世の中には、相手の考えの背景や理由を聞きもせずに、自分の論理で相手の考えをけなし、あなたには××の資格はないと罵倒し、上から一方的に指弾することで相手の反論や喋る気力を封殺し、意気消沈させてしまう、意気消沈しつつも「なにくそ」と気力を振り絞って這い上がってくる人間だけを取り立てる、という指導法・人材育成法があるようだ。
だめならやめますわ、とテーブルを立ってしまえば出世に響くと不安に思い、ほとんどの組織人は従順にそのやり方に従ってしまう。
そういう人材育成の方法もあるのだろうが、そのように人をけなし罵倒しプライドを引き剥がすやり方は、一方では日常的にうつ病の人を作る危険性も孕んでいるのではないだろうか。
心の病(脳のストレスという言い方もあるようだが)になる人は、そもそもウチの会社には縁のなかった人、と割り切ってしまえるものではないはず。
ご縁あって仲間になったのだから、もっと人(の心、気持ち、考えの背景など)を大切に扱うべきである。
そういうとすぐに「甘やかしは人をだめにする」と、すぐに「甘やかし」という言葉で攻撃する人がいるが、なんでもかんでも「甘やかしはだめ」という言い方で片付けるのは、自分の短気や思慮の浅さをすり替える、逃げなのではないだろうか。
どういう指導法・育成法がいいのか、全ての場合に通用する正しいやり方というものはないのかも知れない。
しかし、何か発言があれば、その背景を思料する、又は確認し、こちらの考えや前提をきちんと伝え、その上で認識のギャップや検討不足があればそれを注意し、正していけばいいのである。
そんな時間を取ることが、人の育成・教育には必要ではなかろうか。
最近のITの発達によって、営業担当者が目の前にいる上司に対して、SFAを使って今日の顧客訪問の結果を報告する、上司はその記録をパソコンの画面を見て「ご苦労さん、次回は○○をしてさらに深堀をして下さい」などど指示する、なんてアホな現実の異常さについては、既に10年ほど前から指摘されている。
形式知の問題はそれでいいとしても、部下に対する指導はこれじゃ話しにならない。ちゃんと声をかけ、目を見て、言葉を聴いて指示・指導するべきである。
「人格に配慮した対応」と「甘やかし」、区別がつきにくいかも知れないが、自分がそのような対応をされたらどうか、と考えれば、それほど判別のつかないものではないと思う。
人材育成については、10年ほど前に仕事で携わったこともあるし、学生時代はJ.ピアジェや波多野宜余夫さんなど教育心理学も学んだことがあるため、色々思うところがある、今後とも課題にして取り組んで行きたいものだ。
「随想」カテゴリーアーカイブ
マヤ暦の「2012年」の先について考える
先日の新聞に「マヤの遺跡から、2012年の先の記述のある暦が発見された」という記事が出ていた。
数年前からマヤの暦には2012年から先がないので、これは世界の終わりを予言したものだ、という本やら論調やらが巷間出回っている。
本当ならイヤなことだし、本が売れれば出版社が儲かるという当然のこともある。
2012年の先の暦、という発見は、本当かも知れないし、作り話かも知れない。
2012年で世界が終わる、という解釈も、あくまで解釈である。
今日、何かの事故や災害に遭い、終わりが来るかも知れない。
考え出したらきりがないことだと思う。
ドラッカー氏は、「間違いなく言えることは、明日は今日とは違う、明日のことは予測できない」というようなことを言っておられたと思う。
世の中には人々を不安にさせる色々な情報が溢れている。
それは事実かも知れないし、不安心理を煽って商売にしているのかも知れない。
それぞれの情報の発信源の「意図」はわからない。
どの情報が本当かも、自分で確認しなければわからない。
私たちは、色々な情報に一喜一憂せず、今この時、今日一日を精一杯生きることが大切なのだと思う。
カーネギーの『道は開ける』という本に「今日一日の区切りで生きる」ということが書いてある。
一瞬一瞬を幸せに満ちた感覚で生きるためには、昨日のことをくよくよしない(反省と後悔は別物)、明日のことを思い悩まない(ないものにおびえない)、という心の持ちようが大切だと思う。
『葉隠』で山本常朝氏は「一瞬一瞬の積み重ねが大切だ」と言っている。
死ぬことと見つけたり、というのは、「死のう」ということではない。
いや、死は全ての人に平等に必ず訪れる。それを認識した上で、与えられている今という命をどう充実して生きるか、ということを、江戸の武士も言っているのではないかなと思う。
第32回魚津しんきろうマラソンに参加(5kmだけど・・・)
3年前に、意を決して参加した「魚津しんきろうマラソン」の5kmコース。
初回は練習もせずに参加したため、往路でばててしまって、途中歩いてしまった。
2年目は冬に縁あってルームランナーを買い、外で出なくても練習できる環境ができたおかげで、大会の前3ヶ月ほど、週末に練習することができた。
3年目に当る去年は、2年目と同様にルームランナーでの練習ができたので、タイムは少し落ちたものの順位がぐっと上がった。
そして今年。
あまり練習する時間が取れなかったので、無理をしないで、とにかく途中歩くことはしないように、完走のみを目指して参加した。
今日はことのほか暑く、気温はこれまでで最高の19℃。湿度40%は走るのにはとても爽やかなコンディションではあったが、暑いのがたまらなかった。
結果、
平成21年4月26日 31分55秒 272位(雨天)
平成22年4月25日 30分21秒 265位(晴天)
平成23年4月24日 30分40秒 204位(晴天)
平成24年4月29日 29分44秒 211位(晴天)
と徐々に良くなってきている。
46歳の3年前と50歳の今と比較して、2分以上縮まった。尤も、この時は練習もせず、雨風の中の走りというコンディションだったため、単純には比較はできない。
それでも去年と比較しても1分近く短縮できたのは、結果的にではあるが、我ながら凄いなと思う。
人間の細胞は11ヶ月で全部新しいものに置き換わるそうだから、1年経てば別人になるというわけであり、そう考えると、タイムなどなんぼ縮まっても不思議じゃないし、逆に去年と比べてぐっと落ちることも十分ありうるのである。
つまり、精進に努めれば、運命は変えられる、と大袈裟に言えば言えるのである。
さてこの先どうするか。
作家の村上春樹さんは、毎朝4時か5時には起床し、日が暮れたら仕事はせずに、夜は9時すぎには就寝する。ほぼ毎日10km程度をジョギング、週に何度か水泳、ときにはスカッシュなどもしている、という。
サラリーマンができるワークスタイルではないかも知れないが、彼のように運動し続けることを目指したい。
57歳になったある先輩は「10kmに参加。41分のタイムはショック(後略)」と言っていた。
私はその半分の距離を同じぐらいの時間をかけて走っている。
先輩は元野球選手なので、彼と同じだけの体力は持ち得ないと思うが、それでもまだまだ進化はできるはずだ。
いずれ10km、さらにはハーフへの参加、ということも視野に入れつつ、この先も走って行こう。
今まではこの大会が終わった瞬間、ほぼ年末までルームランナーは「家具」化して全く見向きもされなかったが、今年からはもっと使って行こう。
まずは、来年も30分はしっかり切るぞ、ということを目標に取り組んでみる。
健康回復
40歳の頃から毎年人間ドックに行っている。
初めての人間ドックを受診した場所がいきなり大阪の帝国ホテルクリニックであった。
食事の時は一つあけた隣のテーブルに矢沢永吉さんがいてびっくりしたことを覚えている。
それ以来、一年間のオーバーホールと思い、一泊ドックとしている。
5年くらい前から色々な値が急に悪くなってきた。
曰く、γーGTPが基準を大幅に超えているだの、高尿酸血症だの、肺に影だの、高血圧だの・・・。
人間徐々に年を取っていくので、これ以上改善しないのだろうか、とぼんやり思っていたが、昨年暮れから多少の生活習慣の改善をしてきた。
・朝の30分ウォーキング(週に2回程度ではあるが)
・ゴボウ茶
・夜の簡単筋トレ(まずは腕立て伏せ10回、腹筋10回程度から)
・帰宅後、入浴と食事を先にして、寝るまでの残り時間に勉強など(そのためアルコール摂取量を減らした)
これだけのことである。
が、そのおかげか、今回のドックではかなり値が改善されていた。
大きく変わったのはγーGTPと血圧である。
γーGTP:100(1年前は175)
血圧:上が130、下が83(1年前は上が139、下が87・・・4年前は下が100ということも)
γーGTPについては、正常値の上限が50だから、まだまだ先は長いものの、6年前は50以内に納まっていたことを考えれば、戻すことは十分可能だと思う。
血圧についても、年を取れば血管が弱くなるので、血圧は上がるのが自然の流れだとは思うが、血管を強くして、血流を良くすれば、血圧は自然と120の80ぐらいで安定するはずである。
飲料の宣伝で「サラサラは一日にしてならず」といううたい文句があった。まさにその通りで、今の取組を続けて行くことがさらなる健康化への道だと思う。
要は心がけ次第だ。
1年前までは毎年のようにE判定の項目があり、C判定も複数あったのだが、今回はE判定がゼロ、C判定が1項目だけ、あといくつかのB判定があったものの、徐々にいい方向に向かっている途上だと思う。
人間の健康は改善できる、と確信した。
この動き、続けよう。
2012年のNHK大河ドラマ「平清盛」放送開始
放送発表前から期待していた。
松山ケンイチさんが主演を務めるということで、興味深々だった。
なにせ「デスノート」の「L」の役しか知らなかったので、あの彼が清盛っていうのはちょっとピンと来なかったのだが、それだけにNHKのスタッフ陣が抜擢したことで、余計に相当の力を持った俳優に違いないと思えたのだ。
さて昨日早速第一回の放送を見た。
久しぶりに大河ドラマらしい大河ドラマだ。
面白い。
私たちの世代は、平清盛や足利尊氏や蘇我馬子・入鹿などは「悪者だ」というような刷り込みが知らぬ間になされているような気がするが、必ずしも一方向からではないものの見方も必要ではないか、と思う。
そういう意味で今年の大河は期待大だ。
清盛という人は、琵琶湖を日本海までぶち抜いて、瀬戸内海とをつないだ海上交通路を作るという構想も持っていたようである。
残念ながら実現する前にこの世を去ってしまったが、その構想力のスケールの大きさたるや、清盛か信長か、という感じがする。
そういうエピソードが盛り込まれるかどうかはわからないが、稀有壮大な偉人の夢をしばし楽しみ、少しでもあやかり自分を鼓舞したいものだと思っている。
子どもの成長に必要な「三つの鯛」(塾講師のニュースレターより)
次男の塾からのニュースレター。
毎月一回塾での学習の様子などに関するコメントと同封で送られてくる。
先生のつぶやきなどが色々書かれている。
今月のコラムから。
<人間の心の中には「三匹の鯛」が泳いでいる。
「ほめられたい」「みとめられたい」「何かしてあげたい(役に立ちたい)」
誰かに褒められると、人間はいきいきと能動的になります。
その誰かは、親にかなうものはありません。>
一読して共感するところ多し。
親がわが子を褒めてあげ、認めてあげなくて、一体誰が子どもを認めるのか。
一番愛さなければならないわが子を「だめねえ」「何やってんだ」とさげすんでいて、屹立できる大人になどなれようはずがない。
愛してあげて初めて、彼らは自分に自信が持て、人の役に立とうと思い、自分の考えを持って一人の自立した大人になっていけるはずだ。
実はこれ、社会人でも同じだと思う。
上司は部下から見ると、親と同じである。
部下は皆上司=親の背中、親の一挙手一投足を見、自分への接し方の中から、仕事に対する誇りと自信を持てるのではないだろうか。
コミュニケーションレスは家庭にとっても会社にとっても崩壊をもたらすものだと思う。
上司=親がその救いの手でもあり、元凶にもなりうる。
もっとも、大人の場合は必ずしも親(上司)の愛情がなくても、スネてでも、なんとかやっていける。
これはセルフコーチングの領域かも知れないが、部下に愛情を持って接しない上司の場合(愛情とは甘やかしのことではない、念のため)、部下の立場の人は、自分自身を愛することがとても大切だと思う。
他人がどう評価しようと、今日一日一生懸命やった自分を褒めてやることで、ちょっと心にゆとりができて、人にも目を向けることができるのではなかろうか。
同僚同士までギスギスしては本当に組織はダメになる。
そんなことを塾講師のニュースレターからあれこれ思った。
わが町富山市中心商店街のアピール度の弱さ
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富山の中心商店街である「総曲輪通り」「中央通り」のHPを探して、目的の店を調べようと思ったのだが見つからない。ショッピングセンターならば館内の案内図をしっかり掲載しているが、これらの商店街はそもそもHPすら見つからない。これではいけないと思うが、商店主の皆さんはどうお考えだろう。
12-10 22:16
女優の鶴田真由さんのインド話
FM東京をキーとする土曜夕方5時からの番組「Saturday Waiting Bar Avanty」を長らく聴いている。
会社の後輩に教えてもらった。
JAZZが流れるバーのカウンターで、各界の著名人や一流の人などの日常会話にちょっと聞き耳を立てる、という趣向になっている。
番組の進行は、主に謎の大学教授がやっている。(たぶん、次元大介役の小林清志さんではないかと思うのだが)
最近は時間が合わず、なかなか聴けなかったが、Podcastでやっていることを知り、ダウンロードしては都合のいい時間に時折聴いている。
今日、2007年11月17日にアップロードされた、女優の鶴田真由さんの会話を聴いた。
鶴田さんはなんでもインドが好きで、ある時、夫が仕事ででかけた1ヶ月のインド行に同道し、自分は断食やヨガ三昧の生活をし、最終的に合流して帰国されたらしい。
その会話の中で、インドで発明(発見?)された「0」について語っておられた。
0はインドで発明されたが、ゼロというのは何もない「空」の概念ではなく、プラスとマイナスのそれぞれの方向のものが同じだけの振れ幅で存在している状態なのだ、とか。
つまり色んなものが渾然と詰まっているが、それらがバランスよく、結果的に調和し循環しているというようなことらしい。
具体的に言うと、プラスの方向とは、たとえば「生きることの諸活動」。マイナス方向とは、「人の死」。
インドでは生と死が同じ重みで普通に共存している。(というのはよく聞くことではある)
たとえばガンジス川では、顔を洗ったり洗濯したりという日常生活が営まれている一方、その川に亡くなった人の遺体を流している。
当たり前の光景だという。(これもよく聞く話である)
生に関する振れ幅と同じだけ、死に関する振れ幅がある。
またたとえば、インドでは定価以上の価格で売りつけ、不当な利益を得る人が多いらしいが、その人たちが余剰な利益をお寺に寄進する、といったことも普通に行われているらしい。
我々から見ると、だましとったお金は自分の懐に入れる、のが普通であり(もちろん良くないことだが)、それを懐には入れず、さも善行をするかの如く寄進をするというのは、やってることが矛盾しているではないか?と思うが、彼らはそれが当たり前なのだという。
これは、聖と邪の振れ幅が同じ、という例だろうか。
ゼロとは何もない状態だと捉えていたが、そうではない、という。
何も無いのではなく、色んなものがあってそれらがバランスを持って循環しているのが、どうもインドのゼロだというふうに彼女は感じたらしい。
そういう見方に初めて触れた。
面白いなあと感じ、興味深く聴かせていただいた。
インドの人々の、善悪の捉え方が違う点までは共鳴できないが、仕事や生活のON状態とゆったりした時間を過ごすOFF状態をバランスよくとる、とか、陽の食物と陰の食物をバランスよく採る、といったような(規模が小さいけど)バランスを意識した生き方は、私たちにとっても大切なことだと思った。
トヨタの豊田章男社長の決意
一昨日のニュースステーションでトヨタの豊田章男社長のインタビューが報じられた。
超大企業創業家の御曹司。
満を持しての登場であるが、社長就任のタイミングも大変難しい判断があったろうと思う。
にも拘わらず、社長就任以降もリコール問題やリーマンショック、その後の不況などで大変難しい舵取りの連続の日々であり、まさに渦中の人ですらある。
(でも社長であり、経営していかねばならない立場であることは、世の多くの経営者となんら変わりない)
豊田社長の肉声を聞く機会はそうないなと思い、画面を見つめた。
当たり前のことだが、日本のトップ企業の社長の言葉として、私なりに心に響いた。
曰く、石にかじりついても雇用を守る。
曰く、30万人の従業員の最終責任は私にある。
曰く、それは決めることである。
曰く、決断は3秒でしなくてはならない。そのためには常日頃、世界でいい車を作ろうと懸命になっているみんなの苦労や頑張りを見、聞き、肌で感じることだ。
ギャンブルで会社の金を湯水の如く使ったどこかの上場企業の御曹司とは大違いだ。
感動した、とつぶやいたところ、ある元経営者の方からご指摘をいただいた。
<素晴らしいといえば素晴らしい。しかし、これはすべての社長たる者が「当然」として持つべき覚悟ではないか。その覚悟がなければ、すぐに社長を辞めた方がいい。>
そのとおりだと思う。
至極当たり前のことだ。
しかし、この当たり前の「決意」ができていない経営者も世の中には多い。
特に創業者が苦労して今の地位まで持ってきたことが胆からわかっていない二世経営者に多い。
豊田社長の、当たり前の真摯な態度に、超大企業のトップのおごりではなく、謙虚な誠実さを感じた。
久しぶりの研修講師めいたこと
昨日、久しぶりに研修の講師めいたことをやらせていただいた。
準備10時間、実施1時間半。
短い時間の講義だったが、やはり準備には10倍の時間がかかる。
ベース資料の選定、目的と到達目標とコンセプト作り。
そして教材作り(ワープロ打ち)、理解度テスト作り、補足資料の選定、レッスンプランの構想、シャドウイング・・・とやることは沢山ある。
最後は当日のコンディショニング。
う~ん。当日は最後まで声が続かず受講者には迷惑かけたかも知れない。
日頃腹からしっかり声を出す鍛錬をしていないと、いざ急に喋る専門の時間を与えられてもうまくいかない。
やはり日頃の鍛錬が必要だ。
しかしこうして一つずつ課題がこなせていくのは気分がいい。
と安堵の間もなく新たな課題が覆い被さってくる。それはそれでまた対応していかなくてはならない。
どこかの会社の社歌ではないが、日々新たに、である。
さ、明日も頑張ろう。