ガブリエル・ガルシア=マルケス氏の『百年の孤独』読了です。
一言で言うと、面白かったあ、という感じ。
600ページを超える長い読み物。6代に及ぶ一族の物語。時にヒタヒタと時にハチャメチャに享楽ありバイオレンスあり突然死あり、ある時は筒井康隆さんの『脱走と追跡のサンバ』を思い出し、またある時はウルスラは中上健次さんの『千年の愉楽』のオリュウノオバでありマコンドは路地であろうなどと確信めいた思いを持ったりしながら読み進めました。オリュウノオバは、ああ見えて多分50代であり、映画では寺島しのぶさんが演じていたのですが、ウルスラは150歳まで生きていたようなので、単に印象だけの相似であり、全く違うのでしょう。中上健次さんも『百年の孤独』を知ったのは『千年の愉楽』を書いた後だと仰っているようなので、まあ類似性を感じたのは偶然であろうと思います。さて或いは、また筒井康隆さんですが『ダンシング・ヴァニティ』なども繰り返しが多用されており、同じ名前の人が繰り返し何度も出てきて似たような行為を繰り返す情景なども類似性を感じました。(感じ方は、多分人それぞれ、自由です)類似性だの相似だの、何を感じたかというのはそれほど重要なことではなく、この物語がとっても面白かったということを、とりあえず最後に述べさせて短い読後感想文とします。
『族長の秋』はずっと以前にザザザザザッと読んだだけだったので、いずれの時にか、今回の『百年の孤独』のように、もう一度しっかりと読んでみたいと思っています。
「読んだ本」カテゴリーアーカイブ
「山田宗睦さん」のこと
先日新聞に山田宗睦さんという方の死亡記事が載っていました。どなたかは全く存じ上げませんでしたが、なんとなく気になって著書を探し、古代史の解説ものその他色々なジャンルに及んでいることを知りました。たまたま地元の図書館を訪れた際に書庫にいくつかこの方の著書が蔵してあることを知り、借りてみました。
その中の一つ『旅のフォークロア』をパラパラとめくっていると、「能登」という紀行文に出会い、読んでみるととても興味深く引き込まれてしまいました。
「戸坂潤を百科全書的な思想家とみるのが、定説だ。厳格にエンサイクロペディストととるなら、わたしなどとても縁がないが、ややずらして、なにごとにも好奇心をもつというくらいにとるなら、わたしもまた戸板の徒だ。」(この謙虚な言い回しに引き込まれました)
「さいきん、能登半島への旅がクローズアップされてきたが、能登へ入るには、北陸本線の津端で七尾線に乗り換える。この七尾線が河北潟ぞいに海岸に出たところが、宇ノ気である。宇ノ気は、鳥取砂丘につく河北砂丘の北東の端にあたる。砂丘の南西の端は、清水幾太郎の名を高くした内灘だ。宇ノ気は西田幾多郎の生まれたところだ。(中略)敗戦の直後、軍隊から復員するとき、まずこの村によったのも、わたしに西田の生まれた村で今後の行き方を考えてみたいという気があったからだ。」
「戸板が西田を慕い、一高在学中に京都に訪ねたのは、1921年1月6日のことで、それは西田の日記に残っている。入学はその翌年。のちにマルクス主義者として戸板は西田哲学を批判するが、西田はその批判を『理解のある大変よい批評だ』と、戸板への手紙に書いた。」(ここで冒頭の戸板潤と西田幾多郎の関係が明かされます)
「その年(1936年)、小学生のわたしは、この海辺にきて、ようやく泳ぎをおぼえた。この辺り海はおどろくほど遠浅で(中略)十センチもある大きな蛤が、ごろごろ取れた。そう、今浜はわたしの父の古里だった。」(ここでまた驚きです。山口県下関生まれ、と奥付に書いてあったので、北陸はたまたま旅をしにきただけの紀行文かとおもいきや)
「1944年秋、わたしはこの村の神社で、村人の出征壮行会におくられ、金沢の連隊に入った。(中略)45年6月7日に、西田が死んだ。石川出のこの大哲学者が死ぬと、曹長はわたしのところまでやってきて、「元気をおとすな」と言った。戸板が獄死したのは-当時のわたしは知らなかったが-その二か月後、8月9日、敗戦の六日前である。」
「羽咋市から直線で20キロほど北、福浦から富来をへて関ノ鼻にいたすS字型の海岸33キロが昨今著名となった能登金剛である。戸板が幼年期をすごした里本江もこのなかにある。」
「雪のたたきつける内灘の砂上で、対戦車砲の演習をしながら眺めた、白い歯をむく海のこわさを、わたしは忘れがたい。松本清張『ゼロの焦点』が、原作でも映画でも、ともに、荒涼とした能登金剛の風物を、たくみに利用したのは、同じ印象からだろう。」
「能登の探訪は、美しいが疲れもする。その疲れをいやすのに、加賀温泉郷の一つ粟津温泉に泊まるのも一興だろう。なぜなら、戸板潤は四歳のとき、ここに移った。祖父が転勤したからだ。そそて五歳までいて東京の母のもとにかえる。この温泉のある小松市の東隣に根上町というのがある。わたしの母の古里だ。」
ふたりの哲学の師に連なる自身の立ち位置をさりげなく示しつつ、能登のことを織り込みつつ、最後は母で締めくくるという、なんとも素敵なエッセイだと感じ入った次第です。この本が発行されたのは1978年、私がまだ高校2年生の時です。私にとってはなんのゆかりもない方ですが、感じ入った文章の一部なりとも残しておきたいと思い、書写させていただきました。もう少しだけ本書から抜粋させていただきます。次の一文は「山の辺の道」です。
「山の辺の道を、いくども歩いた。(中略)この道が有名になると、案内板もできたし、ガイド・ブックに道筋を示した地図ものこっている。現代人は教条主義だな、とおもう。(中略)しかし道はきままに歩くのがいい。これが山の辺の道と、まるで試験のように一歩も路をふみはずすまいと歩くのでは、あじけない。一つや二つ、上下に、それとも自由に、畦道をたどる方がいい。それと、この道を歩くまえに、『万葉集』や古代史をのぞいて、古代人の心でこの道を歩く用意をした方がいい。(中略)山の辺の道は、初瀬街道に面した三輪山南麓の金屋からはじまる。ここから歩きだすのがいちばんいい。」という感じで山の辺の道と古代王家にまつわる女性たちの悲哀がつづられていきます。私の大阪勤務時代に何度も訪れ、歩いた山の辺の道を、この見知らぬ哲学者もよく歩いておられたのだということをこの書を手に取って知り、なんとなく、上の能登の話とあいまって、余計に親しみをおぼえた次第です。
ちなみにかつて大阪勤務時代に山の辺の道を歩いた時は、私はいつも石上神宮からしか出発したことがなく、都側から見れば当然のルートだと思っていたのですが、どうもそうではないということを後年知ったところですし、山田宗睦さんもこっちから歩くのが良いと仰っていますので、次に訪れる機会があれば、三輪山側から歩いてみようかと思います。
杉本貴司さんの『ユニクロ』
中小企業診断士である私がユニクロのような大企業について勉強するのはあまり意味がないかも知れません。しかし私が社会人になった40年前にユニクロの1号店を広島で作った小郡商事は、当時は山口県の一中小企業だったということを考えると、柳井正さんという経営者が仮に不世出の天才だったとしても、今のユニクロではなく、これまでのユニクロの辿ってきた道を知ることで、他の中小企業にとってもヒントになることがあるかも知れない、と考え、時のベストセラーを手に取りました。著者の杉本貴司さんもp6で「私が見つけたのは「希望」である。この国に存在する名もなき企業や、そこで働く人たちにとって希望になるであろう物語である。」と述べておられます。
p38 なにかと言うと柳井が口にしたのが「それになんの意味があるんかね」だった。73歳になった柳井が母校の早稲田大学の新入生たちを前にこんなことを語りかけた。「人が生きていくうえで最も大切なことは使命感を持つこと。自分は何者なのか、そのことを深く考える必要がある」
p78 ノートに自分自身の性格について思うことを書き記していった。俺の長所はなんなのか。逆に短所はなんだ。
p79 ある思考法にたどり着いた。「できないことはしない」「できることを優先順位をつけてやる」悩みというものは、悩めば悩むほど出口が見えなくなってしまう。「いくら悩んでもできないこと」と「よく考えれば、悩むまでもなくできるかもしれないこと」に二分する。そして割り切る。エネルギーを割くのは後者だけ。そもそも解決できないようなことについて悩んでいる時間がもったいない。
p80 長所だけの人間になろうなんて考える必要はない。そもそも長所だからといって他人に誇るようなものでもないし、短所だからと劣等感にさいなまれる必要もない。
p80 仕事の内容を正確に伝えるために日々の仕事でやってもらいたいことをひとつずつ文章化してみた。この時の自筆の「仕事の流れ」がマニュアルの第一歩だった。口下手であることを認識しているが故の工夫だが。
p81 マニュアルの作成が終わると次に取り組んだのが、日々の商売の「見える化」だった。どの商品のどのサイズ、どの色が売れたのか。そんなことを毎日店を閉じてから自らノートに詳細に書き記していった。
こういう基本をしっかり大事に経営者自らコツコツとやっていったということが一つ。この頃のスタッフは一人か二人だったようです。
p82 カネ儲けは一枚一枚、お札を積むこと。信用の源泉は銀行預金を積み上げること。
p84 父から25歳の時に銀行通帳と印鑑を渡され、経営者となった。この時は山口県宇部市の商店街にふたつの小さな店を持つだけの存在だった。ここから10年ほど暗く長いトンネルの中でもがき続ける日々だった。
p90~101 柳井は経営者としての決意を一枚の紙に記した。・・・柳井の目標を大きく持ち上げてくれたのが・・・本を通じての偉人たちとの対話という静かな時間だった。・・・自宅に戻り食事を終えると、書物を通じて世界の英知と向き合う時間を大切にする。・・・松下幸之助と本田宗一郎。ユニクロの足跡は現実の延長線を越える足し算を描き実行に移す。ハロルド・ジェニーン(『プロフェッショナルマネジャー』)という事物の著書から学び取り、実行に移したこと。米マクドナルド創業者のレイ・クロック(『成功はゴミ箱の中に』)。ピーター・ドラッカー『マネジメント』『現代の経営』『イノベーションと企業家精神』『プロフェッショナルの条件』などは何度も読み返してきた。・・・クロック曰く「勇敢に、誰よりも先に、人と違ったことを」・・・柳井流の読書法は「もし自分だったらどうするか」と考え、筆者と対話するよう点にその妙がある。
p118 失敗を次の成功への気づきに変えてしまえばいい。
p121 まずはひょっとしたら大成功するんはないかと考えることがすごく大事。
p133 経営者のオヤジだけが元気でしきりに売り込んでくる。ところが現場を見ると社員を大切にしていないことがすぐに分かった。若い人たちが暗い顔で働いている。こんなところに未来はない。
p137 消費者はその商品について一番よく知っている人から買いたい。中内さんは小売業の革新者でありイノベーターだった。しかし商品について一番よく知っている人になろうという発想の転換がなかったことが、ダイエー凋落の原因だ。
p139 ゴールを定めていなかった。だから、たいして成長しなかった。
p140 柳井がレイ・クロックの『プロフェッショナルマネジャー』から学んだ二つのこと。
①現実の延長線上にゴールを置いてはいけない
②本を読む時は、初めから終わりへと読む ビジネスの経営はそれとは逆だ 終わりから始めて、そこへ到達するためにできる限りのことをするのだ・・・三行の経営論であり、逆算思考だ。
p155~160 商店街の個人経営店から「企業」へと脱皮するためのおおまかな見取り図。安本(安本隆晴公認会計士。小郡商事が上場企業になるための参謀となった人物)が最初に手がけたのが、組織図の作成だった。組織図とは、経営戦略を機能別に解き明かした説明書である。社長の下に書かれた各部門名の下に、誰が何を担当し、どんな責任を負う売上高や集客数、生産性、商品ロス率などの目標数値を書き記していく。組織を縦割りに分解するだけでなく具体的な機能と責任を明記していく。組織を動かすにはルールが必要。仕事のカタマリごとに誰が何をやるのかを割り当てる必要がある。安本が持ち込んだもう一つの概念が「会計思考」だった。簡単に言えば収益構造とキャッシュフロー構造のふたつを常にモノサシにせよということ。
p224 そもそも新しいことをやると失敗する。でも失敗することは問題じゃない。失敗から何を得るか。失敗の原因を考えて次に失敗しないために何をすればいいのかを考えるのが経営者。だから、失敗しないと始まらない。
もちろん無謀をよしとするのではない。柳井は「失敗しないためにとことん考え抜け」とも話す。最善を尽くしたつもりでも、経営に失敗は避けられない。失敗から何かを学び、より大きく成長するためには、つまずいてもまた這い上がってやるという覚悟が最初からなければ始まらない。
本田宗一郎も『俺の考え』の中でこんな言葉を残している。「研究所なんていうのは、99パーセントが失敗で、それが研究の成果である。人は座ったり寝たりしている分には倒れることはないが、何かをやろうとして立って歩いたり、駆け出したりすれば、石につまずいてひっくり返ったり、並木に頭をぶつけることもある。だが、たとえ頭にコブを作っても、膝小僧をすりむいても、座ったり寝転んだりしている連中よりも少なくとも前進がある」
p228 「どこが去年と違うんですか」「どこが他社と違うんですか」それが尋問のように続く。つまり、売れる理由です。売れる理由を一つずつ積み上げていく。
p241 待てど暮らせどお客は来ない。このままじゃ倒産する。胃がキリキリと痛む。経営者はそれでも考え続ける。そういう経験をしないと絶対に経営者にはなれません。(柳井さんが玉塚元一氏に語った言葉)
これ以降は、ユニクロが海外にも進出しつつ異文化とのコミュニケーションの齟齬や大企業病をいかに克服していったかという件になっていくので割愛しますが、最後に一つだけ。私がセミナーでよくお話をするユニクロの野菜販売の失敗(撤退ラインの事例として紹介しています)に絡んだエピソードを記しておきます。
p363~370 柚木治氏は2002年9月に野菜を扱うSKIPを立ち上げた。「野菜のロールスロイスをカローラの価格で販売します」・・・しかし結果は大失敗だった。2年もしないうちに26億円の赤字を出して撤退に追い込まれた。(柚木氏の奥さんは何度も警告を発しておられたとのこと)・・・その後「僕は失敗していない柚木君より、失敗したことがある柚木君の方が良いと思うな。失敗を生かして10倍返してください」という柳井さんの言葉でGUの立て直しに送り込まれた。柚木には野菜の失敗で得た3つの教訓がある。「顧客を知る努力は永遠に続けなければならない」「新しいことを始める時は、今ある常識を誰よりも勉強しなければならない」「社内外を味方に付けて、その力を使い尽くさなければならない」・・・柚木氏がGUの立て直しを図る歳にも、奥さんから言われた言葉がとてもためになったようですし、店舗スタッフの「ホントは私、GUの服は嫌いなんですよ」という言葉に、改めて顧客のこと、今ある常識を虚心坦懐に学ばなければいけないと思ったそうです。
ということで『ユニクロ』を読んだ直後に私が走った先は、5年ぶりの「GU」でした。
吉田満梨さんと 中村龍太さんの『エフェクチュエーション 優れた起業家が実践する「5つの原則」』
起業や事業化に当たっての進め方として、目標を設定しそこに至る道筋や必要な資源などを考えて取り組む「コーゼーション」型と、今何ができるかということを手持ちの資源から考えて取り組んでいく「エフェクチュエーション」型の、2つのアプローチ方法があり、それらを市場での自社のポジションや市場の成熟状況などに応じてうまく使い分けて行くことが大切だとありました。
私はこれら2つの言葉を初めて知りましたし、うまく発音できるかもおぼつかないのですが、現実の世界では、後者のような走りながら考えるということが往々にしてあるような気がします。重要なのは、走りながら考える場合であっても、予め損失許容範囲を定めておくということのようです。これにしても、多くの人は意識してか無意識のうちでかは別として、そのようにしておられるようにも思います。子どもの頃の「小遣いの範囲内で遊ぶ」という習慣みたいなものかも知れませんが(例えが卑近すぎるかも知れません)。
もしかすると、旧日本軍の「失敗の本質」に見られるような戦力の逐次投入や現代の日本企業にも見られる損失回避のための追加投資によってさらなる損失をもたらす、いわゆるサンクコストのようなもの、或いは賭け事に依存して負けても負けても借金を増やしてまた賭け事をしてしまう・・・結果的に、そのうち取り返すことができるのかも知れませんが、多くの場合取り返すことができない結果になるのは、この損失許容範囲を決めていないことが原因かも知れません。
他にも、「目から鱗」といって良い知見をいくつも得られました。機会があればまた投稿したいと思います。
志賀直哉さんの『和解』
奈良の東大寺は二月堂の裏参道がとても良い風情です。大阪で7年半勤務をし、東大寺にも何度も足を運びましたが長らくそのことを知らず、確か司馬遼太郎さんの『街道をゆく』のいずれかの回のものを読んだ際、それも大阪滞在中の晩期にようやく知った次第です。
二月堂の裏参道から大仏さんの方には行かず二月堂から三月堂を抜け、若草山の麓の茶屋街を通っていくと、やがて春日大社に出ます。春日大社を左に見つつ境内の終わりまで行くと、目の前に急に鬱蒼とした森が現れます。春日山原始林の一角です。奥に足を踏み入れず、人が歩けるように整備された道があるので、そこを進んで行きます。「下の禰宜道」又は「ささやきの小道」と言われる遊歩道です。そこを200~300mも歩くと、森を抜け、民家の立ち並ぶ町に出るのですが、そこからすぐの所に「志賀直哉旧居」という看板のあるモダンな家があります。場所は奈良市高畑町という所になります。
へえーっ、ここがあの有名な志賀直哉さんが・・・このような場所で暮らしていたのか・・・春日大社まで徒歩10分、東大寺や興福寺や猿沢池が散歩コースなんて、なんて優雅な場所に住んで小説を書いていたのだろうか・・・ととてもうらやましく感じたものです。この方の小説はその頃はまあ読んだことがなく、どんな人物なのかもさっぱり知りませんでした。(写真は2009年8月に現地で撮影したものです)
とりあえず中に入らせていただいたのですが、部屋のしつらえを見てびっくり。子どもたちの教育にとても熱心なことがわかるような子ども部屋になっていました。いわゆる教育パパといった感じではなく、子どもたちの自発性を重んじる、自分たちで学んでいこうと思わせるような環境作りをしておられるなあという印象を持ちました。なんと庭にはプールまであったようで、その跡が残っていました。
奈良市高畑に住む前は、奈良市幸町という所に住まわれていたようで、通算奈良には13年住んでいたことになります。しかしその後、男の子の教育のためには東京が良いということで、東京に移住してしまいました。そんなこんなでこの人は生涯(幼児期も含め)23回も引越ししておられるようです。88年の生涯ですので、なんともせわしない感じがしますが、それでもこの高畑には丸7年住んでいたようなので、それなりに居心地が良かったものと思います。私も2階の部屋に上がらせてもらって窓外の風景を眺めていたら、とても気分が落ち着き、いつまでもここの空気を吸うていたいものだと思いました。家を作るならこういう家だなあとも。
その後『暗夜行路』に挑戦しましたが、なかなか進まぬうちに、遂に15年も経過してしまいました。この人は若い頃に父親と不和になり、わだかまりを長いこと抱えて過ごし、三十代初めには取り返しのつかないくらいの険悪な間柄になっていた、しかしその後34歳頃に不和が解消された、ということを見聞きしており、『暗夜行路』もそういうことをテーマにしたものだということです。一小説家がその父親と喧嘩しようが何しようが構わないし、そのことを長編小説で書き連ねられても、私にとってほとんど意味がない、そもそも私小説とは他人様のプライベートを読まされるものであり、共感できるものであれば有益かも知れないが、場合によっては作家さんと傷をなめあうだけのなぐさみにしかならないのではないかという心持ちが私にはあり、あまり私小説を読んで来なかったということが、途中で投げ出してしまう原因かも知れません。
何かの拍子で志賀直哉さんが父と和解したことそのものをテーマにした短編小説に書いているということを知り、そんなことが小説になるんだ、という思いと、どういういきさつで和解したのだろうということに関心がわき、読んでみました。
ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』は「父殺し」がテーマだと言われています。男の子が父親を憎いと思うエディプスコンプレックスも「男子が最初に出会う女性の性愛の相手である父に対する怒り・憎しみ」だと言われます。男の子とその父親というのは根本的にライバル関係(なんて生易しいものではなく、果ては殺し合いにまで発展することもあるくらいに恐ろしいものかも知れません)にあるというのは、頭で考えてどうこうなるものではないような生物としての宿命かも知れません。或いは、自分の中の嫌な部分が父の中に見出され、自分は父の嫌なところを受け継いでいるという事実を直視したくない無意識の抵抗みたいなものもあるのかも知れません。しかし志賀直哉さんの物語は、父親をうざい存在だと思う息子の無意識で無自覚な感覚が、やがて、自分は一体何に抵抗していたのだろうか、何と「無意味」で「馬鹿げている」ことをしていたんだろうか、と気づく瞬間があります。ここに至る経緯には、志賀直哉さんの最初のお子さんが生後数十日で亡くなってしまったことや、その翌年に二人目のお子さんを授かったこと、気丈だった祖母が随分弱ってしまったこと、などがあり、なぜか卒然と父を赦す気持ちが芽生え、母(志賀直哉さんの実の母は既に亡くなっており、継母に当たる方)の仲介を得て父との長年の確執を終えることになったようです。この時父親も「これまでのような関係を続けて行く事は実に苦しかった」と吐露してくれます。今の私は息子である志賀直哉さんの立場も、父親の立場もわかるせいか、このセリフを読んだ瞬間に、熱いものがどっと溢れ出しました。良い小説だと思います。
この和解に至るまでの行程は随分長く、この人の日常風景が延々と語られます。しかし所々に志賀直哉さんの心情の変化をもたらす伏線のようなものが描かれています。
例えば新潮文庫のp68には「前々夜から前日の朝までジリジリとせまってきた不自然な死、それにあるだけの力で抵抗しつつ遂に死んでしまった赤児の様子を凝視していた自分にはそれは中々思い返す事の出来ない不愉快だった。総ては麻布の家との関係の不徹底から来ていると思った」とあり、自分の周囲で起こる不幸な出来事、それと向き合えない自分、すべてを父のせい、又は父との間柄が不仲である現状のせい、という風に、自分以外のなにかに責任を転嫁している様子が描かれています。
そして父に詫びを入れ、父からも赦しの言葉をもらったあとは「非常に身体も心も疲れて来た。そしてそれは不愉快な疲れ方ではなかった。濃い霧に包まれた山奥の小さい湖水のような、少し気が遠くなるような静かさを持った疲労だった。長い長い不愉快な旅の後、漸く自家に帰って来た旅人の疲れにも似た疲れだった。」(P131)とあり、爽快な感じではないものの、重荷を下ろしたという感じが伝わってきます。
実はあまり目立った扱いにはされていないものの、志賀直哉さんの奥様(康子(さだこ)さん)の、この短気者(志賀直哉さんのことです。意外に短気だったようです)に対する気遣い・支えがあったればこそ、今日に至ったのではないかと思います。
それにしてもこの「濃い霧に包まれた山奥の小さな湖水のような」という自分の心持ちを表す表現は、なかなか思いつかないような表現だと思いましたが、私にとってはしっくり来るものでした。世の中には悲しい結末の物語もあり、エンディングを知ることは恐怖であることも往々にしてありますが、この『和解』は実話に沿っているということも含め、久しぶりにカタルシスを味わうことができました。
ドストエフスキー『貧しき人々』
大学一年生の冬、『罪と罰』を読もうと買いましたところ、あまりの難解さに(特に人の名前の複雑さと同じ人なのにいくつも呼び方が出てくるややこしさ)面食らってしまい、いきなりは無理だ、もう少しとっつきやすいのを先に読んで「肩慣らし」をしてからでないととても歯が立たないやと慌てて買ったのが『貧しき人々』でした。あれから四十数年が経ち、もう一回読んでみようかと探したところ、まだ書棚にあったので久しぶりに読みました。古い岩波文庫なので、星三つ、すなわち当時の価格で300円。著者はドストエフスキーではなくドストイェフスキィ、になってました。実はこの小説がドストエフスキーの処女作だったということも改めて知りました。長文の「ワルワーラの覚え書き」を読んで、後から既視感が漂いました。小説の中に別の物語が盛り込んである作りは、他の小説でも珍しくはありませんが、ドストエフスキーで言えば、『カラマーゾフの兄弟』の中に挿入してある、次兄のイワンが語る「大審問官」の立ち位置とよく似ているような気がして、ああそうか、ドストエフスキーは処女作でもうそういう作りをやっていたんだなあと感じた次第です。
訳者の原 久一郎さんの「あとがき」は1959年11月に書かれたことになっています。これは初版が1931年なのですが、その後ソヴェト国立出版局の1956年版によって新訳されたものが私の手元にあり、よって1959年のあとがきがあるわけですが、そこにはドストエフスキーの理解者であったネクラーソフという詩人がロシア思想界の大立者であったベリンスキイを訪れて「新しいゴーゴリが出ましたよ。新しいゴーゴリが」と伝えたということが書かれています。その時、ドストエフスキー25歳。
ブイコフという地主が出て来ます。最後にワルワーラを妻に迎える人物ですが、前回読んだ時にはちゃんと読めていなかったのですが、実は結構最初の頃に登場し、ちゃんと伏線が張ってありました。さてこの先彼女はどうなるのでしょうか。また彼女を実の娘のように慈しみ愛情を注いでいた貧しき下級官吏のマカールはどのように老いていくのでしょうか。マカールからワルワーラに送られたうように見える最後の手紙はワルワーラに届いたのか或いは書いただけなのか。
辛い小説ですが、全体を通して色んな場面が想像力を掻き立てられ、読後もしばらくは余韻があるような気がします。貧しき人々
小阪裕司さんの『「価格上昇」時代のマーケティング』
ワクワク系マーケティングの小阪裕司さんの著書です。昨年購入していたのですが、ようやく読むことができました。
私たちの国では、30年続いたデフレの下なかなか値上げができませんでした。思うに、色んなものが100円で売られており、例えば文具店に行くと150~200円ぐらいするポストイットとそれほど品質に差を感じないものが百均では100円。あれも100円。とにかく安いのが良い、安くないと売れない、という感覚になりきってしまっていたような気がします。
しかしここ1~2年、コロナ禍での事業者の疲弊、北洋材の品薄による木材の値上げ、ウクライナでの戦争の影響による小麦価格の値上げ、なんだか理由がよくわからない原油価格の値上げによる電力料金の値上げ、などボディブローのようにじわりじわりと色々な「原価」が値上がりをしてきました。その結果、多くの企業で「利幅が薄くなってきた」「コロナが明けてようやく黒字が見えてきたと思ったらまた赤字だ」という状況になり、しかもそれがこれまでの「安いのが良い」という感覚麻痺によって「値上げ」という選択肢が出てこず、包装を簡易にして価格を維持しようとか銀行は封筒をATMコーナーから撤去してコストを切り詰めようとか、そういう弥縫策に走り、結局自身で首を絞めているような感じになっているように私は感じています。
そんな中、顧客にとって価値のある商品・サービスを作り、その価値を伝えることも含めて提供していけば、それに見合った価格にすれば良い、そのためには日頃から顧客との関係をしっかり構築しておき、顧客が気づいていないニーズへの訴求や顧客が知らない価値を教えることでお客から対価を得る、といったことが書かれているこの本は目から鱗でした。
工場でものづくりをしている人たちは日頃顧客と接することがありません。自分たちが作っているものがその後どういう経路を経て何と組み合わされてどういう人がどんな恩恵を得ているのかということもなかなか知る機会がありません。そうした場合でも、経営者が顧客(発注元企業)の喜びの声(ポジティブなリアクション)を聞いてきて、社内に伝えることで、働く人々も「喜ばれている」「役に立っている」「私の仕事には意味がある」と感じることができ、それが明日へのエネルギーになる、ということです。
p49にヴィクトール・フランクル博士の『夜と霧』に関する記載がありました。曰く「より生き延びる確率が高い人は生きる“意味”を持っている人であることがわかった。」 企業の場合でも、一人ひとりの社員が「ここで働くのは自分にとってどういう意味があるのか」ということに思いを致し、何らかの答を得ることができた社員は元気が出、継続する力が湧いてくるものと思います。そういう機会を作ることも経営の仕事でしょうし、その問いに対してポジティブな答が見つかるような会社であれば永続性は高まっていくものと思います。「ここで働く意味」とはなんでしょうか。「成長」「共感」「仲間」「(もちろん)給与や休暇などの処遇」といった人としての当たり前のことが組織として提供できているかどうか、人を単なる労働力としてしか見ていない企業、人を企業の目的を一緒に実現していくための仲間として見ている企業、同じように給料を払い働いてもらっているだけかも知れませんが、その両者には大きな違いがあるのではないかと思います。経営に携わる人々は、自身で、或いは職場の仲間とともに、時にはそんなことを考えることも必要ではないか、ということもこの本を読んで感じました。「価格上昇」時代のマーケティング
公式伝記『イーロン・マスク』
まだ52歳の若さで伝記が出る人物。父のエキセントリックな子育て、南アフリカの過酷な環境など子ども時代の体験がその後のこの人の人格を形成しているのだろうということは想像できますが、この人の天才的な発想や同時にいくつもの事業を経営し続け、新たなことにも挑戦していく頭脳がどこから出て来るものか、はこれとはまた別の理由や背景があるようにも感じます。ただ、一攫千金を得た父を乗り越えたいという思いはあったのだろうなと感じます。子どもの頃、昼から夜の9時までぶっ通しで本を読み続ける集中力、授業中に先生が呼びかけると窓外の景色のことを返事してしまう、これも集中力、何かに没頭するとまさに寝食を忘れてのめり込む集中力、仕事の合間の休憩にやるゲームでも集中してしまう(休憩になっているんだろうか?なっているんでしょうね、きっと)集中力。天才と言われますが、天賦の才は頭脳そのものではなく頭脳を集中して使い続けられる集中力のことを言っているのかなという気にすらさせるのがイーロン・マスク氏の本を見た感想の一つです。
家族では、まず弟のキンバル・マスク氏。私自身は初めてそういう人の存在を知りましたが、イーロン氏の事業において欠かすことのない貴重な存在であることが、本からはにじみ出てきます。母のメイさん。父は恐らく厳父だったのでしょうけど、母は慈母といって良いような印象を受けました。人生の多くの場面でお母さんが出て来ます。とっても仲が良さそうです。また、最初の奥さんとの間に5人の子をもうけ、その後3回か4回、結婚または非婚の状態で子どもをもうけており、数えていませんが、たぶん10人ぐらいのお子さんがいるようです(亡くなったお子さんもいるようです)。
物理法則以外は規則とは言わない物理法則以外は勧告である・・・本人の抱えている病気のせいか、人の心への配慮があまりできない人のようで、心理学などはこの人の中では下位に属しているようです。しかし組織運営においては学ぶべき点もありそうな感じです。曰く
・技術系管理職は実戦経験を積まなければならない。たとえばソフトウェアチームの管理職なら仕事時間の20%以上は実際にコーディングをしていなければならない。ソーラールーフの管理職なら、自分も屋根に上って設置作業をしなければならない。そうしなければ、馬に乗れない騎兵隊調、剣の使えない将軍になってしまう。
・まちがうのはかまわない。ただし、自信を持った状態でまちがうのだけはやめにしよう。
・自分がやりたくないことを部下にやらせてはならない。
・解決しなければならない課題に直面したら、管理職に伝えて終わりにしないこと。階級を飛ばし、管理職の下の人間と直接会うこと。
・採用では心構えを重視すべし。スキルは教えられる。
・失敗して学べ。
・第1戒:要件はすべて疑え。頭のいい人が決めた要件ほど危ない。私が定めたものであっても、要件は必ず疑え。そして、おかしなところを少しでも減らせ。第2戒:部品や工程はできる限り減らせ。第3戒:シンプルに、最適にしろ。(必要のないものを最適化するのではなく必要のないものをなくした上での最適化であること。)第4戒:サイクルタイムを短くしろ。工程は必ずスピードアップが可能だ。第5戒:自動化しろ。これは最終段階だ。自動化から始めるのは間違い。要件をすべて洗い直し、部品や工程を減らせるだけ減らし、バグをつぶし切るまで自動化は待たなければならない。(これらはこの順序のとおり行うこと)
著者のウォルター・アイザックソン氏によると、本の事前校閲のようなことをイーロン氏は一切行っていないそうです。イーロン・マスク氏にとって有限の時間の中で何を優先すべきかという、そのリストの中にすら自身について書かれた本の校閲などという項目はないのかも知れません。
スコット・フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』
ここ最近アメリカの少し古い映画を観ています。先だってはスコット・アステアの「コンチネンタル」。びっくりしたのは、その当時(たぶん1930年代)のアメリカでは、左ハンドルの車と右ハンドルの車が共存していたことです。全編ダンスが多く、最近のインド映画かと思うところもありました。ま、あくまで私の個人的印象ですので、全然違うのでしょうけどね。
さて直近で観たのが「華麗なるギャツビー(グレート・ギャツビー)」です。スコット・フィッツジェラルドという人の原作です。
本はまだ途中ですが、色んな点が私にとっては不条理に感じられ、いわく言い難い後味が残っています。書かれたのが第一次世界大戦の七年ほど後。映画には何度もなっているようですが、私が観たロバート・レッドフォードのこれは1974年のものです。本の中に気になった文章があったので抜き書きしておきます。
「アメリカ人は、農奴たることはいやがらぬばかりか、進んでなりたがるくせに、貧農たることは昔からいつも頑固にこばもうとする人間なのである。」(新潮文庫p144)・・・意味不明。
「三十歳-今後に予想される孤独の十年間。独身の友の数はほそり、感激を蔵した袋もほそり、髪の毛もまたほそってゆくことだろう。」(同p225)・・・これはうまく韻を踏んだ気の利いた言葉のように感じましたので採録しました。
映画の中では、男たちがいつも顔といわず首筋といわず汗をかいているのが気になりました。顔にあれだけ汗をかいているということは、シャツの背中も下着の中もびっしょり汗をかいているに違いないのですが、画面にはとにかく汗をかいている男たちの顔の大写しが多かったです。汗の意味は、真夏だという設定もあるのでしょうけど、それぞれがなにがしかの隠し事や後ろ暗いことがあり、緊張しているということを表現したのだ、というような説もあるようです。
現代アメリカを代表する作品だということなので、私の感じた不条理感、違和感はさておき、本の方も最後まで読み切って、何が「20世紀最高の文学の2位」なのか、考えてみたいと思います。日本語訳なので、米国の方々のような味わい方は難しいのでしょうけど。
ドストエフスキー『未成年』
数年前にドストエフスキーの『白夜』という短い小説を読みました。なんとも言えない幻想的な失恋小説でした。その時の個人的な印象を言えば、装丁の影響を受けたのか、どことなく日本の「雪女」を連想させられました。そこから改めてドストエフスキーに挑戦していこうと決意したのがこの投稿内容のきっかけになります。
ドストエフスキーは大学に入った年に、ちゃんとした小説を読まなければという思いで挑戦したものです。最初は肩慣らし(ロシア文学への心のハードルを下げるための練習)として『貧しき人々』を読み、人物の名称や表現に馴染んだ上で『罪と罰』に取り組みました。それからかれこれ40年近くを経て、7年前の2016年、一週間ばかし仕事からも世間からも離れられる機会がありこの機を逃してなるものかと思い『カラマーゾフの兄弟』を読みました。村上春樹さんの小説にはしばしばこの本のことが出てきていたので、随分前から気になっていたものです。さらにちょうどその頃亀山郁夫さんの新訳が話題になり、筒井康隆さんが亀山訳によってようやく読めたという主旨のことを仰っていたので、それでは、と私も挑戦しました。いわゆる五大長編の1と5だけを読んだことになります。
それで終わっても良かったのかも知れませんが、あと三作を読まないというのもどうかなと思い、『白痴』『悪霊』『未成年』のどれがいいかなあと検討。なんとなく『未成年』というのはあまり聞きませんし、他の二作の重そうなタイトル、巷間耳にするそれらの小説の重々しさに比べるとまだ軽いのではなかろうかという期待がありました。という安易な理由で『未成年』に取り組んだのが数年前。三、四十ページくらいのところであえなく挫折してしまいました。何が面白いんだろう?ということと、見開きに改行が一つもない文字びっしりのページの連続で、しかも言いたいことが伝わりにくい難解さ(ビジネス文書ではないという割り切りをすべきだったのでしょうけど)、ということで、ほうほうの体で逃げ出したという感じでした。
今年の初めだったと思いますが、丸谷才一さんが「読まれないドストエーフスキイ」と書いておられた『ステパンチコヴォ村とその住人たち』を偶然書店で見つけ、帯に「ドタバタ笑劇」とあったので、一気呵成に読みました。その勢いで5月に改めて『未成年』に挑戦し、約2カ月半かかって読み終えた次第です。
やはり前回同様何度も挫折しそうになりましたが、この間、他の小説には見向きもせずに取っ組み合いをしてきました。後になってわかったのですが、主人公には母の違う姉がいるのですが、その女性のことを「主人公が好意を持っている2人のうちの一人の女性」だと錯覚していました。確かに振り返って読み直してみると「姉」であるとはっきり書いてあるのですが、途中で忘れてしまっていました。そのくらい混乱する小説です。
しかし今回勉強になったことがあります。ロシアの名前のつけかたは、本人の名前・父の名前(少し変形)・苗字、という構成になっているようで、例えばこの小説の主人公であるアルカージー・マカローヴィチ・ドルゴルーキーは、苗字がドルゴルーキー、父の名前はマカール、本人の名前がアルカージー、となっています。姉のアンナ・アンドレーエブナ・ヴェルシーロワは、ベルシーロワが苗字の(たぶん)女性名詞、アンドレイが父の名前(父は、アンドレイ・ペトローヴィチ・ヴェルシーロフ・・・実は主人公アルカージーの実父でもある)、アンナが本人の名前、という具合です。それがしっかり頭に入っていれば、アンナ・アンドレーエブナがヴェルシーロフの娘であり、すなわち主人公と同じ父を持つ姉弟であることもすぐに理解できたはずなのに・・・という思いに駆られます。しかも同じ人物でも、呼ぶ人によって言い方が異なるため、それらが同一人物であるとちゃんと認識しないままに話しが進んでしまうこともあり、複雑な物語が余計わかりにくくなってしまいます。読み手の力不足ではありますが。
しかし後半から亀山郁夫さんがお書きになった参考図書「ドストエフスキー五大長編を解読する」などを時々眺めたこと、全巻終了後に、他の参考図書にも目を通すことで、もやもやっとしていたことが多少は見通しが明るくなったような気がします。中でもフランスに亡命したロシア人作家アンリ・トロワイヤの『ドストエフスキー伝』は直截的で「目から鱗」状態でした。これら参考図書にはとても助けられました。
最後にいくつか抜き書きを。
新潮文庫上巻p519「われわれは韃靼(タタール)族の侵略にさらされ、その後二百年というもの奴隷状態におかれました」・・・参考図書 NHK出版『世界史のリテラシー 「ロシア」はいかにして生まれたか タタールのくびき』
新潮文庫上巻p568「自分が公正な者は、裁く権利がある」・・・ラスコーリニコフ?
新潮文庫上巻p575「アルカーシャ、キリストはすべてを許してくださいます。おまえの冒涜も許してくださるし、おまえよりももっとわるい者だって許してくださるんだよ」・・・親鸞聖人悪人正機説?
新潮文庫下巻p142「笑いがもっとも確実な試験紙だ・・・赤んぼうを見たまえ、あかんぼうたちだけが完全に美しく笑うことができる」
新潮文庫下巻p265・・・マカール・イワーノヴィチ(主人公の名義上の父)の最後の言葉「なにかよいことをしようと思ったら、神のためにすることだ、人によく見られようと思ってしてはいけない」
さて、しばらくはドストエフスキーから一旦離れ、いずれまた未読の小説集と長編二作に戻ってきます。