塩野七生さんの『ローマ人の物語』

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塩野七生さんの『ローマ人の物語』文庫版全巻をようやく読み終えました。平成14年の刊行から丸18年をかけての通読となりました。元々ハードカバー版の第1巻が刊行されたのが1992年(平成4年)で最終の第15巻が2006年ですから、著作仕事自体も14年がかりでの大仕事です。

元々塩野さんの著作は学生時代に求めた『神の代理人』や『ルネサンスの女たち』『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』あたりから親しんでいたので、『ローマ人の物語』が出た時も書店で何度かページをめくりつつ、あまりに分厚いので購入には至らず、文庫版が出た時には躍り上がって喜んで買い求めたものです。

全編にわたり、過去の様々な記録や遺物をなぞって歴史の経緯・叙述を記しつつ、都度ご自身の推論も提示しながら読者に示す書き方となっており、何が記録で何が自身の考えかを区別しながら読み進めることができました。これは塩野さんの書き方の特徴であろうと思います。

ローマ皇帝というのは絶対君主のような印象を学生の頃は持っていましたが、この本を読んで初めてわかったのは、まったくそうではなく(歴代の皇帝にもよるようですが)、基本的には元老院という貴族(これも固定的ではなく新規参入貴族もあったようです)たちが承認するという手続きがあったこと、世襲とは限らず現皇帝の甥や信頼のおける部下に引き継いだこともあり、クーデターでの交代もあった(にもかかわらず皇帝という制度はそのまま)、というバラエティに富むあり方だったことです。ずっと後の時代にはローマ教皇が戴冠するという風に変わっていったようですが。

この本の私にとっての圧巻は、ハンニバル、カエサル、そして西ローマ帝国の滅亡のあたりです。

ハンニバルについては、文庫第4巻「ハンニバル戦記(中)」にある次の文章に、リーダーとはかくありたいと思わせる一文があります。「全軍を休ませるに足る宿営地の設営など、考えるだけでも無駄だった。山岳民が使う避難所や要塞に出あえば、神々の恵みとさえ思えた。多くの夜は陣幕を張る場所さえ見つけられず、それらを身体に巻きつけて風と寒さを防いだ。たき火は燃やしたが、暖をとるまでは不可能だった。総司令官のハンニバルも、一傭兵と同じく凍りついた食をのどに流しこみ、一傭兵と同じに崖下で仮眠をとった。だが、彼にだけは、一兵卒ならば考えなくてもよい種々のことを考え、情況に応じた判断を即座にくだす必要があった。」

欧米諸国では「ハンニバルが来るぞ」というのは子どもを怖がらせるための親の脅し文句で、日本での「鬼さんが来るぞ」というのに近いようなニュアンスがあるそうです。食人鬼のような恐ろしさをこめられているように思いますが、実際のハンニバルは将兵とともに起居し、将兵と同じ苦労をし、将兵に混じって仕事をしていた(但し戦略は自身で練っていた)、というある種理想的なリーダーだったのではないかと思います。戦後のある時のローマの将軍スキピオとハンニバルの邂逅シーンも優れた叙述だと思います。

カエサルについては、絶対君主を目指した横柄な人物でエジプトで女王と結婚し挙句は側近に裏切られて衆人環視の中で殺害された、という印象がこの本を読む前の私のイメージでした。しかしこちらもとんでもない誤解だった・・・事実の一部はあっていたのでしょうけど・・・ということがわかりました。なにせハードカバー版で2冊にも及び、文庫版では6冊にもなる、全巻通じて最もページ数を多く割かれた、超痛快な人物です。(捕虜として捕らえられた時の態度が刮目に値します。ある意味「犬のディオゲネス」が奴隷として売られた時のような潔さに通じるような) のみならず、塩野さんはよほどカエサルが好きなのか、皇帝の失政が見られるたびに(と言っては大げさですが)「カエサルだったら」とか「カエサルがもしいたら」みたいなことを後々までずっと書いておられます。

最後の43巻は蹂躙される自分たちの街に住む人々の惨状に思いを致し涙なしでは読めませんでした。しかし、塩野さんのこの本を通じて学んだことは、ものごとは一方からだけ眺めるのではなく、相手の側の目線も必要であるということで、攻める側からはまったく異なる(悲劇ではない)風景が見えていたのだろうなあとも思います。現場で当事者としてその被害にあっていない立場だからこそ取りうるスタンスなのでしょうけど。ただ、現代ではとても直視できない光景です。フレデリック・ラルー氏の『ティール組織』にある「レッドのパラダイム」だということを前提に置かないととてもではないですが。(私たちは既にそのパラダイムは超克しているはずです)


476年に西ローマ帝国の皇帝が廃されて以降のイタリアは、故地回復という名の下に思いつきのように戦いを仕掛ける東ローマ帝国皇帝といわゆる蛮族の平和的支配と劫掠の中でボロボロに疲弊していく旧西ローマ帝国の人々。特にミラノの惨状は目を覆うばかり。食糧生産はできず水道網は市民を救済するという目的での戦闘のために破壊されるなど、戦争は文明と一般の人々の暮らしと心を崩壊させることは間違いないことはよくわかりました。
フレデリック・ラルー氏の『ティール組織』にある「レッド・パラダイム」がそれよりも上位概念であるはずの「アンバー・パラダイム」を打ち負かしたということなのか、はたまた。粗野が往々にして文明に勝ることもあるということの証拠なのでしょうか。
アッティラが東ヨーロッパに攻め入ってきて押し出される形でフランクやらゴートやらが東西ローマ帝国を襲うのですが、そもそもその背景にあったかもという気候変動については塩野さんは触れられておらず。「人の歴史」として描かれたので自然現象は思索の対象外ということだったのかも知れません。最後に泣きを見るのはいつも一般市民です。
長い月日の中で蛮族と言われた人々は少しずつローマ帝国に(軍隊を中心に)取り込まれ融合していき、その中でかの文明のもろさや弱さを学習し、攻めどころを理解し、中に入ったり外から攻めたりしながら、最後は砂の城が崩れるようにポロポロと崩壊していった感じがします。
とは言えキリスト教会は存続し蛮族と言われた人々もヨーロッパのあちこちに住まいし、また帝国を逃れて海辺に行きやがてヴェネツィアとして千年の栄光を誇る人たちもいたり、やがて元々同一国だったはずのヨーロッパの人々が東ローマ帝国を蹂躙しコンスタンチノープルを崩壊させたりと、歴史はまだまだ続きます。

塩野七生さんの著作の一部

ともかく、長い間一つのテーマで楽しい読書をさせていただきました。塩野七生さん、ありがとうございました。

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「アリストテレス」が東へ西へ

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2020年5月と6月はブログの投稿を怠ってしまいました。

仕事柄実務をするばかりではなく時折は経営理論についての仕込みも必要であり、入山章栄さんの『世界標準の経営理論』なる大部の書物をめくっていました。

そんな中、同書のp662に「アリストテレス、カント、ベンサムらが提示した哲学理論は、いまも規範的な企業倫理の基礎になっている。」との一文がありました。ちょうど企業倫理について人様の前で話さなくてはならないということもあり、調べておかなければならないなあと思い、アリストテレス関連の書物やアリストテレスを西欧に再導入してキリスト教学と親和性を持たせたトマス・アクィナス関連やしばらくの間ギリシア哲学を保存していたイスラムの知の歴史などを調べていました。アリストテレスはギリシアの哲学者であり、ローマ帝国のどこかのタイミングで「過去の人」になり、ローマ帝国崩壊後はなぜかイスラムで継承され、その後再び西欧哲学の支柱になった・・・・なぜ「過去の人」になったのか、なぜイスラムに移ったのか、なぜイスラムで維持されたのか、なぜ再び・どういう経緯で西欧に戻ったのか・・・疑問が山積噴出です。色々調べてもわからないことだらけですが、時系列でそれに関することだけでも世界史の年表から拾ってみようというのがこの投稿の主旨です。残念ながらそれ以上深みのある作業ではありません。悪しからず。

なお作業は上記の諸書物を渉猟したのち、結局高校時代の世界史年表とNTT出版が1990年頃に「電話100年」記念事業として出版した松岡正剛さん編集になる『情報の歴史』から抽出しました。

788年 第5代カリフのハルン・アル・ラシード「知恵の宝庫」と名付けられた図書館を設立。学者や書物を集め、知識の府とし、ここでギリシア語の文献を翻訳させた。(イスラムによる版図拡大⇒征服地には元アレクサンダー大王による占領地が多数含まれており、ギリシア語の文献も多く存在していたと思われる)           800年 カール大帝、教皇レオ3世から戴冠807年 ハルン・アル・ラシードがカール大帝に水時計を寄贈。(イスラムから西欧に贈り物!)820~830頃 「アリストテレスのイスラム化」との記述あり830年 第7代カリフのマームーン「知恵の宝庫」を拡充、「知恵の館」を設立836、920、931、941・・・この頃イスラム世界におけるアリストテレスの紹介活発950年頃 コルドバの人口50万人、図書館も充実、当時のヨーロッパの学問の中心地に。(イスラム勢力が8世紀以降スペイン、ポルトガル<当時はアンダルスと呼ばれていたとか>を支配していたが、イスラムによる征服前はキリスト教がかなり普及しており、イスラム文化を受け入れた現地の人たちがアラビア語で記されていた元ギリシア語の書物をラテン語に翻訳しており、やがてそれらがピレネー山脈を越えることで西欧のカトリックの世界に紹介されることで中世西欧の学問の基になったとか)1030年 イブン・シーナ『医学典範」『宇宙論』『形而上学』などを著す。(アリストテレスの諸学問の影響大と思われる)1088年頃 ボローニャ大学創設(ヨーロッパ最古の大学)1096年 第1回十字軍(『アラブが見た十字軍』という書物には、攻め手のすさまじい暴行略奪食人の様子が描かれています。聖地奪還という美名に隠された別の目的があったのではないかと思わせるような悪行ぶりです。それは「異人は怖い。だから何をしても良い」という非文明時代の人たちだったからなのかどうか・・・塩野さんの『十字軍物語』なども含め、双方の立場で見てみて、歴史に学ぶことが必要だと思います。)1113年 ヨハネ騎士団、テンプル騎士団など創設1120年代 イスラム哲学のラテン語訳始まる(アデラード、アベラールなどによる)・・・いわゆる12世紀ルネサンス?1187年 サラディン、エルサレム占領1200年頃~ アラビア語アリストテレスのラテン語訳、ヨーロッパに広がる1210年 パリの協会、アリストテレス学説の授業禁止。(なぜでしょう? アリストテレスの考え方にはキリスト教の神が存在しない・・・「人はロゴス(理性)に従って善、中庸の行いをすれば幸福になれる」と考えており、それは神の否定につながると思われたからでしょうか・・・)1228年 教皇グレゴリウス9世、アリストテレス哲学をキリスト教に導入することを禁止。(上記の理由で全面的に禁止になったのでしょうか?)1229年 フリードリヒ2世、エルサレムに入場(第5次十字軍)1231年 教皇グレゴリウス9世、アリストテレスの理論の中で協会の協議に合うものを審議(一旦は禁止したものの、多くの人がアリストテレスの何かを知るようになり止められなくなったのかも知れません)1255年 アリストテレス学説、パリ大学人文科の教授対象となる(ここまで来ましたか、という感じですね)1273年 トマス・アクィナス『神学大全』完成。アリストテレス哲学と神学の関係を整理。哲学を神学の下に位置づけて取り込み。

・・・この間、モンゴル軍がポーランドまで侵攻したり(1241年)、第4回の十字軍が味方のはずのコンスタンチンープルを陥落させたり(1204年)、とややこしさ・複雑さが増していく感じがしますが、そこまでは追求しないでおきます。こんな風に歴史を読んでいくと、世界はお互いに影響し合ってなんとか辻褄を合わせながら生きてきたんだなあと感じます。イスラムの歴史、ローマ帝国後の西欧の動向などさらに学んでいこうと思います。

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世界的な感染症の流行とその後の世の中の変化について考える~映画「フェアゲーム」、書籍『株式会社の終焉』など~

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2020年初頭から新型コロナウイルス感染症「COVID-19」が猛威を振るっています。ワクチンの開発や治療薬の治験などが医学関係者の皆さんの間で懸命に取り組まれているものと思いますが、現時点ではまだこれといった具体的なものが見えていません。そのため、いつ収束又は終息するのかが見えず、私たちの生活は大幅に制約を余儀なくされています。

3年半ほど前に経済学者の水野和夫さんがお書きになった著書に『株式会社の終焉』という本があります。その中で著者はグローバル資本主義の限界を捉え「地球はいずれ閉じる」「21世紀の原理は『よりゆっくり』『より近く』『より寛容に』である」と主張しておられます。「20世紀の『技術の時代』は17世紀の『科学の時代』からの累積の上に築かれた」「今なすべきことは、21世紀はどんな時代化をまずは立ち止まって考えることです。走りながら考えると、過去4世紀間の慣性、すなわち『より速く、より遠く、より合理的に』が働いて、ITを切り札にした第4次産業革命にすがることになります。」と。

オンライン授業やオンライン会議、オンライン相談など、ネットを通じて会うというやり方が増えてきました。また、学校を9月入学に変更してはどうかという議論も再び始まりました。今まで4月生まれの人とと10月生まれの人が同じ学年だったものが、そういう風に大きく制度を変えると学年が別になってしまうかも知れず、また会社の入社時期はどうするのか、先生方の人事異動は、予算との関係は、私立学校の経営は、その他その他検討しなければならない課題が山ほどあります。しかし世界では米国をはじめ多くの国がそのようにやっているとなれば、ある意味業界標準みたいなものであり、合わせる不都合と合わせない不都合の比較みたいなことも考えてみる価値はあるのかも知れません。

先日一部の政治家の方々がColaboという団体を訪問した時のことが話題になっていました。後でその団体の方が抗議文を公開しておられ、一読しましたが、とても理路整然としてわかりやすく、どの行為やその背景となる思いのどこに問題があるのかが丁寧に記載してありました。私たちは勘違いしているのかも知れません。どちらが偉いのか。そういう問題ではなく役割なんだということを。例えば、極端な言い方をすれば、政治家は農家や工業生産者などと違って財を生み出しません。もちろん資本家の方もおられますが。財を生み出さないということはある意味「生産性がない」と言い換えても良いかも知れません。私たちが汗水たらして働いて稼いだお金の一部を税金として税務署に渡し、政治家はそのお金で生活をしておられるのですが、その自覚がどこまであるのか。私たちも彼らに投票して選んで税金を払って私たちの代弁者として雇っているという自覚がどの程度あるのか。選ばれし偉い人たちなのだと勘違いしているのではないでしょうか。

そのことが見えてきたのは、今回のコロナウイルス感染症で、傷ついた多くの人たちが求めている生活費や事業の固定費などのカバ-を国に求めているのに、あたかも「誰に与えてあげようか」という姿勢が一部に見られ、私たちがそのおかしさに気づき、誰かが「そもそも税金を納めたんだからこんな時ぐらい少し返して下さい」という言い方をして、それに対する共感が広がったということがあるのではないかと感じています。

国がおかしな動きをしたらちゃんとそれをおかしいと言えること。これは民主主義の大事な要素だと映画「フェアゲーム」は示唆しているように思います。ナオミ・ワッツさんとショーン・ペンさんが主役を演じており、ショーン・ペンさんが映画の終盤で講演している中で次のようなことを言っています。「ベンジャミン・フランクリンが独立宣言の草稿を書き、表へ出ると女性が近づき尋ねた。『フランクリンさん、どんな政体になりますか?』フランクリンは答えた『共和制です。守り通せるなら』・・・一人一人が国民としての義務を忘れない限り、道路の穴の報告も、一般教書の嘘を追求することも、声に出せ、質問するんだ。真実を要求しろ。民主主義は安易に与えらればしない。だが我々は民主主義に生きる。義務を果たせば、子どもたちもこの国で暮らせる。』実話に基づいた映画ですが、これがつい十数年前の出来事だと知り、驚くとともに、さすが民主主義の本家だなと感じました。

水野和夫さんと山口二郎さんの共著に『資本主義と民主主義の終焉』という本があります。この中で山口二郎さんが米国のハーバード大学教授のスティーブン・レベツキー氏とダニエル・ジブラット氏の共著『民主主義の死に方』の一節を紹介しており、「独裁の兆候として『審判を抱き込む』『対戦相手を欠場させる』『ルールを変える』の3つがあると指摘している」と書いておられます。今回のコロナウイルス感染症が収まったあと、人と人との接し方や社会の仕組み・当たり前が変わっているかも知れません。しかし、水野和夫さんはこの著書で最後に仰っています。「資本主義は終焉しても、民主主義は終わらせてはいけない」

私たちが「声に出さず」「質問しない」間に、大事なものを失ってしまわないよう、この大変な時にもしっかり意識をしていくことが大事なのではないだろうかと思います。外国の話ではありますが、フランクリンが「守り通せるなら」と言ったということを肝の銘じておきたいと思います。そしてこの世界中に猛威を振るっているウイルス禍の後、分断やヘイトで他人と自分を分かつのではなく、他の人に対してもう少し親切に穏やかに接することが多くなるような、あるいは、少しでも企業が利幅を大きくするために低コストで生産できるところから仕入れるというグローバルサプライチェーンが見直されて地産地消のような動きが高まるような、水野和夫さんが仰っている『よりゆっくり、より近くに、より寛容に』という価値観や体制の変化が少し増えていくのかも知れません。

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gビズID申請やり直しの巻

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令和元年度(2019年度)補正予算が国会で成立し、現在補正予算で執り行われる様々な補助金の準備が進められているものと思います。今回は「中小企業生産性革命推進事業」と銘打って、いわゆる「ものづくり補助金」「小規模事業者持続化補助金」「IT導入補助金」などがラインナップされています。

従来と大きく異なる点が、これらの補助金の申請に当たって「GビズID(アカウント)」の取得が必要であるという点です。 https://gbiz-id.go.jp/top/ ID取得には2~3週間程度を要するとのことで、経産省・中小企業庁・中小企業基盤整備機構では、申請を予定している中小企業に対して早めの手続きを呼びかけています。「GビズID」「gBizID」などいくつかの表記があり若干ややこしいですが、経産省が開発した補助金の申請を電子的に行うためのシステム(「Jグランツ」)で使われるものであり、特に「ものづくり補助金」の申請においては必須のものだとパンフレットに書いてあります。

https://www.meti.go.jp/press/2019/12/20191224003/20191224003-2.pdf

当面、経済産業省の補助金では、2019年度補正、2020年度当初予算で27補助金が対象となるようですが、今後他省庁、自治体の補助金も含めて随時拡大予定とのことであり、個人事業者である私もいずれ利用することもあろうし、その時になって慌てない方が良いと考え、早速申請しました。しかし、ちょっとしたミスで大きく時間がかかることがわかり、単純ミスで失敗されないように注意喚起の意味をこめてここに私の失敗談を掲載しておきます。

①2月13日、gビズIDプライムの申請書発送(郵便にて)。
②2月19日、gBizIDプライム登録申請の受付のお知らせメール到着。(記載事項に従い、指定のURLにアクセスすることで、申請時の登録携帯電話番号にSMSでワンタイムパスワードが届き、そのパスワードを入力すれば登録完了という流れのはずが、SMSが届きません。何度クリックしてもSMSが届かないため、同日support@gbiz-id.go.jp宛て、メールで問合せを実施)
③2月19日~21日まで、数度にわたるサポート担当とのメールのやりとりで、自分が申請時に書いた携帯電話の番号がそもそも誤っていた可能性があるためにSMSが届かないのではないか、との可能性が濃厚になってきました。(申請書には連絡先の電話番号は載るものの、SMS受信用の電話番号は印刷されませんので、ネット上で申請書を作成する際に記入した携帯電話番号がわからない仕組みになっています)指定されたヘルプデスクに電話することが必要というのがサポート担当からの最後のメールでした。(GビズIDヘルプデスク 06-6225-7877(平日9時から17時))
④2月21日、ヘルプデスクに電話で連絡。ヘルプデスク自体は受付のみで、本人性確認は、事務局から翌営業日に電話がかかってくるとのことでした。しかしその後1週間以上待っても連絡なし。
⑤3月2日、再度ヘルプデスクに同内容で電話にて問合せをしました。その際、また「折り返しは翌営業日以降」と言われたのですが、前回のいきさつも踏まえ、なるべく早くに連絡いただけませんか?とお願いしたところ、同日、事務局から電話がありました。結局は私が登録した携帯電話の番号の中に一つ誤った数字があったことが原因だと判明しましたが、ちょっとのミスで2週間以上ロスしてしまいました。改めて申請書作成用サイトで申請書を作成の上必要書類を用意し、新規の申請(郵送)を行ったのですが、皆様はこのような単純ミスで時間の浪費をなさらないようにお気をつけ下さい。

なお、「電子申請」は、インターネットを利用して申請・届出をする方法で、ネットへの接続環境があれば、いつでも・どこでも 手続きができるというものです。電子申請により郵送が不要となるため、書面で行う申請に比べて、移動や 郵送等のコストが掛からない 、法人情報や過去の申請情報を自動転記することにより、入力の手間の削減(ワンスオンリー) 、ログイン時の認証機能により、書類の押印が不要等のメリットがあるということです。(経産省ニュースリリースより  https://www.meti.go.jp/press/2019/12/20191224003/20191224003.html

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横断歩道では一時停止をしっかりと

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昨年何度か長野市で仕事をする機会がありました。行く都度目についたのは、横断歩道で人が渡ろうかとしていると、そこに差し掛かった車の7、8割が一時停止をしているということです。初めはさほど気にもならなかったのですが、タクシーもバスも一般乗用車も関係なく皆さん一旦停止をなさる。しかもその道路は長野駅から善光寺へ伸びる、片側一車線ではあるもののメインストリートの一つで、路線バスや観光客を乗せたタクシーなどがビュンビュン通る道路です。私も何度も車が止まってくれました。これ、富山ではまず見られない光景です。


善光寺のお膝元だからだろうか、歩行者に優しい人たちだなあと長野市のドライバーの「マナー」の良さに感動していた矢先、先だって自動車運転免許センターで講習を受ける機会があり、そこで驚くべき調査結果を聞きました。

それは、信号機のない横断歩道を歩行者が横断しようとしている場合に一時停止する車がどれだけあるかを調べたJAFの調査結果です。もちろん全車ではなくサンプルではありますが。ちなみに、信号機のない横断歩道を歩行者が横断しようとしている場合、クルマは一時停止しなければならないというのは、交通法規であり、違反した場合、それが「横断歩行者等妨害等」の認定をされると2点減点となります。そうです、「マナー」ではなく「交通法規」なのです。

調査結果では、我が富山県は全都道府県中44位という情けない結果。5.3%しか止まってくれないということでした。実際体感的にはそのくらいだろうと思います。私の家族が、ある時横断歩道を渡ろうとしていた人がいたため、停止線で一時停止をしたところ、後続車に追突され車が大破、全損(幸い家人にはケガなし)という事故に巻き込まれたことがあります。後続車のドライバーはハンドルを握りアクセルを踏んだ状態で、スマホとにらめっこをしており、横断歩道の手前で車が止まるなんて想像しておらず、そのままのスピードで進行した、まさか先行車がそこで止まるなんて、ということでした。(当然ブレーキランプは・・・ドライバーが前を見ていれば目に入ったはずですが)

誠に情けない我が富山県に対して、くだんの長野は、なんと68.6%。堂々の一位です。それでも7割ということで、法律違反をしている車が3割あることはあるのですが。しかし、歩行者が横断歩道を渡ろうという時にそれほど恐れを抱かずに横断歩道に足を踏み入れることができるし、ドライバーも横断歩道に差し掛かる際には、そこを渡ろうとする人がいるかも、という前提で若干スピードダウンして通ろうとします。実際長野市で見た多くの車両がそうでした。この違い、一体なんなんでしょう。

ちなみに、この調査は2016年から毎年JAFが行っているもの(2019年調査結果はここに掲載されています⇒
https://jaf.or.jp/common/safety-drive/library/survey-report/2019-crosswalk )だそうで、当然毎年パーセンテージも順位も異なりますが、私たち富山の人はもう少しちゃんと交通法規を守らなくてはならないのではないだろうかと真剣に考えさせられました。家族でもよく話し合いをしようと思います。

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ロボットプログラミングの授業(小学生向け)のこと

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ご縁のご縁のご縁で、ITマスターという役割をいただき、時々お仕事をいただいています。もちろんジェダイの騎士のようなことはできません。小学生から高校生までを対象に、将来の職業としてIT関連の仕事を選んでもらえたら良いなあという厚労省系の施策の一環です。

2017年度から取組が始まり、初めの頃は職業体験イベントでのお披露目が中心でした。本来は小学校高学年向けに作られたカリキュラムということで、担当の職員さんが各小学校などを回り、出張授業を受けてみませんかと提案しておられた甲斐があり、2年目からはあちこちの小学校で出張授業を実施してきました。

いよいよ来年度2020年度からは小学校でプログラミングが授業で必修化となるということもあり、この一年は随分多くの小学校から引き合いがあり、私たち講師陣も大忙しでした。珍しいということからか、テレビ、新聞などマスコミの取材も結構ありました。ありがとうございました。

毎回20~30人の生徒を対象に実施するということで、実機を使うため、操作指導をする必要があります。かつ受講者全員がある程度は触って実感できるようにするという目標があるため、一人の講師で対応することは極めて厳しいものがあります。
おかげさまで私と同じITマスターの登録者が増え、小学校からの引き合いの増加とともに、一回の授業で同時に数人のITマスターが携わって授業を作ることができました。その都度メイン講師も持ち回りでできるようになり、他の講師の語りや進行の仕方など、毎回とても勉強になりました。 自分でもインストラクションプランは作りましたが、講師によってはA3数枚にわたる進行表(すごい!) を作っていた方もおられました。

今日が今年度の最終回でした。富山県西部の某小学校で5年生総勢61人が参加し、人数が多いので1、2限目と3、4限目の2回に分けての実施でした。基本的な進め方はカリキュラムに沿って同じやり方なのですが、子どもたちの発想は実にユニークで、毎回楽しく授業を進めさせてもらいました。来年度は正規の授業としてプログラミング(ロボットということではないのでしょうけど)が導入されるため、恐らくこの授業に対するニーズは大きく減るような気がしますが、一般的なプログラミングとロボットを使ったプログラミングは必ずしも同じではないので、案外またニーズが続くかも知れません。

ITマスターとしての役割はまだ他のメニューもありますので、今後も精進が必要なようです。がんばらなくっちゃ。

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アメリカの歴史

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アメリカは一つじゃない、ということは、アメリカに限らずどこの国でも同じことなのでしょうが、外と対峙する時のかの国の力強さを考えると、なんとなく一枚岩の国なのかなという錯覚に陥っています。

その、時として一枚岩に見えるアメリカにおいて、国を二分する大戦争「南北戦争」が起こった理由や、どういう経緯で終結に至ったのか、戦後の国内の分断や国民相互の不信感は修復できたのか、など、知らないことだらけだと思い、アメリカの歴史、特に南北戦争のことを少し調べようと思い、図書館で『アメリカ史』(紀平英作編、山川出版社)という本を借りてきました。

日本は、古くから中国や朝鮮半島と交流があるため、歴史の学習において、中国の歴史も一緒に学ぶことが多いです。しかし編者の紀平さんも書いていますが、1853年にペリー提督が軍艦4隻を率いて浦賀にやってきた時を境に、アメリカは海を挟んだ隣の国として極めて近い関係にあり続けてきました。当時のアメリカの人口は、アメリカ統計局のデータから類推すると3,000万人に満たず、恐らく日本の人口よりも少なかったと思われます。(1850年 2,319万人、1860年 3,144万人 アフリカから連れてこられた人々がこの人数に含まれているかどうかまでは確認に至っておらず)http://ocw.nagoya-u.jp/files/221/lec10.pdf
そんなことも私は知りませんでした。考えたこともありませんでした。 しかし19世紀のアメリカは帝政ヨーロッパの動乱と産業革命後の需要をうまく取り込んで、めまぐるしい工業化と領土拡大と経済発展を成し遂げていたようです。

アメリカが国として太平洋岸の土地を自らの領土にしたのは1846年だということです。しかしそれは北部のオレゴンであり、その後メキシコ領だったカリフォルニアなどをメキシコとの戦争で1848年に獲得。日本にやってきたわずか5年前です。

この本を読んで初めて知ったことのもう一つ。今のアラスカ地方は、1763年頃はロシア領だったということ。アメリカがロシアだった・・・というと言いすぎですが、少なくとも北部の一部はロシアが占有していた時期があったということで、米ロ関係ということを考えると、近親者なのかなあと思わざるを得ません。ロシアからすると、お宅のこの辺は250年前はウチだったんだよ、という感じでしょうか。しかも当時はイギリス領とフランス領とスペイン領というものと同列にロシア領があり、アメリカという独立国が存在しない時期です。

上部(北部)左側がロシア領

さて、なぜ南北戦争という同国人での争いが行われたのか。1807年に奴隷貿易禁止法というものが制定されたとのことです。差別禁止という考え方もあったようですが、もっと大きな声はアメリカを白人だけの国にしようという意見であり、そのために黒人をアフリカに返そうという考え方だったようです。そのためにアメリカはアフリカの一角にリベリアという国を作り、そこへアメリカの黒人を引っ越しさせようとしていたようです。みんながみんな同じ考え方ではなく、色んな考え方があって、そのうちの一つではあったようですが。

法制定当時は、多くのアメリカ人が奴隷制は自然消滅するだろうと考えていたとのことです。しかしイギリス産業革命が進展して、アメリカ南部で栽培されていた綿花への需要が増大して、綿花栽培の担い手である奴隷が必須だったため、奴隷制が息を吹き返してしまったということのようです。一方北部は自国で工業化を進めればヨーロッパに高く売れるとばかりに紡績工場を作って木綿をどんどん製造した、ということです。外国から工業製品が安く入ってもらっては困る北部工業地域の人たちは関税を上げようとし、最高税率40%という時期があったそうです。他方南部の人たちは安く輸出したいがために、関税には反対。そんな南北の利害相反が相互の関係を悪化させていったようです。

長らく、南北の上院の人数は、色んな知恵を出しながらうまく妥協して同じ人数になっていたようです。しかし、徐々に北部が、人口では2.5対1、工業生産額では10対1、農場面積で3対1というふうに南部よりも圧倒的に力を持つようになり、国会議員の数も北部が多くなるという状況になり、南部にとって不利益を蒙るような関税率が維持されたようです。その結果、南部にとってこの合衆国にいると損する、という判断が働いたようで、合衆国から離脱し、南部の6州が「アメリカ連合国」という独立国を樹立した、ということです。それに対して時のリンカーン大統領は、アメリカ全土で選ばれたという正当性がゆらぎかねないと自分の立場を維持するために、彼らは反乱分子であり、討伐しなければならない、とばかりに戦争を始めた(戦端を開いたのは南部だったようですが)、というようなことがこの本には書いてありました。

私なりの解釈でつづめて言えば、関税をかけたい人とかけたくない人の意見の相違があり、関税をかけられ続けては困る人たちが「そもそも独立州が集まって連合しているだけなのだから離脱しても構わない」と考えて離脱し、オレの正当性はどうなる!と怒った行政トップがその動きを潰しにかかって始まったのが南北戦争だった、ということのようです。イギリスやフランスは、アメリカが一枚岩ではなく分裂してくれていた方が世界のパワーバランス上は良いとの考えで、南部を応援しようとの思いもあったようですし、南部もヨーロッパは自分たちに味方してくれると期待していたようです。そうこうするうちに、南部の奴隷を解放すれば、北部の戦闘員として使えるという打算もあり、南部地域に対する奴隷解放令を(最初は準備令だったようです)出し、その効果として南部から多くの奴隷が逃げ出して北部の軍に参加し、そんなこともあり、1861年に南部エリア内にある北部の砦を南部が陥落させて始まった南北戦争は丸四年、双方62万人の死者を出して1865年4月に終結したということでした。

しかし驚くべきは、戦死者の3倍の人が戦争中の野戦病院、便所などの不備や不衛生など戦闘以外が原因で死亡したということ。日本が第二次世界大戦でインパールや南洋の島々で戦闘以外で大勢の死者を出したことと同じようなことを、その100年前に彼らは経験していたということ。アメリカは合理的な国だと思っていましたが、合理的になる前に、そういう非人道的な失敗を沢山やってそれを乗り越えてきたということ。その一方で、リンカーンは偉人かも知れないが、黒人を白人と平等だとはまったく考えておらず、差別の対象として見ており、国から出て行ってもらいたいと考えていたこと、つまり奴隷解放は差別撤廃ではなく自分たちだけでこの国を運営していくためにいらない人に出て行ってもらうための前段階の政策であり戦争に勝つための一時しのぎの策だったこと、など知らなったことが沢山ありました。

隣の国なのに知らないことが多すぎます。また勉強しなければ。

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キャッシュレス決済失敗の記(メルカリ/セブンイレブン編)

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年の初めから、今年10月に予定されている消費税率引き上げに伴うキャッシュレス決済・QR決済の普及促進のためのポイント還元やキャッシュレス端末導入補助など、世間ではキャッシュレス決済に関する話題にことかきません。あちこちで事業者向けのセミナーも行われ、経済誌なども特集記事を組んでいます。

私もご多分に漏れず、いくつかの「pay」サービスのアプリをスマホに入れ、銀行口座やクレジットカードとの括り付けを行ったり、現金情報をチャージしたりしたものの、支払の際に「なんとかペイで」というのがなんだか面倒でこれまで使っていませんでした。

しかし先日ある先輩診断士のブログ記事を拝見し、この連休中、メルペイというメルカリの決済手段を使うと50%のポイント還元が行われることを知りました。しかもセブンイレブンでは70%のポイント還元という(還元の上限は2,500ポイント=2,500円相当)大きな還元率とのこと。これは早速やってみなければとメルペイをはじめ、またいくつかの「pay」サービスのアプリをスマホに入れて各種の設定を行いました。

そして今日、勢い込んでセブンイレブンに行き、あれこれ買物をして「支払はメルペイで」と店員さんに告げました。店員さんは慣れたものでバーコードリーダーを私のスマホ画面にかざし、ピッという音はなったのですが、首をかしげて疑念顔。「少々お待ちください」と別の店員さんに相談して帰ってきて仰るには「セブンイレブンではメルペイはまだ利用できません。」との答え。えええっ?と思い、レジカウンターに貼ってある「メルペイ利用できます。70%ポイント還元」という内容のステッカーを指し、「ここに書いてありますが」と言ったところ、「iDの登録をしていただかなければ利用できません」とのお返事。

折角ここまで来て現金払いはしたくないなあと思い、それ以外の「pay」サービスを模索したのですが、私の持っているいくつかの「pay」サービスはセブンイレブンではどれも使えず(交通系ICカードはあるのですが、それを使う新鮮味はないので使用せず)、結局現金払いとしました。

一旦帰宅して調べてみると、今回のメルカリさんのポイント還元施策には、①チャージした現金情報(=メルペイ)またはメルカリで何かを販売して得たポイントを、バーコードを提示して支払する方法と、②スマホのおサイフケータイ機能(iD)を使って上記メルペイまたはポイントの支払いをする方法との2種類があり、セブンイレブンは②のみということのようです。背景には、セブンイレブンが今年(7月頃?)自社の独自仮想通貨を出す予定のため、新しい決済手段に対応するための設備投資や教育などをしないという判断があるのかも知れません。

私のスマホは残念ながらiD機能を持たない古い機種のため、セブンイレブンでのメルペイ支払はできないことがわかりました。しかしバーコード支払は他のコンビニや松屋さんなどでできるということだったので、気を取り直してローソンへ。店員さんに「メルペイで払います」と伝えると最初は戸惑ったような反応でしたが、少しゆっくり説明するとご理解いただけ、「あ、ペイね」とバーコードリーダーを取り出し、決済は無事完了。明日には支払額の50%203ポイントが還元されることでしょう。

 後日譚。支払った金額の50%(端数切捨て)に当たる203ポイントが、今日の午前1:40に還元されていました。早速使おうと思いましたが、今日5月5日はローソンには行かず、ファミマだったため、LINEpayで支払をしました。654円の決済でついたポイントは22ポイント。3%分程度はリターンがあったということになりますね。しかもその後、くじ引きとかいうのがあり(もちろんスマホ上で、ですが)1円当たり喜んでいる有様です。こういうのは当然全て販促費としてLINE会社の収支で見た上でそれでも儲かるようなビジネスモデルなのだろうなあと同社の決算書に思いを馳せているような次第です。

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秘儀・法隆寺の「お会式 逮夜法要」実見録

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何年か前に、宗教学者の島田裕巳さんがラジオ番組で法隆寺の特別な日の話をされていました。
聖霊院(しょうりょういん)の本尊を一年で一回だけ間近で拝むことができる日のことです。

法隆寺正門

聖徳太子は、西暦622年の2月22日に亡くなったそうですが、現在の暦では3月22日とのことで、この日から三日間毎年法要が営まれているそうです。この法要のことを「お会式(おえしき)」と言うそうです。
「お会式」の期間中は聖霊院の本尊などを安置した厨子が開帳されるらしいのですが、厨子の前にはぎょうさんのお供え物が積み上げられているため、ご本尊のご開帳とは言いながら実際には見えないそうです。

法隆寺聖霊院外観

人が亡くなった日は忌日であり、忌日の前日に夜通しで行う法要のことを「逮夜法要」というんだそうで、3月22日の前日3月21日には、この法隆寺聖霊院でも「お会式 逮夜法要」が営まれ、その時に限って法要が営まれた後で一般参詣者も内陣まで入って、開けられた扉の真ん前で本尊を拝むことができる、という話でした。
観光ガイドなどには書いてない話で、よほどの「通」の人じゃないと知られていない話のようで、地元の篤信の方々はそのタイミングをめがけて夕方から徐々に集まってくるのだと言っておられました。

大阪勤務時代に何回も法隆寺を訪れましたが、そういう話は聞いたことがありませんでした。

もう一つ。この日の法要では、お坊さんたちが散華を撒き、参詣者はそれをいただけるという話も知りました。これもなかなか得難い貴重なものです。

法隆寺東院伽藍内

 何年かの準備期間を経て、平成31年(2019年)3月21日、ようやく出かけることができました。
 事前の調査では、午後6時に「逮夜法要」が始まるのですが、夕方から徐々に人が集まるということで、後ろの方に並んでしまうと、折角の散華をいただくことができないということで、我々は意を決して午後4時に入堂。それでも最前列ではなく、2列目になってしまいましたが。
 御簾の手前両サイドには、各地から寄せられたお供え物(麩と大根と人参を切ったもの)が積まれ、内陣は(御簾の真ん中からしか見えませんが)餅や果物や木の実などが沢山積まれていました。
 御簾の上の壁には火の鳥が描かれており・・・。

 待つこと2時間。御簾がシュルシュルと上げられ、やがて、午後6時の鐘が鳴るちょっと前から儀式は始まりました。
 内陣の脇部屋みたいなところに蝋燭が10本ほど立てられており、その蝋燭の炎に照らされたのは神主姿の8人の楽団員。(後ろの人の会話では「楽僧」というお坊さんだそうです)
・琵琶
・大太鼓
・鐘
・琴
・鼓
・笙
・小笛
・横笛
 見事な8人の雅楽団です。

 この楽団がなんとお寺で雅楽を演奏し始めたのです。雅楽団なので演奏するのは雅楽であり、それは当然なのでしょうが、聖徳太子の時代には日本古来の神様と大陸伝来の仏様のどっちをあがめるかということで大きな内戦まで行われていたはずなので(聖徳太子&蘇我馬子vs物部守屋)、意外な感じがしましたが、雅楽=神道ということでは必ずしもなく、昔の日本にはこれらの楽器しかなかったはずであり、仏教寺院で雅楽の演奏が行われるからといってむしろ古いしきたりとしては不自然でも不思議でもないことなのかも知れません。

 彼らが厳かに演奏を始めたかと思うと、右手奥の入口から黒ずくめの僧形が10人。一人、また一人と内陣の畳敷きをゆるゆると歩き、全員が各持ち場に着いたところで一斉に座りました。
 一通り雅楽の演奏が終わり、一息ついたタイミングで左手前に座していたサブリーダー格と思しき僧侶が扇子を立てて読経のようなものを静かに唱え始め、そのあとは全員で読経の合唱。しかし聞いたことのないお経でした。ここの宗派は聖徳宗なので、当然我々が日ごろ聞きなじんでいるようなものではないはずです。

 やがて読経と雅楽演奏の合奏が始まりました。違和感のないハーモニー。

 一旦読経がやんだところで、首座の方が祝詞のようなものを唱え始めました。「ようなもの」であり、もちろん祝詞ではありません。何を言っているのかよくわかりませんでしたが、途中で「秦野川勝に命じ」とか「四天王」とかいう単語が出てきて気がついたのですが、要は聖徳太子の事跡の紹介だったようです。
 個人の遺徳を称えるという役割をこのリーダー僧侶が担っているということなのでしょう。推古天皇を支え、遣隋使を正史として派遣したり冠位十二階や十七条憲法など色々な制度を立ち上げた一方、この国の仏教興隆に大きな貢献をなさった・・・・というようなことを語り、感謝の意を表しておられたのでしょう。あと2年で、亡くなってから1400年も経過するというのに、このように長い間法要で事跡が読み上げられ、感謝され続けるというのは、本当にすごいことだと今さらながら感じ入りました。

 その後クライマックスの読経が始まりました。10人の僧侶と8人の楽団員全員参加の大合奏。
 とてもユニークで実に聞き応えがありました。何がユニークかと言うと、読経の途中で突如女性のような声で経を謡う部分があることです。極めて高いソプラノのようなキーで、まるで裏声で歌っているような、と思ったら一気にオクターブが下がって男の野太い声に戻り、また女性声になり瞬時にまたテノールになるというジェットコースターのような音域の上がり下がりがあり、合奏もそれに連れて上がったり下がったり、こんな世界があるんだなあと驚きつつ聞き入っていました。

 散華は読経の途中に、僧一人につき3~4枚程度方々に撒いており、最前列の人の前にもヒラヒラと舞い降りていました。後からいただくものかと思っていたら、目の前に落ちた散華をさっと拾い上げ、自分の手提げに納める最前列の人々。ははあ、そういう風にするんだね、と感心。
 読経の合間に、自分で撒いた散華を拾い集めて懐に仕舞い込む僧侶も。ええええええっ?と思いましたが、声に出すこともできず。

約1時間の法要が終了した段階で、係のお坊さんが声をかけられ、前の方から順番に内陣の中へ、左回りにお進みください、ってな感じで案内していただき、我々も内陣の中に入らせてもらいました。
幸い散華もいただくことができ、内陣の中にある3つの厨子の秘仏も一通り拝ませていただくことができました。
左の厨子には如意輪観音像、聖徳太子の息子の山背大兄王像、聖徳太子の弟の殖栗王(えぐりおう)像、右の厨子にはこれまた不思議なことに地蔵菩薩像、聖徳太子の兄弟の卒末呂王像、聖徳太子の仏教の師匠だという恵慈法師像が安置されています。そして中央の厨子には眉の吊り上がったちょっとキツめのお顔の聖徳太子像。摂政としてのお姿だという説や勝鬘経(しょうまんぎょう)を講じている姿だという説があるようです。

法隆寺の散華の一つ

富山県くんだりから容易には参加することのできない貴重な体験をさせてもらうことができました。

法隆寺五重塔夜景
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デレク・シヴァーズ氏のTEDトーク「ファーストフォロワーのリーダーシップ論」

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先日、あるビジネスプランコンテストを聞きに行ってきました。

その会場でリーダーシップについて短い動画を見せながらのプレゼンがありました。後から聞くと、デレク・シヴァーズという人が「社会運動はどうやって動かすか」というテーマで行われたTEDトークでの動画だということでした。

http://digitalcast.jp/v/12412/

内容は、ある奇妙な踊りをしている人物がいて、周囲の人々がそれを奇異な目で見ているのですが、そのうち一人の人物がその奇妙な踊りの人物に近づいていき、同じ踊りを踊り出し、そのうち三人目がやってきて二人目から踊りを教わり、さらにそこから大勢の人が踊りの輪に加わっていき、一つの運動体になってしまうという動画です。

デレク・シヴァーズ氏は、リーダーシップで大事なのは最初のフォロワーだと言っています。そしてリーダーは最初のフォロワーたちを対等に扱うことが重要だとも言っています。

この動画を見て思ったのは、幕末の長州藩で幕府への(長州征伐に対する)恭順が議論の大勢を占めていた時に高杉晋作が一人立ち上がり、功山寺で挙兵をした時に真っ先に駆け付けた「ファーストフォロワー」は、彼が創生した奇兵隊ではなく(奇兵隊の当時の指揮者だった山形有朋たちは反対して最初は動かなかったとか)、伊藤博文が率いる力士隊など数隊に過ぎなかったという逸話です。高杉晋作と伊藤博文らはその後快進撃を続け、徐々に他の諸隊もそれに続き、遂には藩論を覆した、ということだったと思います。高杉晋作一人だけが暴れ回っても到底そういう事態には至らなかったのではないか、ファーストフォロワーの伊藤博文たちがいてこそ、はねっかえりの行動が回天の偉業にまで至ったのだ、という話だったと思います。

私たちにプレゼンをされた方は、その動画を、ある時ある自治体の職員に見てもらったそうです。その自治体の首長が新しいことに取り組もうとした時に、首長を「裸の王様」にするもしないも、職員の何人かが支えるかどうかにかかっていますよ、ということを伝え、支えないと改革は成し遂げられないのではないか、まず皆さんがファーストフォロワーになってこの自治体を良くしていく原動力にならなければならないのではないか、と伝えたそうです。

これは、やりようによっては動きに加わらない人を排除・差別・懲罰の対象にすることにつながったりする可能性もあり、ある意味危険なことではあります。特に忖度や空気が支配する日本では起こりがちかも知れません。しかしうまく運んだ事例で考えると、ホンダの本田宗一郎氏に対する 藤沢 武夫氏であったり、ソニーの井深大氏に対する盛田昭夫氏であったり 、三国志の劉備に対する関羽と張飛であったりするのではないかという気もします。そういう支えがあったればこそ、天才が活きるのではないか、つまりリーダーシップはファーストフォロワーのフォロワーシップとリーダーによる差別しない接し方が大事、そして、また、輪に加わらない人たちに対しても彼らの価値観を尊重して排除・排斥しない包容力も大事なのではないかな、などと考えさせられました。

ご興味のある方は上のサイトをご覧になってみて下さい。

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