『徒然草』第百十七段の「よき友」を目指して

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先日、ある会合で「よろず支援拠点の伴走支援」について仲間と情報共有を行いました。「よろず支援拠点の伴走支援」とわざわざ断りを入れる理由は、現在国の勧めで色々な中小企業支援機関(商工会、商工会議所、信用保証協会、金融機関、認定支援機関、中小企業活性化協議会などなど)が「伴走支援(中小企業、小規模事業者、個人事業者に対して寄り添った形での支援)」をやっており、それぞれ微妙にやっていることが異なるためです。異なること自体は問題ではなく、色々な伴走の仕方があってしかるべし、とされているようです。

それはそれとして、私の所属する富山県よろず支援拠点(勤務は週2日ほどですが)では、令和3年からエドガー・シャイン教授の唱える「レベル2」の関係でのコンサルティングを志向してきました。これはコンサルティングが「答を教える」という従来のスタイルでは通用しないことが発生する時代になり、これまでとは異なるやり方をしていかなければならなくなったという研究結果から出てきた一つのあり方を提示したものです。もちろん「答を教える」ことで解決する課題も相変わらずありますので、これまでのコンサルティングを全否定するものではありません。

クライアントとコンサルタントの「レベル2の間柄」とは何か。シャイン教授はこんな感じの説明をしてくれています。曰く、「固有の存在として認知」「たまに会う友人」「次の3点で通常より深い・・・①交わした約束を互いに守る、②相手を傷つけたり相手が努力を傾けたりしていることをけなしたりしないと合意する、③嘘をついたり仕事に関わる情報を隠したりしないことに合意する」・・・令和4年の春によろず支援拠点の全国本部から提示された伴走支援のガイドラインにも、このシャイン教授の考え方に基づいて仕事をするように、とされていました。

さてそこで改めてふと思い出したことが『徒然草』でした。第百十七段に以下のようなことが書いてあります。以前も投稿したかも知れませんが・・・「友とするに悪き者、七つあり。一つには、高く、やんごとなき人。二つには、若き人。三つには、病なく、身強き人。四つには、酒を好む人。五つには、たけく、勇める兵、六つには、虚言する人。七つには、欲深き人。よき友、三つあり。一つには、物くるる友。二つには、医師。三つには、知恵ある友。」

と、これだけの文章ですが、まず、自分自身「友とするに悪き者」に該当する要素がいくつかあり、この時点で汗顔の至りではありますが、それを踏み越えて、「よき友」に進ませていただきます。私たちコンサルタントは、エドガー・シャインの警句を待つまでもなく、この「よき友」を目指していかなければならないのではないかと思うわけです。ま、その中でも「物くるる友」はシャインの区分では恐らく「レベル3」の親友などに当たるような気がします。コンサルタントがここまでやると、不特定多数の相談者への対応が困難になります。また「医師」は「レベル1」の技術的課題を回答する専門家になるのではないかと思います。もちろん「医師」も「レベル2」の関係を構築することが望ましいと思いますし、ある意味コンサルタントは経営の「専門医」たるべし、とも言われていますので。そうしたことに加え、私たちが目指すべきは「知恵ある友」になれるよう、人間的な面、知識や経験の面など、日々研鑽を続けていくことが大事ではないかなと、2年ぶりによろず支援拠点の通常支援担当に戻って、改めて感じている今日この頃です。

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今も新鮮な耳ざわりの「ララバイ・オブ・バードランド」(byクリフォード・ブラウン&サラ・ボーン)

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ラジオ番組を聴いていたら、クリフォード・ブラウン(tp)とサラ・ボーン(vo)の「ララバイ・オブ・バードランド」をやっていました。1954年の録音だそうで、なんと今から70年前のものですがちっとも古びていない新鮮な印象で聴くことができました。初めて聴いたのが40年前だったのでその時点でも30年前だったことになります。

昨年ニューヨークのジャズクラブ「ブルーノート」を訪ねる機会がありました。ブルーノートと言えば、このクリフォード・ブラウンをはじめ、アート・ブレイキー、もホレス・シルヴァー、ハンク・モブレー、ジミー・スミス、リー・モーガン、ルー・ドナルドソン、ハービー・ハンコック、ウェイン・ショーター、トニー・ウィリアムス、オーネット・コールマンなどが演奏したことがあるということのため、そのような系統のものを期待していましたが、今はそういうのは流行っていないのか、ジャズそのものがどんどん進化しているためか、この夜の演奏はラップのようなそうでないような、あまりすんなりとは音が耳に入っては来ませんでした。

ジャズの良い演奏を聴くなら、かならずしも最新のものでなくても、こういう古い録音でも十分新鮮な感じを受け取ることができるなあと独り言ちています。これは別にジャズに限らず、クラシックでも落語でも通じることかも知れません。(単に古いものを懐かしむ私自身の高齢化の進行か、はたまた成長がストップしただけのことなのかも知れませんが)

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2024年NHK大河ドラマ「光る君へ」に関連して

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戦国時代や幕末の登場人物は大体相場が決まっていて、どの役者さんが誰を演じているかを理解すれば、そうそう混乱はしないのですが、今年の大河ドラマはあまりなじみのない平安中期。もちろん藤原道長や頼道、紫式部や清少納言・・・辺りまでは中学校で習うので心当たりのある名前ですが、道長の父親となった途端に「は?」となり、道長が三男で、上に二人の兄がいたなどと言われてもさらに「は?」となってしまっているのが今年の悩みです。

そこで以前購入した日本史年表の系図に当たって、登場人物の関係を洗っては今年の大河ドラマを見るようにしています。

まず主人公コンビの道長と紫式部。藤原家は枝分かれが沢山で探すのが大変でしたが、なんとか見つけました。道長と紫式部は6代前は同じ祖先の「冬嗣」だということろまで確認できました(この年表の系図の記載が真実ならばですが)。この写真には写っていませんが、左の上の方に冬嗣の名前があります。

秋山竜次さん演じる藤原実資は、この系図を見る限りでは段田安則さん演じる藤原兼家のいとこの子に当るようです。ということは、藤原道長にとっては、またいとこという間柄になりましょうか。wikipediaによると「藤原道長が権勢を振るった時代に筋を通した態度を貫き、権貴に阿らぬ人」とのことで、道長存命時から右大臣になり、道長死去の1027年以後も右大臣を勤め、亡くなる1046年までその地位にあったようです。享年90歳。この人が主人公ではないのでドラマはそこまではやらないでしょうけど。
それにしても段田安則さん、いい味だしてます。

何週目だったか忘れましたが、新たに、藤原公任と藤原斉信(ただのぶ、と読むようです)と藤原行成という次代を担う若手公卿たちが登場しました。いきなりなのでまたまたwikiで親、祖父、などと辿ってまた下るということを繰り返し、三人を発見。公任は道長からするとまたいとこ、斉信はいとこ、行成はいとこの子、どれも藤原冬嗣の系統で、間柄も近い人々のようでした。ロバート秋山竜次さんのやってる藤原実資もまたいとこのようですので、近侍していた兼家の子の道兼(段田安則さんちの次男にして道長の兄貴)も、またいとこの間柄、にもかかわらず天皇への近さ遠さで階級差が生じていたということでしょうか。ちなみに左大臣源源信の子孫には佐々木道誉や黒田如水が出て来るようです。

さらに、ここの所権勢を振るっている、花山天皇の側近の藤原義懐(よしちか)。この人は兼家さんの長兄の伊尹の五男らしく、上の系図には出ていませんが、やはり道長のいとこという間柄になります。これまで名前が出るごとに「よしちかごときが!(怒)」というような言い方をされています。また花山天皇が「くびったけ」になってるという忯子(よしこ)さんは、道長のいとこの妹、ということでこの奥様も道長のいとこということになりますが、夭逝されたようです。そのせいか、花山天皇は、わずか2年で退位あそばして出家されるみたいです。その後、いよいよ我らが兼家さんがじい様として新天皇の後見役を務め、権勢を振るわれたのでしょうけど、四年であっさり鬼籍に入ってしまわれるようです。
さて、友人からの情報で、佐々木蔵之介さん演じる藤原宣孝が紫式部と結婚するとのことで、系図を確認しました。共通の先祖の良門という人からみて、紫式部は5代目、宣孝も5代目。だいぶん離れて見えますが、Wikipediaによると、二人はまたいとことのこと。系図に現れていない曾祖母が共通の近い人みたいです。
・結婚3年後の1001年、夫の宣孝死去
・1005年、安倍晴明死去
・1016年(又は1019年以降)紫式部死去、但し、今回の時代考証をしている倉本一宏さんの説では、1020年代半ば頃まで存命だったのではないかとのこと。
・1027年、道長死去
さてこの物語ではどこまで描かれるのでしょうか。
なお、橋爪淳さん演じる関白頼忠も、段田安則さん演じる右大臣兼家からすると、いとこ、の間柄のようです。

偶然書庫で古い岩波新書の北山茂夫氏著『藤原道長』を発見し中を紐解くと、紫式部と道長の最初の奥さんになった源雅信の娘の倫子さまの関係が出ていました。5代遡ると共通のご先祖藤原良門という人に行き当たるようです。「またいとこの孫」同志という関係のようです。お互い赤の他人だったかのような顔をしていますが。
この岩波新書は良書だと思います。著者の個人的な思い入れも相当入っているようですが、道長が政権を担うかなり前から説き起こしてあり、大河ドラマで描かれているまさに同時代が詳しくわかりやすく書いてあります。

「鎌倉殿の13人」に鳥羽上皇の側近として出ていた慈円僧正という方がおられ、この方も藤原一族なのですが、この方の書いた『愚管抄』という本に最近はまっています。というのも、この本の中に、200年ほど前に当たる道長時代の前後を含めた事柄がとても沢山詳しく書いてあるからです。

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鴨長明『方丈記』より

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又同じころ(元暦2年(西暦1185年)7月9日)かとよ、おびただしく大地震振ることはべりき。そのさま、世の常ならず。山は崩れて河を埋づみ、海はかたぶきて陸地をひたせり。土さけて水わきいでて、巌われて谷にまろびいる。渚漕ぐ船は波にただよい、道行く馬は足のたちどを惑わす。都のほとりには、在々所々、堂舎塔廟、ひとつとして全からず。あるいは崩れ、あるいは倒れぬ。塵灰立ち上りて、盛るなる煙のごとし。地の動き、家の破るる音、雷にことならず。家のうちにをれば、忽ちにひしげなんとす。走り出れば、地われさく。羽なければ、空をも飛ぶべからず。竜ならばや、雲にものらむ。

若しせばき地にをれば、近く炎上ある時、その災をのがるることなし。若し辺地にあれば、往反わづらい多く、盗賊の難はなはだし。

世にしたがへば、身苦し。したがはねば、狂せるに似たり。いづれの所をしめて、いかなるわざをしてか、しばしも此の身を宿し、たまゆらも心をやすむべき。

(令和6年能登半島地震から14日目)

ここに転載したのは、岩波文庫の『新訂 方丈記』p22~26に書いてあった839年前の地震の様子とそれについての鴨長明さんの叙述からの抜粋です。今回の能登半島地震と比較しようとか世は無常とか、このことに関連付けて何かを述べようという意図はありません。そのような意図はないものの、何かにすがらなければこの気持ちを落ち着かせるすべがなく、永井荷風の『断腸亭日乗』の関東大震災のくだりを読み直したり、徒然草を紐解いたり、方丈記をめくってみたりしているうちに、方丈記の中に地震に関する記事を見出し、平安末期のこの頃にもこのようなことがあり、それを記述している人がいたのだなあと感じ、心を落ち着かせようとあとなぜをしてみたものです。転載していない部分には、本震の後の一日ニ三十回の余震、その後の数日おきの余震などについても記載されており、また地震本部の「主要活断層の長期評価」には能登半島の大部分には活断層が描かれていないにもかかわらず大きな地震があったように(専門家の間では危険であるとの認識があったような記事も目にしましたが)、日本はそもそもいつどこで地震があるかわからない不安定な陸地であることを今更ながら思い知らされたことです。

(令和6年能登半島地震から19日目 追記)

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久しぶりに開いた塩野七生さんの『マキャヴェッリ語録』と最近のこと

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若い頃に買った本です。塩野七生さんの『マキャヴェッリ語録』を久しぶりに開いてみたところ、いきなり目に飛び込んできたのが以下の文章です。

「国家にとって、法律をつくっておきながらその法律を守らないことほど有害なことはない。とくに法律をつくった当の人々がそれを守らない場合は、文句なく最悪だ。」

「国家にとってもう一つ有害なことは、様々な人物を次々と糾弾し攻撃することによって、国民の間にとげとげしい雰囲気をかもしだすことである。」

企業などで言えば、ルールを作って周知しておきながら、社長自らがそのルールを逸脱して平気でいると、当然社員・スタッフはしらけてしまって誰もルールを守らず、真面目にやったものが損をするという気持ちが蔓延した統制の取れない集団になってしまいます。これは組織やチームというべき状態ではなく、たまたま今だけここにいる、お金のためにここにいる、同じ会社で働いている同僚かもしれないが所詮他人であり他人がどうなろうと知ったこっちゃない、というのが本音の人々の集団だと言っても過言ではない状態だと言えるのではないかと思います。そういう中小企業は厳に存在しており、加えて、社長に対して誰も何も言えないということが往々にしてあるため、不満は表出せずに内部でくすぶり続けます。そういう企業に入って従業員インタビューをすると「上の人の言っていることとやっていることが矛盾している」という声がよく聞かれます。それを経営者に伝えると大抵は怒りの矛先が当の従業員に向かってしまうのでインタビュー結果の取扱は要注意です。しかしいずれかのタイミングでそれをしっかり経営者にお伝えし、結果として経営者がその振る舞い方を見直さないと、面従腹背・今だけ金だけ自分だけの面従腹背状態からは脱却できず、業績は改善せず、退職者は後を絶たずテキトー社員だけが残り、社長は「こんなにいい施策をやっているのになぜ我が社は良くならないんだ?」という疑問を持ち続ける裸の王様のまま、ということになりかねません。内省力の高い経営者の場合は、一旦怒りの矛先が従業員に向かっても、自らを批判的に見て、「あ、悪いのは自分だったんだ」となって、改めて虚心坦懐にインタビュー結果と向き合い、改善に取り組むために従業員の話に改めて耳を傾け、自分が何をすべきか、従業員には何を求めるべきかというところからやり直す方もいらっしゃいます。(これができる経営者は強い組織を作ることができるようです)

さて、今年は「甲辰」の年とのことで、十干は「甲」、十二支は「辰」だそうです。甲というのは「新芽が出る」「難しいことを突き破る」という意味があるそうです。その前年の十二支の「卯」が「地中でうごめいていたものが地上に現れる」ということとつなげて考えると、新しい良いことの顕在化ということもあるのでしょうけど、昨年の後半頃から、それまで分厚い蓋で覆われていた「やっちゃいけない偉い人の良くない行い」が徐々にあらわになってきて、今年はさらにそれらがより明確に見えてくる年になるのかも知れません。新しい良いことの顕在化という点では新産業が現れたり、ということもあるかも知れませんし、また良くないことについては狎れあいでテキトーなところで曖昧にされることもあるかも知れません。

最初のマキャヴェッリ語録に戻ると「国家にとってもう一つ有害なことは、様々な人物を次々と糾弾し攻撃することによって、国民の間にとげとげしい雰囲気をかもしだすこと」という言葉がありますが、1月9日の日経新聞にはユーラシアグループが発表した「2024年の世界の10大リスク」が載っており、その筆頭が「米国の分断」でした。自分の考えと合わない人を、口を極めて罵る、罵って溜飲を下げる、罵ったことを同じ考えを持つ人から褒められてつかの間の承認欲求を満たす、交流分析的に言うと「Aが働いていない」状態で「You not OK」という価値観の自己への刷り込みがさらに強化されていく、その結果分断は埋まらない、という良くない状態が続く恐れがあります。ちなみにリスクの2位は「瀬戸際の中東」とあり、同じ日の日経新聞には「ブリンケン米国務長官が、ガザでの戦闘が中東の周辺地域に転移する恐れがある」と述べたとの記事もありました。なぜ使われている言葉は「飛び火」ではなく「転移」なのでしょう?戦争は治らない人類の病弊だということでしょうか。

分断は米国だけの傾向ではなく、残念ながらわが国でもネット空間を震源地としてそれが常態化し、現実世界にまで相当及んできているような気がします。私たちの住む北陸では能登半島を中心に大きな地震が元日に発生し、今も住まいを失った方々、日々の食事・排泄・睡眠・風呂など健康を維持することすらままならない人々、事業所や工場などが被災して仕事が出来ない状態の企業、予約のキャンセルなどで収入が激減したサービス業など、大変な困難の中にあります。人を誹謗中傷している暇があったら・・・と言いたくもなりますが、人のことを言う前に自分はなすべきことをしているのだろうかと自問自答する日々です。マキャヴェッリ語録

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スコット・フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』

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ここ最近アメリカの少し古い映画を観ています。先だってはスコット・アステアの「コンチネンタル」。びっくりしたのは、その当時(たぶん1930年代)のアメリカでは、左ハンドルの車と右ハンドルの車が共存していたことです。全編ダンスが多く、最近のインド映画かと思うところもありました。ま、あくまで私の個人的印象ですので、全然違うのでしょうけどね。

さて直近で観たのが「華麗なるギャツビー(グレート・ギャツビー)」です。スコット・フィッツジェラルドという人の原作です。

本はまだ途中ですが、色んな点が私にとっては不条理に感じられ、いわく言い難い後味が残っています。書かれたのが第一次世界大戦の七年ほど後。映画には何度もなっているようですが、私が観たロバート・レッドフォードのこれは1974年のものです。本の中に気になった文章があったので抜き書きしておきます。

「アメリカ人は、農奴たることはいやがらぬばかりか、進んでなりたがるくせに、貧農たることは昔からいつも頑固にこばもうとする人間なのである。」(新潮文庫p144)・・・意味不明。

「三十歳-今後に予想される孤独の十年間。独身の友の数はほそり、感激を蔵した袋もほそり、髪の毛もまたほそってゆくことだろう。」(同p225)・・・これはうまく韻を踏んだ気の利いた言葉のように感じましたので採録しました。

グレートギャツビー

映画の中では、男たちがいつも顔といわず首筋といわず汗をかいているのが気になりました。顔にあれだけ汗をかいているということは、シャツの背中も下着の中もびっしょり汗をかいているに違いないのですが、画面にはとにかく汗をかいている男たちの顔の大写しが多かったです。汗の意味は、真夏だという設定もあるのでしょうけど、それぞれがなにがしかの隠し事や後ろ暗いことがあり、緊張しているということを表現したのだ、というような説もあるようです。

現代アメリカを代表する作品だということなので、私の感じた不条理感、違和感はさておき、本の方も最後まで読み切って、何が「20世紀最高の文学の2位」なのか、考えてみたいと思います。日本語訳なので、米国の方々のような味わい方は難しいのでしょうけど。

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高岡市金屋町でのひと時「民家ホテル 金ノ三寸」

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先日、早朝からの仕事に備え、同じ県内ではありましたが、高岡市に前入りしました。かねてより友人が経営している「民家ホテル」に関心があり、泊めさせていただきました。「民家ホテル 金ノ三寸(かねのさんずん、と読みます)」は、京の町屋のような建物が二棟あり、それぞれ、最大で8人まで泊れる大きい建物と4人が上限の中くらいの建物が並んでいます。

私は向かって右側の4人用の方を予約し泊めさせていただきました。建物は2階建てで、すっかりリノベーションされており、京の町屋のような風情がありました。デザイナーのセンスの高さがうかがい知れます。

「金ノ三寸」というネーミングは、実は鋳型の「鋳」を崩したものらしく、この辺りは金屋町といって、江戸開幕の頃にこの地を治めていた前田家が7人の鋳物師を招き高岡を銅器などを含む鋳物の町にした中心的な場所だったようで、今も多くの鋳物師や鋳物の前後の工程を担う様々な技能士の方々がいらっしゃるとのことです。彼らの技術は、奈良・法隆寺の国宝・釈迦三尊像の再現や奈良・薬師寺の国宝・東塔相輪構成金具の修復など、国の大事な宝を維持・復元することなどに大きな貢献をしているそうです。1000年以上も前の宝物を復元するためには、構成部品を一つひとつ丁寧に点検していかなければならず、ばらす作業も当然必要なのだろうと思います。鋳の文字をばらしたのも、そういう古きをたずねて新しきを知るという心意気なのかも知れないなあと勝手に想像しつつゆるやかな時間をすごさせていただきました。https://kanenosanzun.jp/

夕食後は、これまた友人が経営している末広町のバー「flower bar hanakotobar」で一杯。高岡駅を背に市電通り沿いにあるお店です。オープンから一年が経過し、マスターも元気な様子で接客してくれました。バーボンの後は、食用花の乗った美味しいカクテルも振舞ってもらいました。有難いことでした。https://hanakotobar.studio.site/

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東京の電車内の中吊り広告のこと(地元の方はとっくにご存知なのでしょうけど)

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先日所用で上京しました。その際、井の頭線と都電(山手線)に乗りましたが、何気なく中吊り広告に目をやると、たまたまその時だけだったのかどうかわかりませんが、以前だったらとても色々な広告があったのが、まるっきり様変わりしており、ビックリしました。

具体的には、井の頭線では吊り棒(正しい名称がわかりませんが、要は広告の紙の上辺をクリップで挟んでいる二枚の棒?細い板?です)に「片面だけ」のもの、本来なら2枚×2枚の4枚(裏表)でワンセットなのに「1枚しかないもの」というぐらいに吊るして宣伝すべきものがない状態でした。

都電については、車両の中の大半が「SUICA」関連のもの。SUICAでこんな周辺サービスが受けられますよといったようなものであり、SUICAそのものの宣伝ではないというものの、要はJRと関連した広告であり、全くの第三者が広告主ではないというものだと私の目には映りました。

一方で車両側面吊り革上の動画広告は5秒おきでどんどん入れ替わり、繰り返し繰り返し激しい光が明滅していました。映像の切り替わりが早いためにずっと見ていることができません。こりゃあ都会の人でも見る気にはならないのではなかろうかと思うくらいの単調なメッセージの繰り返しでした。

中吊り広告が広告市場として魅力的なものではなくなってきた、ということなのかな?という仮説を持ちました。乗った曜日や時間帯がたまたま入替の時間帯だったから少なかったのかも知れませんが、これだけSNSやターゲット広告が花盛りになってきている現状からして、中吊り広告に頼る意味合いが極めて薄いものになったのかも知れませんね。

それはそれとして、この3年あまり、公共放送のテレビニュースを見ると、コロナの新規陽性者数などコロナ関連の報道があるたびに映し出されていたのが東京渋谷のスクランブル交差点の人出の様子でした。曰く「今の渋谷スクランブル・・・このように人出はほとんどありません」「以前から見ると少し賑わいが戻ったような週末です」といった感じで毎度毎度スクランブルの映像が流されていました。その際、必ず目に入ったのが、正面にデンと座った「大盛堂書店」の看板でした。ずっと気になっていましたが、今回の上京の折を利用して入口をくぐってみました。それほど大きな書店ではないものの、地下・1F・2Fの3フロアで書籍販売を行っておられました。もしかすると、コロナ前は3F以上もあったのかも知れませんが、今回お邪魔した時は3F以上は立入禁止となっていました。東京のど真ん中で、この人出の少ない時もしっかり店を守ってこられたことに敬意を表し、文庫本2冊を買い求めました。経営にはなんの足しにもならないかも知れませんが、ほんの応援の気持ちを表しました。それにしてもこの時のスクランブル交差点は大変な賑わいでした。それも若い人・外国人などなど。信号が変わるたびに新しい顔ぶれがどっと対岸に繰り出し、赤信号の間にどんどん溜まって歩道が人であふれ、青信号になるとまたそれらの人が吐き出されて、の繰り返し。東京は賑やかでした。

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年齢と仕事

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先日、手塚治虫さんが60歳で亡くなったということが、ある新聞に書いてありました。亡くなった時のニュースには接していたので、何歳で亡くなったかはその時に知っていたはずであり、本来驚くことではないはずなのですが、自分の年齢が亡くなった時の手塚治虫さんの年齢を超えてしまっていること、また年齢が超えているにもかかわらず今も子どものような気持ちで手塚治虫さんが描いたマンガを面白いと感じて読むことがあること、さらには漫画家とコンサルタントの仕事は比ぶべくもないはずなのですが手塚治虫さんがなされた仕事の万分の一もなしていないまま手塚治虫さんの年齢を超えてしまっているという事実に愕然としてしまいました。

手塚治虫さんはわずか60年の人生でいかに多くの作品を作り多くの人に影響を与えたことか。人間60年あれば凄いことができる、と思うとともに、60年を超えて過ごしてきた自分自身は、さてこれからどうしていくべきかという思いになりました。

考えてみれば、昭和から平成に移る時期に、手塚治虫さんだけでなく、美空ひばりさん(享年52歳)、西堀栄三郎さん(享年86歳)、松下幸之助さん(享年94歳)、松田優作さん(享年40歳)、開高健さん(享年58歳)、田川水泡さん(享年90歳)などです。石原裕次郎さんはもう少し早くに昭和62年に52歳で亡くなっていますが、昭和を彩る方々が相次いで亡くなったなあと当時は感じていました。

それはさておき、人の年齢と仕事ということを考えると、伊能忠敬さんのことに思いが至ります。伊能忠敬さんは49歳で隠居し50歳で自分よりも随分若い天文学者に弟子入りし55歳頃から70歳頃に至る15年間をかけて日本国中を歩き回って日本地図を作り上げた方ですが、この方のことを思うと、仕事するのに年齢がどうのこうのということはあまり関係ないのだろうなあと感じます。他にも高齢になってから世の中の役に立つ仕事をした人は大勢います。そんなことを思うと、改めて、今生きていることに感謝しつつ、大きなことか小さなことかには関係なく、組織とチームとそこで働く人たちの活力が高まるよう支援していこうと思うこの頃です。

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久しぶりに「1/fゆらぎ」を体験してきました~

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桐朋アカデミー・オーケストラ特別演奏会~

富山のオーバードホールで開かれた「桐朋アカデミー・オーケストラ」の特別演奏会を聴きに行ってきました。いい演奏会でした。正味2時間で3曲の演奏。リストの交響詩「オルフェウス」指揮はジョセフ・ウォルフさん。続いてクラリネット奏者の亀井良信さんを加えての、フランセ作曲「クラリネット協奏曲」。譜面台がない。という状態での演奏は、ビックリ仰天ものでした。しかも音域の広いこと広いこと。高音から重低音まで自由自在に吹きまくる、いや、自由自在ではなく決められたとおりに演奏されているのでしょうけど、こちらには全く自由にかつオケとうまい具合にかみあって、という風に聞こえてしまいます。彼の演奏ぶりはとにかくすごいもので、とても説明できません。休憩をはさんで3曲目はベルリオーズの「幻想交響曲 作品14」というもので、休憩中にパンフに書かれていた解説を読んだのですが、なんと失恋の曲。しかも未練たらしく第五楽章まであるというおまけつき。(未練たらしく、というのは私の勝手な解釈です) ベートーヴェンの「月光」は愛する人に思いを馳せて、だったような、曲の背景を映画で知ったような記憶がありますが(「威風堂々」はナポレオンに贈った曲でしたでしょうか?)、これまでほとんどの場合そのような背景を知らずに聴いていました。背景を読んだ上で曲を聴くと、入り込み方が俄然違いました。なんとなく、作曲者の心の映えまで見えるような感覚に陥り、最後は涙腺が緩んでしまいました。素晴らしい演奏でした。指揮のジョセフ・ウォルフさんのダイナミックな動きも大変見応えがありました。

ちょっと最近脳が疲れ気味だったこともあり、2時間たっぷりと1/fゆらぎを浴びまくり、おかげさまで脳の中がスッキリしました。たぶん今脳波を図ると「うれしーい!」という声が聞こえるかも知れません。このコロナ禍のもと、楽団の皆さんは集まって人前で演奏できる機会が少なかったことと思いますが、今日久しぶりにこういう機会を得て、自身脳がすっきりした体験をしたことで、音楽はなくてはならないものなのではなかろうか(不要不急というものではなく)、と結構強く感じました。と同時に、欧米の責任ある方々が日頃からこういうものに触れる習慣を持っているということは、いい音楽を聴いて脳を休め、リセット・リフレッシュさせることで的確な判断をするために必要なことだと知っているのではなかろうか、という気がしました。気のせいかも知れませんが。

ところで、今日の演奏者の方々の顔と名前を一致させたくて何人かのお名前をネットで見ていたら、チェロ奏者でめっちゃ存在感のある渡部玄一さんという方が、実は渡部昇一さんのご子息ということがわかりました。本も著しておられるようなので拝読しようと思っています。

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