ロボットプログラミングの授業(小学生向け)のこと

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ご縁のご縁のご縁で、ITマスターという役割をいただき、時々お仕事をいただいています。もちろんジェダイの騎士のようなことはできません。小学生から高校生までを対象に、将来の職業としてIT関連の仕事を選んでもらえたら良いなあという厚労省系の施策の一環です。

2017年度から取組が始まり、初めの頃は職業体験イベントでのお披露目が中心でした。本来は小学校高学年向けに作られたカリキュラムということで、担当の職員さんが各小学校などを回り、出張授業を受けてみませんかと提案しておられた甲斐があり、2年目からはあちこちの小学校で出張授業を実施してきました。

いよいよ来年度2020年度からは小学校でプログラミングが授業で必修化となるということもあり、この一年は随分多くの小学校から引き合いがあり、私たち講師陣も大忙しでした。珍しいということからか、テレビ、新聞などマスコミの取材も結構ありました。ありがとうございました。

毎回20~30人の生徒を対象に実施するということで、実機を使うため、操作指導をする必要があります。かつ受講者全員がある程度は触って実感できるようにするという目標があるため、一人の講師で対応することは極めて厳しいものがあります。
おかげさまで私と同じITマスターの登録者が増え、小学校からの引き合いの増加とともに、一回の授業で同時に数人のITマスターが携わって授業を作ることができました。その都度メイン講師も持ち回りでできるようになり、他の講師の語りや進行の仕方など、毎回とても勉強になりました。 自分でもインストラクションプランは作りましたが、講師によってはA3数枚にわたる進行表(すごい!) を作っていた方もおられました。

今日が今年度の最終回でした。富山県西部の某小学校で5年生総勢61人が参加し、人数が多いので1、2限目と3、4限目の2回に分けての実施でした。基本的な進め方はカリキュラムに沿って同じやり方なのですが、子どもたちの発想は実にユニークで、毎回楽しく授業を進めさせてもらいました。来年度は正規の授業としてプログラミング(ロボットということではないのでしょうけど)が導入されるため、恐らくこの授業に対するニーズは大きく減るような気がしますが、一般的なプログラミングとロボットを使ったプログラミングは必ずしも同じではないので、案外またニーズが続くかも知れません。

ITマスターとしての役割はまだ他のメニューもありますので、今後も精進が必要なようです。がんばらなくっちゃ。

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アメリカの歴史

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アメリカは一つじゃない、ということは、アメリカに限らずどこの国でも同じことなのでしょうが、外と対峙する時のかの国の力強さを考えると、なんとなく一枚岩の国なのかなという錯覚に陥っています。

その、時として一枚岩に見えるアメリカにおいて、国を二分する大戦争「南北戦争」が起こった理由や、どういう経緯で終結に至ったのか、戦後の国内の分断や国民相互の不信感は修復できたのか、など、知らないことだらけだと思い、アメリカの歴史、特に南北戦争のことを少し調べようと思い、図書館で『アメリカ史』(紀平英作編、山川出版社)という本を借りてきました。

日本は、古くから中国や朝鮮半島と交流があるため、歴史の学習において、中国の歴史も一緒に学ぶことが多いです。しかし編者の紀平さんも書いていますが、1853年にペリー提督が軍艦4隻を率いて浦賀にやってきた時を境に、アメリカは海を挟んだ隣の国として極めて近い関係にあり続けてきました。当時のアメリカの人口は、アメリカ統計局のデータから類推すると3,000万人に満たず、恐らく日本の人口よりも少なかったと思われます。(1850年 2,319万人、1860年 3,144万人 アフリカから連れてこられた人々がこの人数に含まれているかどうかまでは確認に至っておらず)http://ocw.nagoya-u.jp/files/221/lec10.pdf
そんなことも私は知りませんでした。考えたこともありませんでした。 しかし19世紀のアメリカは帝政ヨーロッパの動乱と産業革命後の需要をうまく取り込んで、めまぐるしい工業化と領土拡大と経済発展を成し遂げていたようです。

アメリカが国として太平洋岸の土地を自らの領土にしたのは1846年だということです。しかしそれは北部のオレゴンであり、その後メキシコ領だったカリフォルニアなどをメキシコとの戦争で1848年に獲得。日本にやってきたわずか5年前です。

この本を読んで初めて知ったことのもう一つ。今のアラスカ地方は、1763年頃はロシア領だったということ。アメリカがロシアだった・・・というと言いすぎですが、少なくとも北部の一部はロシアが占有していた時期があったということで、米ロ関係ということを考えると、近親者なのかなあと思わざるを得ません。ロシアからすると、お宅のこの辺は250年前はウチだったんだよ、という感じでしょうか。しかも当時はイギリス領とフランス領とスペイン領というものと同列にロシア領があり、アメリカという独立国が存在しない時期です。

上部(北部)左側がロシア領

さて、なぜ南北戦争という同国人での争いが行われたのか。1807年に奴隷貿易禁止法というものが制定されたとのことです。差別禁止という考え方もあったようですが、もっと大きな声はアメリカを白人だけの国にしようという意見であり、そのために黒人をアフリカに返そうという考え方だったようです。そのためにアメリカはアフリカの一角にリベリアという国を作り、そこへアメリカの黒人を引っ越しさせようとしていたようです。みんながみんな同じ考え方ではなく、色んな考え方があって、そのうちの一つではあったようですが。

法制定当時は、多くのアメリカ人が奴隷制は自然消滅するだろうと考えていたとのことです。しかしイギリス産業革命が進展して、アメリカ南部で栽培されていた綿花への需要が増大して、綿花栽培の担い手である奴隷が必須だったため、奴隷制が息を吹き返してしまったということのようです。一方北部は自国で工業化を進めればヨーロッパに高く売れるとばかりに紡績工場を作って木綿をどんどん製造した、ということです。外国から工業製品が安く入ってもらっては困る北部工業地域の人たちは関税を上げようとし、最高税率40%という時期があったそうです。他方南部の人たちは安く輸出したいがために、関税には反対。そんな南北の利害相反が相互の関係を悪化させていったようです。

長らく、南北の上院の人数は、色んな知恵を出しながらうまく妥協して同じ人数になっていたようです。しかし、徐々に北部が、人口では2.5対1、工業生産額では10対1、農場面積で3対1というふうに南部よりも圧倒的に力を持つようになり、国会議員の数も北部が多くなるという状況になり、南部にとって不利益を蒙るような関税率が維持されたようです。その結果、南部にとってこの合衆国にいると損する、という判断が働いたようで、合衆国から離脱し、南部の6州が「アメリカ連合国」という独立国を樹立した、ということです。それに対して時のリンカーン大統領は、アメリカ全土で選ばれたという正当性がゆらぎかねないと自分の立場を維持するために、彼らは反乱分子であり、討伐しなければならない、とばかりに戦争を始めた(戦端を開いたのは南部だったようですが)、というようなことがこの本には書いてありました。

私なりの解釈でつづめて言えば、関税をかけたい人とかけたくない人の意見の相違があり、関税をかけられ続けては困る人たちが「そもそも独立州が集まって連合しているだけなのだから離脱しても構わない」と考えて離脱し、オレの正当性はどうなる!と怒った行政トップがその動きを潰しにかかって始まったのが南北戦争だった、ということのようです。イギリスやフランスは、アメリカが一枚岩ではなく分裂してくれていた方が世界のパワーバランス上は良いとの考えで、南部を応援しようとの思いもあったようですし、南部もヨーロッパは自分たちに味方してくれると期待していたようです。そうこうするうちに、南部の奴隷を解放すれば、北部の戦闘員として使えるという打算もあり、南部地域に対する奴隷解放令を(最初は準備令だったようです)出し、その効果として南部から多くの奴隷が逃げ出して北部の軍に参加し、そんなこともあり、1861年に南部エリア内にある北部の砦を南部が陥落させて始まった南北戦争は丸四年、双方62万人の死者を出して1865年4月に終結したということでした。

しかし驚くべきは、戦死者の3倍の人が戦争中の野戦病院、便所などの不備や不衛生など戦闘以外が原因で死亡したということ。日本が第二次世界大戦でインパールや南洋の島々で戦闘以外で大勢の死者を出したことと同じようなことを、その100年前に彼らは経験していたということ。アメリカは合理的な国だと思っていましたが、合理的になる前に、そういう非人道的な失敗を沢山やってそれを乗り越えてきたということ。その一方で、リンカーンは偉人かも知れないが、黒人を白人と平等だとはまったく考えておらず、差別の対象として見ており、国から出て行ってもらいたいと考えていたこと、つまり奴隷解放は差別撤廃ではなく自分たちだけでこの国を運営していくためにいらない人に出て行ってもらうための前段階の政策であり戦争に勝つための一時しのぎの策だったこと、など知らなったことが沢山ありました。

隣の国なのに知らないことが多すぎます。また勉強しなければ。

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キャッシュレス決済失敗の記(メルカリ/セブンイレブン編)

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年の初めから、今年10月に予定されている消費税率引き上げに伴うキャッシュレス決済・QR決済の普及促進のためのポイント還元やキャッシュレス端末導入補助など、世間ではキャッシュレス決済に関する話題にことかきません。あちこちで事業者向けのセミナーも行われ、経済誌なども特集記事を組んでいます。

私もご多分に漏れず、いくつかの「pay」サービスのアプリをスマホに入れ、銀行口座やクレジットカードとの括り付けを行ったり、現金情報をチャージしたりしたものの、支払の際に「なんとかペイで」というのがなんだか面倒でこれまで使っていませんでした。

しかし先日ある先輩診断士のブログ記事を拝見し、この連休中、メルペイというメルカリの決済手段を使うと50%のポイント還元が行われることを知りました。しかもセブンイレブンでは70%のポイント還元という(還元の上限は2,500ポイント=2,500円相当)大きな還元率とのこと。これは早速やってみなければとメルペイをはじめ、またいくつかの「pay」サービスのアプリをスマホに入れて各種の設定を行いました。

そして今日、勢い込んでセブンイレブンに行き、あれこれ買物をして「支払はメルペイで」と店員さんに告げました。店員さんは慣れたものでバーコードリーダーを私のスマホ画面にかざし、ピッという音はなったのですが、首をかしげて疑念顔。「少々お待ちください」と別の店員さんに相談して帰ってきて仰るには「セブンイレブンではメルペイはまだ利用できません。」との答え。えええっ?と思い、レジカウンターに貼ってある「メルペイ利用できます。70%ポイント還元」という内容のステッカーを指し、「ここに書いてありますが」と言ったところ、「iDの登録をしていただかなければ利用できません」とのお返事。

折角ここまで来て現金払いはしたくないなあと思い、それ以外の「pay」サービスを模索したのですが、私の持っているいくつかの「pay」サービスはセブンイレブンではどれも使えず(交通系ICカードはあるのですが、それを使う新鮮味はないので使用せず)、結局現金払いとしました。

一旦帰宅して調べてみると、今回のメルカリさんのポイント還元施策には、①チャージした現金情報(=メルペイ)またはメルカリで何かを販売して得たポイントを、バーコードを提示して支払する方法と、②スマホのおサイフケータイ機能(iD)を使って上記メルペイまたはポイントの支払いをする方法との2種類があり、セブンイレブンは②のみということのようです。背景には、セブンイレブンが今年(7月頃?)自社の独自仮想通貨を出す予定のため、新しい決済手段に対応するための設備投資や教育などをしないという判断があるのかも知れません。

私のスマホは残念ながらiD機能を持たない古い機種のため、セブンイレブンでのメルペイ支払はできないことがわかりました。しかしバーコード支払は他のコンビニや松屋さんなどでできるということだったので、気を取り直してローソンへ。店員さんに「メルペイで払います」と伝えると最初は戸惑ったような反応でしたが、少しゆっくり説明するとご理解いただけ、「あ、ペイね」とバーコードリーダーを取り出し、決済は無事完了。明日には支払額の50%203ポイントが還元されることでしょう。

 後日譚。支払った金額の50%(端数切捨て)に当たる203ポイントが、今日の午前1:40に還元されていました。早速使おうと思いましたが、今日5月5日はローソンには行かず、ファミマだったため、LINEpayで支払をしました。654円の決済でついたポイントは22ポイント。3%分程度はリターンがあったということになりますね。しかもその後、くじ引きとかいうのがあり(もちろんスマホ上で、ですが)1円当たり喜んでいる有様です。こういうのは当然全て販促費としてLINE会社の収支で見た上でそれでも儲かるようなビジネスモデルなのだろうなあと同社の決算書に思いを馳せているような次第です。

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秘儀・法隆寺の「お会式 逮夜法要」実見録

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何年か前に、宗教学者の島田裕巳さんがラジオ番組で法隆寺の特別な日の話をされていました。
聖霊院(しょうりょういん)の本尊を一年で一回だけ間近で拝むことができる日のことです。

法隆寺正門

聖徳太子は、西暦622年の2月22日に亡くなったそうですが、現在の暦では3月22日とのことで、この日から三日間毎年法要が営まれているそうです。この法要のことを「お会式(おえしき)」と言うそうです。
「お会式」の期間中は聖霊院の本尊などを安置した厨子が開帳されるらしいのですが、厨子の前にはぎょうさんのお供え物が積み上げられているため、ご本尊のご開帳とは言いながら実際には見えないそうです。

法隆寺聖霊院外観

人が亡くなった日は忌日であり、忌日の前日に夜通しで行う法要のことを「逮夜法要」というんだそうで、3月22日の前日3月21日には、この法隆寺聖霊院でも「お会式 逮夜法要」が営まれ、その時に限って法要が営まれた後で一般参詣者も内陣まで入って、開けられた扉の真ん前で本尊を拝むことができる、という話でした。
観光ガイドなどには書いてない話で、よほどの「通」の人じゃないと知られていない話のようで、地元の篤信の方々はそのタイミングをめがけて夕方から徐々に集まってくるのだと言っておられました。

大阪勤務時代に何回も法隆寺を訪れましたが、そういう話は聞いたことがありませんでした。

もう一つ。この日の法要では、お坊さんたちが散華を撒き、参詣者はそれをいただけるという話も知りました。これもなかなか得難い貴重なものです。

法隆寺東院伽藍内

 何年かの準備期間を経て、平成31年(2019年)3月21日、ようやく出かけることができました。
 事前の調査では、午後6時に「逮夜法要」が始まるのですが、夕方から徐々に人が集まるということで、後ろの方に並んでしまうと、折角の散華をいただくことができないということで、我々は意を決して午後4時に入堂。それでも最前列ではなく、2列目になってしまいましたが。
 御簾の手前両サイドには、各地から寄せられたお供え物(麩と大根と人参を切ったもの)が積まれ、内陣は(御簾の真ん中からしか見えませんが)餅や果物や木の実などが沢山積まれていました。
 御簾の上の壁には火の鳥が描かれており・・・。

 待つこと2時間。御簾がシュルシュルと上げられ、やがて、午後6時の鐘が鳴るちょっと前から儀式は始まりました。
 内陣の脇部屋みたいなところに蝋燭が10本ほど立てられており、その蝋燭の炎に照らされたのは神主姿の8人の楽団員。(後ろの人の会話では「楽僧」というお坊さんだそうです)
・琵琶
・大太鼓
・鐘
・琴
・鼓
・笙
・小笛
・横笛
 見事な8人の雅楽団です。

 この楽団がなんとお寺で雅楽を演奏し始めたのです。雅楽団なので演奏するのは雅楽であり、それは当然なのでしょうが、聖徳太子の時代には日本古来の神様と大陸伝来の仏様のどっちをあがめるかということで大きな内戦まで行われていたはずなので(聖徳太子&蘇我馬子vs物部守屋)、意外な感じがしましたが、雅楽=神道ということでは必ずしもなく、昔の日本にはこれらの楽器しかなかったはずであり、仏教寺院で雅楽の演奏が行われるからといってむしろ古いしきたりとしては不自然でも不思議でもないことなのかも知れません。

 彼らが厳かに演奏を始めたかと思うと、右手奥の入口から黒ずくめの僧形が10人。一人、また一人と内陣の畳敷きをゆるゆると歩き、全員が各持ち場に着いたところで一斉に座りました。
 一通り雅楽の演奏が終わり、一息ついたタイミングで左手前に座していたサブリーダー格と思しき僧侶が扇子を立てて読経のようなものを静かに唱え始め、そのあとは全員で読経の合唱。しかし聞いたことのないお経でした。ここの宗派は聖徳宗なので、当然我々が日ごろ聞きなじんでいるようなものではないはずです。

 やがて読経と雅楽演奏の合奏が始まりました。違和感のないハーモニー。

 一旦読経がやんだところで、首座の方が祝詞のようなものを唱え始めました。「ようなもの」であり、もちろん祝詞ではありません。何を言っているのかよくわかりませんでしたが、途中で「秦野川勝に命じ」とか「四天王」とかいう単語が出てきて気がついたのですが、要は聖徳太子の事跡の紹介だったようです。
 個人の遺徳を称えるという役割をこのリーダー僧侶が担っているということなのでしょう。推古天皇を支え、遣隋使を正史として派遣したり冠位十二階や十七条憲法など色々な制度を立ち上げた一方、この国の仏教興隆に大きな貢献をなさった・・・・というようなことを語り、感謝の意を表しておられたのでしょう。あと2年で、亡くなってから1400年も経過するというのに、このように長い間法要で事跡が読み上げられ、感謝され続けるというのは、本当にすごいことだと今さらながら感じ入りました。

 その後クライマックスの読経が始まりました。10人の僧侶と8人の楽団員全員参加の大合奏。
 とてもユニークで実に聞き応えがありました。何がユニークかと言うと、読経の途中で突如女性のような声で経を謡う部分があることです。極めて高いソプラノのようなキーで、まるで裏声で歌っているような、と思ったら一気にオクターブが下がって男の野太い声に戻り、また女性声になり瞬時にまたテノールになるというジェットコースターのような音域の上がり下がりがあり、合奏もそれに連れて上がったり下がったり、こんな世界があるんだなあと驚きつつ聞き入っていました。

 散華は読経の途中に、僧一人につき3~4枚程度方々に撒いており、最前列の人の前にもヒラヒラと舞い降りていました。後からいただくものかと思っていたら、目の前に落ちた散華をさっと拾い上げ、自分の手提げに納める最前列の人々。ははあ、そういう風にするんだね、と感心。
 読経の合間に、自分で撒いた散華を拾い集めて懐に仕舞い込む僧侶も。ええええええっ?と思いましたが、声に出すこともできず。

約1時間の法要が終了した段階で、係のお坊さんが声をかけられ、前の方から順番に内陣の中へ、左回りにお進みください、ってな感じで案内していただき、我々も内陣の中に入らせてもらいました。
幸い散華もいただくことができ、内陣の中にある3つの厨子の秘仏も一通り拝ませていただくことができました。
左の厨子には如意輪観音像、聖徳太子の息子の山背大兄王像、聖徳太子の弟の殖栗王(えぐりおう)像、右の厨子にはこれまた不思議なことに地蔵菩薩像、聖徳太子の兄弟の卒末呂王像、聖徳太子の仏教の師匠だという恵慈法師像が安置されています。そして中央の厨子には眉の吊り上がったちょっとキツめのお顔の聖徳太子像。摂政としてのお姿だという説や勝鬘経(しょうまんぎょう)を講じている姿だという説があるようです。

法隆寺の散華の一つ

富山県くんだりから容易には参加することのできない貴重な体験をさせてもらうことができました。

法隆寺五重塔夜景
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デレク・シヴァーズ氏のTEDトーク「ファーストフォロワーのリーダーシップ論」

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先日、あるビジネスプランコンテストを聞きに行ってきました。

その会場でリーダーシップについて短い動画を見せながらのプレゼンがありました。後から聞くと、デレク・シヴァーズという人が「社会運動はどうやって動かすか」というテーマで行われたTEDトークでの動画だということでした。

http://digitalcast.jp/v/12412/

内容は、ある奇妙な踊りをしている人物がいて、周囲の人々がそれを奇異な目で見ているのですが、そのうち一人の人物がその奇妙な踊りの人物に近づいていき、同じ踊りを踊り出し、そのうち三人目がやってきて二人目から踊りを教わり、さらにそこから大勢の人が踊りの輪に加わっていき、一つの運動体になってしまうという動画です。

デレク・シヴァーズ氏は、リーダーシップで大事なのは最初のフォロワーだと言っています。そしてリーダーは最初のフォロワーたちを対等に扱うことが重要だとも言っています。

この動画を見て思ったのは、幕末の長州藩で幕府への(長州征伐に対する)恭順が議論の大勢を占めていた時に高杉晋作が一人立ち上がり、功山寺で挙兵をした時に真っ先に駆け付けた「ファーストフォロワー」は、彼が創生した奇兵隊ではなく(奇兵隊の当時の指揮者だった山形有朋たちは反対して最初は動かなかったとか)、伊藤博文が率いる力士隊など数隊に過ぎなかったという逸話です。高杉晋作と伊藤博文らはその後快進撃を続け、徐々に他の諸隊もそれに続き、遂には藩論を覆した、ということだったと思います。高杉晋作一人だけが暴れ回っても到底そういう事態には至らなかったのではないか、ファーストフォロワーの伊藤博文たちがいてこそ、はねっかえりの行動が回天の偉業にまで至ったのだ、という話だったと思います。

私たちにプレゼンをされた方は、その動画を、ある時ある自治体の職員に見てもらったそうです。その自治体の首長が新しいことに取り組もうとした時に、首長を「裸の王様」にするもしないも、職員の何人かが支えるかどうかにかかっていますよ、ということを伝え、支えないと改革は成し遂げられないのではないか、まず皆さんがファーストフォロワーになってこの自治体を良くしていく原動力にならなければならないのではないか、と伝えたそうです。

これは、やりようによっては動きに加わらない人を排除・差別・懲罰の対象にすることにつながったりする可能性もあり、ある意味危険なことではあります。特に忖度や空気が支配する日本では起こりがちかも知れません。しかしうまく運んだ事例で考えると、ホンダの本田宗一郎氏に対する 藤沢 武夫氏であったり、ソニーの井深大氏に対する盛田昭夫氏であったり 、三国志の劉備に対する関羽と張飛であったりするのではないかという気もします。そういう支えがあったればこそ、天才が活きるのではないか、つまりリーダーシップはファーストフォロワーのフォロワーシップとリーダーによる差別しない接し方が大事、そして、また、輪に加わらない人たちに対しても彼らの価値観を尊重して排除・排斥しない包容力も大事なのではないかな、などと考えさせられました。

ご興味のある方は上のサイトをご覧になってみて下さい。

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未踏に挑むINTERVIEW ファーストリティリング柳井正さんの慧眼

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2019年1月13日(日)の日経新聞2面に、ファーストリティリングの柳井正さんのインタビュー記事が載っていました。

そこからの抜粋です。

インタビュアーの記者さんはアマゾン・エフェクトや大型買収による巨大化を促すような取材姿勢のように感じましたが、柳井さんはそれを脅威としつつ、また日本の政府も含めた社会全体の立ち遅れを問題視しつつ、自分の頭脳で考え自分でやっていくことが大事だと言っておられました。ごく当たり前のことですが、新しい外部の動きに踊らされていることの危険さを認識していかなければならないのではないかなと感じました。これは、先日林修さんが「できる」「できない」「好き」「好きではない」の四象限でやるべきことを考えた場合、「好き」というのは偶然であってたまたまその時代に生きているから「好きかも」と思い込んでいるだけで、あまり「好き」なことに執着せず、「できる」×「好きではない」ことの方が成功するかも知れないよ、と言っていたことと共通するような気がしました。

色々感銘を受けたくだりがありましたが、ここでは4つのコメントに絞って紹介します。

1.AIの導入を考える前に自分の頭脳を鍛えてほしい。「AIにはまねできない意味」を理解し、適切な質問ができる人間にならないと(AIを)使いこなせない。本庶佑先生の話した6つのCが重要になる。キュリオシティー(好奇心)、カレッジ(勇気)、チャレンジ(挑戦)、コンフィデンス(自信)、コンティニュー(継続)、コンセントレーション(集中力)だ。それと、教科書を信じるな、教科書以上の答えを出せ。

2.アマゾンはショッピングセンター型だから、そんなに良い商品は提供できない。AIだけで採寸して、材質やシルエット、好みをつかむことはできない。(自らネットショップを構築して取り組んでいるがゆえの洞察と感じました)

3.うちもお金を借りようと思ったら何兆円でも借りられる。それで(ZARAを運営する)インディテックスと米GAPでも買いますか。バンバン買ってそれで世界一。以上終わりと。それじゃ面白くないよね、自分でやるから面白いんだ。

この心意気、自信。そして、後継者(経営者)に求める当り前の条件。

4.(後継者の条件は)当然だが、能力を備え、みんなに支持される人。みんなで経営するのだから、その人の言うことだったら聞いていいという人でないと経営者にはなれない。能力があっても、気遣いがないとね。

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明日ありと思う心、について(自戒をこめて)

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ある団体で「研修係」を務めていた時、その団体の副会長だった方がいらっしゃいました。2年ほどのおつきあいでしたが、その方が先日不慮の事故で亡くなりました。満61歳とまだお若く、突然のことでした。

「研修係」当時、その業務の必要性や進め方について迷っていた時に、その方はみんなの意見を聞こうと言って全員が集まった場に自ら登壇し、意見を引き出していつ何をやるかということをてきぱきとまとめて下さいました。見た目には、どちらかと言うととっつきにくい感じで、柔軟性に欠けるような印象があっただけに、その時の対応にとても頼りがいを感じました。

その方のお通夜に出席した時に、導師のお坊さんが語られた説教の中に、タイトルの親鸞の言葉がありました。

「明日ありと思う心の仇桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」

親鸞聖人が仏門に入るべく天台座主の慈円を尋ねた際、夜になっていたため、慈円から「今夜は遅いから明日夜が明けてから得度の儀式をしましょう」と言われたのに対し、幼い親鸞が「今夜中にお願いします」と言って詠んだ歌だと紹介されました。お坊さんは「親鸞が7歳の折に」と言っておられましたが、色々調べてみると「9歳」とあります。それなりのお年になっている真宗のお坊さんがよもや間違えることはあるまいと思いますが、どちらであっても小学校前半くらいの年齢の子どもが「明日には命がないかも知れません。一刻も早く仏の道に近づきとうございます」と言って「桜の花びらが夜半の風で散ってしまう」ことになぞらえて和歌をうたってしまうことには驚かざるを得ません。あるいは子どものが駄々をこねたのかな?とうがった見方をしてしまうのは私が悟りにはほど遠い俗物のためでしょう。

あれほどの良いお人でも、一夜にして亡くなってしまうくらいにこの世ははかない。だからこそ生きている今を大切に、改めるべきは即座に改める、ということが大事なのだというおしえだと感じました。

 振り返ってわが身を考えると、個人事業者として独立して4年近くになりますが、サラリーマン時代と異なり、必ずしも毎日が定時出勤というわけではなくなり、朝少しゆっくりめに起きる(床の中でだらだらと二度寝などして過ごす)日があります。「明日ありと思う心」が気持ちのゆるみを招き、自分で自分をしっかり律することができなくなってしまったようです。その結果腹回りまでだらりとしてきました。かと言って他人様に依存して強制してもらうというのは問題外です。やはり自分で自分を律しなければなりません。来年、いや、明日からはこの親鸞さんの言葉を唱えながらしゃきっと床から出よう、と故人のご縁に感謝しつつこの年の瀬に決意をしたところです。

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NTT時代の恩師思慕の集まり

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今日は13年前に亡くなったNTT勤務時代の最初の上司を偲ぶ会でした。

集まった方々は私よりもずーっと年長の方ばかりで、私なぞはとてもその方々と席を同じうするような立場ではないと承知しつつ、上司のお子さまたちにもお声をかけ、お父様のご家庭でのお話を聞かせて下さい、ということで、比較的お子さまたちと年の近い私も同席を許された次第。

デザインを頼まれて彫刻で作った電話番号が間違っていることに印刷をかける直前に判明し、大慌てでお子様方総動員で修正の手伝いをした話や、手彫りの版画の年賀状の刷り込みもお子様方の仕事だったこと、小矢部の「ムーミン谷」の命名者は三女さんだったということ、照明のアルバイトに駆り出されていたこと、小学校の頃につかこうへいの黒テントを父に連れられて観に行ったこと、家では甘いものも含めてなんでも召し上がっていたこと、料理を作るのは得意だけど奥様が片付けを担当されていたからこそ成り立っていたことなど、ありし日のお姿が目に浮かぶようでした。尾道で生まれ、8歳か9歳で宮大工だったお父上を戦争で亡くされ、お母様の手で4人兄弟の長男として育ったということも初めて知りました。

一昨年奥様もお亡くなりになり、もはやご夫婦のエピソード、奥様のお話は聞くことができなくなりましたが、お子様方がしっかりそれぞれの場所で元気に活躍しておられるので、富山に集まっていただき、お話を伺うことができました。

私が今日このようにあるのは、この最初の上司と奥様のおかげです。ものすごく色々なことを学ばせていただきました。人の営みの連なりと言いますか、昨日があって今日があるということを改めて思い起こすことができ、感謝に堪えません。

上司と奥様に改めて感謝を捧げます。お子様方もお忙しい中ありがとうございました。合掌。

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交流分析全国大会での村上信夫(元NHK)さんのお話

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 昨日10月6日(土)と今日7日(日)にかけて、富山市のサンフォルテで、交流分析協会の全国年次大会が開催されていました。
 私もスタッフとして今日だけですが、参加して参りました。(やった仕事は3階から2階へ台車一つ運んだだけですが)

 今日の講演は元NHKエグゼクティブアナウンサーの村上信夫さん。
 現在65歳におなりになっており、言葉の伝道師として、全国で言葉の大切さを伝える仕事を続けておられるようです。
 2時間近い講演でしたが、その一部、私の中に大きく印象が残ったところを書き起こさせていただきます。
 以下の内容には、村上さんが語られたことと私がそれから想起したことが混在しています。そのため村上さんの意図とは合っていない部分があるかも知れないことをお断りしておきます。

 ちなみに、村上さん、最初の勤務地は富山だったそうです。私は高校生くらいの時ですが、覚えていないものですね。すみません!

・天気の「いい」「悪い」は自分の都合である。
・正しい(〇)、誤っている、(×)の他に「別解(△)」というものが沢山ある。多くの「別解」を許容できなければ、社会は生きづらくなる。
・自分がいいと思えば、いいと言って良いが、「いい」と言う前に、ちょっとの間を置いてはどうか。間を置くことで、自分とは別の感じ方をする多くの人がいることに思いを馳せる=想像することができる。多様性の理解とか自分以外の人と共生していくためにはそれが必要ではないか。
・『二番目の悪者』(小さい書房)という絵本についての紹介。2014年発売。自分の目で確かめることの重要性。それにより真実に近づく。そして自分が確認したことに基づき、自分の言葉で伝える。伝聞の危うさ。
・筑紫哲也さんは自分で取材し、自分の判断で伝えるべきニュースを伝えていた稀有なジャーナリストだった。
・「伝える」と「伝わる」・・・一字違いだが大違い。「伝える」は自分主体、片想い。「伝わる」は双方向、両想い。
・どうしたら伝わるか。本気で、全力、全精力を使って「言葉」を伝えること。今、この時点で、一番ふさわしい言葉を選ぶこと。
・井上ひさしさんの言葉「やさしく、深く、面白く」・・・難しいことは易しく伝え、易しいことは深く考え、深い内容のことでも面白く伝える、といったような意味のようです。
・『人生は声が決める』という本がある。
・ジャパネットたかたの高田明さん。彼のプレゼンはなぜ素晴らしく、多くの人が買ってしまうか。安いことだけが理由ではなく、高田さんが実際に自分で買って使ってみてその良さや面白い使い方を自分で発見するなどして、それを自分の言葉で伝えるから、ウチにも合うかもと視聴者が自分ごととして引き寄せて感じることができる、からである。そのような受け止め方をしてもらえるように、高田さんは師匠である世阿弥から次のことを教わり、日々工夫していた。
・世阿弥が言っていたことは「我見」「離見」「離見の見」。「我見」は自分の立場。「離見」は相手の立場。「離見の見」はそれらを離れて全体を見る立場、俯瞰ということ。これ、荘子の「道枢」に近いかも知れません。

・村上さんが作詞した「嬉しいことばの歌」より。
・おはよう:朝、鏡を見て、自分で自分に笑顔を作って「おはよう」と言うと自分の心の窓が開く。松岡修造さんは寝る時に笑顔を作って寝るのだそうだ。そうすると、疲れてすぐに眠れるし、顔の神経が笑顔の状態を覚えているので、朝起きた時から笑顔でいられるとのこと。
・ありがとう:渋沢栄一翁のお孫さんの鮫島純子さんは部屋中に「ありがとう」を貼っている。こけても「(大きな怪我に合わずに)ありがとう」、便が出ても「ありがとう」、詐欺に合っても「(大金を盗られなくて)ありがとう」「(まだまだ修行が足りないことを悟らせてくれて)ありがとう」と言っている。「ありがとう」の真逆の言葉は「あたりまえ」。拍手は人の幸せを祈るためにするもの。手の甲にあるのは「節(ふし)」、節を合わせるとふしあわせ、手のひらにあるのは「皺(しわ)」、しわを合わせるとしあわせ。
・いただきます:あなたの命を、私の命にいただきます。
・おかげさま:おかげさまは「かげ」に丁寧語の「お」をつけ「さま」を足したもの。つまり「かげ」=目に見えないものに対する感謝の念。目に見えない存在とはたとえばご先祖。10代遡るだけで1024人の人がいる。それだけの人が自分の先にいて、はじめて自分が存在できている。そのことに感謝。
・よかったネ、だいすき、大丈夫:これはワンセットにして。まずは自分に伝える。そして目の前の相手にも。「良かった」と思うことは幸せホルモンを分泌してくれる。幸せホルモンには「我見」から出る「セロトニン」と人の幸せを我がことのように喜ぶことで出る「オキシトニン」がある。これら両方が出ることで、自律神経のバランスが保たれる、とか。
・おやすみ:おやすみとありがとうはセットで。
・言葉は自己への命令。嬉しい言葉を自分に送ることで、自分を変えていく。

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夢うつつと板橋区企業活性化センター中嶋修センター長のこと

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しばらく意識を失っていました。

その中で私は何かのセミナーをやっていました。同じステージにはアドバイザー席のような机があり、そこに座っていた板橋区企業活性化センター長の中嶋修さんがそろそろと立ち上がりながら、おもむろに「あー、ちょっと喋らせてもらってもいいっ?」とあの独特の口調で、表情は柔らかいままで、無理強いはしないけどもし時間をもらえるなら折角だから、という感じで。
私の方は、講演が終わったら引き続き一人10分ずつの個別相談を予定しているというタイトなスケジュールのため、喋ってほしいけれど時間がオーバーするなあとジレンマに陥っている・・・というところでだと気づきました。

10月1日から5日までの5日間、よろず支援拠点の本部研修を受講しました。所は東京板橋にある「板橋区企業活性化センター」。研修の指導者は同センターのセンター長であり、よろず支援拠点全国本部アドバイザリーボード委員長も務めておられる中嶋修さんという方でした。

研修と言いながら、手法やツールについても教わったのですが、どうもそれらとは異なる別のものをも、合わせていただいたような気がします。それが何かまだ判然とはしませんが、中嶋修さんという方の魂のようなものを少し分けていただいたのではなかろうかと感じています。それが夢に現れたのかな?と、勝手な解釈ですが。

正法眼蔵随聞記という本に「霧の中を行けば、覚えざるに衣しめる。よき人に近づけば、覚えざるによき人となる」(五ノ三)という一節があります。長らくこの意味がわかりませんでしたが、ああ、これがそれか、と少し理解できたような気になりました。一つのテーマで5日間の研修というのは結構長い時間ですが、それだけの時間をともに過ごさせていただくことで、師匠の仕事に対する姿勢や心が、吸気や皮膚を通じてしみ込んでくる、という感じでしょうか。頭では理解できていませんが、自分の中に中嶋さんの魂の一部なりとも取り込めていればいいなあと、夢から覚め、ひとしきり思いました。※写真は「板橋区企業活性化センター」ではなく、センターがある板橋区の入り口入り口の交差点です。埼玉県の戸田公園駅近くにとった宿から、荒川にかかる戸田橋を毎日歩いて通勤しました。

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