子どもたちに対しては、顔を合わせれば怒っているような気がする。
彼らもむすっとした顔をして返事したり聞こえないくらいにぼそっとしか返事しないことしばしばなので、つい、怒ってしまう。
最初は軽い注意から入るのだが、次第にエスカレートして、自分の中で怒りを増幅させて、最後は怒鳴りつけるまでになっていることもしばしばだ。
こんな親になる予定ではなかったのだが。
こんなコミュニケーションのとり方を子どもたちとするはずではなかったのだが。
どこでボタンの掛け違いをしたのか。
妻とは、もう怒らないでおこう、かけがいのない、世界で彼らしかいない我が子どもたちなのだから、健康で、素直で、何か頼みごとをしてもちゃんと聞いてくれる子どもたちなのだから、と何度も約束するのだが、いつも一日も経たないうちにもう怒っている。
しかもそんなことを恥ずかしげもなくブログに書く神経とは一体・・・?と自分の精神状態をすら疑ってしまう。
一体誰に向かってこんなことを書いているのか。
人に対して読んでもらおうと思って書いているのではない。
自分自身に対する慙愧の念で書いている。
もう怒るまい。
もう愚痴るまい。
明日からは、しつこくなじるのはやめよう。
明日からは、怒鳴り散らすのはやめよう。
「随想」カテゴリーアーカイブ
最近のこと
数日前、前の会社の総務部長に道でばったり出会った。(私が転職してから着任された部長なので、仕事を一緒にした経緯はない人である。)
部長氏曰く「あなたの、会社時代のブログがまだ残っていて読ませてもらっている。熱い思いを感じるよ。」
こちらは赤面しきりである。
当時は毎日、辞世のつもりで毎日のように熱い思いを書き綴っていた。(そうとはわからないように、おちゃらけや笑いを誘うようなものも随時織り込んでいたのだが)
いまだに残っているとは恥ずかしい限りだ。
しかし、日本の通信を支える事業に対するノブレスオブリッジは今も変わらぬ思いがあり、頑張ってほしいと思っている。
そんなこんなの矢先、今日、その会社の総務課長から電話があった。
近くにいるから会おう、ということだった。
出かけて、喫茶店で最近のよしなしごとを語り合った。
なかなか大変そうだ。
会社がなまじでかいものだから、威令が行き渡らない。
私が今いるところは数百人規模なので、一応曲がりなりにも、指示されれば、それが伝わり、表向きあちらを向く人はまあいない。
しかし、従業員数数万人という大会社の場合、しかも会社が社会主義国のように計画経済である場合、自分が手を抜いても構わない、計画があれば誰かがちゃんとやって、最後はうまくいこうがいくまいが、うまく行ったというふうに形が整えられる、というふうに思う無責任人間が発生したり、あっちを向く人間が何人もいても、オレだけじゃないも~ん、とか、オレ一人あっち向いていても大勢に影響ないじゃん、という連中がいたりする。それでも回るのが大会社の強みであり弱みである。
大変だ。
最近読んでいる本は、青木新門さんの『納棺夫日記』(文春文庫)である。
ご存知「おくりびと」の原作だ。
著者も富山県人なら、映画監督も富山県人という、我々にしてみれば、大変誇らしいことである。
文章の底流に流れるしんどい経験と深い人間愛は、南木佳士さんの『阿弥陀堂だより』(こちらも文春文庫)に通じるものがあるような気がしている。
映画を観に行く時間はちょっとしばらく取れそうにないので、まずは本をしっかり読んで、もっくんの映画は楽しみに取っておこう。
子どもたちとは毎日バトルである。何度言ってもわからない。言い方が悪いのか。
進める学校がない。(上の子は水戸にある大学の試験に落第し、次が最後のチャンス)
にも関わらず、真剣になってやり直そうという態度が見えない。
ちょっと甘やかし過ぎたかなと反省しきり。
しかし誰が悪いのでもない。育てたのは自分だ。
5年前、単身生活になって、思春期の子どもたちと別れ別れの生活を選択したのは自分だ。
親のため、そして地元に根付かせることを期待して、子どもたちを妻とともに富山へ帰した。
それが悪かったのか、と振り返ってみたりしている。
ちゃんとした人間として世に出せないとしたら、それは親である私の責任だ。
根本は良い子だと思っている。
そして、最後は自立してもらわなければならない。
親が面倒見られるのは、せいぜい22歳まで。
大学に行く力のない子ならば、18歳で終わりだ。
そのことを少しずつ、ようやく感じ始めているようではあるが、腹に落ちているかどうか・・・。
教えるのが遅かったか。
日々悩み、激怒し、反省している毎日である。
でも、昨日はもう取り戻せない。今日は二度と帰って来ない。
コントロールできるのは、今と明日だけだ。
昨日までの反省を踏まえ、今と明日を生きて行こう、ということを子どもたちにも伝えよう。
富山にもセブンイレブンが
アグネス・チャンと昔の仲間からもらった元気
アグネス・チャンのブログを見た。
http://www.agneschan.gr.jp/diary/index.php
我々の世代にとっては「おっかのうっえぇ、ひっなげしっのはあなでぇ」と歌う愛らしい少女の頃からのアイドルだ。
今や年齢はすっかりおばさんなのだが、テレビで時折見る限りは、相変わらず初々しく可愛らしい。
毎週土曜の午前中に民放ラジオでトーク番組を持っていて、彼女のブログが結構人気だということを自分で言っていたため見てみた。
もう50歳ぐらいだと思うが、書いてある内容からは、20歳ぐらいの若々しさ、向学心にあふれた若々しさを感じる。
日本語の発音や書き方がそれほど上手ではないことについて、歓迎しない人もいるかも知れないが、私は気にするようなことではないと思う。
正しい日本語や美しい日本語というものは大切ではあるが、外国から来ている人たちにあまりそういうことは言わず、自由に表現していただければ、もっと日本語の国際化は進むのではないか、それが我が国の力強さに反映していくものと思う。
さてアグネスのブログ。
たまたま見た2月23日のもの。(勝手に抜粋させていただきました)
・・・今日のNHKの国際放送は英語のInterviewなので、昨日ベッドに入ってから、小さい声で練習しました。
日本語と違って、英語は最初から結論が出る言葉なので、話す前からすべてを組み立てないと、上手く伝わりません。逆に、最初を聞くだけで、相手の考えがわかるので、相手が話している間に、反応は考えられるのです。日本語は動詞が最後なので、最後まで聞かないと、相手の意志がわからないため、すべての話を聞いてから、反応するのが礼儀ですね。
国によって、言葉によって、コミュニケーションは違います。
私にとって、英語で話すのはやっぱり、楽です。イギリス植民地に育てられての結果です。・・・
という内容。
英語は最初に結論を言うから、あらかじめ話す内容を組み立てておかなくてはならない、日本語は動詞が最後なので、最後の結論まで聞いてから反応するのが礼儀、という下りは、へえーっ、なるほどねえ、とうなってしまった。
我々のコミュニケーションでも、途中で人の話を理解したつもりで遮って、反論したり潰したりする人がいる。先に結論を言います、とあらかじめ言われた場合は、それはおかしい、と最後まで聞かず反応することも許されるかも知れないが、そうでない場合は、礼儀としては良くないなと思う。
英語圏の人が理路整然としていると感じるのはそういう背景があったのかと今さらにして知った。
人の話を聞くというのはいいもんだ。
ところで、先ほど大阪時代の職場の仲間から電話があった。
マラソン大会の応援だとのこと。
皆おおむね元気で、それぞれの特色を出してやっている様子。
明日は金融業務検定「財務3級」。
来週は経営相談会やら企業訪問やら社員研修やらで10社以上の経営者や若手社員などと会ったり議論したりと大忙し。
今日明日は試験勉強や来週の仕事の準備で大変だが、昔のアイドルと大阪の友人から元気ももらったことだし、さあ、これからひと頑張りしよう!
水戸について
長男が、水戸にある大学の受験に行ってきた。
10倍近い倍率のため、合格は難しいと思う。
難しいと思うし、さらに、東京より遠いというのは親として寂しいのでいやだなあとも思う。
でも、水戸である。
常陸の国なのだ。
実は茨城には、皇祖皇太神宮が富山から移設して、鎮座ましましている。
そういう意味では縁深い地である。
いや、私にとってということではない。
富山に元々あった皇祖皇太神宮が遷移した先が茨城だということだ。
私個人にとっては特段の関係はないが、富山が世界の中心だと勝手に思っている私にとっては、そういういきさつで、茨城にはなんとなく親近感がある。
よって、寂しいことではあるが、合格したら行かせてやりたい。
私も出かけたい。一度は竹内巨麿氏が移設したという、現存皇祖皇太神宮を見てみたいと思っている。
と、ここまで書いたら、富山の皇太神宮について書かないわけにはいかないだろう。
初めて訪れたのは昨年の11月1日。
呉羽丘陵の中にあり、入り口には富山大学の管理地だという表示があった。
詳細は後日また書くが、今日はとりあえず、鳥居の写真を紹介しておく。
昼なお暗い丘を登っていったところに突如あたりが開けてこの鳥居が迫る。
詳細は後日・・・・。
経営者にとって必要なこと
金融機関の経営支援担当という仕事をしていると、どちらかというとちょっと危ない会社と接することが多い。
最近とみに思うのは、経営者が経営管理という能力・意思に欠けていると、ちょっと環境がマイナス方面に傾くと、たちまち経営が傾くのではないか、経営者の資質がいかに大切か、ということだ。
そんなことをとみに思う。
少しこれまでの経験を整理して、あらためて書き記したいと思う。
新しいカバン
ビジネスカバンには強いこだわりがある。
①収納性に優れていること
②新聞や雑誌などのポケットが外側にあり、出し入れがしやすいこと
③ノートパソコンを入れることができ、クッションもあること
④折りたたみ傘が収納できる別ポケットがあること
⑤ショルダー部分もしっかりしていること
そんな条件に合うカバンがなかなかない。
10年ほど前にユニクロが私の希望ピッタリの理想的なカバンを売り出した。
しかも当時1990円だったか、破格の低価格だった。
すぐに購入し、それから延々10年以上使ってきた。
途中、営業課長になったときにビジネスマンっぽいカバンを使った時期もあったが、今はまた当時のカバンを引っ張り出して使っていた。
やはり使いやすいからである。
しかし、そのカバンもそろそろ細かな汚れやカビめいた汚れもあり、くたびれてきたなあ相棒よ、という感じになってきた。
1年ほど前から後任を探してきたが、なかなか見当たらない。
そのためだけにわざわざかばん屋を足を棒にして探し回るほどの余裕もない。
と、昨日久しぶりにユニクロへ行ったら、新しいカバンが置いてあった。
しばらくは安っぽく、かつ使い物にならないような変なカバンしかなかったのだが、昨日は久しぶりにちゃんとしたカバンが置いてあった。
どうやら小学館のDIMEとコラボで作ったものらしい。
私の希望する条件については、基本的な部分は満たしていた。
しかし、まだ収納力の面では、ちょっと不足するような気がして昨日は買わなかった。
が、帰ってきて、今のくたびれきったカバンを眺めていると、どうしても、そろそろ引退だよなあ、お前には苦労をかけすぎたよなあ、そろそろ休ませてやらんとなあ、という気になって、結局、合格点にはちょっと足りないが、一旦ここで気分転換も兼ねて、カバンを更新することにした。
商品名は<DIME ブリーフケース>というものだ。
これまで使ってきた1990円のものよりやや機能性において劣るし、値段は倍の3990円(ネットのオンラインで買えば2990円らしい)と高いが、唯一軽量だという点は良い。
当分、使ってみる。が、だめなら、また元の「大御所」に復帰してもらうかも知れない。
よって、大御所にはお疲れさんだが、まだ完全引退(ユニクロへ里帰り)ではなく、しばし押し入れで休養してもらうことにする。
カバンの写真をクリックしてもユニクロさんへは飛びません。お求めになられる方はユニクロオンラインストアへどうぞ。
http://store.uniqlo.com/jp/
春のおとづれ、子どもたちの転機
訪れ、というものは、音がヅレることを意味する、と何かの本で読んだ覚えがある。
小説だったかエッセイだったか学術書だったかは定かではないが、そんなことが書いてあり、普段私たちが使う「おとずれ(訪れ)」ではなく「おとづれ」と、「つ」に点々を打った「づれ」だということであった。
ホントかどうかはわからないが、そういう表記がなんとなく日本的だなあと思い、間違いかも知れないが、「おとづれ」というタイトルにした。
春一番が吹き荒れたのは1週間ほど前であったろうか。
あれから我が富山県には雪が降る寒い1週間であったが、ほとんど積もることもなく、すぐに融けて平野部では今は跡形もない。
降雪の合間を縫うように中国大陸からの黄砂が大量に降り注ぎ、車はまっ黄色。
庭には桃の花が咲いており、海では釣り糸を垂らす人々もいるくらいだった。
世の中の景気はまだまだ厳しいし、これから3月、4月にかけて倒産する会社も出てくるだろう。
しかし季節は確実に春に向かって芽を吹き出しており、間もなく春がやってくる。
まだ受験勉強が終わっていない子らもあるだろうし、就職の決まっていない学生もいることだろう。
我が家では、長男が実技だけの二次試験という安易な道で大学受験の勝負をしようとしているし(学力がないのでそれで勝負するしかないのだが、どこまで通用するかはなはだ心もとない)、次男は早々に県立高校受験からリタイアしてしまった。
次男については、一旦これまでの勉強不足だった自分に封印し、高校からのリスタートに向け、ゼロからやり直すというので、それもまた良しとエールを送ることにした。2年3ヶ月の単身赴任とそれに続く家にいない状態の計4年半の私自身の責任を痛感しており、本人のやる気がようやく出てきたこともあり、なんとかバックアップしてやりたい。
オール1というと衝撃的な話だが、当らずも遠からずである次男を、さらにやる気を出させたいと思い、宮本延春という人の『オール1の落ちこぼれ、教師になる』という本を買い、昨夜自分でも目を通した上で、まずはこれから読んだらどうか、と渡した。
やる気というのは本人次第のところがあって、回りの者がどれだけ躍起になってもあれこれちゃちゃを焼いてもいい材料を目の前に提示しても、本人がやる気がないと、ただの夾雑物にしかならない。我が愛する次男は、去年の12月からようやく勉強を始めた、といみじくも先日打ち明けてくれた。
それで中学3年間の勉強をしようというのがそもそも間違いだし、間に合うわけがない。
これまでの3年間は取り返しがつかないし、後戻りもできない。これからの3年間で多くのことをカバーしていかなければならない。そのためには相当の決意が必要だと思う。「まず、心の持ちようを変えよう」と言った。
その、リ・スタートのためにこの本を読もうよ、と言った。
チョー忙しい
子ども二人が受験。
しかも彼らの望む学校に入る力がないため、今さらながら学校選びを毎日喧々諤々の状態で子どもたちとやっている。
子育て、手抜きし過ぎたかなあと、取り返しのつかない思いである。
そんな状況であるにも関わらず、行くべき自己啓発には行って来た。
昨日。
午前中は会社の研修。
120人程度が集まり、時節柄のテーマで先輩たちがひとしきり語った後、残り時間わずか10分。
元々は20分あったのだが、色々あって10分しか残っていない。
資料配布だけで5分ででもできるように準備はしていたものだが、10分というまことに中途半端な時間となってしまった。喋らずに済ませることもできたが、アンケートに「喋らなかった」と書かれてもたまらないので、少々語った。
午後は定番、毎月やっている「とやまキトキトBIZねっと」の例会。
今回は富山富士通のSさんという中小企業診断士の「トヨタ式カイゼン活動」の紹介。
毎晩の残業と午前中の疲れで、途中ウトウトしてしまったが、今回の内容はホワイトカラーの見える化による生産性の向上に関するもの。
大変素晴らしい内容だったが、それをどう職場に導入するか、という点はなかなか大問題であろうと思う。
この会社の場合はトップが真剣に導入を推し進めたこと、従業員みなさんが一つの方向を向いて取り組んだこと、コーディネータ的な人がそれらの間に入ってみんなをその気にうまくモチベートしたこと、が成功の要因のようだ。
敷居の低い異業種交流&勉強会とやまキトキトBIZねっと
もう少し中身に触れたいのだが、チョー忙しいので、今日はこのくらいにしておく。
三週間ぶりのビール
三週間ぶりにビールを飲んだ。
さすがに酔うた。
でも心地よい酔い心地だ。
ところで、書店に行くと、最近やたらと「大恐慌」だの「金融大崩壊」だのというネーミングを冠した<悲観論>の本が並んでいる。
昨年末頃はせいぜいその手の本は10冊ぐらいしかなかったが、今は30~40冊ぐらい並んでいる。
まるで雨後の筍状態だ。
「悲観論商法」というか、人の不安な心理につけこんだ悪乗りではないかと、最近は思っている。
そろそろ、明るい兆しの本が出てもおかしくない。
と思って前向きなことを書いている人がいないかなあと、書店の棚をつらつら眺めてみた。
唯一プラス思考の本は、長谷川慶太郎氏の『千載一遇のチャンス』という本である。が、これは既に先月から出ており、しかも長谷川慶太郎氏は常にプラス思考である。
しかもこの人は、常に時の権力者のやることを「正しいこと」と書いておられ、かつ「日本は絶対安泰」という主張であり、そういう意味では、私の求める「この悲観論横行時代に、プラス思考の論調の、新しい主張をする人はいないのだろうか?」という設問への答には残念ながらならない。
(個人的にはこの人の主張に頷かされることが多く、いつも大変勉強にはなっているのだが)
その他、新味の本として、佐藤優氏と田原総一郎氏の『第三次世界大戦』という本は、内容は重厚で示唆に富んだものではあるが、悲観論の一角にある本であるという点で今回は購入せず。中谷巌氏の『資本主義はなぜ自壊したのか「日本」再生への提言』もしかり。
と、つらつら眺めたが、あまりピンと来るものがなく、時間ばかり過ぎてゆく。
そこで目に入ったのがラビ・バトラの『2009年 断末魔の資本主義』という本。
帯に「2008年の予言はすべて的中 2009年の五つの予測は?!」と書いてあった。
他の「悲観論一辺倒」的な本とは少し違うかも知れないな、と思って、時間がなかったこともあり、中もロクに見ずに買った。
帰ってきて読んでみてビックリ&ガックリ。
他の本以上に悲観論のオンパレードだった。
曰く「NYダウは5000ドルまで下がり、日経平均も5000円まで下がる」「中国は不動産バブルと株バブルが弾ける」「イランが中東で暴れ出す」原油価格は再び100ドルを超える」「日本は内需で頑張らなければだめ」etc。
う~ん。
まだ厳しいのか。
そろそろ光明を見出して「こっちへ行こう。 道は開ける!」という人はいないのか。