東京の電車内の中吊り広告のこと(地元の方はとっくにご存知なのでしょうけど)

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先日所用で上京しました。その際、井の頭線と都電(山手線)に乗りましたが、何気なく中吊り広告に目をやると、たまたまその時だけだったのかどうかわかりませんが、以前だったらとても色々な広告があったのが、まるっきり様変わりしており、ビックリしました。

具体的には、井の頭線では吊り棒(正しい名称がわかりませんが、要は広告の紙の上辺をクリップで挟んでいる二枚の棒?細い板?です)に「片面だけ」のもの、本来なら2枚×2枚の4枚(裏表)でワンセットなのに「1枚しかないもの」というぐらいに吊るして宣伝すべきものがない状態でした。

都電については、車両の中の大半が「SUICA」関連のもの。SUICAでこんな周辺サービスが受けられますよといったようなものであり、SUICAそのものの宣伝ではないというものの、要はJRと関連した広告であり、全くの第三者が広告主ではないというものだと私の目には映りました。

一方で車両側面吊り革上の動画広告は5秒おきでどんどん入れ替わり、繰り返し繰り返し激しい光が明滅していました。映像の切り替わりが早いためにずっと見ていることができません。こりゃあ都会の人でも見る気にはならないのではなかろうかと思うくらいの単調なメッセージの繰り返しでした。

中吊り広告が広告市場として魅力的なものではなくなってきた、ということなのかな?という仮説を持ちました。乗った曜日や時間帯がたまたま入替の時間帯だったから少なかったのかも知れませんが、これだけSNSやターゲット広告が花盛りになってきている現状からして、中吊り広告に頼る意味合いが極めて薄いものになったのかも知れませんね。

それはそれとして、この3年あまり、公共放送のテレビニュースを見ると、コロナの新規陽性者数などコロナ関連の報道があるたびに映し出されていたのが東京渋谷のスクランブル交差点の人出の様子でした。曰く「今の渋谷スクランブル・・・このように人出はほとんどありません」「以前から見ると少し賑わいが戻ったような週末です」といった感じで毎度毎度スクランブルの映像が流されていました。その際、必ず目に入ったのが、正面にデンと座った「大盛堂書店」の看板でした。ずっと気になっていましたが、今回の上京の折を利用して入口をくぐってみました。それほど大きな書店ではないものの、地下・1F・2Fの3フロアで書籍販売を行っておられました。もしかすると、コロナ前は3F以上もあったのかも知れませんが、今回お邪魔した時は3F以上は立入禁止となっていました。東京のど真ん中で、この人出の少ない時もしっかり店を守ってこられたことに敬意を表し、文庫本2冊を買い求めました。経営にはなんの足しにもならないかも知れませんが、ほんの応援の気持ちを表しました。それにしてもこの時のスクランブル交差点は大変な賑わいでした。それも若い人・外国人などなど。信号が変わるたびに新しい顔ぶれがどっと対岸に繰り出し、赤信号の間にどんどん溜まって歩道が人であふれ、青信号になるとまたそれらの人が吐き出されて、の繰り返し。東京は賑やかでした。

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年齢と仕事

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先日、手塚治虫さんが60歳で亡くなったということが、ある新聞に書いてありました。亡くなった時のニュースには接していたので、何歳で亡くなったかはその時に知っていたはずであり、本来驚くことではないはずなのですが、自分の年齢が亡くなった時の手塚治虫さんの年齢を超えてしまっていること、また年齢が超えているにもかかわらず今も子どものような気持ちで手塚治虫さんが描いたマンガを面白いと感じて読むことがあること、さらには漫画家とコンサルタントの仕事は比ぶべくもないはずなのですが手塚治虫さんがなされた仕事の万分の一もなしていないまま手塚治虫さんの年齢を超えてしまっているという事実に愕然としてしまいました。

手塚治虫さんはわずか60年の人生でいかに多くの作品を作り多くの人に影響を与えたことか。人間60年あれば凄いことができる、と思うとともに、60年を超えて過ごしてきた自分自身は、さてこれからどうしていくべきかという思いになりました。

考えてみれば、昭和から平成に移る時期に、手塚治虫さんだけでなく、美空ひばりさん(享年52歳)、西堀栄三郎さん(享年86歳)、松下幸之助さん(享年94歳)、松田優作さん(享年40歳)、開高健さん(享年58歳)、田川水泡さん(享年90歳)などです。石原裕次郎さんはもう少し早くに昭和62年に52歳で亡くなっていますが、昭和を彩る方々が相次いで亡くなったなあと当時は感じていました。

それはさておき、人の年齢と仕事ということを考えると、伊能忠敬さんのことに思いが至ります。伊能忠敬さんは49歳で隠居し50歳で自分よりも随分若い天文学者に弟子入りし55歳頃から70歳頃に至る15年間をかけて日本国中を歩き回って日本地図を作り上げた方ですが、この方のことを思うと、仕事するのに年齢がどうのこうのということはあまり関係ないのだろうなあと感じます。他にも高齢になってから世の中の役に立つ仕事をした人は大勢います。そんなことを思うと、改めて、今生きていることに感謝しつつ、大きなことか小さなことかには関係なく、組織とチームとそこで働く人たちの活力が高まるよう支援していこうと思うこの頃です。

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久しぶりに「1/fゆらぎ」を体験してきました~

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桐朋アカデミー・オーケストラ特別演奏会~

富山のオーバードホールで開かれた「桐朋アカデミー・オーケストラ」の特別演奏会を聴きに行ってきました。いい演奏会でした。正味2時間で3曲の演奏。リストの交響詩「オルフェウス」指揮はジョセフ・ウォルフさん。続いてクラリネット奏者の亀井良信さんを加えての、フランセ作曲「クラリネット協奏曲」。譜面台がない。という状態での演奏は、ビックリ仰天ものでした。しかも音域の広いこと広いこと。高音から重低音まで自由自在に吹きまくる、いや、自由自在ではなく決められたとおりに演奏されているのでしょうけど、こちらには全く自由にかつオケとうまい具合にかみあって、という風に聞こえてしまいます。彼の演奏ぶりはとにかくすごいもので、とても説明できません。休憩をはさんで3曲目はベルリオーズの「幻想交響曲 作品14」というもので、休憩中にパンフに書かれていた解説を読んだのですが、なんと失恋の曲。しかも未練たらしく第五楽章まであるというおまけつき。(未練たらしく、というのは私の勝手な解釈です) ベートーヴェンの「月光」は愛する人に思いを馳せて、だったような、曲の背景を映画で知ったような記憶がありますが(「威風堂々」はナポレオンに贈った曲でしたでしょうか?)、これまでほとんどの場合そのような背景を知らずに聴いていました。背景を読んだ上で曲を聴くと、入り込み方が俄然違いました。なんとなく、作曲者の心の映えまで見えるような感覚に陥り、最後は涙腺が緩んでしまいました。素晴らしい演奏でした。指揮のジョセフ・ウォルフさんのダイナミックな動きも大変見応えがありました。

ちょっと最近脳が疲れ気味だったこともあり、2時間たっぷりと1/fゆらぎを浴びまくり、おかげさまで脳の中がスッキリしました。たぶん今脳波を図ると「うれしーい!」という声が聞こえるかも知れません。このコロナ禍のもと、楽団の皆さんは集まって人前で演奏できる機会が少なかったことと思いますが、今日久しぶりにこういう機会を得て、自身脳がすっきりした体験をしたことで、音楽はなくてはならないものなのではなかろうか(不要不急というものではなく)、と結構強く感じました。と同時に、欧米の責任ある方々が日頃からこういうものに触れる習慣を持っているということは、いい音楽を聴いて脳を休め、リセット・リフレッシュさせることで的確な判断をするために必要なことだと知っているのではなかろうか、という気がしました。気のせいかも知れませんが。

ところで、今日の演奏者の方々の顔と名前を一致させたくて何人かのお名前をネットで見ていたら、チェロ奏者でめっちゃ存在感のある渡部玄一さんという方が、実は渡部昇一さんのご子息ということがわかりました。本も著しておられるようなので拝読しようと思っています。

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氷見の“父”の思い出

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敬愛していた氷見の“父”が亡くなりました。コロナ禍での葬儀ということもあり、一般弔問客に許されるのは喪主・ご遺族への挨拶と焼香のみでしたが、最後のご挨拶ができました。思えば私が初めて社会人になって氷見の職場で働き始めた時、“父”はもうその地域の顔役であり、どこへ行っても「かっちゃん」「かっちゃん」と親しく呼ばれていました。

私からすれば、実の父よりも3歳ほど上だったため、大叔父って感じでその方を見ていた気がします。確か社会人になって2年目の春、少し仕事(とっても狭い領域でしかないのですが)がわかったような気になったのか、なんだか回りが遅いように思えて、イライラしていた時期がありました。無性に腹が立つ、って感じです。

その時、私は不遜にも時の上司である課長(当時49歳)とこの“父”(当時55歳)に「最近なんだか腹が立つんですが」などという暴挙とも言える相談をしました。ぶっきらぼうにそれだけを伝え、とても相談の体をなしてはいなかったと思います。言葉に出せなかった部分をあえて書くと「腹が立つようなことがあるとどう対処されていますか、お知恵を聞かせて下さい」という表面的な質問だったのでしょうが、その下にある隠れた本心は「私は仕事がとてもできるんです。でも周りは遅くてなんだかイライラします。私は優秀な人材なので私のことを高く評価して下さい。ほめて下さい」という図々しく尊大な気持ちがあったように思います。

課長はその時「仕事せんこっちゃ(しなきゃいいんじゃないの)」と一言。この言葉には「お前の仕事はそんなに大した仕事じゃないよ。お前がいなくても仕事は回る。作業速度がちょっと速くなっただけなのに、できてる気になってんじゃないよ。少し頭を冷やしたらどうだ」という意味を優しく易しくやさしーく仰ったのだと、実は次の“父”の言葉との合わせ技で気がつきました。(ちなみにこの課長は私にとって石動の“父”です。もう16年も前に69歳の若さで鬼籍に入ってしまわれました)

課長に相談した数時間後、自分の求める反応が得られずに、“父”にも同じ問いをしました。そして“父”は私にこう仰いました。「俺は、ダラやから、腹が立つことはないなあ。むしろ周りのみんなにいつも迷惑ばかりかけているから、ごめんなさい、ごめんなさい、と言ってるばっかりやねえ」(ダラ:関東で言う「バカ」、関西で言う「アホ」に近い語感です)

たぶんその時の私は「お前、ようやっとるのお。さすがや。まあ、周りの人に腹立てずにお前が習得した新しいノウハウなんかがあれば教えてやってや」みたいな、労いやほめ言葉やプラスのストロークが返って来ることを期待していたのだと思うのですが、期待したのとは全く異なる反応であり、しかもご自身のことを無茶苦茶卑下してみんなのおかげでなんとか自分は生きている、だから腹が立つなんてありえない、と言われ、絶句して次の応答ができませんでした。

私は雷で打たれたような衝撃でした。自分はなんと増上慢になっていることか。実父よりも年上の人が私みたいな若造に対して、ここまでへりくだって謙虚な態度を、日頃の自然な振舞い方としてとれるのか、とショックでした。ちょっと一つ二つ事務作業を覚えた程度で自分はできぶつだと思いあがっていたことに、たった一文節で気づかされ、それからは多少は謙虚になれたような気がしています。

その後、私が金沢に転勤し、結婚、子どもが生まれ、実の父から氷見で海水浴をしようと提案があった時も、氷見の“父”に相談し、民宿を紹介してもらいましたし、それ以降も数年に一度程度はご自宅に顔を出しに伺っていました。直近では3年前の春。久しぶりに顔を出しに行きました。その当時で89歳です。しかし目も耳も口も胃も元気溌剌で、まだまだお元気だなあと意を強くしていました。ちょっと車に乗せてくれ、と仰り、ある観光施設まで同行したところ、そこで地域の特産品など数千円分を買い求められ、私に持ってけ、と仰いました。いやいや、土産代ぐらい自分で払いますよ、と申し上げたのですが、「子どもがっ!何を言うか!黙って持っていかっしゃい!」と一喝され、さらにその後、町まで下り喫茶店でおそばまでご馳走になってしまいました。確かに32歳も上で、ご本人のお子さんよりも年齢が下の私は、50歳を超えていようとなんだろうと「子ども」でしかないので、素直に従いました。40年近く経っても当時の学習が生きてない私でした。

3年前の春 氷見を訪れた時の“父”と私

またそろそろ顔を出さなければなあと思っていた今日この頃、朝刊に訃報が出ていました。祭壇の写真は在りし日の笑顔満面の“父”が写っていました。長いこと、本当にお世話になりました。心からお礼を申し上げて来ました。本心を言えば、もう一回お目にかかりたかったです。つくづく思いますね。悔い始めればきりがありません。ああもしたかった、こうもしたかった、こんな話をしたかった、もっとゆっくりそばにいたかった・・・人間は後悔の積み重ねを生きているのかも知れません。

とても個人的な思い出話のブログとなりましたが、この方のこの時の一言がなければ、その後の私の人生は大きく様変わりした(悪い方へ)ものと思い、想像するとぞっとします。今の私の元となった社会人一年目の経験、その経験をさせて下さった氷見の“父”Nさんへの感謝をこめて本日のブログとさせていただきました。

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もうすぐ新年度

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もうすぐ4月、新年度ですね。北陸は雪もほぼ解けて日増しに空気も暖かくなってきました。早い所では桜も咲いています。定期人事異動も多く行われる時期になりました。友人知人の異動も色々あったようです。同級生の多くは定年退職という時期を迎え、さあ自分も一巡終えて再出発、と気持ちの切り替えが必要かななどと思っている今日この頃です。

しかし気持ちの切り替えをしようにも、令和4年、2022年に入ってから、従来に増して慌ただしい日々を過ごして来ました。この先もゆるやかになるわけではないので、いつ切り替えられるかなあと思いつつ、一瞬仕事が一段落してきたため、この1月から3月までの仕事を改めて列挙してみました。書き並べてみると、あくせくしていたわりには大した仕事量でもなかったなあと感じますが。

・ある団体からの依頼による取材2件                        ・ある団体からの依頼によるzoomの使い方説明                         ・企業の経営計画策定3件                                  ・国の支援策利用のためのお手伝い4件                                  ・DXに関するセミナー                                      ・補助金に関するセミナー                                             ・従来からのよろず支援拠点の経営相談業務                                    ・従来からの経済2団体の経営相談業務                                 ・心理学の勉強会                                       ・ある団体からの依頼事項                                ・よろず支援拠点の新規事業着手の準備と従来事業の後任への引継ぎ

よろず支援拠点は、平成26年6月にスタートした国の単年度事業で、私は平成27年から相談員として参画してきましたので、丸7年になります。前職の金融機関での仕事が7年弱でしたので、いつの間にかその期間よりも長く(但し、勤務は週2回程度ですが)携わってきたことになります。そのよろず支援拠点の事業が転換点を迎えているようで、従来の比較的小規模な事業者さんへの対応というメイン業務は引き続き行われるのですが、私はそれとは少し異なる内容の事業に携わることになりました。詳しくはまだよくわかりませんが、「今・ここ」で精一杯取り組むというスタンスは変わりません。お客様の幸せに貢献することができればと思います。

新型コロナウイルスが流行し始めてからかれこれ2年が経過します。この間、外に出たり、公共交通機関を利用したり、人と積極的に会ったりすることを控えてきました。しかしそろそろまた外での活動にも取り組んでいきたいところですし、3カ月も休んだこのブログでの情報発信ももう少し頻度を上げてやっていきたいと思っています。

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トヨタ自動車のEVシフトの衝撃

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昨日2020(令和3)年12月14日に、トヨタ自動車の豊田章男社長が、2030年までに世界の電気自動車(EV)の販売台数を年間350万台にするという方針を示しました。うち、最高級ブランドのレクサスについては2035年までにEVを100%にすることを目指すそうです。以前はFCEVも含んで200万台と言っていたようですので、一気に8割増し目標の設定への転換ということです。関連ニュースhttps://www3.nhk.or.jp/news/html/20211214/k10013387871000.html

思えば、通信回線の分野では一旦xDSLでアメリカの後塵を拝していましたが、その後光戦略で世界最先端となったものの、その中を通る情報、IT化、デジタル化、またテレビのディスプレイ、白物家電、スマホ、パソコン、ソフトウェア、半導体に至るまで、どんどん世界の先端から脱落してきたのがこの20年ほどではなかったかと思います。そうした中で遂に自動車分野でも、と落胆しかけていたところにこのトヨタのニュースです。

トヨタ自動車は既存の裾野産業を守るため、部品の少ないEVではなく、燃料車へのこだわりを捨てられず、自動車分野でも世界の潮流から取り残されてしまう、という危惧を抱いていました。日本がいくら燃料車で頑張っていても、そのうち中東などから原油が入ってこなくなる恐れもあり、そうすると日本人の移動手段が大きく損なわれる恐れもあり、そちらもまた恐ろしいことです。

しかしトヨタがオロオロ迷走している(と見えていました)間に、ニッサンが間隙を縫ってEV戦略を強力に推し進めると宣言したのがつい先ごろだったと思います。さてトヨタはいつまでスッキリしない態度を続けるのだろうかと思っていた矢先、昨日一気に15台の新型EVを引っ提げて、大きな方針の転換を発表しました。

となると気になるのが裾野産業たる我らが下請・孫請の中小企業です。EVやFCVへの大転換にトップランナーたるトヨタや他の自動車メーカーが向かう中、部品点数が少なくなると、ついていける中小企業はおのずと限られてくるものと思います。確かに人口減少・後継ぎ不在・自主廃業という企業もこれからさらに増えると見える中、残った企業でやっていけるだけの仕事量になるのかも知れません。

もう一つ、産業界への影響の大きなことが、給電施設の整備についてです。豊田章男社長は、日本中の販売店に給電スタンドを設置するという構想も明らかにしていました。ガソリンスタンドにとっては戦々恐々ものだと思います。エネルギー産業もトヨタが担っていこうという宣言に近いものではないかと思います。世界中を舞台にした競争ですので、国内産業の保護育成ということでは解決できない大問題への挑戦なのだろうと思います。

今回15台のモデルを発表したそうで、普通乗用車からピックアップトラックのようなものまで様々な車種が並んでいたのですが、よく見るとワゴン車が見当たらないような・・・是非ワゴン車も早々に発表して欲しいものです。https://trafficnews.jp/photo/113561#photo5

今後、日本の産業界は大きな激動の時代に入るのではないかと思われます。企業は生き残りをかけて、文字通り鵜の目鷹の目になって技術の取り込みや人材の確保・仕事の確保に取り組む必要がありそうです。そんな時に、受注量の水増し(行きつく先はGDPの嵩上げ)を都道府県に指示する国のお役人たち・・・一体全体何をしているのか、そんなヒマがあればもっと目の前の現実の問題・課題にちゃんと立ち向かえ!と喝の一つも入れたい気持ちです。歯がゆいことこの上なし、の昨日今日でした。

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剱岳を望む町での交流分析カフェと20年ぶりの歯医者さん(痛!)

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10月になり、コロナウイルス感染症の新規陽性者数が減少してきたこともあり、以前からお声がけをしていた「交流分析カフェ」を、ある方々と一緒に始めました。場所は上市町の剱岳など立山連峰を望む某所。一緒に学ぶ仲間は約10名。

ゆくゆくは全ての高校生に交流分析の「知恵」をお伝えしたいという気持ちを持ちつつ、今は少しずつ自分のできる範囲での取組です。

偶然、市から歯科検診に行きなさいという案内ハガキをいただき、しばらく温めていたのですが、10月という何か今ならというような気になって、息子たちがいい歯医者さんだよと言っている市内の歯科医院に行ってきました。今日が3回目。1回目は市の指定検診。レントゲンを撮って異常があるかないかを見るもので、外見は異常なしとの見立てだったのですが、折角だから溜まっている歯石を取りませんか?という提案をもらいました。私自身、大阪から帰ってきて、しばらくのちに近所の歯医者さんに「歯石を取って欲しいのですが」と予約のつもりで電話をしたら、「うちはそういうのはやってません」と言われ、爾来、大阪で最後に歯医者さんに行った時から通算約20年間、歯医者さんの門をくぐったことがありませんでした。そういうこともあったので、こちらとしても是非歯石除去をお願いしたいということで、先週と今日の2回にわたり、歯石除去作業をしてもらいました。さあこれで晴れて放免、と思っていたら、件のレントゲン写真を見せられ、あなたはここの歯が実は虫歯なんです、とショッキングな宣告。しかも「相当やばいかも知れません」という言い知れぬ恐怖を覚えるような付け足しまでいただく始末です。最近は麻酔技術も進んでいると期待してはいるものの、20年間放置したつけかなあと思ってみたり、いやいや、20年間歯医者さんに行かなかったにしては、虫歯が一本だけ、しかも自覚症状なし、というのは良い方ではないだろうか、と自画自賛の気持ちになったり。

今日は色々揺れ動いた一日でした。

交流分析カフェで使用している交流分析の基礎テキストと図書館で借りた本(双方に関係はありません)

写真の『知的文章術入門』は、地元の図書館で借りたものですが、とっても良い内容です。しかも著者が素晴らしい。1936年のお生まれということですからあと15年で100歳になられるお年であるにもかかわらず、現役の大学の先生で、zoomだウィキペディアだ大江健三郎だ『スマホ脳(今年の流行本の一つ)』だコピペがなぜいけないかだフェイクニュースだ英語だなんだと、ご自身の専門分野を土台にしつつ新しいことも沢山取り入れ、いまどきの若い人にもわかりやすい文章読本になっています。(あ、既に長文になってしまい、この本の教えを逸脱してしまいました。反省。)特に行政文書のわかりにくさについて、極めて明快な解説とあるべき文章を鮮やかに提示されている辺りは、行政官の方々はもとより、私自身も(行政官ではありませんが)とくと見習うべき点だと感じ入っています。

さて、今夜からまたブラッシングを楽しみます。

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利賀村で水野和夫さんと大澤真幸さんのお話しを聞きました。

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2年ぶりに利賀に行ってきました。鈴木忠志さん主宰・劇団SCOTのお芝居を観るためです。しかし今回はもう一つ大きな楽しみがありました。経済学者の水野和夫さんと社会学者の大澤真幸さんのシンポジウムがあったのです。水野和夫さんは名著『資本主義の終焉と歴史の危機』他「資本主義の終焉」シリーズや対談本を多数出版されています。他方大澤真幸さんは小室直樹さんの高弟のお一人であり、NHKeテレ100分de名著『メディアと私たち』で山本七平さんの『「空気」の研究』を取り上げたり『世界史の哲学』シリーズや平易に社会学の流れを解きほぐした『社会学史』や最近では『新世紀のコミュニズムへ』の出版の他、橋爪大三郎さんや国分功一郎、木村草太さんなど色々な方との共著も多い、ともに現代の碩学、と私は思って日頃から発信されるものを注視してきました。

今まで知らなかったことが恥ずかしいくらい、このお二人は随分長い間、毎年この利賀村にお越しになり、SCOTのお芝居を観て、勇気をもらい、また都会に戻って精力的に著述や発言をなさってきたということでした。私自身、一昨年久しぶりに利賀へ行こうと思ったきっかけは、水野和夫さんの『資本主義の終焉』シリーズを三冊読んで、そこに書かれていた、水野さんが毎年通って観ている利賀での芝居の話に魅了されたからというのが大きな理由の一つです。(残念ながらまだその肝心の「世界の果てからこんにちは」は観ることができていないのですが)

さて、お二人の碩学のシンポジウムでのご発言など、勝手に抄録。尊敬する碩学お二人の時代認識などを生で聴くことができ、感激の2時間弱でした。

左から、司会進行の山村武善さん、水野和夫先生、大澤真幸先生
(肖像権を考慮しお顔の一部にマスキングをしました)

・1995年に米国の疾病センターの医師がこれから感染症が増えると警告していた。しかし日本では1990年代から保健所の数を減らし公立病院のベッドを減らし続けてきた。そして今回の新型コロナウイルス感染症の事態となり、国家は国民の生命の安全保障をしなくなったことがわかった。同時に資本の暴力性が顔を出した。

・コロナ危機は終わらない。大きな地球規模の気候変動の一部であり、終わりなき非日常を我々は生きていかなければならない時代になった。この一年半の間に、私たちは資本主義は死ぬかも知れないと一瞬思ったし、それがどんな状態になるかを垣間見たのだが、知らなかったことにしよう、というのが今の異様な株高の背景にある。

・資本主義と近代オリンピックには共通点がある。例えば近代資本主義社会の原理は「より早く、より遠くに、より合理的に」であり、オリンピックは「より早く、より高く、より強く」である。より強くをより合理的にに置き換えれば近代社会の特徴そのものである。近代社会は不確実性を減らすこと、予測可能性を高めることで成長してきた。しかしニクソンショック(ドル-金本位制の廃止)で、今日の1円が明日も同じ価値を持つ1円とは限らない状態になってしまい、確実性が消滅した。それと同時に近代オリンピックmその役割を終えた。特に顕著になったのは1984年のロス五輪からであり、神々に人間の身体を見せる・人間の身体を神々に近づけるという崇高なはずのオリンピア精神ではなく、コマーシャリズム・資本の一部に呑み込まれてしまった。もちろん競技者たちは純粋に取り組んでいると思われるが、競技自体は資本の一部にならないと存続できない状態になっている。

・グローバル資本主義・・・人・物・金の移動の自由が標榜されていたが、実際にその恩恵に浴することができているのは、ほんの一握りである。そして、私たちは本当はもう死んだことを知っているのに、究極まで手放せないでいる。トムとジェリーのトムがブルドッグに追いかけられて崖を飛び出して走り続けているのに、ある瞬間それに気づいてそのまま地上に落ちるようなものである。私たちはこの一年半の間に、ほんのわずかな時間、資本主義を手放した。ヨーロッパでは贈与経済の復活があり、日本でも私的所有の否定につながるベーシックインカムに近いこと(全国民に一律10万円配布)が行われた。本当の危機になれば資本主義も「不要不急」になる。

・2100人のビリオネアが10超ドルの資産を保有している。下位6割の46億人の資産は8兆ドルである。資本主義では努力した人・能力の高い人が成功し、そうでない人が貧困となるというような言説があるが、GAFAのトップが数億人・数十億人の人よりも能力が高いという証明はない。昨年の特別定額給付金は全部で12兆円配布されたが、その一方で個人資産が20兆円増えている。一体どういうことか。お金持ちの資産がさらに増殖したことを意味する。日本の個人金融資産は1950兆円だが、2割の家庭では資産がゼロである。この現在の状況が今後30年続くと、日本の「無産階級」は4割になる。大変な格差社会となる。既に東京23区内で見ると、所得の高い区は子どもの学力が高いという相関関係があり、それも一直線となっている。子どもには責任がないのに望む教育を受けられない状況になっている。

・資本主義の原理は自己利益の追求である。自己利益を追求した結果公益に寄与するということを整理したのがアダム・スミスである。自己利益を追求するためには私的所有権が前提になる。しかし、私的所有権を一部制約し、コモンズ(共有)の領域を少し増やすべきではないか。例えばインターネットなどは本来コモンズであるべきだが、一部の企業がプラットフォームとして私的所有していることが問題。所有権の上には生存権や知的財産権があるはずだが、イギリスのサッチャー首相は国が個人の生存権を保護しなくなった。新自由主義・自助努力主義である。この考え方が今日のビリオネアを生み出した。2030年には、大きく資産を増やした企業や個人への課税が強化される可能性がある。ドレイクという海賊ですら得た利益の半分を国家に寄付した。

・東インド会社に先立つスパイサー保証組合という組織に初めて「法人」という人格を認めた。これが永遠の命を認めた最初である。個人の相続も同じである。しかし法人格というあり方は役目が終わっているのではないか。一事業限りで解散し、また次の事業で集まるというあり方もあるのではないか。土地の利回り以上に稼いだ分は内部留保ではなく課税するというやり方もある。475兆円の内部留保は国民の生活向上に役立っていない。100%自己所有じゃなくてもうまくいく方法がある。

・今の状態は氷山にぶつかったタイタニック号である。このままでは沈むことはわかっているがみんな見ないふりをしている。その理由は、飛び出せば氷のような冷たい海に落ちてしまい、どのみち死ぬと思っているから、今の船の中にしがみついているのである。しかし、タイタニックを手放しても大丈夫という自信を持って多くの人が飛び出せば、そこに新しい船が作られる。利賀でやっていることも資本主義に対するアンチテーゼの一つである。ダニエル・ベルが『資本主義の文化的矛盾』という本で「元々資本とは関係ないと思われてきたものすら、資本に呑み込まれてきており、例えば芸術すら資本から独立できなくなっている」と言っており、もちろん、芸術家もお金が必要だし、売れることと成功することと能力が高いことや努力などが関係ないわけではないものの、芸術の独立的価値という側面も重要である。自信と勇気をもって資本主義の枠外へ飛び出す。

勝手に抄録は以上、ここまでです。世の中を見る見方に、また新しい視座をいただいたような気がします。まだまだ精進が必要です。

夏の雲と秋の雲が交差しそうな利賀大山房(旧中村体育館)

さて、シンポジウムの後は、昼食休憩を挟んで昨年から上演されている、鈴木忠志さんの新作「世界の果てからこんにちはⅡ」を観ました。内容は・・・今回は言及しないでおきます。というよりも、言及できるだけの頭の中の整理がまったくできていません。とりあえずここでは、来年こそ「世界の果てからこんにちはⅠ」を観させていただくべく決意しました、と言うに留めておきたいと思います。

(参考)最近のお二方のご著書

水野和夫先生と大澤真幸先生の近著
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塩野七生さんの『ローマ人の物語』

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塩野七生さんの『ローマ人の物語』文庫版全巻をようやく読み終えました。平成14年の刊行から丸18年をかけての通読となりました。元々ハードカバー版の第1巻が刊行されたのが1992年(平成4年)で最終の第15巻が2006年ですから、著作仕事自体も14年がかりでの大仕事です。

元々塩野さんの著作は学生時代に求めた『神の代理人』や『ルネサンスの女たち』『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』あたりから親しんでいたので、『ローマ人の物語』が出た時も書店で何度かページをめくりつつ、あまりに分厚いので購入には至らず、文庫版が出た時には躍り上がって喜んで買い求めたものです。

全編にわたり、過去の様々な記録や遺物をなぞって歴史の経緯・叙述を記しつつ、都度ご自身の推論も提示しながら読者に示す書き方となっており、何が記録で何が自身の考えかを区別しながら読み進めることができました。これは塩野さんの書き方の特徴であろうと思います。

ローマ皇帝というのは絶対君主のような印象を学生の頃は持っていましたが、この本を読んで初めてわかったのは、まったくそうではなく(歴代の皇帝にもよるようですが)、基本的には元老院という貴族(これも固定的ではなく新規参入貴族もあったようです)たちが承認するという手続きがあったこと、世襲とは限らず現皇帝の甥や信頼のおける部下に引き継いだこともあり、クーデターでの交代もあった(にもかかわらず皇帝という制度はそのまま)、というバラエティに富むあり方だったことです。ずっと後の時代にはローマ教皇が戴冠するという風に変わっていったようですが。

この本の私にとっての圧巻は、ハンニバル、カエサル、そして西ローマ帝国の滅亡のあたりです。

ハンニバルについては、文庫第4巻「ハンニバル戦記(中)」にある次の文章に、リーダーとはかくありたいと思わせる一文があります。「全軍を休ませるに足る宿営地の設営など、考えるだけでも無駄だった。山岳民が使う避難所や要塞に出あえば、神々の恵みとさえ思えた。多くの夜は陣幕を張る場所さえ見つけられず、それらを身体に巻きつけて風と寒さを防いだ。たき火は燃やしたが、暖をとるまでは不可能だった。総司令官のハンニバルも、一傭兵と同じく凍りついた食をのどに流しこみ、一傭兵と同じに崖下で仮眠をとった。だが、彼にだけは、一兵卒ならば考えなくてもよい種々のことを考え、情況に応じた判断を即座にくだす必要があった。」

欧米諸国では「ハンニバルが来るぞ」というのは子どもを怖がらせるための親の脅し文句で、日本での「鬼さんが来るぞ」というのに近いようなニュアンスがあるそうです。食人鬼のような恐ろしさをこめられているように思いますが、実際のハンニバルは将兵とともに起居し、将兵と同じ苦労をし、将兵に混じって仕事をしていた(但し戦略は自身で練っていた)、というある種理想的なリーダーだったのではないかと思います。戦後のある時のローマの将軍スキピオとハンニバルの邂逅シーンも優れた叙述だと思います。

カエサルについては、絶対君主を目指した横柄な人物でエジプトで女王と結婚し挙句は側近に裏切られて衆人環視の中で殺害された、という印象がこの本を読む前の私のイメージでした。しかしこちらもとんでもない誤解だった・・・事実の一部はあっていたのでしょうけど・・・ということがわかりました。なにせハードカバー版で2冊にも及び、文庫版では6冊にもなる、全巻通じて最もページ数を多く割かれた、超痛快な人物です。(捕虜として捕らえられた時の態度が刮目に値します。ある意味「犬のディオゲネス」が奴隷として売られた時のような潔さに通じるような) のみならず、塩野さんはよほどカエサルが好きなのか、皇帝の失政が見られるたびに(と言っては大げさですが)「カエサルだったら」とか「カエサルがもしいたら」みたいなことを後々までずっと書いておられます。

最後の43巻は蹂躙される自分たちの街に住む人々の惨状に思いを致し涙なしでは読めませんでした。しかし、塩野さんのこの本を通じて学んだことは、ものごとは一方からだけ眺めるのではなく、相手の側の目線も必要であるということで、攻める側からはまったく異なる(悲劇ではない)風景が見えていたのだろうなあとも思います。現場で当事者としてその被害にあっていない立場だからこそ取りうるスタンスなのでしょうけど。ただ、現代ではとても直視できない光景です。フレデリック・ラルー氏の『ティール組織』にある「レッドのパラダイム」だということを前提に置かないととてもではないですが。(私たちは既にそのパラダイムは超克しているはずです)


476年に西ローマ帝国の皇帝が廃されて以降のイタリアは、故地回復という名の下に思いつきのように戦いを仕掛ける東ローマ帝国皇帝といわゆる蛮族の平和的支配と劫掠の中でボロボロに疲弊していく旧西ローマ帝国の人々。特にミラノの惨状は目を覆うばかり。食糧生産はできず水道網は市民を救済するという目的での戦闘のために破壊されるなど、戦争は文明と一般の人々の暮らしと心を崩壊させることは間違いないことはよくわかりました。
フレデリック・ラルー氏の『ティール組織』にある「レッド・パラダイム」がそれよりも上位概念であるはずの「アンバー・パラダイム」を打ち負かしたということなのか、はたまた。粗野が往々にして文明に勝ることもあるということの証拠なのでしょうか。
アッティラが東ヨーロッパに攻め入ってきて押し出される形でフランクやらゴートやらが東西ローマ帝国を襲うのですが、そもそもその背景にあったかもという気候変動については塩野さんは触れられておらず。「人の歴史」として描かれたので自然現象は思索の対象外ということだったのかも知れません。最後に泣きを見るのはいつも一般市民です。
長い月日の中で蛮族と言われた人々は少しずつローマ帝国に(軍隊を中心に)取り込まれ融合していき、その中でかの文明のもろさや弱さを学習し、攻めどころを理解し、中に入ったり外から攻めたりしながら、最後は砂の城が崩れるようにポロポロと崩壊していった感じがします。
とは言えキリスト教会は存続し蛮族と言われた人々もヨーロッパのあちこちに住まいし、また帝国を逃れて海辺に行きやがてヴェネツィアとして千年の栄光を誇る人たちもいたり、やがて元々同一国だったはずのヨーロッパの人々が東ローマ帝国を蹂躙しコンスタンチノープルを崩壊させたりと、歴史はまだまだ続きます。

塩野七生さんの著作の一部

ともかく、長い間一つのテーマで楽しい読書をさせていただきました。塩野七生さん、ありがとうございました。

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「アリストテレス」が東へ西へ

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2020年5月と6月はブログの投稿を怠ってしまいました。

仕事柄実務をするばかりではなく時折は経営理論についての仕込みも必要であり、入山章栄さんの『世界標準の経営理論』なる大部の書物をめくっていました。

そんな中、同書のp662に「アリストテレス、カント、ベンサムらが提示した哲学理論は、いまも規範的な企業倫理の基礎になっている。」との一文がありました。ちょうど企業倫理について人様の前で話さなくてはならないということもあり、調べておかなければならないなあと思い、アリストテレス関連の書物やアリストテレスを西欧に再導入してキリスト教学と親和性を持たせたトマス・アクィナス関連やしばらくの間ギリシア哲学を保存していたイスラムの知の歴史などを調べていました。アリストテレスはギリシアの哲学者であり、ローマ帝国のどこかのタイミングで「過去の人」になり、ローマ帝国崩壊後はなぜかイスラムで継承され、その後再び西欧哲学の支柱になった・・・・なぜ「過去の人」になったのか、なぜイスラムに移ったのか、なぜイスラムで維持されたのか、なぜ再び・どういう経緯で西欧に戻ったのか・・・疑問が山積噴出です。色々調べてもわからないことだらけですが、時系列でそれに関することだけでも世界史の年表から拾ってみようというのがこの投稿の主旨です。残念ながらそれ以上深みのある作業ではありません。悪しからず。

なお作業は上記の諸書物を渉猟したのち、結局高校時代の世界史年表とNTT出版が1990年頃に「電話100年」記念事業として出版した松岡正剛さん編集になる『情報の歴史』から抽出しました。

788年 第5代カリフのハルン・アル・ラシード「知恵の宝庫」と名付けられた図書館を設立。学者や書物を集め、知識の府とし、ここでギリシア語の文献を翻訳させた。(イスラムによる版図拡大⇒征服地には元アレクサンダー大王による占領地が多数含まれており、ギリシア語の文献も多く存在していたと思われる)           800年 カール大帝、教皇レオ3世から戴冠807年 ハルン・アル・ラシードがカール大帝に水時計を寄贈。(イスラムから西欧に贈り物!)820~830頃 「アリストテレスのイスラム化」との記述あり830年 第7代カリフのマームーン「知恵の宝庫」を拡充、「知恵の館」を設立836、920、931、941・・・この頃イスラム世界におけるアリストテレスの紹介活発950年頃 コルドバの人口50万人、図書館も充実、当時のヨーロッパの学問の中心地に。(イスラム勢力が8世紀以降スペイン、ポルトガル<当時はアンダルスと呼ばれていたとか>を支配していたが、イスラムによる征服前はキリスト教がかなり普及しており、イスラム文化を受け入れた現地の人たちがアラビア語で記されていた元ギリシア語の書物をラテン語に翻訳しており、やがてそれらがピレネー山脈を越えることで西欧のカトリックの世界に紹介されることで中世西欧の学問の基になったとか)1030年 イブン・シーナ『医学典範」『宇宙論』『形而上学』などを著す。(アリストテレスの諸学問の影響大と思われる)1088年頃 ボローニャ大学創設(ヨーロッパ最古の大学)1096年 第1回十字軍(『アラブが見た十字軍』という書物には、攻め手のすさまじい暴行略奪食人の様子が描かれています。聖地奪還という美名に隠された別の目的があったのではないかと思わせるような悪行ぶりです。それは「異人は怖い。だから何をしても良い」という非文明時代の人たちだったからなのかどうか・・・塩野さんの『十字軍物語』なども含め、双方の立場で見てみて、歴史に学ぶことが必要だと思います。)1113年 ヨハネ騎士団、テンプル騎士団など創設1120年代 イスラム哲学のラテン語訳始まる(アデラード、アベラールなどによる)・・・いわゆる12世紀ルネサンス?1187年 サラディン、エルサレム占領1200年頃~ アラビア語アリストテレスのラテン語訳、ヨーロッパに広がる1210年 パリの協会、アリストテレス学説の授業禁止。(なぜでしょう? アリストテレスの考え方にはキリスト教の神が存在しない・・・「人はロゴス(理性)に従って善、中庸の行いをすれば幸福になれる」と考えており、それは神の否定につながると思われたからでしょうか・・・)1228年 教皇グレゴリウス9世、アリストテレス哲学をキリスト教に導入することを禁止。(上記の理由で全面的に禁止になったのでしょうか?)1229年 フリードリヒ2世、エルサレムに入場(第5次十字軍)1231年 教皇グレゴリウス9世、アリストテレスの理論の中で協会の協議に合うものを審議(一旦は禁止したものの、多くの人がアリストテレスの何かを知るようになり止められなくなったのかも知れません)1255年 アリストテレス学説、パリ大学人文科の教授対象となる(ここまで来ましたか、という感じですね)1273年 トマス・アクィナス『神学大全』完成。アリストテレス哲学と神学の関係を整理。哲学を神学の下に位置づけて取り込み。

・・・この間、モンゴル軍がポーランドまで侵攻したり(1241年)、第4回の十字軍が味方のはずのコンスタンチンープルを陥落させたり(1204年)、とややこしさ・複雑さが増していく感じがしますが、そこまでは追求しないでおきます。こんな風に歴史を読んでいくと、世界はお互いに影響し合ってなんとか辻褄を合わせながら生きてきたんだなあと感じます。イスラムの歴史、ローマ帝国後の西欧の動向などさらに学んでいこうと思います。

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