清水ミチコさんのパロディソングに思う

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タレントの清水ミチコさんの『米唄』『米がない』など最近の社会情勢を風刺したyoutube動画が静かに流行しているそうです。以前はこういったパロディに触れ、気に入らない偉い人や不条理な現実を笑い飛ばすことで私たち庶民は明日もなんとか頑張ろうという気持ちになっていたものですが、最近はすっかり鳴りを潜めてしまったような気がします。このネット時代では、様々な場面で「炎上」するリスクがあるために権威を笑う芸が避けられているのかも知れません。
そもそもパロディや風刺はかなり古い時代から存在しており、ある意味エンターテインメントの本質と言っても過言ではないのではないかという気がします(もちろんエンタメ全体としてはもっと色々な要素があると思いますが)。
西洋の偉い王様は常に道化師をそばに置いて自分の振る舞いを正すようにしていたと聞いたことがありますし、また中国でも唐の李世民は「諫議大夫」という官職を設け、あえて諫言を言う者をそばに置いていたと言います。ことほどさように上に立つ人は耳障りの悪い話を直接聞く仕組みを作っておくことも治世のバランスを保つ重要な工夫だと思います。
裸の王様にならないように・・・とここまで書いて、はて自分はどうか、ということに思い至りました。私はもちろん王などというご大層なものではありませんが、メンバーとスタッフ計22人と一緒に一定の目標を目指して取り組むチームのチーフという役割を担っています。先日も会議の後で、あるメンバーから「ものが言いにくい雰囲気がある」と苦言を呈されましたし、「言っていることとやっていることが違う」とも言われました。既にして耳障りの良いことを求めているではないか、こりゃまずい、ということに、清水ミチコさんの歌からの連想で気が付きました。
さて明日からちゃんと振舞えますでしょうか。とりあえず清水ミチコさんの他の歌も聞いてみることにします。

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トオマス・マン『ヴェニスに死す』

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 今まで、難しそうな文学書を読む時には、その前に同じ著者の薄い本やエッセイなどに一旦目を通して、その著者の言葉遣いや書きぶりに多少「土地勘」をつけてから取り組むようにしていました。
 ドストエフスキーの『罪と罰』を読む前には『貧しき人々』を、塩野七生さんの『ローマ人の物語』に挑戦する前には『サイレント・マイノリティ』や『ルネサンスの女たち』で先に肩慣らしをしました。
 今回のトーマス・マンの『魔の山』にしても、相当難儀な読書体験になることが容易に想像できたので、それに取り組む前に入門書みたいなものがあれば、そこから手をつけようと、一旦は思いました。そこで有名な『ヴェニスに死す』を購入して読み始めたのですが、どうにもこうにもこれも難解。最初のページから「意志の透徹と細密とを要する労作で」とか「自分の内部にある生産的な機関の不断の振動を」とか「キケロによれば、雄弁の本体にほかならぬ」などという文言が私に襲い掛かってきて、いきなりお手上げになりました。
 そういう次第で、薄い文庫本を「入門書」と勝手に思い込んだ私が間違っていたのですが、『ヴェニスに死す』で倒れてしまいそうでとても『魔の山』には進めないと感じたため、もう入門書は通り越して、いきなり『魔の山』に取り掛かりました。『魔の山』の読書メモは先のブログの通りですが、『魔の山』を終わった勢いでそのまま『ヴェニスに死す』に取り組みました。

 しかしやはりこの本もよくわからないものでした。不条理文学というものなのか、『魔の山』の、ある種ドタバタとも言えるような雰囲気がこの物語にもありました。こちらはドタバタというより、おじさんの倒錯、最後は何がなんやらわからぬあっけない終わり方。おじさんの秘かな、しかし大っぴらな公然ストーカーの如き追尾行動の結果としての欲望は果たされず、病弱と形容されていたおじさんの恋慕の相手はやがて故郷へ帰っていくというなんとも不条理な結末でした。『葉隠』にも相通ずるような解説(同性間は、異性間の愛情よりも精神的な要素がつよい)がありましたが、そのまんまでは私には受け止めにくいのがこの本を読む際の抵抗感だったのかも知れません。
 訳者の実吉捷郎さんの訳は名訳だということのようです。
 文章の意味をしかと理解するためにはもう少し思索を深めなければならないと思いますが、気になった箇所をいくつか抽出しておきます。
・p46「自分がもし腹を立てていないとしたら、ともかくどんなにかゆったりと休むことができるだろうに」「物事をなりゆきにまかせるのが、最も賢明なのだ」・・・最近の経験から、なりゆきに任せることも必要だと感じました。たまたまそういう経験をしている最中にこの一文に出会えたのはラッキーでした。
・p90「彼の精神は陣痛の苦しみを味わった」・・・陣痛できない男に陣痛の苦しみを感じさせるくらいに大変な苦しみをということを言いたいのだろうなと思いましたが、それであっているかはわかりません。
・p98「彼の心臓は彼の冒険を思い起こす」・・・心臓がものを覚えているのだろうか?この意味を理解できるにはまだしばらくかかるだろうと思います。いや、永遠に理解できないかも。

読後、U-Nextの配信動画の中に「ベニスに死す」(1971年、ヴィスコンティ監督)があることを知り、観てみました。全編無声映画と言っても良いくらいにセリフが少ない。原作も会話はほとんどなく、ひたすらに主人公の心情や情景の描写に徹しているため、映画もそれに忠実に従ったものと思われます。これを『魔の山』の先に、読み、または観ていたら、やはり『魔の山』に挑戦しようという気にはならなかっただろなあと感じました。

ところで、筒井康隆さんがどこかで『魔の山」について書いておられたことが、私が『魔の山』を読むきっかけになったと前回のブログで書きましたが、どこに書いておられたのかを失念していました。が、見つけました。『本の森の狩人』という岩波新書の中で述べておられました。出版が1993年ですから、今から32年も前のことです。筒井さんは高校三年生の時に初めて挑戦し、第一章で中断し、その後三十代半ばまで何度か挑戦し、その都度「いや気がさして投げ出した」そうです。「上巻の三分の二あたりから急に面白く」なり、下巻に至るやその面白さがさらに面白くなり、初めの頃の「私たち」という一人称複数の語りがいやだったのが、「意味がわかった」となります。
筒井さんもこの小説は「不条理」を描いていると説明しておられますが、この稿の末尾には「教訓。名作といわれる作品はいくら面白くなくても、一応は最後まで読んでみないとえらい損をします。」と結ばれていました。ああ、そうか、これを読んだことが自分の脳裏に焼き付いていて、挑戦しなければと思ったのだったなあと随分時間が経ってから思い出した次第です。疑問が解消しました。

ところで別の岩波新書である『短編小説講義』の中で、筒井康隆さんは、ここでもまたトオマス・マンの『幻滅』という、これも同じく実吉捷郎さん訳の小説について、なんと17ページも割いて論評しており、『ブッデンブロオク家の人びと』についても絶賛しています。いつかこれらの小説についても取り組んでみようかと思っています。

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