チャールズ・オライリー他『両利きの経営』コロナ下で・・・。

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日本で出版されたのは2019年2月、ということで既に2年前になりますが、今も読み続けられているベストセラーとのことで、仲間内での課題図書に取り上げました。内容は富士フイルムやアマゾンなどの大企業の成功事例・失敗事例を中心に分析し、理論化したものですが、聞けば中小企業の経営者の方々も読んでおられる由。私たちの事業領域である中小企業の経営者に何か助言できるとすれば、どのような洞察が得られるだろうかと思いながら読み進めました。

『両利きの経営』チャールズ・A. オライリー、マイケル・L. タッシュマン (著)、東洋経済新報社

一般に経営資源に乏しい中小企業は事業領域を絞り込み、絞り込んだ領域でナンバーワンとなるよう経営資源を集中することで、大企業に入り込めないニッチで勝負すべし、というようなことを言います。ランチェスターの第一法則がまさにそれで、一点集中主義、局地戦、一騎打ち戦、などと言われています。しかし世の中はどんどん変化しており、顧客も変化し続けていることを考えると、今の顧客に今の組織能力で商品・サービスを多少改善しながら提供しているだけでは、いずれ他社に巻き取られてしまうという危険性がつきものです。どこからどうやって破壊的イノベーションがやってくるか予測することは難しいですが、市場環境の変化を注意深く見、顧客の声に注意深く耳を傾けていれば、ある程度は対応できるはずです。

しかしそれでもある日突然売上が激減するということもあり得ます。それに備えて日頃から、自分たちがわかっていること以外の市場や技術にも目を向けて、テストマーケティング的に「探索」をしていく必要があるのではないか、というのがこの本を読んでの私なりの見え方です。中小企業の場合、お金や人などの経営資源の使い道を決めることができるのは、ほぼ社長だけといっても過言ではないと思います。しかも、誰がその新規事業に取り組むのか、取り組めるのか、については、ほぼ社長だけ、といった中小企業が多いのではないかと思います。社長の肝煎りで後継者が、とか、特別に採用した人が、ということはあると思いますが。

とは言え、使える経営資源は極めて少ないわけで、例えば本体事業までをも毀損するくらいの資金をつぎこむようなことは避けなければなりません。ドラッカーが言うように「すべての失敗は経営者の責任」です。となるとどうするか。ユニクロがかつて野菜販売を行ってうまくいかないと判断して撤退した際には、あらかじめ撤退ラインを決めていたそうです。経常利益の何パーセント、とか、上限いくらまで、という風に決めておくことが大事です。しかし人間、特に叱責を受けることのない立場の人は、自分は間違っていない、もう少しこのままやればなんとかなるんではないか、といった「正常性バイアス」の罠に陥る危険性があります。正常性バイアスの有名な例は第二次世界大戦の時のインパール作戦だと言われています。(『失敗の本質』などに詳しく書かれています)

中小企業の経営者に注意する人はあまりいません。取締役会メンバーも株主も家族・親族であることが多く、ガバナンスが利きにくいと言います。頭でわかっていても、始めた以上やめられないし、経営者としての沽券にかかわる、ということでしょうか。そうした場合、第三者が冷徹な目で「社長、ちょっと行き過ぎていますよ」と言ってお止めすることも必要です。そういう役割として中小企業診断士などの外部専門家と顧問契約をする企業もあるようです。

中小企業の利点は、大企業のように、「戦略的な重要性が高いか低いか」「本業の資産の活用度が高いか低いか」といったような判断基準を用いて、幹部間で合意をして「探索ユニット」に色々なことをやらせるとか、「内部に矛盾をはらんだ探索ユニットと深化ユニットを共存させるために抱負や価値観や結束力のためにトップリーダーがリーダーシップを発揮しなければならない」といった苦労をそれほどしなくても、自分の判断で意思決定できることではないかと思います。

他方で活用できる経営資源がほとんどないため、自分自身が中心になって、本業もやりつつ新しいこともやらなければならないという物理的制約が大きい点が弱点ではあります。論理的な分析や理由づけに時間をかけなくて良い分、また、何が結果的にうまく行くかわからないということもあり、思いつきに近いことでのチャレンジも許容されるかも知れません。思いつきに近い取組みでも効果を早いサイクルで確認していくため、OODAループと言われる試行錯誤の手法や、そのためにMVPと呼ばれる必要最小限の試作品を市場に出して市場の反応を見ながら並行して商品のレベルアップを図っていくといったやり方も必要なのだろうと思います。そのためには、世の中のトレンド、これから世の中が進む方向性、などについて外部専門家の知見に耳を傾けることも必要だと思います。

また、業況の厳しい赤字企業の場合はどうすべきか、といった難題もあります。もし資金を一時的であれ調達できる見込みがあるのであれば、補助金を活用して資金リスクを軽くして新しいことに挑戦するという方法もあります。折しも今、新型コロナウイルスが猛威を振るっている中で、国がものづくり補助金や小規模事業者持続化補助金を通年で募集していますし、また、この3月には「事業再構築補助金」という新しいメニューも出されるとのことです。いずれも厳しい審査があるため、応募すればお金がもらえるというものではありませんが、厳しい状況にある中小企業も、そういう支援メニューも活用して、自ら変化することにチャレンジしていただきたいですし、そういう経営者の方々を応援していきたいと思っています。

中小企業診断士 中陳和人のホームページはこちら⇒ https://www.nakajinkazuto.com/

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『フランクリン自伝』からの抜き書き

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正岡子規の『病床六尺』を見ていたら子規が死の二週間程前にフランクリンの自叙伝について、文字が小さいことと体力が相当落ちている状態のために「三枚読んではやめ、五枚読んではやめ、苦しみながら」読んだにもかかわらず、「得たところの愉快は非常に大なるもの」で「何とも言はれぬ面白さであった」と書き記していました。子規が死の直前まで前を向いて生きていたことに感銘するとともに、ベンジャミン・フランクリン(1706~1790)という人と真面目に向き合ってみようと思ってこの本を求めました。本をひもとく中でごく最初のあたりのページにこれまで出会ったことのない考え方に触れ、これは面白いと思い、全体的に抜き書きをしてみました。あくまで個人の感想ですが、FBとTwitterで投稿した内容を再録しておきます。なお1902年の今日9月19日は子規の命日とのことです。

岩波文庫『フランクリン自伝』表紙

私は他人の自惚れに出逢うといつもなるべくこれを寛大な目で見ることにしている。自惚れというものは、その当人にもまたその関係者にも、しばしば利益をもたらすと信ずるからである。(フランクリン自伝p9 2020.8.15)

議論好きという性質はともすると非常に悪い癖になりやすいもので、この性質を実地に生かすとなると、どうしても人の言うことに反対せねばならず(中略)談話を不快なものにしたり、ぶちこわしたりしたしまうほかに、あるいは友情がえられるかも知れない場合にも不愉快な気持ちを起させ、恐らく敵意をさえ起させる(フランクリン自伝p27 2020.8.16)

私はトライオン式の料理法を習い覚え、馬鈴薯や米を煮たり、早作りプディンをこしらえたり、その他二、三種類の料理ができるようになったので、私の食費として毎週払っている金の半分をくれるなら、自分は自炊をしたいがと兄に申し出た。兄は早速承知した。そこでやってみると、まもなく兄のくれる金が半分は残ることが分かった。この残った金は本を買う足しにした。(フランクリン自伝p30 2020.8.17)

飲食を節するとたいてい頭がはっきりして理解が早くなるもので、そのため私の勉強は大いに進んだ。(フランクリン自伝p31 2020.8.18)

クセノフォンの『ソクラテス追想録』を求めたところ、その中にこの論争法の例が沢山出ていた。私はすっかり感心して、いきなり人の説に反対したり、頑固に自説を主張したりする今までのやり方を止め、この方法に従って謙虚な態度で物を尋ね、物を疑うといった風を装うことにきめた。(フランクリン自伝p32 2020.8.19)

談話の主要な目的は、教えたり教えられたり、人を喜ばせたり説得したりすることにあるのだから、ほとんどきまって人を不快にさせ、反感を惹き起こし、言葉というものがわれわれに与えられた目的、つまり知識なり楽しみなりを与えたり受けたりすることを片端から駄目にしてしまうような、押しの強い高飛車な言い方をして、せっかくの善を為す力を減らしてしまうことがないよう(後略 フランクリン自伝p33 2020.8.20)

人に物を教えようとする時に、押しの強い独断的な言い方で自分の考えを述べたのでは、人は反対しにくい気持になって素直には聞いてくれないだろう。また他人の知識から教えを受けて賢くなりたいというのに、しかも現在の考えを固執するようなことを言っては、議論を好まぬ謙遜で思慮のある人なら、おそらく間違っていてもそのままにしておいて直してはくれないだろう。(フランクリン自伝p33 2020.8.21)

人は金を沢山持っている時よりも少ししか持っていない時のほうが、気前のよいことがあるものだ。多分文なしだと思われるのがいやだからであろう。(フランクリン自伝p47 2020.8.22)

理性のある動物、人間とは、まことに都合のいいものである。したいと思うことなら、何にだって理由を見つけることも、理窟をつけることもできるのだから。(フランクリン自伝p67 2020.8.23)

私は鋳型を考案し、手もとにある活字を打印器に使って鉛に字を打ちこみ、こうしてかなり上手に足りない活字を揃えたものだ。また時にはいろいろなものを彫りもしたし、インキも作れば、店番もしたし、その他何でもやった。つまり、万屋だった(フランクリン自伝p101 2020.8.24)

私は人と人との交渉が真実と誠実と廉直とをもってなされることが、人間生活の幸福にとってもっとも大切だと信じるようになった。(フランクリン自伝p108 2020.8.25)

私は有能な知人の大部分を集めて相互の向上を計る目的でクラブを作り、これをジャントーと名づけて、金曜日の晩を集まりの日にしていた。(中略)会員はすべて順番に倫理・政治ないしは自然科学に関するなんらかの点について少なくとも一つの問題を提出し、仲間の討論にかけることになっていた。(フランクリン自伝p112 2020.8.26)

議論のために議論するとか、相手を言い負かすために議論するとかではなしに、真理探究という真面目な精神で行うことになっており、(中略)議論が喧嘩腰になるのを避けるために、独断的な言い方や真向から反対するといったことは一切禁制となり、それを破る者には小額の罰金を課することにした。(フランクリン自伝p112 2020.8.27)

自分の勤勉ぶりを事こまかに、また無遠慮に述べたてるのは、自慢話をしているように聞こえもしようが、そうではなくて、私の子孫でこれを読む者に、この物語全体を通して勤勉の徳がどのように私に幸いしたかを見て、この徳の効用を悟ってもらいたいからである。(フランクリン自伝p116 2020.8.28)

何かある計画をなしとげるのに周囲の人々の助力を必要とする場合、有益ではあるが、自分たちよりほんのわずかでも有名になりそうだと人が考えやすい計画であったら、自分がその発起人だという風に話を持ち出しては、事はうまく運ばない。(フランクリン自伝p150 2020.8.29)

何かある過ちに陥らぬように用心していると、思いもよらず、他の過ちを犯すことがよくあったし、うっかりしていると習慣がつけこんで来るし、性癖のほうが強くて理性では抑えつけられないこともちょくちょくある始末だった。(フランクリン自伝p156 2020.8.30)

第一 節制 飽くほど食うなかれ。酔うまで飲むなかれ。

第二 沈黙 自他に益なきことを語るなかれ。駄弁を弄するなかれ。

第三 規律 物はすべて所を定めて置くべし。仕事はすべて時を定めてなすべし。

(フランクリン自伝p157 2020.8.31)

第四 決断 なすべきことをなさんと決心すべし。決心したることは必ず実行すべし。

第五 節約 自他に益なきことに金銭を費すなかれ。すなわち、浪費するなかれ。

第六 勤勉 時間を空費するなかれ。つねに何か益あることに従うべし。無用の行いはすべて断つべし。

(フランクリン自伝p158 2020.9.1)

第七 誠実 詐(いつわ)りを用いて人を害するなかれ。心事は無邪気に公正に保つべし。口に出だすこともまた然るべし。

第八 正義 他人の利益を傷つけ、あるいは与うべきを与えずして人に損害を及ぼすべからず。

第九 中庸 極端を避くべし。たとえ不法を受け、憤りに値すと思うとも、激怒を慎むべし。

(フランクリン自伝p158 2020.9.2)

第十 清潔 身体、衣服、住居に不潔を黙認すべからず。

第十一 平静 小事、日常茶飯事、または避けがたき出来事に平静を失うなかれ。

第十二 純潔 (前略)これに耽りて頭脳を鈍らせ、身体を弱め、または自他の平安ないし信用を傷つけるがごときことあるべからず。

(フランクリン自伝p158 2020.9.3)

第十三 謙譲 イエスおよびソクラテスに見習うべし

私はこれらの徳がみな習慣になるようにしたいと思ったので、同時に全部を狙って注意を散漫にさせるようなことはしないで、一定の期間どれか一つに注意を集中させ、その徳が修得できたら、その時初めて他の徳に移り、こうして十三の徳を次々に身につけるようにして行ったほうがよいと考えた。(フランクリン自伝p159 2020.9.4)

古くからの習慣のたえまない誘引や、不断の誘惑の力に対してつねに警戒を怠らず、用心をつづけるには、頭脳の冷静と明晰とが必要であるが、それをうるにはこの徳が役立つ。(フランクリン自伝p159 2020.9.5)

知識は、人と談話する場合でも、舌の力よりはむしろ耳の力によってえられると考えたので、下らない仲間に好かれるようになるにすぎない無駄口や地口や冗談などに耽る習慣(それが私の癖になりかけていた)を直したいと願った。そこで沈黙の徳を第二においた。(フランクリン自伝p159 2020.9.6)

多くの人の場合、(中略)私が用いたような方法を知らないために、このほかの徳不徳の点でよい習慣を身につけ、悪い習慣を破ることの困難に出会うと、これと戦うことを断念し、「所々しか光っていない斧が一番いい」と結論を下してしまう。(フランクリン自伝p168 2020.9.7)

私が作った徳目の表は最初は十二項目しかなかった。ところが、クェーカー教徒の友人が親切に言ってくれたのだが、私は一般に高慢だと思われていて、その高慢なところが談話のさいにもたびたび出て来る。何か議論するとなると、自分のほうが正しいというだけでは気がすまないで、おっかぶせるような、むしろ不遜と言ってもいい態度があるとのことで(中略)、できればこれを直したいものだと考え、謙譲の徳を表に加え、その語に広い意味を持たせた。(フランクリン自伝p172 2020.9.8)

会計の知識があれば、悪賢い男に欺されて損をすることもなくてすみ、子供が一人前になってその後をついでやれるようになるまで、従来の取引関係をつづけて恐らく利益のある商売を営むこともでき、けっきょくいつまでも一家の利益、繁昌のもとになる。(フランクリン自伝p183 2020.9.9)

他人の敵意のある行動を恨んでこれに返報し、敵対行動を続けるよりも、考え深くそれを取りのけるようにするほうがずっと得なのである。(フランクリン自伝p190 2020.9.10)

組合経営(※)というものは喧嘩別れになりがちのものであるが、私の場合は幸いなことにすべて円満に経営され、円満に終わったのである。これは私が予め用心して、喧嘩の種が一つもないように、各当事者がなさなければならぬこと、ないしはしてほしいことを残らず明瞭に契約書中で取り決めておいたのによるところが多いと思う。(中略)契約当時には当事者同士がお互にどんなに尊敬と信頼を持っていたにしても、仕事の上の心配や気苦労などが不公平だという考えが起ると、それにつれてちょっとした妬み心や嫌気が頭をもたげ、そんなことから友情にひびが入り、せっかくの組合関係もだめになって、訴訟沙汰やその他の面白くない結果に終わることがよくある。(フランクリン自伝p203 2020.9.11)※投稿者注:今日私たちが認識している「組合」と同義ではない可能性があります。(共同代表の株式会社みたいなものかも)

あらゆる他の宗派は、真理はすべて自分にあるものと考え、自分と異るものがあれば、異るほうが誤っていると考えている。それはちょうど霧の日に道を行く旅人に似ている。少し先を行く人々も、後から来る人々も、また左右の野原にいる人々も、すべて彼には霧に包まれているように見え、自分も他の人々と同様やはり霧に包まれているのに、ただ自分の周りだけが明るく見えると思いがちなものである。(フランクリン自伝p216 2020.9.12)

人間の幸福というものは、時たま起るすばらしい幸運よりも、日々起って来る些細な便宜から生れるものである。(フランクリン自伝p237 2020.9.13)

私が見てきたところでは、理窟屋で反対好きで言葉争いに耽るような連中は、多くは仕事の方がうまく行かないようだ。彼らは勝つことはある。しかし、勝利よりも役に立つ、人の好意というものをうることは決してないのだ。(フランクリン自伝p244 2020.9.14)

怠けているところを自分自身に見つけられるのを恥じよ。(中略)なさねばならぬことが山ほどある以上、夜が明けるとともに起き出すことです。太陽に見下ろされて「恥知らず。ここに横たわる」と言われるな。(フランクリン自伝p323 2020.9.15)

あなたの力が足りないという場合も、あるいはおありのことでしょう。ですが、そうであったにしても、着実に仕事をおつづけになることです。そうなされば、きまって大きな効果が上るものなのです。(フランクリン自伝p324 2020.9.16)

力は勇気ある者に、至上の幸福は有徳の士に、学問は勉強家に、富は用心深い者に授かる。(フランクリン自伝p326 2020.9.17)

つねに注意深く、用意周到であれ、どのような些細な事柄についても。時に、わずかな怠りでも、大きな災いを招きかねない。釘が一本ぬけて蹄鉄がとれ、蹄鉄がとれて馬が倒れ、馬が倒れて乗っていた者が命を落とした。(フランクリン自伝p327 2020.9.18)

儲けはいっときのことで定めないものであるのに、出銭は生涯つきまとう変りないものですし、「かまど二つを築くは易く、かまど一つに火を絶やさぬは難し」です。(フランクリン自伝p336 2020.9.19)

経験の経営する学校は月謝が高い(フランクリン自伝p337 2020.9.19)

番外編①(『フランクリン自伝』の翻訳者・松本慎一氏による昭和12年5月の解説より)

フランクリン自伝は、明治中期以来わが国の青年の愛読書(フランクリン自伝p352 2020.9.19)

フランクリン自伝は世界自叙伝文学中の古典としてきわめて広く読まれ、刊行後約一世紀の間に、英米のみにても版を重ねること幾十百版に及び、今日においてもその需要を絶たない(フランクリン自伝p353 2020.9.19)

彼が書き終えたのは計画の半分ぐらいに止まり、その活動のもっとも花々しかった晩年の三十年間には及びことができなかった。(フランクリン自伝p354 2020.9.19)

カール・マルクスは新大陸における最初の偉大な経済学者としてフランクリンに敬意を払っている。(フランクリン自伝p355 2020.9.19)

フランクリンはワシントンよりもリンカンよりも、より多くアメリカ資本主義の育ての親である。アメリカを理解するためには、フランクリンを知ることが、少なくとも甚だ有益だと思われる。(フランクリン自伝p356 2020.9.19)

番外編②(『フランクリン自伝』の翻訳者・西川正身氏による昭和31年8月のあとがきより)

フランクリンの自伝は、単に「優れた人生教科書」であるだけでなく、「アメリカ資本主義の揺籃史」として、アメリカ研究者にとって必読の書なのである。(フランクリン自伝p363 2020.9.19)

フランクリンは「アメリカ資本主義の育ての親」であったが、フランクリンをその面から見て行こうとする者にとって、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は必読の書である。同書には、「若い商人に与える忠告」をはじめ、フランクリンからの引用、彼への言及がそこここに見当たる。(フランクリン自伝p367 2020.9.19)

なお、この本を読んで初めて、当時のアメリカがヨーロッパの植民地であり、植民地であったということは領主様がいてヨーロッパ本国から色々課税指示が来て、でも現地の人たちは議会を作って抵抗したり、その一方で先住民と戦争をしたり先住民の人たちに自分たちの代理戦争をさせたりという、アメリカ独立前の人々の営みを、知識として知ることができました。

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塩野七生さんの『ローマ人の物語』

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塩野七生さんの『ローマ人の物語』文庫版全巻をようやく読み終えました。平成14年の刊行から丸18年をかけての通読となりました。元々ハードカバー版の第1巻が刊行されたのが1992年(平成4年)で最終の第15巻が2006年ですから、著作仕事自体も14年がかりでの大仕事です。

元々塩野さんの著作は学生時代に求めた『神の代理人』や『ルネサンスの女たち』『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』あたりから親しんでいたので、『ローマ人の物語』が出た時も書店で何度かページをめくりつつ、あまりに分厚いので購入には至らず、文庫版が出た時には躍り上がって喜んで買い求めたものです。

全編にわたり、過去の様々な記録や遺物をなぞって歴史の経緯・叙述を記しつつ、都度ご自身の推論も提示しながら読者に示す書き方となっており、何が記録で何が自身の考えかを区別しながら読み進めることができました。これは塩野さんの書き方の特徴であろうと思います。

ローマ皇帝というのは絶対君主のような印象を学生の頃は持っていましたが、この本を読んで初めてわかったのは、まったくそうではなく(歴代の皇帝にもよるようですが)、基本的には元老院という貴族(これも固定的ではなく新規参入貴族もあったようです)たちが承認するという手続きがあったこと、世襲とは限らず現皇帝の甥や信頼のおける部下に引き継いだこともあり、クーデターでの交代もあった(にもかかわらず皇帝という制度はそのまま)、というバラエティに富むあり方だったことです。ずっと後の時代にはローマ教皇が戴冠するという風に変わっていったようですが。

この本の私にとっての圧巻は、ハンニバル、カエサル、そして西ローマ帝国の滅亡のあたりです。

ハンニバルについては、文庫第4巻「ハンニバル戦記(中)」にある次の文章に、リーダーとはかくありたいと思わせる一文があります。「全軍を休ませるに足る宿営地の設営など、考えるだけでも無駄だった。山岳民が使う避難所や要塞に出あえば、神々の恵みとさえ思えた。多くの夜は陣幕を張る場所さえ見つけられず、それらを身体に巻きつけて風と寒さを防いだ。たき火は燃やしたが、暖をとるまでは不可能だった。総司令官のハンニバルも、一傭兵と同じく凍りついた食をのどに流しこみ、一傭兵と同じに崖下で仮眠をとった。だが、彼にだけは、一兵卒ならば考えなくてもよい種々のことを考え、情況に応じた判断を即座にくだす必要があった。」

欧米諸国では「ハンニバルが来るぞ」というのは子どもを怖がらせるための親の脅し文句で、日本での「鬼さんが来るぞ」というのに近いようなニュアンスがあるそうです。食人鬼のような恐ろしさをこめられているように思いますが、実際のハンニバルは将兵とともに起居し、将兵と同じ苦労をし、将兵に混じって仕事をしていた(但し戦略は自身で練っていた)、というある種理想的なリーダーだったのではないかと思います。戦後のある時のローマの将軍スキピオとハンニバルの邂逅シーンも優れた叙述だと思います。

カエサルについては、絶対君主を目指した横柄な人物でエジプトで女王と結婚し挙句は側近に裏切られて衆人環視の中で殺害された、という印象がこの本を読む前の私のイメージでした。しかしこちらもとんでもない誤解だった・・・事実の一部はあっていたのでしょうけど・・・ということがわかりました。なにせハードカバー版で2冊にも及び、文庫版では6冊にもなる、全巻通じて最もページ数を多く割かれた、超痛快な人物です。(捕虜として捕らえられた時の態度が刮目に値します。ある意味「犬のディオゲネス」が奴隷として売られた時のような潔さに通じるような) のみならず、塩野さんはよほどカエサルが好きなのか、皇帝の失政が見られるたびに(と言っては大げさですが)「カエサルだったら」とか「カエサルがもしいたら」みたいなことを後々までずっと書いておられます。

最後の43巻は蹂躙される自分たちの街に住む人々の惨状に思いを致し涙なしでは読めませんでした。しかし、塩野さんのこの本を通じて学んだことは、ものごとは一方からだけ眺めるのではなく、相手の側の目線も必要であるということで、攻める側からはまったく異なる(悲劇ではない)風景が見えていたのだろうなあとも思います。現場で当事者としてその被害にあっていない立場だからこそ取りうるスタンスなのでしょうけど。ただ、現代ではとても直視できない光景です。フレデリック・ラルー氏の『ティール組織』にある「レッドのパラダイム」だということを前提に置かないととてもではないですが。(私たちは既にそのパラダイムは超克しているはずです)


476年に西ローマ帝国の皇帝が廃されて以降のイタリアは、故地回復という名の下に思いつきのように戦いを仕掛ける東ローマ帝国皇帝といわゆる蛮族の平和的支配と劫掠の中でボロボロに疲弊していく旧西ローマ帝国の人々。特にミラノの惨状は目を覆うばかり。食糧生産はできず水道網は市民を救済するという目的での戦闘のために破壊されるなど、戦争は文明と一般の人々の暮らしと心を崩壊させることは間違いないことはよくわかりました。
フレデリック・ラルー氏の『ティール組織』にある「レッド・パラダイム」がそれよりも上位概念であるはずの「アンバー・パラダイム」を打ち負かしたということなのか、はたまた。粗野が往々にして文明に勝ることもあるということの証拠なのでしょうか。
アッティラが東ヨーロッパに攻め入ってきて押し出される形でフランクやらゴートやらが東西ローマ帝国を襲うのですが、そもそもその背景にあったかもという気候変動については塩野さんは触れられておらず。「人の歴史」として描かれたので自然現象は思索の対象外ということだったのかも知れません。最後に泣きを見るのはいつも一般市民です。
長い月日の中で蛮族と言われた人々は少しずつローマ帝国に(軍隊を中心に)取り込まれ融合していき、その中でかの文明のもろさや弱さを学習し、攻めどころを理解し、中に入ったり外から攻めたりしながら、最後は砂の城が崩れるようにポロポロと崩壊していった感じがします。
とは言えキリスト教会は存続し蛮族と言われた人々もヨーロッパのあちこちに住まいし、また帝国を逃れて海辺に行きやがてヴェネツィアとして千年の栄光を誇る人たちもいたり、やがて元々同一国だったはずのヨーロッパの人々が東ローマ帝国を蹂躙しコンスタンチノープルを崩壊させたりと、歴史はまだまだ続きます。

塩野七生さんの著作の一部

ともかく、長い間一つのテーマで楽しい読書をさせていただきました。塩野七生さん、ありがとうございました。

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世界的な感染症の流行とその後の世の中の変化について考える~映画「フェアゲーム」、書籍『株式会社の終焉』など~

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2020年初頭から新型コロナウイルス感染症「COVID-19」が猛威を振るっています。ワクチンの開発や治療薬の治験などが医学関係者の皆さんの間で懸命に取り組まれているものと思いますが、現時点ではまだこれといった具体的なものが見えていません。そのため、いつ収束又は終息するのかが見えず、私たちの生活は大幅に制約を余儀なくされています。

3年半ほど前に経済学者の水野和夫さんがお書きになった著書に『株式会社の終焉』という本があります。その中で著者はグローバル資本主義の限界を捉え「地球はいずれ閉じる」「21世紀の原理は『よりゆっくり』『より近く』『より寛容に』である」と主張しておられます。「20世紀の『技術の時代』は17世紀の『科学の時代』からの累積の上に築かれた」「今なすべきことは、21世紀はどんな時代化をまずは立ち止まって考えることです。走りながら考えると、過去4世紀間の慣性、すなわち『より速く、より遠く、より合理的に』が働いて、ITを切り札にした第4次産業革命にすがることになります。」と。

オンライン授業やオンライン会議、オンライン相談など、ネットを通じて会うというやり方が増えてきました。また、学校を9月入学に変更してはどうかという議論も再び始まりました。今まで4月生まれの人とと10月生まれの人が同じ学年だったものが、そういう風に大きく制度を変えると学年が別になってしまうかも知れず、また会社の入社時期はどうするのか、先生方の人事異動は、予算との関係は、私立学校の経営は、その他その他検討しなければならない課題が山ほどあります。しかし世界では米国をはじめ多くの国がそのようにやっているとなれば、ある意味業界標準みたいなものであり、合わせる不都合と合わせない不都合の比較みたいなことも考えてみる価値はあるのかも知れません。

先日一部の政治家の方々がColaboという団体を訪問した時のことが話題になっていました。後でその団体の方が抗議文を公開しておられ、一読しましたが、とても理路整然としてわかりやすく、どの行為やその背景となる思いのどこに問題があるのかが丁寧に記載してありました。私たちは勘違いしているのかも知れません。どちらが偉いのか。そういう問題ではなく役割なんだということを。例えば、極端な言い方をすれば、政治家は農家や工業生産者などと違って財を生み出しません。もちろん資本家の方もおられますが。財を生み出さないということはある意味「生産性がない」と言い換えても良いかも知れません。私たちが汗水たらして働いて稼いだお金の一部を税金として税務署に渡し、政治家はそのお金で生活をしておられるのですが、その自覚がどこまであるのか。私たちも彼らに投票して選んで税金を払って私たちの代弁者として雇っているという自覚がどの程度あるのか。選ばれし偉い人たちなのだと勘違いしているのではないでしょうか。

そのことが見えてきたのは、今回のコロナウイルス感染症で、傷ついた多くの人たちが求めている生活費や事業の固定費などのカバ-を国に求めているのに、あたかも「誰に与えてあげようか」という姿勢が一部に見られ、私たちがそのおかしさに気づき、誰かが「そもそも税金を納めたんだからこんな時ぐらい少し返して下さい」という言い方をして、それに対する共感が広がったということがあるのではないかと感じています。

国がおかしな動きをしたらちゃんとそれをおかしいと言えること。これは民主主義の大事な要素だと映画「フェアゲーム」は示唆しているように思います。ナオミ・ワッツさんとショーン・ペンさんが主役を演じており、ショーン・ペンさんが映画の終盤で講演している中で次のようなことを言っています。「ベンジャミン・フランクリンが独立宣言の草稿を書き、表へ出ると女性が近づき尋ねた。『フランクリンさん、どんな政体になりますか?』フランクリンは答えた『共和制です。守り通せるなら』・・・一人一人が国民としての義務を忘れない限り、道路の穴の報告も、一般教書の嘘を追求することも、声に出せ、質問するんだ。真実を要求しろ。民主主義は安易に与えらればしない。だが我々は民主主義に生きる。義務を果たせば、子どもたちもこの国で暮らせる。』実話に基づいた映画ですが、これがつい十数年前の出来事だと知り、驚くとともに、さすが民主主義の本家だなと感じました。

水野和夫さんと山口二郎さんの共著に『資本主義と民主主義の終焉』という本があります。この中で山口二郎さんが米国のハーバード大学教授のスティーブン・レベツキー氏とダニエル・ジブラット氏の共著『民主主義の死に方』の一節を紹介しており、「独裁の兆候として『審判を抱き込む』『対戦相手を欠場させる』『ルールを変える』の3つがあると指摘している」と書いておられます。今回のコロナウイルス感染症が収まったあと、人と人との接し方や社会の仕組み・当たり前が変わっているかも知れません。しかし、水野和夫さんはこの著書で最後に仰っています。「資本主義は終焉しても、民主主義は終わらせてはいけない」

私たちが「声に出さず」「質問しない」間に、大事なものを失ってしまわないよう、この大変な時にもしっかり意識をしていくことが大事なのではないだろうかと思います。外国の話ではありますが、フランクリンが「守り通せるなら」と言ったということを肝の銘じておきたいと思います。そしてこの世界中に猛威を振るっているウイルス禍の後、分断やヘイトで他人と自分を分かつのではなく、他の人に対してもう少し親切に穏やかに接することが多くなるような、あるいは、少しでも企業が利幅を大きくするために低コストで生産できるところから仕入れるというグローバルサプライチェーンが見直されて地産地消のような動きが高まるような、水野和夫さんが仰っている『よりゆっくり、より近くに、より寛容に』という価値観や体制の変化が少し増えていくのかも知れません。

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陳舜臣さんの『小説 十八史略』再び

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雑誌「財界」の副主幹だった伊藤肇さんが著書の中で、日産コンツェルン総帥の鮎川義介氏から「十八史略の中に4517人の人物が登場している。しかもその登場人物の性格が全部違うんだ。したがってこれを徹底的に研究すれば、おのずから人間学とか人物学とかが身についてくるのだ。読めば読むほど味わいが出てくるし、人生が深くなる。何しろ無数の人間が気の遠くなるような長い時間をかけて織りなした壮大な社会劇が『十八史略』なんじゃかなら」と言われ、その足で神田の古本屋にとんでいった、と書いておられます。さらに、買ってはみたが『十八史略』の読み方がわからず、再度鮎川義介氏に教えを乞うたところ、安岡正篤氏について学びなさい、と言われ、爾来安岡正篤氏を師と仰いで学びを深めた、というエピソードがあります。

安岡正篤氏につこうと思っても既にこの世になく、伊藤肇さんもずっと前に鬼籍に入られましたが、幸い私のような庶民にも手の届くところに、陳舜臣さんが「小説」という形で全六巻ものの文庫本を残してくれています。

四巻目に入ってから、よく知っている(つもりの)三国志になり、興味が途切れてしまい、途中で放置した状態でかれこれ10年ぐらい経ってしまいました。久しぶりに書棚から取り出して、続きを読んでみると、やれ面白い、やはり面白い。孔明が亡くなり、生ける仲達が走り、とそこまでは悲報五丈原という感じですが、その後の晋建国から八王の乱に至る歴史がまた凄いことになっています。

晋の建国者は司馬炎ということになっています。しかし実質は祖父の̪司馬懿仲達が魏で実権者になっており、その子の 司馬昭も魏の重臣となり、そこから司馬炎に至るまでは紆余曲折がありつつ、魏の皇帝から禅譲を受けるという形で晋を建国します。司馬仲達や司馬昭が魏を奪わなかったのは、魏の禄をはみながら王位を簒奪した悪者、と後世言われないように慎重にことを進めた、と書かれていました。これは多分に前漢から王位を簒奪した王莽の言われようが当時もひどい悪者として扱われていたからであろうと思います。

さてこの晋の初代皇帝の司馬炎。三代目ともなると相当なボンボンだったようです。口を開けて天を仰いでいたら棚から牡丹餅よろしく天下が転がり込んできたような塩梅ですから、仕方のないことかも知れませんが、親の教育がなってなかったのかも知れません。呉を滅ぼし、天下統一を成し遂げた直後、天下安寧のために徳政をしたわけでもなく、司馬氏の安寧のために行政制度をしっかり整えたわけでもなく、「呉の国には美女が多いそうだから5千人ほど美女を連れてきて皇宮に入れろ」と命じたとか。

そんなこんなで彼の皇宮には1万人もの女性がいたそうで、毎晩その女性たちとの時間を過ごすのですが、彼女たちはそれぞれ自分の部屋を持っており、件の皇帝さんは選ぶのが面倒で羊のひく車に乗って部屋の前をめぐり、羊が止まった部屋に入っていったとか。女性たちもさるもので、羊に止まってもらうために羊の好きな「竹の葉」を部屋の前にさし、羊の好きな「塩」を地面にまいていたとか。飲酒店が店前に「塩」をまく習慣はここから来ている、と陳舜臣さんは書いています。へええーっという歴史のエピソード。

司馬炎は26人の王子を残し、行政体制をしっかり整えぬまま55歳でこの世を去ってしまい、その後残された奥様たちや子どもたちで天下大乱が続き、後の世に「八王の乱」という内戦がもたらされ、結果晋の疲弊と再びの不安定な三百年(五胡十六国時代と南北朝時代)につながってしまいます。じいさんの司馬仲達や父の司馬昭の慎重なことはこびが雲散霧消してしまうことになってしまいます。

私たち経営コンサルタントの仕事でも、人との関わりがとても多く、歴史に学ぶべきことも沢山ありそうです。十八史略、またおいおい読んでいこうと思います。(鮎川さんは何度も何度も繰り返し読め、と言っているようですが、まだ一回目の途中。道は長い・・・)

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小暮太一さんの『超入門資本論』

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 大ぶりの書籍は敬して遠ざけていた感があります。
 特に経済学の本などは、大学生の時にミクロ経済学の入り口で挫折して以来、経済学部生であったにもかかわらずその門に近づくことさえせずにいました。
 カール・マルクスの資本論なんてもってのほかだったのですが、一冊も買いもせず、書店で見向きもせず、ということで果たして良いのだろうか、と思っていたら、偶然町の書店でこの本が目に入りました。
 帯には「120分で読める」というようなことが書いてあり、入門のさらに入門編の書として開いてみるのも良いかもと思い、求めました。

 一読して目から鱗がポロポロポロリとなだれおちました。
 著者の小暮さんがどこまで意訳されているのかはわかりませんが、資本主義の本質をわかりやすく説明されているなと感じました。
 最近、経営革新計画やものづくり補助金などの仕事に携わる機会があり、これらの本質を考える上でも大変役に立つ本でした。

 曰く「商品の価値」とは「原材料」「機械使用料」「労働量」の総和であり、ここからは「利益」は出ない。(私たちが一般的に使っている「価値」とは定義が異なるので注意が必要です)
 商品の値段は価値で決まる。
 但し、同じような商品でありながら、ある会社では倍の労力を要して作っても、その労力分を価格に転嫁することはできない。
 価格は社会平均で決まる。社会平均とは、一般的に社会で製造する平均的なコストのかけ方のこと。よってある会社が社会平均よりも手間暇かけたとしても高い価格で売れるわけではない。
 また、「価値」とは別に「使用価値」というものがある。
 商品の価格は「価値」で決まり、「使用価値」で多少上下する。
 「使用価値」とは使う人のメリットである。

 この考え方を私たちの賃金(労働力の値段)に置き換えても同じである。
 賃金は、労働力を作るために必要な要素の合計で決まる。
 その仕事をするために必要な体力と知力、食事、休息、住居、など。
 たとえば、医師は医師になるために多くの時間をかけて専門知識をたっぷり吸収しなければならないので、単純作業をする仕事よりも「価値」が大きく、賃金が高い。
 営業担当者の場合、営業をするための体力、知力に応じて賃金が決まる。
 会社により大きな利益をもたらす、高い成果を上げる営業担当者は、会社にとっては「使用価値」が高いことになる。
 「使用価値」は、それが高くても賃金に大きな差はつかない。なぜなら、賃金の基本は「価値」で決まり、「使用価値」は多少の上下にしかならないからである。よって売上や利益が同僚の2倍稼ぐ営業担当者がいても賃金が2倍になるわけではない。

 会社の「利益」は「価値」からも「使用価値」からも出てこない。
 需要と供給が一致している場合、投入した資源(かけたコスト、支払った費用)はそのまま「価格」になるので、「利益」はゼロである。
 「利益」は「剰余価値」から生まれる。
 「剰余価値」とは労働者が自分のもらう給料以上に働いて生み出す価値のこと、だそうです。
 原材料は形を変えても仕入れた原材料以上の価値にはならない、機械も同じ、剰余価値は人が手をかけた分からしか生まれない、のだそうです。
 「剰余価値」には「絶対的剰余価値」「相対的剰余価値」「特別剰余価値」の3種類があるそうです。

 「絶対的剰余価値」は労働者を給料以上に長く働かせることによって生み出される剰余価値。資本主義が進むと、剰余価値=利益を追い求めるために、労働者に給料以上の労働をしてもらわないと会社に利益が残りにくくなる、そのために、ブラックや過労死などが増えていく。

 「相対的剰余価値」はデフレ(需要<供給)でものやサービスの値段が下がり、下がった結果、労働者が労働力を維持するために必要な費用が下がり、その結果賃金を下げたが、働く時間は変わらないため、結果として労働量よりも労働者に支払う賃金が少ない状態になることで生まれる剰余価値。

 「特別剰余価値」・・・これが経営革新計画やものづくり補助金などにとって重要なかかわりのある内容です。
 ある会社が最新鋭の機械を導入することなどによって生産性を高め、一定時間で他社よりも多くの商品を製造することができるようになると、他社よりも小さいコストで製造できることになり、社会平均価格で販売した場合は、安いコストで作った分、利益が出る。
 つまり、イノベーションによって出てくる剰余価値です。
 しかしいずれどの会社も同じように最新鋭の機械を導入して同じ程度のコストで作ることができるようになる、又はそれができない会社は淘汰され、同じコストで作ることのできる会社だけが生き残る。つまり低価格の方に引っ張られる。コモディティ化する。
 そうすると、折角イノベーションをして儲かる仕組みを作ったにもかかわらず、ある程度時間が経つと自社の利益はまた少なくなる。自分で自分の首を絞め続けるのが資本主義の仕組みだということです。

 となると、他社よりも若干古い機械を使用しており、老朽化しているので最新鋭の機械を入れる、というのは、そもそも社会平均よりも高いコストで製造していたのを、社会平均並にするというだけであり、これは革新でもなんでもないことになります。もちろん国が「ものづくり補助金」の申請に求めるものも「革新的な」という内容を満たすことが前提になっていますので、こういう例は残念ながら採択されることはないと思います。経営革新計画も同じです。
 とはいえ、新しい機械を導入しても、いずれまたコモディティ化の波に呑まれてしまうというジレンマがあり、企業の経営者にとっては悩ましい課題です。

 大企業は大量生産し続けていくことが必要なため、自社が製造する商品については、できるだけ他社に先駆けてイノベーションするか、ちょっと変わった機能をつける「付加価値」で多少高価な値付けをするか、などが必要になります。
 しかし中小企業は大企業と同じ土俵で競争をするだけの力がないため、できればイノベーションと縁遠い仕事(自社にしかできない技術・技能・・・例えば一品もの、少量生産もの、試作品など)で勝負できるようにして生き残って行くことが必要ではないかと思いました。

 この本には、では労働者はどうやって疲弊せずに生き残って行くか、というヒントも書いてありました。
 それについては、ご関心のある方は是非ご一読をお勧めします。とても読みやすく理解しやすい本でした。(このブログの内容がわかりにくいとすれば、ひとえに私の文章表現の問題であり、著者さんの問題ではありません)

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馬場マコトさん・土屋洋さんの『江副浩正』

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 リクルート創業者の江副浩正さんの評伝です。およそ500ページの大部の本でした。

   私にとってのリクルートは、NTT初代社長の真藤恒さんが突如経営の座から引きずり降ろされたリクルート事件であり、それはそれは強烈な体験でした。
 役所が民間企業に変貌していくはずの、まさにその真っ最中、先頭に立って旗振りをし、私たち社員一人ひとりを鼓舞し続けてくれていた御一人が犯罪者の疑いをかけられて経営第一線から転落した事件だっただけに、入社間もない私にとっては大きなショックでした。

 その辺りのことを知りたいと思ってリクルートが第二種電気通信事業に乗り出したところから読みましたが、あまり深く触れられているという感じではなく、同社の二種事業進出の背景や、その後撤退したことなどが割と中心に書かれていました。
 真藤さんが「白状したぞ」ということを検察官から告げられて、江副さんもこれ以上世話になった方々に迷惑をかけてはいけないと考え、やってもいないことをやったと言わざるを得なくなった、というくだりは(真実は私にはわかりませんが)涙なくしては読み進められませんでした。

 江副浩正さん自身は稀代の事業家だったと思います。すごいアイディアマンであり、人を生かす経営をし、人を生かす仕組みを考え出して実行し、それを組織の遺伝子になるまで埋め込みました。その結果リクルート出身の起業家の多いこと多いこと。
 しかし、本人は子どもの頃に母を父によって奪われた悔しさを原体験として持ち、合唱部では口パクを強いられた悔しさ、部下の結婚式でわけのわからない会社と言われた悔しさ、稲盛さんに対する悔しさ、野村証券に見放された(と勘違いした)悔しさ、と「悔しさ」という言葉が全編を覆っていて、ちょっと息苦しさを感じました。
 一方でそれが江副浩正さんの成長の原動力だったというような記載もありました。しかし会社が相当大きく成長した後まで、負のエネルギーを糧にし続けているとどうなるのか。高転びに仰のけに転んでしまったということではないでしょうか。ダイエーの中内さん、西友の堤さんなどとの共通点がなんとなく感じられ、つらくなりました。
 どこかで転換できれば良かったのでしょうが、私はこういうふうに生きていく、と無意識のうちに決めてしまった幼児決断は、その後の人生において継続して同じことを何度も繰り返す。それが人生脚本であり、そこから抜け出すには本人が気づくしかない、とは交流分析の考え方です。しかしこんなことを言うのは、当事者でもなく事業家ではない傍観者の世迷言なのでしょうね。

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小島俊一さんの『崖っぷち社員たちの逆襲』

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 著者は元トーハン執行役員、現㈱明屋書店(トーハングループ)代取であり、中小企業診断士でもある方です。
 小説ではありますが、実践的経営学ともいうべき色んな要素が詰まっています。経営学とマーケティングとコーチングと財務諸表活用法と論理的・情念的説得術と鎮魂と再生の物語・・・。(鎮魂と申しましたのは、私の想像ですが、某書店への出向時代の悔しい思いがあったのではないかと推察した次第です)

 ストーリーは、地方銀行の元支店長である主人公・鏑木が、銀行から経営の先行き懸念のある地場の書店に、<貸付金の回収>を目的として専務取締役として出向し、財務やマーケティングの知識とコミュニケーションを駆使して再建へ導いていく工夫と成功の物語です。

 物語の詳しい内容はさておき、私が参考になったキーワードをいくつかご紹介しておきます。今後仕事で使えそうなフレーズなどもありました。
・財務3表を車に例えると、損益計算書はスピードメーター、貸借対照表はエンジンの状態、キャッシュフロー計算書はガソリンの残量。(p25)
・企業の再生は、社長の決算書への理解から始まる。(p71)
・心理学によって人を支配し操作することは、知識の自殺である。(ドラッカー)(p111)
・売れるための条件:①人を売る、②店を学校にして体験を売る、③社会貢献や志を売る、④問題解決を売る、⑤期待値の1%超え・・・の5つの具体化。(川上徹也)(p148)
・独自化とは:ファースト・ワン、ナンバー・ワン、オンリー・ワンの3つの具体化。(同上)
・「傾聴・受容・承認」「最後まで自分の価値観を横に置いて、相手の話を聞くこと」(p181)
・愚かさとは、過去を繰り返しながら違う結果を求めること(アインシュタイン)(p187)
・あなたの描く未来があなたを規定している。過去の原因は解説にはなっても解決にはならない」(アドラー)(p187)
・イメージすること、白黒じゃなくフルカラーの4Kで。匂いも音も。きっと叶う。(p188)
・金融機関の信頼を勝ちうるための3つのこと・・・「3か年の再建計画書」「実際の収益の改善効果(コスト削減と売上増の具体策)」「継続的な企業情報(経営状態)の開示」
・人の話を注意して聞けば、90%以上の解決策が見える。(カルロス・ゴーン)(p218)
・一つの驕りが全てを無にする(p231)
・説明は「事実中心の解説」、プレゼンは「事実+感情」(理と情への訴えかけ)(p235)

 関心のおありの方はご一読をお勧めします。

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6月下旬から7月までに読んだ本など

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この一か月ほど体調がすぐれなかったせいもあり、比較的早くに床に入る日々が多かったです。
そのせいかどうか、いつもよりも多めに本が読めたような気がします。

特に塩野七生の『ローマ人の物語』は長いこと停滞していたこともあり、「終わりの始まり」を最後まで読み通せました。

「終わりの始まり」は五賢帝の最後マルクス・アウレリウスから説き起こされています。
哲人皇帝として当時の人びとからも、後の史家からも称賛されているマルクス・アウレリウスにして、後継者選びには失敗した、と塩野さんは言いたいのではないだろうか、とこの上・中・下を読んで感じました。
後継者選びが組織の活力や正しさを維持していくためにいかに重要か。
最近でも『ドキュメント パナソニック人事抗争史』にも描かれているように、前任トップがその権限維持のために後継者を選定した愚がその後の組織の迷走をもたらしてしまうという事例はいくらでもあります。権力についた人は公平な目・公正な目が曇ってしまうのでしょうか。

マルクス・アウレリウスの場合は、色々な事情があり、必ずしも皇帝として適任ではないかもなと思いつつ、我が子を次期皇帝(コモドゥス)に指名してしまった。コモドゥスはアホな治世を繰り返し側近に暗殺されてしまう。その後の皇帝は軍人が元老院の指名を受けて就任するも、自分への見返りを期待して推したのにおこぼれをもらえなかった側近に暗殺されたり(ペルティナクス)、元老院が正当だと認識していたのに皇帝道をわきまえず好き勝手をやって一強となり、誰も表立って意見が言えなくなってしまい、遠征途中に死んでしまったり(セヴェルス)、その子どもたち二人は仲良くせえよと言われていたにもかかわらず「力こそ全て」とばかりに弟を斬ってしまう兄がいたり(カラカラ)、とどんどん混乱を来していく。

カエサルが折角作った、除隊した後の軍人がシビリアンとして地方自治体での活躍ができるようにした仕組みを、セヴェルスは250年ぶりに破ってしまった、と塩野さんはとても残念そうに書いておられます。その結果、「ローマ社会での軍事関係者の隔離になっていった」「これが、ローマ帝国の軍事政権化のはじまりになる」(「終わりの始まり(下)」p106~107)

そしてこういうことも書いておられます。
「権力者であるのも、意外と不自由なことなのだ。だが、この不自由を甘受するからこそ、権力を持っていない人々が権力を託す気持になれるのであった」
セヴェルス皇帝は、「登位直後を頂点にその後徐々に悪化していき」「矜持と言うのであろうか、そのような気持のもちように対する感覚が、鈍ってきた」その結果、おのが出身地に公費をつぎ込み、そこでバカンスを過ごし、国全体のことよりも身の周りのことに関心が向いていった・・・これでは国のトップではなく、権力を持った私人ではないか、という塩野さんの嘆きが聞こえてくるような気がします。
ハードカバーの原著は15年も前に書かれたものですが、歴史の教訓は語るべき人が語ることによって、時代を超えて生き続けるのだなあと感じました。

以下が6月末から7月に読んだ本です。

『「脱・値引き」営業』山口勉著 日経BP社
『多動力』堀江貴文著 幻冬舎
『小さな会社の稼ぐ技術』栢野克己著 日経BP社
『まんがでわかるサピエンス全史の読み方』葉月&山形浩生著 宝島社
『ローマ人の物語 終わりの始まり(中)』塩野七生著 新潮文庫
『神の起源(上)(下)』JTブラウン著 ソフトバンク文庫
『運命をひらく山田方谷の言葉50』野島 透&片山純一著 致知出版社
『未来につながるまちづくり』上田玲子著 彩雲出版
『サイコパス』中野信子著 文藝春秋社
『ローマ人の物語 終わりの始まり(下)』塩野七生著 新潮文庫

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水野和夫さんの『資本主義の終焉と歴史の危機』『株式会社の終焉』『閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済』

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 エコノミストの水野和夫さんの本を3冊。いや、すごい歴史認識に立脚した本だと思いました。
 実はこれらの本は、水野さんが2008年から毎年富山県利賀村というところを訪れられ、SCOT(鈴木忠志さん主宰)という劇団の演劇を観続けてきたある時に受けたインスピレーションによってお書きになったというエピソードがあります。これは驚きでした。数百年単位で訪れる歴史の大転換期かも知れないという話が富山で行われていた演劇からヒントを得られたとは。

 さて。
 私たちが所属し、当りまえのようにその中で生きている資本主義経済が今後どうなっていくのか、という問いは常に存在してきたように思います。
 もちろん容易に答えられる問題ではないし、本を数冊読んだところで解答が見つかるものではないと思います。
 3年前に上梓され、当時ベストセラーの一つになった水野和夫さんの『資本主義の終焉と歴史の危機』、ずっと積読状態でしたが、その後対談本なども出つつ、また昨年秋と今年になりその続編的な本が出ました。昨年出たのが『株式会社の終焉』。経営コンサルとしては、クライアントである企業組織というものが今後どういう歴史に直面し、どう振る舞っていくべきなのかを考える参考として、これは読んでおかなくてはと思い、発売即購入。しかし2冊とも、どうも難しく、さらには今後どう振る舞うべきなのかの処方箋が見つかりませんでした。
 著者の水野さんは自分ごときに答がわかるはずがない、ゆっくり考えていかなければならないのだ、と仰っています。確かに数百年にわたって世の中の根本原理的だったものが、変化してその後どうなるのかという姿なぞ、そう簡単には見えないだろうというのは無理もありません。
 そこへ3冊目『閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済』という本が出ました。そろそろ解答編かな、と思い、購入。3冊まとめて読みました。

 まずはそれぞれの本のインデックスを拾ってみます。

 1.『資本主義の終焉と歴史の危機』
 ・資本主義の延命策でかえって苦しむアメリカ
 ・新興国の近代化がもたらすパラドックス
 ・日本の未来をつくる脱成長モデル
 ・西欧の終焉
 ・資本主義はいかにして終わるのか

 2.『株式会社の終焉』
 ・株高、マイナス利子率は何を意味しているのか
 ・株式会社とは何か
 ・21世紀に株式会社の未来はあるのか

 3.『閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済』
 ・「国民国家」では乗り越えられない「歴史の危機」
 ・例外状況の日常化と近代の逆説
 ・生き残るのは「閉じた帝国」
 ・ゼロ金利国・日独の分岐点と中国の帝国化
 ・「無限空間」の消滅がもたらす「新中世」
 ・日本の決断-近代システムとゆっくり手を切るために

 インデックスだけを見るとそれぞれ異なる印象はありますが、3冊ともほぼ同じ内容です。
 しかし私は3冊読んでようやく全貌が理解できました。3冊読まないとわからないというのは、ひとえに私の理解力が弱いためであり、著者や出版社がどうこうというつもりはありません。
 自分自身の控えとして、これら3冊に書いてある重要なキーワードをつなげておきたいと思います。

 ・資本主義は資本の自己増殖のプロセス。資本主義には「周辺(途上国)」の存在が不可欠。
 ・資本主義は「蒐集(しゅうしゅう)」で成り立っている。
 ・それは「無限空間」を前提としている。しかしもはや無限に拡大するという前提には立たない方が良い。
 ・その証拠がドイツと日本などのゼロ金利、マイナス金利の出現である。
 ・「無限空間」を前提にした資本主義は「より遠く、より速く、より合理的に」という論理でものごとを行う。
 ・その結果「セイの法則」に基づいてどんどん生産する。
 ・これは資本主義の論理であると同時に、民主主義の論理でもある。民主主義は一部の人しか使えなかった財をより多くの人が使えるようにすべきという考え方だから。
 ・空間が有限になってしまったので、「ショック・ドクトリン」(惨事便乗型資本主義)によって、だいたい3年ごとにバブルが崩壊して資本の蓄積が図られるようになってしまった。
 ・生産力が過剰になると、新規需要が発生せず、不良債権化する。
 ・これ以上モノがいらなくなると投資してもリターンが見込めなくなる。それがゼロ金利の原因である。
 ・ケインズはゼロ金利を望ましいことだと考えていた。そして、人生の目的として「人間交流の楽しみ=愛」「美しきものに接すること=美」「知性主義=真を求めること」だと考えていた。
 ・今なすべきことは、21世紀はどんな時代かをまず立ち止まって考えること。
 ・これからの時代は「より近く、よりゆっくり、より寛容に」、今の前の時代である「中世」を参考に(中世を全面肯定しているわけではありません)。
 ・その方向性にいち早く舵を切ったのはEUであり、日本はEUと連携していくべきである。
 ・今後は成長主義から定常状態=減価償却の範囲内でしか投資を行わない=に移行していくことが必要なのではないか。
 ・そのためには①財政の均衡、②エネルギー自給率の向上(家庭ぐらいはせめて)、③地方分権を進めて身近な空間でものごとが終止できるように、という方向性が必要なのではないか。
 ・企業は利潤=創出された付加価値=を新規投資に回さず(研究開発が不要とは言っていないものの、純投資は負担の割にはリターンが小さいので)、雇用者の賃金に回し、そうすれば今よりも1.5倍程度の賃金が得られ、家計は増えた収入の一部を地域金融機関に預け入れる。これは利息ゼロの株式預金とし、現金利息ではなく現物で配当を受ける。つまり地域住民は地域金融機関を通じて地域の企業の利害関係者となる。地域の企業は顔の見えない株主に株式を売り買いされる不安定さから解放されるべきである。トヨタ自動車の新株(配当固定、元本保障、5年間は売買不可)はまさにその先鞭かも知れない。

 ・・・と、とても難しい内容で、私はまだ数回読み直さなくてはたぶんちゃんと理解できないのだろうなあと感じています。
 もちろん水野和夫さんの言っておられることが正しいかどうかはわかりません。こういう見方もあるのだということです。
 

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