠点」での仕事などについても触れる機会があるかも知れませんし、ないかも知れませんが、個人事業者である自身の、今年はメインの仕事になりましたので、身心に気をつけながら取り組んでまいります。
さて。富山県よろず支援拠点のチーフコーディネーターになって3日目、東京の全国本部から指示がありました。いわく「米国自動車関税措置等に伴う特別相談窓口」を設置しなさい、というものです。もちろん早速設置し、このことで我が富山県の中小企業・小規模事業者がマイナスの影響を受けても事業を継続していけるよう、相談対応をしていかなければならないと思っています。(一昨日、政府の五本柱「米国関税措置を受けた緊急対応パッケージ」が発表されましたので、それらも踏まえて。)
米国のドナルド・ジョン・トランプ大統領の政策で、世界中が右往左往していますし、批判的な論調が目に付きます。彼の政策を経済学的に妥当だという論をなかなか目にしませんが、そのうち裏付ける理論が後付けで出てくるかも知れません。
経済学的な理論はともかくとして、日経新聞などを見ていると米国の批評家からも政策の粗暴さや憲法違反の暴君だなどと批判されていますが、それでも米国内では約半数の国民が支持している、というこのことは一体なんなんだろう?と考えてしまいます。新聞などにものを書く「賢者」が正しく、半数の米国民は無知・無教養で誤っている、ということなのでしょうか。だとすれば、選良たる共和党の国会議員や政府首脳も間違った人々なのでしょうか。Firedされるのが怖いから忠誠を誓っているという書きぶりもありますが、そもそも閣僚の多くは選挙戦の時から支持してきたのであり、選挙に負ければそれまでつぎ込んだ選挙資金も時間も無駄になってしまうわけで、そんな「賭け」をしてまでも支持してきた理由があるはずではないか、と考えてしまいますし、米国人の半分が知的に劣っていると考えるのは極めておこがましいことではないかと思います。
そうした矢先、小松左京さんの『アメリカの壁』という小説に行き当たりました。もちろん現大統領が出てくるずっと前に書かれたSF小説ですが、この小説を読んで、今の米国の半分の人々の「思い」に近づけたかも知れない、という仮説を持ちました。https://amzn.to/3Yk2E7Q
高坂正堯さんの『文明が衰亡するとき』という著書にもありましたが、大国はその重みに耐えかねて自ら衰亡するという主旨です。ローマも帝国の版図を維持し続けることができず(財政面や国家市民の奉仕心などの減衰によって)、既に傭兵などとして浸透していた「蛮族」の激しい攻撃に耐えられず、他方市民の心の拠り所となっていた一神教にすがることによって皇帝の権威がなくても生きていけるあっても関係ないというような思いになっていったのではないかと感じています。
小松左京さんの小説は、米国民が「外の世界に、ひどくいやな形で傷つき、シュリンク(萎縮)しはじめた」ために、もうこれ以上「むしられ」ないよう自国だけで生きていこうと、領土領空を覆う霧を作ってしまう、というもので、「孤立で受けた損害よりも利益の方が大き」く、「もう外の世界から泥沼のような援助をもとめられたり、支配力や影響力のぐらつきに焦ったりしなくても」良くなり、資源はなんでもあり食料はありあまるほど生産できるので「たった一国でも生きのびる」力を持っているというようなことが書かれています。もちろんSF小説ですから、それが今の米国の実相だというつもりはありませんが、これだけ世界から問題視されている大統領が国内では半数の人から支持されているというのはそれなりの(彼らからして)真っ当な理由があるはずだと考えるのは不自然なことではないのではないかと思います。
つまり、米国の人々は、世界中に対する関与に疲れ、少し「普通の国」になりたがっているのではないか。その昔人気絶頂期のキャンディーズが「普通の女の子に戻りたい」と言って解散したのと同じような心情かも、と感じています。思えばオバマ大統領が「もう世界の警察官じゃない」と言ったことが「普通の女の子になりたい」と言ったキャンディーズの思いと通ずるところがあるように感じます。
私の学んでいる「交流分析」という心理学では、コミュニケーション過多で疲れると、一旦他者との交流から離れて一人になりたくなることがあり、そのことを「閉鎖・引きこもり」と言い表しています。この単語はマイナスのイメージがあるかも知れませんが、放出しきったエネルギーを蓄積し、再び他者とコミュニケーションを取るための準備期間が必要になるための行為、という見方もできるようです。
私などはこれまで一部のビリオネアの姿ばかりに目がいき、ウォールストリートやデジタルビリオネアがアメリカだ、という風に感じていましたが、存外それらの人は本当に1%程度であり、残りの多くはヴァンス副大統領が書いた『ヒルビリー・エレジー』の世界の住人だとすれば、自分たちの納めた税金が自分の生活を守るためでなく他国の戦争の武器購入や他国の難民の生活のために使われていることに耐えられない不満を持っていると考えるのは無茶な想像ではないように思います。そんな考えは近視眼的だという批判もあるでしょうが、自らの立場で考えると、果たしてそうかなとも思います。
トランプ大統領は「Make America Great Again」と主張しています。確かに小松左京さんの小説に描かれている大統領も「輝けるアメリカ」という主張をして当選したようですし、「みんな、自信を取り戻そうよ」という呼びかけは、ロジカルに大国の役割を主張するよりもよほど心に響きますし、萎えた心を鼓舞するには必要なスローガンだと思います。しかし彼らの本音は「もう、別に世界から尊敬されなくてもいいから、世界の警察官を務めるのも大変だから、とにかく自分たちの生活をなんとかしようよ Make America Shrink Again」ということなのではないでしょうか。「MAGA」というスローガンの背後に隠れている本音は「MASA」なのでは?と考えると、彼らの支持と政策がなんとなく整合性が取れているように感じられるのです。もしもそうなら、自動車一つとっても、日本市場に売るための努力をしないからではないか、という論理的な反証をしても彼らにはなんら響くことはないように思います。米国を市場としてあまり期待しないという方向性もありかも知れません。もちろん関税分が高くなっても買って下さる米国顧客には従来どおり販売すれば良いのですが、シュリンクしたがっている米国市場をこれまで同様の巨大市場であると思わず、違う国を向いて商売していくという風に割り切るのも一つかも知れません。
昨4月26日の日経新聞「経済論壇から」にありましたが、黒田東彦氏は「米国は外国の資源や市場に依存せず、すべて自国の中で生産して完結するという方向性で、保護主義というよりも孤立主義」と見ており、小松左京さんの小説と同じことを述べておられるようです。とはいえ、現時点でドルは基軸通貨であり米国が大国であることに変わりはなく、この先も当面は「国際関係のハブ(岩井克人氏)」でしょうが、トランプ政策を支持しているであろう半数の米国民の思いも考えることで、私たちの打ち手も「米国に売るためになんとかしよう」という考え方から解放されることにつながるかも知れません。
(2025年4月28日 ニュース配信を見ての追記)
米国大統領が半数の国民から支持を得ていると述べましたが、米紙ワシントン・ポストの実施した世論調査結果によると、支持率は39%で、2月の調査から6ポイント下落したとのことです。同紙は支持率下落について「国民はトランプ氏が経済を悪化させたと感じている」と分析しているとのことであり、さすがに急進すぎるこの間の政策変更に対しては必ずしも半分の国民が納得し支持しているわけではなさそうです。
平岡正明さんの『昭和ジャズ喫茶伝説』
平岡正明さんが亡くなったのは2009年のことだということです。この本は今年の2月に出版されているので、亡くなってから15年以上も経過しています。しかも本の内容は昭和のジャズ喫茶をテーマにしたもの。単行本として出版されたのは2005年。
中をパラパラとめくると、安保闘争や発禁本やジャズメン、演劇、出版、劇場、雀荘、スピーカーなど、1960年代の東京の猥雑な断片をある時は当事者としてある時は傍観者として脈絡もなく書きまくられているような印象を持ち、一体こんな古典とも言えぬような、特定趣味人しか読まないような本を誰が読むと思って筑摩書房は出版したのだろう?と思いながらレジに真っすぐに向かう私がいました。
しかし買って帰って読みだすと、とにかく面白い。1960年代、日本がたぎっていた時代、ジャズもどんどん進化していった熱い時代、平岡正明さんは中上健次さんよりも生年では5歳年上になるので、恐らくこの本の中に書かれている様々なエピソードは中上健次さんも同時代に経験しているのではなかろうか、などと空想しつつページをめくり続けています。
私の興味をそそっている部分を書き出したらきりがありませんが、p22にオーネット・コールマンの「淋しい女」という曲が、セロニアス・モンクの「ラウンド・ミッドナイト」の焼き直しではないか・・・というくだりがあり、早速聴いてみたところ、ははあ、なるほど、そういう風に聴くのか、と感心しきりです。これは、発表された当時だからこそ感じるものであり、ずっと後の時代になってから何十年も前に録音されたものをバラバラと聴いているような聴き方では気づかないことだなあと思いました。
その勢いで、続く「ガレスピーが1963年に1945年を回想した消灯ラッパつき『ラウンド・ミッドナイト』を聴いて」という記述を読んで思わず、ディジー・ガレスピーが演奏している同曲は聴いたことがなかったと、検索して幾通りもの同曲を聴きました。中にはモンクがピアノを弾いてガレスピーがあの折れ曲がったトランペットを吹いているコンサート映像もあり、貴重な映像が残っていることに感激しました。
この本は私にとっては長らく楽しめそうです。
トーマス・マン『魔の山(上)』
24歳のドイツ人青年ハンス・カストルプがいとこが入院しているスイスの高原のダヴォスにあるサナトリウム(療養所)を訪れるところから始まる物語です。
こういうものを読もうという動機はなかったのですが、たまたまなんとなく気になって、昨年秋頃に買い求めました。はじめは岩波文庫で読み始めたのですが、さっぱりわからず、途中で断念し、新潮文庫ならもう少しやさしいかもとなんの根拠もなく切り替えました。しかしながら手に負えず、結局10月に読み始めた上巻が半年近くかかってようやく読了にこぎつけました。NHKの「100分de名著」でも扱っており、とても興味深く視聴しましたが、本はなかなか手強く、テレビでうんうんと眺めていたような感じではありませんでした。
「魔」の山というくらいなので、普通の健常者がそこで治療を受けている人たちと一緒に過ごしているだけで、日に日に体調がおかしくなっていくという不思議な、ある種ホラーめいたところも感じる小説です。そういう筋書きなのかなと予想はしていたものの、実際に読んでいくと難渋です。この人はなんでこんな面倒な難解なものを書いたのだろうと疑問を持ちつつ読み進めています。言い回しが面倒。見開きの2ページがほぼ文字で埋まっていて余白がない。ジョン・コルトレーンのシーツ・オブ・サウンズを小説で表現するとこのようになるのだろうなという感じです。コルトレーンの演奏でも、あまりにもソロのアドリブが長いので観客が全員帰ってしまったことがあるというエピソードを聞いたことがありますが、この小説も「退席」したいと思うことしばしばです。
20世紀ドイツ文学の最高傑作だと言われているそうです。しかもこの作品をはじめとする色々な作品群で、トーマス・マンはノーベル文学賞を受賞しているとか。下巻の裏表紙にも「ファウスト、ツァラストラと並ぶ二十世紀屈指の名作である」なんてことまで書かれていました。そんなことも知らずに私はこの本の巨大な迷宮にほとんど準備をせずに入り込んでしまっています。読んでいて、確かに「観念的」だなあと感じます。ドイツ観念論なんて言葉は知っていても意味は知りませんので、安易なことは言えませんが、なるほど、そういうことなのかな?と思ったりもします。登場人物の言葉からとても観念的な印象を受けます。
もしかすると、本当の病気になったわけではなく、偶然見初めた年上の女性に対する恋心が発熱となって出ただけなのかも知れません。ということが上巻の一番最後まで来て感じられました。私の気のせいかも知れませんが。
読んでいて、とても興味をそそられる記述がありました。p570「だから意識なるものは、結局のところ、生命を構成している物質の一機能」であるというくだりです。
あれ? 毛内拡さんの『心は存在しない』やレイ・カーツワイルさんの『シンギュラリティはより近く: 人類がAIと融合するとき』などに「意識は体と別のところにあるものではなく、脳の働きなのだ」というような主張と同じことがこんなところに書いてある、と思い、びっくりしました。(これも気のせいかも知れませんが)
またこんな記述もありました。p586「原子はエネルギーの充満した一宇宙を構成しており、その体系内では、太陽にも似た中心体の周囲を多くの天体が自転公転し、たくさんの彗星が、中心体の引力によって外心的軌道内に引きとめられながら、光年的速度でその天空を飛びちがっている」・・・という感じで、小説の中に、生命論やら物理学的なものやらなんやらかんやらをごった煮の如く詰め込まれたもので、難儀してます。
しかし上巻の最後に来て急転直下、これまでの長い道のりはここにつながっているんだ、という感じで話が進み、それまでの悪路難路が一気に報われた感じがしました。孤独のグルメで松重豊さんがいつも言っている「ああ、そう来たか」というつぶやきを私も思わず漏らしてしまいました。
さてこの先、下巻が待っており、上巻ですら文字が敷き詰めて700ページもあったのに、それよりさらに100ページ分パワーアップの800ページも待っているということで、どういう展開になるか、期待ワクワク、腕が鳴ります。

レイ・カーツワイル氏『シンギュラリティはより近く:人類がAIと融合するとき』
レイ・カーツワイル氏は、ご存じ「シンギュラリティ」という言葉を、AIの進化によって人類全体の知能をコンピュータが上回る時が2045年には到来するという意味で人口に膾炙した方です。
このカーツワイル氏の新刊『シンギュラリティはより近く』を読みました。
以下、私の関心を惹いた箇所などを抜き書きしておきます。
・p8。シンギュラリティ(特異点)は、数学と物理学で使われる言葉で、他と同じようなルールが適用できなくなる点を意味する。(これは隠喩であり)私がシンギュラリティの隠喩を使ったのは、現在の人間の知能ではこの急激な変化を理解できないことを示すためだ。だが、変化が進むにつれ人間の認知能力は増強されるので、対応できるようになる。
・・・という記述からすると、シンギュラリティとは、人類にとって次のステージに移行する進化のことを意味しているのかも。と考える理由は、次の第1章で六つのステージ論とも言うべきものが展開されており、現在の人類はその4番目のステージだということを示唆しているからである。
・p15~。(六つのステージについての記述)
第一のエポックは物理法則の誕生と化学プロセスの誕生である。今から数十億年前に第二のエポックが始まった。自己複製能力、原始生命。第三のエポックでは、DNAによって記述された動物が生まれ、情報を処理し蓄える脳が形成された。第四のエポックでは、認知能力を利用するとともに、親指を使うことで思ったことを複雑な行動に移すことができるようになった。それが人類である。第五のエポックでは、生物学的な人間の認知能力とデジタルテクノロジーの速度と能力が直接に融合するブレイン・コンピュータ・インターフェース(BCI)が実現する。第六のエポックは、私たちの知性があまねく宇宙に広がっていく。
・p19。2030年代で鍵となる達成レベルは、六層構造(上の「六つのステージ」とは別の「六」であると思われます)となっている私たちの大脳新皮質の表面に近い部分とクラウドコンピュータを接続し、直接に私たちの思考を拡張する。これによってAIは人間の競争相手ではなく、人間を拡張するものになる。・・・攻殻機動隊の世界の出現。
・p68。Googleの「Talk to Books」というアプリ。10万冊以上の本のすべての文を調べて、あなたの質問に最適な答えをくれる。極めて優れものだが2023年に閉鎖された模様。
・p82。現在、AIに足りないものは文脈記憶、常識、社会的相互作用。(ここで言う「文脈記憶」は、最近の生成AIで前のプロンプトの内容を踏まえた回答をしてくれているが、そのような短期のレベルではなく、もっと長期的な文脈を意味しているのかも知れません)
・p93。今から約20年以内に、人間の脳の機能すべてをコンピュータはシミュレートできるようになるだろう。
・p100。(チューリングテストに)成功するAIは自分が人間を超えているところを見せないようにする。・・・なぜ?これは意味がよくわかりませんでした。
・p137。信じられないほど低い可能性のなかで人類は誕生した。男性が一生のうちに作る精子の数は2兆、女性の卵子の数は約100万個。受精は1を2兆×100万で割った確率。(さらに言えば、地球に生命が出現したこと自体が大変な偶然の産物との詳しい説明あり)
・p164~。私たちは選択バイアスが働いて、迫りくる危機に関するニュースを選ぶ。社会はものごとを悲観的にとらえる3つのバイアスを持っている。
①私たちが悪い知らせに引きつけられるのは、進化的適応である。進化の歴史において、生存のためには危険かもしれないものに注意するほうが重要なのだ。
過去を美化して覚えている心理的バイアスは、それも進化的適応のひとつだ。心痛や苦悩の記憶はよい記憶よりも早く消える。ノスタルジア(ノストス:帰郷、アルゴス:心の痛み)は、過去を変えることで、過去のストレスに対処するメカニズムなのだ。
②悪いニュースは広まりやすい、という認知バイアス。世界は初期の状態から崩れて、悪くなっていくと考える。失敗への備えをし、行動に出る動機を与える建設的なてきおうかもしれないが、人々の生活における向上点を見えなくする強力なバイアスになる。
③利用可能性ヒューリスティック。私たちは悪い状況をすぐに思いつけるようになっている。(できないことの言い訳、に近いもの?)このバイアスを正すためには、楽観的になる強い論理的根拠、人間の創造力と努力が必要。
・p183(私たちの生活は今後指数関数的に良くなっていくが、障害がある。)。第一の障害はテクノロジーではなく政治にある。ダロン・アセモグル教授は、人類の発展において政治制度が大きな役割を果たしていることをあきらかにした重要な研究をしている。多くの人々が自由に政治に参加することを認める国や、未来のためのイノベーションや投資が保証されている国では、繁栄のフィードバックループが根づくことが可能になる。
宗教的なことに関するような記述もありましたが、あまりに難解でしたのでここでは触れません。
https://amzn.to/4k8cZwT
また、同時並行で3年半ほど前に出た小林雅一さんという方の『ブレインテックの衝撃』という本を読みました。この領域は3年半も経つと古い感じがしましたが、ここでも「心」や「意識」についての記述がありましたので引用しておきます。
・p69。今では私たちの「意識」や「心」は、それら無数のニューロンの電気・化学的な活動の総体と考えられている。
これが本当ならば、将来的にはロボットに自分を完全に移植することで、意識をもった自分が永遠に生きるということも可能になるかも知れません。シンギュラリティというのはそういうこと・・・かも知れないと思った晩冬の宵でした。
https://amzn.to/3Xi4EwL
2025年(令和7年)NHK大河ドラマ「べらぼう」の蔦屋重三郎同時代年表を作りました
NHKの新しい大河ドラマ「べらぼう」が始まりました。初回は明和九年の江戸の大火のシーンでした。今までの大河ドラマでは、主人公の子ども時代から始まるのが通例でしたが、今回はいきなり大人としての登場だったため、はて?この時蔦屋重三郎は一体何歳だったのだろう?と疑問を持ち、また天下御免では山口崇さんが平賀源内を、坂本九さんが杉田玄白を演じていましたが、平賀源内が初回から出てきており、既に有名人になっていたようなので、一体何歳ぐらいなんだろう?と思ったのがことの起こりです。関連する人たちが、いつ、何歳で各時代の場面にいたのかということがわかるようにしたいと考え、同時代人の年表を作りました。
去年は、ほとんど藤原さんばかりだったので、縁戚関係がわかれば良かったので、系図と年表があれば理解の助けになりましたが、今年は色々な人が登場するので、同時代人がわかるものがあればと思った次第です。下記にアップしておきますので、必要な方はダウンロードしてテレビを観られる際などに傍らに置いてお楽しみいただければと思います。ダウンロードの際、拡張子が変わってしまうようですので、ダウンロード後に改めて拡張子を「xls」に変換した上で開く必要がありそうです。また、印刷の際はA3版をお勧めします。
なおいくつかの年表を見て作成したものではありますが、名前や生没年その他誤りがある可能性はありますので、その点をお含みおきの上で個人の責任にてお使いいただき、ウイルス感染等を含め使用に際して何らかのトラブルが生じても責任は持てませんのでご承知下さいますようお願い致します。
正しいことは爽やかである(本田百合子さんの言葉)
TKC&D CREAREという会報誌が送られてきました。2025winter Vol.83とあります。
中に、日頃お世話になっているアシステム税理士法人の本田百合子代表のインタビュー記事が掲載されていました。
自分への戒めと備忘のため、感謝の念を持って、(私が感銘を受けた部分はご本人のお考えの中のどういう位置づけのものかはわかりませんが)一部抜き書きさせていただきます。
・メインの人をサブの人が必ずダブルチェックするきちんとした仕事
・正しいことがいかに爽やかであるか、明日ポックリ逝ってもいいようにと退路を断って本気でお話しする
・経営計画を作りましょう、ちゃんとした利益を出し続けましょうと、口酸っぱく言い続けている
・(関与先事業者の)利益にもこだわっていきたい
・先延ばししている場合ではない
・スタッフが幸せになるように頑張っている
ある事業者さんが、資金繰りが厳しくなって廃業の決意を伝えに本田先生の所へ挨拶に行かれた時、本田先生から「本当にできることをすべてやった上での判断なのか」と強く尋ねられ、まだできることがあることに気づき、その後業績が回復した方がいらっしゃいます。上記の「明日ポックリ逝ってもいいように」「本気で話をする」というお考えが根底にあってのご指導だったのだなとこのインタビュー記事を拝読して感じました。当然、ハッキリ言わなければならないくらいに切羽詰まった状態であったと思われ、またそれまでの信頼関係が作られていてのことだろうと思います。
そうした助言は、正しいことは爽やかであるという言葉ともつながっているのではないか感じます。
私の地元の魚津市を中心に県内全域でご活躍の本田先生は、大学の先輩でもあり、これからも(間接的ではありますが)ご指導を賜りたいと思っています。