初めてマッサージに行ったのは、上の子が幼稚園の年中のとき。
運動会が終わって駆け寄ってきた我が子を抱き上げたときに、腰がぎくっときた。
33歳だったろうか。
そのときに整体にかかったのが最初だった。
それから、癖になったわけではなかろうが、何度かぎっくり腰にはなった。
首が回らなくなって針を打ってもらったことやその他、その後のマッサージ通いは数知れず。
ぎっくり腰には注射が効くということもその後わかった。
腰痛や肩こりその他で色々通ううちに、マッサージが単にこりほぐしだけではなく、ストレス解消にもなることを経験から知った。
本当はスポーツや趣味でストレスを発散するのがいいのだろうけど、仕事と食事・風呂などもそこそこにして、日によっては睡眠もまともにとれないような状況の中では、とてもスポーツや趣味などでストレスの発散などできない。
というわけで、肩こり腰痛眼精疲労を和らげるついでに、ストレス解消にもつながるマッサージを多様してきたのがここ4~5年のことであった。
色んなマッサージにかかったが、最近のお気に入りは中国の遼寧省から来ている人のそれである。
さすが本場のプロ。
一発でなんでも直る、わけはないが、しんどい部位を言うと、それなりに楽にしてくれる。
それが目であっても腕のしびれであっても、ある程度楽にしてくれる。
しかも施術中はほとんど夢心地である。
ストレスも一緒に軽~くなっている。
つかのまの休養のひとときだ。
そんなこんなでその中国マッサージにはかれこれ2年ほど毎週のように通っていたが、最近は以前ほどストレスが溜まっていないのか、2週間に1回になり、3週間に1回に減ってきた。
ともかく、マッサージは、単にこりをほぐすだけではない、日常のストレスからの解放にも効用があるようである。但し、上手な人に当たれば、であるが。
「随想」カテゴリーアーカイブ
アート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズ
作家の原という人のエッセイ集に「ミステリオーソ」というのがある。(ハヤカワ文庫)
ご存知セロニアス・モンクの曲名でもある。
買って久しく、遅読の私はなかなか進まないのだが、しばらくぶりにパラパラめくっていたら、その中にアート・ブレイキーについて書いたものがあった。
曰く、1963年の1月にアート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズが来日コンサートをやって、福岡で演奏していった、男たちの音楽だった、というものである。
演奏した曲は「モーニン」やら「チュニジアの夜」やら「ブルース・マーチ」やらという毎度おなじみの曲たちである。
へえーっと思った。
私が生で演奏に接したのは、1985年か1986年の3月、たしか10日だったか。(たぶん1986年)
名古屋に来たブレイキー一座だった。
ドナルド・ハリソンやらテレンス・ブランチャードという当時新進気鋭の若手ジャズ・ミュージシャンを従えていた。(と思う)
わざわざ41号線を車で飛ばして富山から名古屋まで日帰りで行ってきた。
ジャズ大好き人間の先輩がいたからこその遠乗りだったが、疲れたけれどもサイコーにファンキーな夜だった。
その夜もやはり「チュニジアの夜」「モーニン」「ブルース・マーチ」は定番で、でもどの演奏もどの演奏も、レコードでも生でもみんな違う。
もちろん、名古屋コンサートの演奏もオリジナリティというか、インプロヴィゼーションというか、アドリヴがふんだんに利いていて、とても楽しくかっこよかった。
そのブレイキーが私が見たよりも20年以上前に来日して同じ曲を、リー・モーガンやウエイン・ショーターらとともに演奏していたというのが、頭ではわかっていても(1985年当時既にこの道40年という、ジャズ界の長老格だったので)、人の書いたもので読むと改めて驚いてしまった次第。
ミュージシャンでも一般にドラマーが一番長生きらしい。
そして、一般的にはピアニストが短命ということだ。
確かに、ブレイキーしかり、エルヴィン・ジョーンズしかり。
一方ではビル・エヴァンス(p)しかり。(後はよくわからんが)
その伝で行くならば、ブレイキーも長生きした方であろう。
う~ん、最近、あんなファンキーなジャズは聞いてないなあ。
(ちなみに私の大好きなLPはこの「サンジェルマンのジャズ・メッセンジャーズ」というアルバム)
好天ながら在宅の二日間でした
丸二日間、良い天気であったが、ほとんど家から出ず、勉強中心の生活であった。
来週の日曜に「営業店管理Ⅰ」という試験を受けなければならない。
そのための準備である。
9月末からほとんど試験漬け、勉強漬けとなっている。
過去2つの試験は、「越中富山ふるさとチャレンジ」という、地元の人間としての楽しみもあった試験、それと「損害保険募集人」という、一般常識でもある程度はわかり、しかも4択中心の問題であり、短い学習時間ではあったがなんとかクリアできそうな代物であった。
しかし今回のは、極めて短時間。
前回の試験が終わってからわずか3週間しかない。
しかもレベルはこれまでの試験よりもかなり難しそう。
なにせ範囲が決まっているようで、明確ではない。
金融機関の出先営業支店の管理者向けの試験である。
金融機関の人間になってまだ日の浅い私が受けるレベルでは、本来、ない。
でもそれを受験することを決めたのは自分である。
難しいことに挑んでこその勉強だ、と思ったからである。
・・・しかし、難しい。
どうなるかはわからないが、次のこと(落第したときのこと)も考えておかなくてはならないなあと思う。
まあ、もしもこれがだめなら、来年6月までの間にあと2つ、選択式の軽易なものを取ることができれば、求められている必要条件までは達成できることになる。
簡単な道ではないけれども、営業店管理Ⅰよりはましだろう。
ところでそんな状態の中ではあったが、今日書店にふらりと立ち寄った。
ふと見た中に「転職したら1億円の損」というようなタイトルの新書があった。
うん、確かに、普通は生涯賃金として見るならば、転職したらそれまでの退職金や企業年金などの積立がクリアされたりして、ゼロからの積み直しになるだろうから、利息のことなどを考えるとずっと勤め続けるよりは少なくなってしまうだろう。
だから、私も安易な転職は決して勧めない。
色々事情はあろうけれど、判断するための最後の材料は、自己実現というキーワードであるべきではないかと思う。
私自身、今の職場は、前の会社よりも年間の総所得は少ない。
上記の試験にそれぞれクリアして、来年の7月にそれなりの格付け(処遇)が得られれば前職の給与水準まで回復する予定だが、その前提条件が整わなければ、所得ダウンのままである。
自信はあるが、リスキーであるとこは間違いない。
それでも転進したのは、やはり前職のままでは自己実現は叶わない、新たな仕事に進んだ方が自分の夢ややりたい仕事に近づけられ、やりたいこともできるだろうと判断したからである。
事実、今は試験勉強のためにあまり時間はないが、そもそも勉強する時間が平日でも30分から1時間ぐらいとれるという進歩、そして土日は会社に行ってメールチェックで一日費やすというようなこともないので、自分の時間がある。ものすごい変容である。
まず時間が確保できなければ、会社だけの人生になってしまう。(毎日深夜勤務のとなっていた6月までの私はそうでした)
それが自己実現である人は、それで良いでしょう。
しかし、今の仕事とは別に、やりたいことがある場合は、ちょっと考え直す必要があるかも知れない。
かと言って、何度も言うように、安易に転職することは勧められない。
先立つものがまずあるだろう。そうそうキャリアアップなんてできるものではない、とまずは決めてかかるべきである。うまい話には落とし穴がある。自分でしっかり確かめなきゃいけない。キャリアダウンでもいい、但しどこまでダウンしていいか、一生涯のことと捉えて計算はしておいた方が良い。
生涯所得が少なくなっても、あるいは日常の給料が減っても、それと引き換えにやりたいことがちゃんとできるか、そういうことに不満を持たずに新たな仕事に専念する覚悟があるか、自己実現の観点で見てどうか、ということではないだろうか、と思う。
ちょっと、上記の本をパラパラと見たので、という感想まで。
歯ぎしりと夢
ここ2ヶ月ほど、歯ぎしりをよくする。
大体朝方、目が覚める直前、というか、目が覚めると同時に歯をギシギシやっている。
それと、妙な夢を良く見る。
ほとんど覚えていない。
しかしここ数年、いや生まれてこの方見たこともないような奇妙奇天烈な夢だ。
なんだろう。と思う。
考えても答が出るものではないだろうが、妙だなあと思っている。
疲れかな。
慣れない仕事での緊張感が原因も知れない。
楽しいと思う反面、やはり緊張は続いている。だって単語がわからないし、やっていることの意味もわからない作業も沢山あるのだから。
それはしょうがないし、起きているときはほとんど気になっていない。おいおい覚えていくものだと頭ではわかっているので。
しかし心の奥底では、こんなわからん状況に置きやがって、と自分への反発が起こっているのかも知れない。
そんなこんなの今日この頃である。
変化があり、おもしろい。
名優緒形拳さんの死
俳優の緒形拳さんが亡くなった。
人は皆死ぬものであるが、また1人素晴らしい俳優を日本は亡くした、と思う。
何がしかの影響を人々に与える人の死というものはそれなりにインパクトを与え、そして何かを失わせてしまうものではないかと思う。
昭和の終わり、昭和天皇が崩御したときとほぼ時を同じくして、手塚治虫さんや美空ひばりさんら昭和日本の文化を代表する巨人たちが何人も相次いで亡くなった。
あの時は、昭和天皇が同時代人を道ずれにしていってしまったような、時代が大きく変わる地殻変動のようなものを感じた。(そんなオカルトチックなことはありえないのだが)
有名人の死ということでいえば、あの時以来のショックだ。
緒形拳といえば、復讐するは我にありやNHK大河ドラマでの数々の主役脇役、藤枝梅安役を含む必殺シリーズでの殺し屋稼業の役など、数え上げればきりがないくらいに、色んな役を演じている。
この人の特徴は、人の心の奥底の狂気を演じることができるという点ではないだろうか。
太閤記での秀吉の演技も(竹中直人もすごかったが)、それ以外の色々な個性的な役も、どれも狂気、鬼気というものを演じきるという力があり、それが観る者を惹きつけるのではないかという気がしてならない。
狂気や鬼気を演じきれる役者はそう多くはないと思う。
怒りをあらわにする怒気ではなく、静かに、心の深いところに流れている暗い情念・・これは我々誰もが心の奥底に抱えているブラックな側面であり、人には皆一様にそういうものがあるのではないだろうかと思うのだが、そういう、内奥の暗い情念を深く静かに表すことのできる役者。
それが緒形拳さんではなかったろうか。
緒形拳さんのそういう演技が観る者を惹きつけ、見入ってしまうのではないかと思う。
日本では、仲代達也さん、山崎努さん、海外ではクリストファー・ウォーケンとゲイリー・オールドマン。ほかにも怪優と言われる役者は何人もいるにはいるが、この人たちは図抜けていると思う。
そういう中の数少ない1人である緒形拳さんを失ったことは大きい。
黙してご冥福を祈りたい。
ありがとうございました。
松原みきさんのことについて
昔、松原みきという歌手がいた。
アメリカ軍のキャンプなどで歌っていたのを世良譲というジャズピアニストが発見し、メジャーデビューしたということだったと思う。
デビュー曲は「真夜中のドア」。
当時私は大学1年だったか、2年だったか。
最大のヒットは「ニートな午後3時」という曲かも知れない。
資生堂の口紅か何かのCMソングに起用され、街頭でもよく流れていたものだ。
大学4年の春に、当時在学していた中央大学の学祭にお越しになり、受験勉強そっちのけで歌を聴きに行った覚えがある。屋外ステージで1時間も歌ってくれたろうか。実物も素敵な歌手だった。
それから幾星霜が流れ、テレビで昔のヒット歌手などが出て最近のヒット曲を歌う番組があり、杏里や麻倉未稀などが出ており、ほぼ同じ時期に「三人娘」ではないがそれぞれ結構売れていたという記憶があるので、そろそろ次は松原みきさんが出るかなと心待ちにして毎週見ていたことがあったが、私の知る限りではついに出場されることはなかった。
今年になって、もう4年も前に亡くなっていたことを知り、愕然としたものだが、10月7日の命日を前に、最近YouTubeでも松原みきさんの映像(http://www.youtube.com/watch?v=O9LFEgd04Jk&feature=related)を投稿されている人があり、それに対するお礼の投稿や「初めて聞いたけど上手だ」といった書き込みなども沢山あり、数十年前の歌手で、しかも杏里などと違って際立ったビッグヒットもなかったが、自分と同じように今でもファンだという人が沢山いることに、また驚いている。
最も活躍しておられた1980年代は、レンタルレコードを聞くのがせいぜいであったが、当時は全部のレコードを聞いた覚えがある。
彼女の歌は、今聞いても全然新鮮で今風で、妻なども「少しも古くないね」と言う。
これからもずっと元気で活躍してあのグルーヴィーでスインギーな歌声を聞かせ続けて欲しいが、それは叶わぬ夢だ。
作詞者、作曲者たちのセンスの良さ、松原みき自身の歌唱力、どれも時代を超えて生きているし、これからも私の記憶には残していきたいと思う。
(アマゾンで検索したら驚いた、復刻版か何かわからないが、十数種類出ていた。どれもいいアルバムばかりだが、一つ紹介)
夜の少女
残業をして帰る。
桜木町という繁華街の真ん中を突っ切って、市役所の裏へ出る。
市役所の手前には松川という川が流れている。
その川にかかっている華明橋という橋のたもとに幾人かの少女がいる。
全て銅像なので、動くことはない。
中の一人(一体)に、今年「日展100年」で見た、戦後間もない頃に作られた銅像によく似た姿の少女がいる。
ワイシャツを肩から羽織ってスツールか何かに腰かけている少女だ。
誰のワイシャツかわからないが、男物のようにも感じる。父のものか。
正面から見たことはない。
いつも彼女の右斜め後ろから、ほとんど駆け足状態で、目のはなに入るか入らないうちに通り過ぎているのだが、その刹那、前後に少し体を揺らすように動いているような、躍動感というと言い過ぎだが、生き生きとした感じを受けて、一瞬そちらに目を凝らす。
今にも立ち上がりそうな感じがして、ますます目を凝らす。
しかし彼女は立ち上がらない。
作者が誰か、どういう名前の作品かもいまだに知らないし、日展100年の出品作と関係があるのかどうかも調べていないが、伸び盛りの娘の今にも動き出しそうなた感じを形にした作者の力量を感じながら、今日も駅への帰り道を急ぐ。(写真は昼間撮影のもの)
休日は 二度寝ができる 幸せか
季語のない句になってしまったが、今朝は休日であるにも関わらず6時半に起きた。
そもそも昨夜の就寝が1時なので、それでも早いというか睡眠時間が短い。
今日の「越中富山ふるさとチャレンジ」の検定試験を受けるための最後の追い込み・・・などというほどのものではないかも知れないが、絶対に受かっておきたい試験なので、万全を期したかった。
そのため、夕べも遅くまで仕事をせざるを得なかったのだが、少しでも早く起きて、公式問題集などの復習をすることが必要だった。
しかし起きてからしばらく勉強しているうちに、やはり眠気が襲ってきた。
少し休んだ方がいいな、と判断し、30分ほど軽く眠った。
起きたときのすっきりさわやかなこと、ああ、休みの日でないとこんな快楽はないなあ、と思えた。
二度寝のできる快楽。
休みの日ならではである。
さて、今日の午後は、上記の「越中富山ふるさとチャレンジ」の検定試験。
私の住む魚津では、魚津市川縁にある「北陸職業能力開発大学校」という学校が試験会場となった。
初めて見る問題も一つ二つあったが、それ以外は、これまで出されている問題集の書籍や北日本新聞のホームページの問題又は解説を読んでいれば答えられるものばかりであった。
しっかり勉強して臨めば大丈夫、ということがわかった。(自分の狭い知識だけで勝負しなくて良かった・・・まだ合否がわかったわけではないけれど)
試験などというものを受けるのは久しぶりだったが、心地よい緊張感の中、楽しく受験させていただいた。
さあ、次は損害保険販売のための試験。
こちらは「ふるさとチャレンジ」以上に、しっかり体系的に、用語なども含めて勉強していかなければならない。
試験まで時間もないことだし、また集中して頑張ろう。
ひっさしぶりのアラキ
富山市北部にある手打ちうどん専門店のアラキ。
今日久しぶりに行ってみた。
着いたのが午後一時半。お昼しかやってない店で、12時頃に行こうものなら店の外の長蛇の列で、一時間待ちは覚悟しなければならない。
久しぶりなので、ラッシュは避けようと思ってベストなタイミングを狙って行ったつもりが、着いてビックリ。相変わらず店の外には長蛇の列。(30人ぐらいは外に並んでいただろうか・・・もちろん店の中でも席の空くのを待っている人たちが10人以上いる)
ここは、用意した麺が全部なくなると、営業時間であってもその日の商売は終わってしまう店であり、この列は、もしかすると並んでも自分まで回ってこないリスクがある。
さあ、どないしよ?と一瞬躊躇したが、意を決して車を停めた。
それから並ぶこと30分。(行列の写真は控えます)
新しい店になってからは初めて、自身は10年ぶりに訪れた。
人によって好き嫌いはあろうが、私はみそホルモンの、今日はうどんにした。
やっぱりうまかった。量は多いが、たまにはいい。
さて10年ぶりに訪れて変化のあったこと。
バリエーションに「小」というのができたこと。「並」と比べて値段はそれほど安いわけではないが、元々がボリュームが多いため、女性などはまともに食べきれないのではないかな、というのがこれまでだった。
「小」が出たおかげか、女性客も半分近くいらっしゃった。(う~ん、しっかりマーケティングやってるなあ)
それと、ざるそばやざるうどんなど、冷たいメニューも品揃えに加わっていた。これも作り手のエゴではなく、お客のニーズをカバーできるようになっており、良い取り組みだなあと思った。(私は愚直に熱い「みそホルモンうどん」にこだわってしまう方だが。
そんなこんなで、伝統の店でも進化してさらに強く生き残る工夫をしていることを感じた昼食の巻であった。
虫の声
今年はお盆明け頃から、こおろぎや鈴虫の鳴き声が聞こえるようになった。
いつもよりも早いような気がする。
いや、去年までは帰宅が深夜だったので虫も寝静まっていたために、鳴き出した時期がはっきりわからないだけかも知れない。
ま、それはともかくとして、とにかく、虫の声が聞こえる。
じっと耳を澄ましていると、結構大勢鳴いているような気がするし、あちこちで鳴いている。
うん、昆虫はまだまだ健在だ、と思う今日この頃。
秋の夜長、じっくりと虫の鳴き声に耳を傾けて夕涼みなんてのもいいなあとしみじみ思う。
新しい仕事に関して、試験やら検定やら沢山勉強しなくてはならないし、まだまだそういう時間のゆとりはないが、しかし昔は結構そういうほっとする時間というものがあったように思う。
というよりも、テレビだとかなんだとか、時間を費やすものがなかったがゆえに、虫の声とでもつきあっているしかなかったのかも知れないが。
そんなことを考えると、正岡子規の『筆まかせ』などをまた読んでみるか、という気になる。
本当は、こういう晩は縁側などに腰かけて、虫の声に耳を傾けながら、のんびりとかみさんと晩酌などできたらいいなあと思うのであるが・・・。