『論語』子張編より

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『論語』の後ろの方は孔子そのものではなく弟子の言行録になっており、読む方としては(私の場合は)やや手抜きがちになってしまっています。
そんな中、たまたま見つけたのが「子張編」の一節。
子夏が曰く、小人の過(あやま)つや、必ず文(はか)る」というものです。
小人はあやまちをすると必ずごまかす、という意味だそうで、企業活動でも公的活動でも、たとえば数値をよく見せるために(或いは問題を小さく見せるために)、インチキをすることがあります。山ほどある、と言っても過言ではないのではないでしょうか。その目的は様々でしょうが、それによって新たな年度にまたちゃんと予算をあてがってもらうとか、𠮟責をまぬかれるとか、パワハラからの防衛とか、或いは出世・昇給・将来のより高い年金獲得といったことにつながる、ということもあるのかも知れません。
「さもしい」と言ってしまえばそれまでですが、人間の生存本能みたいなこととも関係しているのかも知れず、自分の中にもそういう傾向が見て取れないわけではないため、こういう一文を見て姿勢を正すきっかけにしている次第です。インチキはいかん、と自分に言い聞かせています。

また、同じ「子張編」の少し後段にこういう一節がありました。
子貢が曰く、君子の過(あやま)ちや、日月の蝕するが如し。過(あやま)つや人皆これを見る。更(あらた)むるや人皆これを仰ぐ。
意味は、君子のあやまちというのは、日食や月食のようなもので、あやまちをすると(はっきりしているので)だれもがみなそれを見るし、改めるとだれもがそれを仰ぐ、ということだそうです。
最近様々な自治体の首長や公器のえらいさんの不祥事が報じられることが多いように思います。私の目によく止まるのは、部下の人格を否定するようなパワーハラスメントの報道です。上の人は「そこまではやっていない」「そんなことをした記憶はない」と一部の言動を否定する・・・これも割とよくある、ある意味お決まりのコメントみたいな気がします。録音などの証拠がないものについては否定しやすい。ただし、もちろん、本当に仰っていない可能性もあるので、一概に訴えられた上の人が悪いと決めつけることはできません。
とはいえ、昔から「部下は上司を三日で見抜く」と言うように、上の方にいる人の言動というものは、下からはガラス張りでよく見えるので、だいたいは上司側の嘘か偽りか本当に思い当たらないのかだろうという気がします。大方は否定すればするほど、嘘の上塗りになっていきがちで「みっともない」印象を与えているのではないでしょうか。実際に加害にあった当事者からすれば身をもって受け止めているだけに「浅ましいな」と思われ、その結果人望は失われ、権威は損なわれ、威令は損なわれ、職場では嘘と欺瞞が蔓延していくことになるような気がします。
私がかつて所属した組織の中にもそういう方・そういう方を上にいただく職場はあり、いたたまれない気がしていました。それにしてもそういう方は、組織の中で部下のいないポジションに異動させられてそれ以上被害が拡大しないようにという自浄作用があったというケースもあります。しかし最近は居座る居直るということがどうも目立ってしまって気になります。一体日本は、いつから「嘘でも貫き通せば通る」ことが許容され、それを事実の確認をしていない人が支持して拡散したり、法で裁かれない限りは問題ないということがまかり通ったり、人の心の痛みに鈍くなって匿名をいいことに傷ついた人にさらにバッシングをあびせたり、という抑制のきかない社会になったのでしょうか。(あの頃からかなあ・・・)まるで映画の「アプレンティス」のような世界がこの日本でも現出しているような感じがします。真面目に膿を出して出直し宣言をして頑張っている経営者もおられるのに。
もう長いこと、人権研修やパワハラ研修などというものが、特に大きな組織ではなされてきたはずなのに、それを受けなさいと指示している上の人に人権意識が乏しく、パワハラの加害者になっているというこの滑稽さ。筒井康隆さんの筆によるまでもなくブラックジョーク以外のなにものでもないと感じます。関西弁で言うと「おかしぃやないけぇ!」って感じでしょうか。
特に首長の方々には、選挙で選ばれたから試験採用の一般公務員に対して絶対権力を持っているとの錯覚があるとすればそれはそれでまた大変な思い違いであり、「選良」の意味を噛みしめて仕事をしていただきたいものです。
もちろん、ライバルや対立勢力の人々がその人を貶めるために虚構を作り上げ、フェイクニュースを拡散させることや、何らかの事実に尾ひれはひれをつけあたかもその人が犯罪者であるかのような見せ方をすることもありますので、真実を知らない者がああでもないこうでもないと想像を膨らませて論評することはとても危険なことであり、個別のことについては言及しません。自身としては「インチキをせず、過てばはばかることなく改める」ということを心がけて今後も精進していきたいと思う次第です。

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フロイトさんの『ドストエフスキーと父親殺し』と岩波の「図書1月号」セレンディピティ?

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年末にいつもの書店を訪れた際、入口の棚に岩波書店の「図書1月号」が差してあり、手に取って家に持ち帰ってパラパラとめくっていましたら、鹿島茂さんというフランス文学者の方の「共同体家族の構造と父親殺し=神殺し」というタイトルの論考(連載の11回目のようです)がありました。
最初のパラグラフで「カラマーゾフ」「トッド」「父親殺し」という言葉が目に入り、つい先ごろ取り寄せて読んだフロイトさんの『ドストエフスキーと父親殺し』と、こりゃあ密接な関係がありそう。立て続けにこういうものが手に入るというのは、これぞまさしくセレンディピティだと感じ、他のことを放り出して読みました。

この中の「トッド」というのはフランスの歴史人口学者・人類学者のエマニュエル・トッド氏のことで、彼は「ある地域の伝統的な家族構造が、その社会の政治思想やイデオロギーの基盤(インフラ)を決定づける」という家族構造理論というものを提唱している方で、子供が家庭内で経験する「親との関係(自由か権威か)」と「兄弟との関係(平等か不平等か)」という2つの価値観が、国家のあり方の「設計図」になるということだそうです。日本では新書を中心に多くの著書が出版されています。
この論考からの抜粋ですが、トッド氏がある著書の中で「(カラマーゾフの)犯人はひとりではなく、何人もいるのである。つまりそれは兄弟たちである」と書いているそうです。続けて、物語(『カラマーゾフの兄弟』)の初めの方に出てくる、カラマーゾフ家の家族会議が彼らの屋敷でではなくなぜゾシマ長老の庵室で行われたのか、とか、トッド氏の「犯人兄弟全員仮説」がフロイトさんの理論を参照して導かれている、とか、吉本隆明さんの「対幻想」「共同幻想」とか、色々と興味深いことが書いてありました。ページ数にしてわずか4ページほどの短い論考ではありましたが、難しくてよく理解できなかったというのが正直なところです。セレンディピティには感謝しつつも自分の理解力の低さにはやや情けない思いを感じました。

他方、先に手元に届いて読んだフロイトさんの『ドストエフスキーと父親殺し』ですが、こちらは文庫本のタイトルにはなっているものの40ページほどで、こちらも割と短い文章です。1928年に書かれたものだということなので、『カラマーゾフの兄弟』が完成した1880年の50年ぐらい後のものということになります。
昨年12月13日のブログで生成AIに教わったことを書きましたが、それまでフロイトさんが『カラマーゾフの兄弟』について述べているということを全く知りませんでした。フロイトさんは精神分析の創始者であり、私の学んでいる交流分析の始祖エリック・バーン博士も直接の師弟関係はないものの精神分析をフロイトさんの娘の弟子だったエリック・エリクソン氏から学んだという関係にあるようです。ではありますが、なんとなく、このフロイトさんには、あまり近づこうという気持ちになりませんでした。(難しそう、という印象からかも知れません)


ページを開いてびっくり。いきなり「小説『カラマーゾフの兄弟』は、これまで書かれたうちで最高級の小説であり、作中の大審問官の逸話は世界文学の最高傑作の一つであると語っても、過大な評価ではない」とあり、ドストエフスキーを4つの観点で精神分析を行なおうと試みています。4つの観点とは、①道徳家の顔、②犯罪者の顔、③神経症患者の顔、④詩人としての顔、ということで、このあたりからして既に意味がわからなくなってくるのですが、①の道徳家としての顔や②の犯罪者としての顔については、結構ひどいことを書いています(本当なのかも知れませんが)。そのくせ④の詩人としての顔については分析する手掛かりがないとあきらめっぽいことを一言だけ書いて終わっています。
上の鹿島茂さんの論考との関係では、「カラマーゾフ家の兄弟のうちで、(中略)すべての兄弟たちは心理学的には有罪なのである。ドミートリーもイワンもスメルジャコフも、みんな同罪なのである。」という辺りが共通しているような気がします。それだからといって何かが明確になったというわけではありませんが、まあ色んな人が『カラマーゾフの兄弟』について色んなことを言っている、それだけ多くの人が関心をもってこの小説を扱っているということはそれだけ魅力の深い物語なのかも、という印象を持ったということです。
ドストエフスキーのお父さんは、領民に殺されたということですが、フロイトさんによると、実はドストエフスキー自身が父を殺したかった、そのため「犯人がまるで救済者のよいうにみえているかのようである。」「犯人が殺してくれなかったら、自分がみずから手を下さねばならなかった」「原犯罪ともいうべき父親殺しに立ち戻った」「この犯罪者の口から、文学者らしい方法でみずからの罪が告白された」という論を立てています。ホントかな?(本当に父を殺したいと思っていたのかな?)と思うのですが、フロイトさんはそういう分析をしてドストエフスキーが小説の形で父を殺したかった思いを遂げていると考えたようです。
さらには「古今をつうじた文学の三大傑作が、どれも父親殺しという同じテーマを扱っている」「ソフォクレスの『オイディプス王』、シェイクスピアの『ハムレット』、そしてドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』である。」と述べ、父親殺しの動機も共通であると書いています。筒井康隆さんのSF小説にも「エディプスコンプレックス」という言葉が結構出てきますが、フロイトさんの理論に関係あるのでしょうね。
ところが、ここではどうも決定的なことが書いてはなく、どうやら『トーテムとタブー』という別の論考で、父親殺しの理論が確立されているということを、「図書1月号」で知りました。どうも『ドストエフスキーと父親殺し』は難しいわりに中途半端な印象だったのは、これはエッセイのようなものだったのかも知れません。
ということで、次のテーマは『トーテムとタブー』を探せ、ということになりそうです。

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風邪の効用

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明けましておめでとうございます。
今日の富山県魚津市は雪の予報でしたが、意外や青空が垣間見えるおおむね穏やかな一日でした。

さて私こと、昨年10月中旬から顔面神経麻痺を患っています。
その治療薬の一部のプレドニゾロンには免疫抑制作用というのがあるらしく、医師から風邪などをひきやすくなっているから十分に気をつけて、と毎度注意を受けていました。もとより顔がへがんでいるために人様の前に出る時はマスクを常用していたので、感染症などにかかる可能性は多少軽減できていたものと思います。しかし年末の日曜に15年以上放置していたある部分の整理を一気呵成に行い、それも家人にも手伝ってもらえたこともあり半日ほどで完了して一人歓喜にわいていたのですが、どうも寒い場所で行っていたせいか、風邪をひいてしまいました。
かなり重度の風邪症状で、罹患翌日の12月29日と30日は、ほぼ寝たきり状態でした。具体的な症状としては、はじめは寒気が強く、続いて頭痛と鼻づまりと倦怠感と身体の節々の痛みが押し寄せ、そのうち体が岩のように重くなって身動きができず、とにかく寝ているしか何もできない状態でした。熱こそ37度程度だったものの、2日間汗もたっぷりかき、おしまいの方は下痢もありました。
2日間の寝たきり後は、大晦日の31日に少し身体が動くようになったこともあり、家の用事を多少行うとともに、野口晴哉さんの『風邪の効用』を久しぶりに紐解きました。

この本には、≪風邪は放っておくと悪化する場合があるものの、必ずしも悪いものではなく、健康な体に備わっている弾力が使いすぎている場所があるとそこが偏り疲労となってしまい風邪をひくことで鈍くなった体が弾力を恢復する≫ということが書いてあり、著者は「風邪自体が治療行為ではなかろうかと考えている」と記しています。あまり早く風邪を治そうとせずに、経過させることが大事なのではないか、ということも仰っています。

その流れで、とても興味深い記述に改めて気が付きました。p32あたりにあるのですが「癌などでも風邪を引けば治ってくる。ごく最近、癌に風邪の細菌を付けたら癌がなくなってしまった。それで風邪を引くことは癌の治療法になるというような説が出てきました」という記述です。かくいう私も過去に小腸間膜リンパ腫という癌を患い、細胞レベルでは完治できないことを知っているだけに無視はできませんでした。多くの人は迷信・似非科学だと捉えらるでしょうし、私も頭から信じるわけにはいかないものの、そういうこともあるかもしれないな、ぐらいに思っていました。私にとって喫緊の課題でもありませんし。
ところが、かなり体調が良くなってきた今日、年末に購入した日経トレンディの1月号をめくっていたところ、p45に「がん破壊ウイルス」というタイトルで、サブ見出しに「独自の技術でがん細胞を狙い撃ち 風邪ウイルスの活用で体への負担を軽減」という記事があるではありませんか。風邪の代表的な原因として知られる「アデノウイルス」の遺伝子をがん細胞のみを攻撃するように改変することで、高効率で安全性の高い腫瘍溶解性ウイルスが鹿児島大学の先生によって開発されたということです。既存の治療法では治らないがんに対しても治療効果が期待できることに加え、正常細胞には増殖しないので体にかかる負担が極めて小さく、薬剤を注射で投与するため外科手術より侵襲性が低く、抗がん剤のような副作用も起こりにくく、他のがん療法との併用も可能だということです。実用化にはもう数年かかるようですが、第4のがん治療確立の時代がもうすぐのようです。

といったようなことを読みながら、体力と気力が少し回復してきた元日の午後、「たまたま仕事のない年末ではあったものの、家人には多大な迷惑をかけたし、2日間寝たきりなどになってしまうと大変なので、早めに風邪をひいてさっと経過させて治る程度になった方が多分良いのだろうなあ。だから風邪を悪者視しないで、ひくときはひくのがよろし、今年は今まで以上に、自分の身体と向き合って生活をしていこう。」というゆる~い決意をしたところです。できればこの機会に顔面神経麻痺も一気に治ってくれればと淡い期待をしたものの、顔の表情筋の回復は別系統のようで、これについてはもうしばらくかかりそうです。
ということで、このブログをお読みいただいている皆様、今年もよろしくお願い致します。


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現代に通じるソクラテス(『プロタゴラス』の冒頭部分より)

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「君がもしそういった彼らの売り物のうちで、どれが有益でどれが有害かをちゃんと知っているのだったら、いろいろな学識を買い入れるということは、それが誰からであろうと君にとって別に危険はない。
 だが、もしそうでないのなら、君は何よりも大切なものを危険な賭けに晒すことのないように、よくよく気をつけたほうがいい。
 実際、学識を買う場合には、食べ物を買う場合よりも遥かに危険が大きい。なぜって、これが飲食物だったら、卸商人や小売商人からそれを買っても、別の入れ物に入れて持ち帰ることができるし、飲んだり食べたりして、体に入れる前に家に取っておいて、食べたり飲んだりして良いものといけないもの、その量や時期などについて、識者を呼んできて相談することができる。
 だから、それを買うのに大した危険はない。だが、これが学識となると、別の入れ物に入れて持ち去るわけにはいかない。一旦お金を払うと、その学識を直接魂そのものの中に取り入れて学んだ上で、帰るまでには、すでに害されるなり益されるなりされてしまうからだ。」

 この文章の、たとえば「売り物」を「情報・知識・知恵」などと読み替え、「買い入れる」「買う」を「仕入れる」「取り込む」と読み替えるとどうでしょうか。
 プラトンが書いたソクラテスの対話として、『ソクラテスの弁明』に続く第二段として『プロタゴラス』と取っ組み合いをしています。

 この文章を読んで、思いもかけず、現代の情報過多時代に私たちの脳の発達が追い付かなくなって、情報を適切に処理できない場合があるという現状に思いが及びました。

 例えば生成AIとの付き合い方。
 アメリカでは生成AIに相談して自死に至った若者がおり、その親族が訴訟を起こしているという悲しい出来事も起きています。
 私自身は、自分の仕事の中では、知っていることの範囲内で整理のために使うことが多く、知らないことが生成された時は出典を確認したり他の方法での検証も行うようにしています。

 或いは最近のSNSがもたらす世の中の分断。
 本当のことやら嘘のことやらが判断つかなくなるように溢れかえっています。
 東日本大震災の時には動物園からライオンが逃げ出したという投稿が写真付きでなされていました(南アフリカの写真を日本での出来事のごとく投稿したものだったと思います)。
 よく言われているように、コンピューターのアルゴリズムによって、私たち自身がいつの間にか自分の好むようなフィルターバブルの中に入ってそれで世界観が構築・変容・強化されてしまったり、エコーチェンバー現象で多様な考え方と接することが著しく減ってしまったり、ということもあります。
 それあある意味本人にとっては心理的安全性の高い居心地の良い時間の過ごし方なのかも知れません。が、それがためにちょっとでも考え方や意見が異なると、相手を「敵」と見なして「排除」したり過度に攻撃的になったりということで、ここ最近はまたSNS空間が荒れ模様になってきているように思います。それだけ世の中がギスギスしているのか、了見が狭くなっちゃったのでしょうか。或いは情報を冷静に仕分けをする能力(脳力)が追い付いていないのか。

 仕事柄、経営相談に応じる際、特に事業を始めてあまり時間の経っていない創業者の方々などは、私たちのことを「先生」とお呼びになることがあります。先生と呼ぶ呼ばないということとは関係ないかも知れませんが、ご相談者は、私たちが提供する情報・知恵・考え方・経験談を「直接魂そのものの中に取り入れて学ぶ」可能性があります。大半のご相談者は自分で決めなければいけないということを認識おられますが。判断し決定するのはあくまで本人である、私たちはその判断材料を提供する役割だ、決して「教祖」のごとくなってはいけない、ということを肝に銘じつつ、またそのことをしっかりお伝えするよう今後とも心がけていくべきだと、改めて感じた次第です。

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「持続的競争優位性」について

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経営戦略について書かれた本を見ていると、ポーター学派(仮称)のポジショニング戦略(主に外部要因による競争戦略)とバーニー学派(こちらも仮称)のケイパビリティに基づく戦略(主に内部要因の強みを活かした競争戦略)のいずれか、または両方が書いてあるように思います。
持続的競争優位を確保していくためには、その企業が持つリソース(経営資源)が、①V:機会を活かしたり脅威を和らげたりすることができるか、②R:希少性を持つものか、③I:その経営資源を持たない企業が模倣しようとした際にコスト面で不利になるくらい模倣困難性が高いか、④O:組織や制度で①~③が支えられる仕組みになっているか、という観点で取り組んでいくのが良いというようなことをジェイ・B・バーニーという学者が言っている、と私は感じています。
ちなみに上記の4点は、V:Value経済的価値、R:Rarity希少性、I:Inimitability模倣困難性、O:Organization組織の頭文字で、略してVRIOなどと言われるようです。
しかしそもそも「持続的競争優位性」というものが本当に存在するのだろうか?世の中の状況が変われば一変してしまい、昨日の優位性が今日は「弱み」どころか企業自身に向けられる刃にすらなるということが現実にあるのではないか?とずっと思っていたところ、ひょんなことで次の一文に出会いました。


「世の中も環境も変化し、ずっと続く競争優位性は存在しない。つねに自分たちが変化することで小さな優位性を維持していく必要がある。」

NTTの島田明社長が週刊東洋経済2025年10月25日号掲載のインタビューで語った言葉です。NTTですら、と言うと顰蹙を買うかも知れませんが、島田社長も「ずっと続く競争優位性は存在しない」と明言しておられます。まあ情報通信の世界はとても変化が速く、NTTはどんどんGAFAMなどのプラットフォーマーに先を越されていますから、当然そういう言葉が出て来てしかるべしではありますが。
ということで、恐らく、社会で事業を営む全ての企業にとって「持続的競争優位性」というものは存在しないのではないか、まさに、つねに自分たちも変化していくとで小さな優位性を維持していくということが企業活動にほかならない、と思いました。これは我らが中小企業・小規模事業者・個人事業者としても共通することなのではないかと思います。


さて1985年に民間企業になり早40年。企業の寿命15年説を思うと2回転以上しているわけで、人事制度も大きく変わり、今も存続していますが、収益構造もかなり変わり、ドコモがグループ全体の収益を支えているとはいうものの、NTTデータが今後の牽引車になりつつある状況です。私のいた東西ローカル会社は分社した頃とは大きく様変わりし売上は両社合わせて当時の4兆円から今は3兆円そこそこの企業になってしまっています。
私自身NTT社員でいた頃に仕事をしていく上での心の拠り所としていたのは「社会のインフラを守り高度化していく公共的使命」でした。
島田社長は次のようにも述べておられ、これも大いに共感しましたので転載させていただきます。
「ルーツは『公共性』から始まっているので、従業員たちも「世の中に役に立っている」ことが働きがいでもあると思う。そういうところは組織体の中に持っているのであまり変わらないし、自分たちの誇りで前進するエンジンになる。(中略)ただ、どういう事業で世の中の役に立つことをしていくかは、時代とともに変わる。何らかのコミュニケーションをつかさどることはずっとやっていくと思う。」
こういうことを、トップが明確に発信するというのは、働く人々に正しい価値観を伝えるという意味からも良いことではないかと思います。
ドラッカーは、企業は社会との関わりに責任を持たなければならないという主旨のことを述べています(意訳です)。企業は社会の公器だという言い方もあります。今の私は個人事業者ですが、社会で仕事をさせていただいていることに変わりはなく、改めて当時のNTT魂を思い起こして仕事をしていこうと思います。島田社長、お目にかかったことはありませんが、ありがとうございます。

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なりすましにご用心

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 過日、友人からInstagramのフォローリクエストをもらいました。アカウントを変えたのかな?と思い、フォローするとその人からインスタメッセージが届きました。なんだかのLINEグループを作ったので参加しませんか?という案内。遠方だし、何かのサークルに新たに加わっている時間もないし、ということで断ったのですが、しつこく「私が主催している勉強会なので、登録だけでも」と言ってきて、「あ、そうか、加入してもスルーすれば良いかな」と思い、LINEグループへの登録をしました。その前に、Instagramのメッセージ上で名前などを改めて入力しました。(知ってるはずなのに、なんだか形式的だなあと思いつつ)ところが「主催者」はその当の友人ではなく全然別の人。しかもコンサルの勉強ではなく、投資セミナー。これはさすがにいらん、と思い、即LINEグループからは脱退しました。
 おかしいな、あの人がこんな変なセミナーに、自分が主催者だと嘘をついてまで勧誘するはずがないと思っていたら、本物の友人からメッセージが届き、にせものから変なメッセージが届きませんでしたか?とのこと。アカウント名の後ろに本人のアカウントとは異なる妙なアルファベットがついているので、私ではありません、気をつけて下さい、というお知らせでした。

 それから2,3週間後、別の友人から、中陳さん、Instagram乗っ取られていませんか?というメッセージとともに次のような画像を送ってくれました。

 先の、私が引っかかったものとは文面がだいぶん違いますが、LINEグループへの勧誘という点では共通しています。もしかすると先に私がひっかかったにせものが今度は私の名を騙って私のフォロワーに詐欺メッセージを送りつけているのかも知れません。
 アカウントを乗っ取られたわけではないのですが、私の名に似せて、表示名は「Kazuto Nakajin」としており、写真も私がInstagramで使っている顔写真をそのままコピーして使っているようです。アカウントは、私の名前の後ろに「g」をつけただけのもので、似て非なる、といってもパッと見はほぼ気づかないようになっています。
 何人かの友人が誤ってフォローしていたので、すぐに連絡して解除してもらいました。
 ただ、まだこのにせアカウントは存在していますし、類似の事象が発生しないとは限りませんので、注意していかねばと思います。
 親しい友人ほど、顔写真で、本物の二つ目のアカウントか何かだと思い込んでしまうきらいがあるような気がしますので、ご自身のアカウントのにせものの出現、「友人」からのLINEグループへのいざないなど変なメッセージ、などにはくれぐれもお気をつけ下さい。

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清水ミチコさんのパロディソングに思う

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タレントの清水ミチコさんの『米唄』『米がない』など最近の社会情勢を風刺したyoutube動画が静かに流行しているそうです。以前はこういったパロディに触れ、気に入らない偉い人や不条理な現実を笑い飛ばすことで私たち庶民は明日もなんとか頑張ろうという気持ちになっていたものですが、最近はすっかり鳴りを潜めてしまったような気がします。このネット時代では、様々な場面で「炎上」するリスクがあるために権威を笑う芸が避けられているのかも知れません。
そもそもパロディや風刺はかなり古い時代から存在しており、ある意味エンターテインメントの本質と言っても過言ではないのではないかという気がします(もちろんエンタメ全体としてはもっと色々な要素があると思いますが)。
西洋の偉い王様は常に道化師をそばに置いて自分の振る舞いを正すようにしていたと聞いたことがありますし、また中国でも唐の李世民は「諫議大夫」という官職を設け、あえて諫言を言う者をそばに置いていたと言います。ことほどさように上に立つ人は耳障りの悪い話を直接聞く仕組みを作っておくことも治世のバランスを保つ重要な工夫だと思います。
裸の王様にならないように・・・とここまで書いて、はて自分はどうか、ということに思い至りました。私はもちろん王などというご大層なものではありませんが、メンバーとスタッフ計22人と一緒に一定の目標を目指して取り組むチームのチーフという役割を担っています。先日も会議の後で、あるメンバーから「ものが言いにくい雰囲気がある」と苦言を呈されましたし、「言っていることとやっていることが違う」とも言われました。既にして耳障りの良いことを求めているではないか、こりゃまずい、ということに、清水ミチコさんの歌からの連想で気が付きました。
さて明日からちゃんと振舞えますでしょうか。とりあえず清水ミチコさんの他の歌も聞いてみることにします。

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富山県よろず支援拠点での相談員の仕事が11年目に入りました&最近の米国に思うこと

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この4月から「富山県よろず支援拠点」のチーフコーディネーター(相談員 兼 他の支援機関との調整係)の職を拝命しました。前任者がとても素晴らしい方であり、私のみならず他のコーディネーターもその方を慕う気持ちでこの仕事をしてこられた人たちが多いと思われるため、この私で良いのだろうかという気持ちがありましたが、なったからにはしっかり務めなければと思っています。
かといって肩に力を入れすぎてはマネジメントに失敗し病を呼び覚ましたいつぞやの繰り返しになりますので、自分のため、また周りのみんなのため、そこは適度に。
よろず支援拠点というのは、中小企業・小規模事業者のための経営なんでも相談所、といった位置づけで、平成26年6月に国が全国47都道府県に設置したものです。毎年予算が組まれれば継続となる事業のため、来年はないかも、というスリリングな思いを抱きながらも、目の前の事業者さんのために全身全霊を打ち込んで相談対応をしてきました。私は事業開始の2年目、平成27年4月からこの事業に参画させていただいていますので、丸十年が経過したのですが、言ってみれば、昨日まで「ピン芸人」だったものが、翌日からいきなり19人の超有能なタレントさんを擁する芸能プロダクションのマネージャーになったようなものです。しかも自分自身も時々はステージに立たねばならない立場ということもあり、夢かエイプリルフールかのいずれかではないかと頬をつねってみても現実は変わらず、これまでとは時間の使い方も仲間との接し方も大きく変わりました。
やがてひと月が経過する段になって、この文章を書ける心持になりました。
今後「富山県よろず支援拠点」での仕事などについても触れる機会があるかも知れませんし、ないかも知れませんが、個人事業者である自身の、今年はメインの仕事になりましたので、身心に気をつけながら取り組んでまいります。

さて。富山県よろず支援拠点のチーフコーディネーターになって3日目、東京の全国本部から指示がありました。いわく「米国自動車関税措置等に伴う特別相談窓口」を設置しなさい、というものです。もちろん早速設置し、このことで我が富山県の中小企業・小規模事業者がマイナスの影響を受けても事業を継続していけるよう、相談対応をしていかなければならないと思っています。(一昨日、政府の五本柱「米国関税措置を受けた緊急対応パッケージ」が発表されましたので、それらも踏まえて。)
米国のドナルド・ジョン・トランプ大統領の政策で、世界中が右往左往していますし、批判的な論調が目に付きます。彼の政策を経済学的に妥当だという論をなかなか目にしませんが、そのうち裏付ける理論が後付けで出てくるかも知れません。
経済学的な理論はともかくとして、日経新聞などを見ていると米国の批評家からも政策の粗暴さや憲法違反の暴君だなどと批判されていますが、それでも米国内では約半数の国民が支持している、というこのことは一体なんなんだろう?と考えてしまいます。新聞などにものを書く「賢者」が正しく、半数の米国民は無知・無教養で誤っている、ということなのでしょうか。だとすれば、選良たる共和党の国会議員や政府首脳も間違った人々なのでしょうか。Firedされるのが怖いから忠誠を誓っているという書きぶりもありますが、そもそも閣僚の多くは選挙戦の時から支持してきたのであり、選挙に負ければそれまでつぎ込んだ選挙資金も時間も無駄になってしまうわけで、そんな「賭け」をしてまでも支持してきた理由があるはずではないか、と考えてしまいますし、米国人の半分が知的に劣っていると考えるのは極めておこがましいことではないかと思います。
そうした矢先、小松左京さんの『アメリカの壁』という小説に行き当たりました。もちろん現大統領が出てくるずっと前に書かれたSF小説ですが、この小説を読んで、今の米国の半分の人々の「思い」に近づけたかも知れない、という仮説を持ちました。https://amzn.to/3Yk2E7Q
高坂正堯さんの『文明が衰亡するとき』という著書にもありましたが、大国はその重みに耐えかねて自ら衰亡するという主旨です。ローマも帝国の版図を維持し続けることができず(財政面や国家市民の奉仕心などの減衰によって)、既に傭兵などとして浸透していた「蛮族」の激しい攻撃に耐えられず、他方市民の心の拠り所となっていた一神教にすがることによって皇帝の権威がなくても生きていけるあっても関係ないというような思いになっていったのではないかと感じています。
小松左京さんの小説は、米国民が「外の世界に、ひどくいやな形で傷つき、シュリンク(萎縮)しはじめた」ために、もうこれ以上「むしられ」ないよう自国だけで生きていこうと、領土領空を覆う霧を作ってしまう、というもので、「孤立で受けた損害よりも利益の方が大き」く、「もう外の世界から泥沼のような援助をもとめられたり、支配力や影響力のぐらつきに焦ったりしなくても」良くなり、資源はなんでもあり食料はありあまるほど生産できるので「たった一国でも生きのびる」力を持っているというようなことが書かれています。もちろんSF小説ですから、それが今の米国の実相だというつもりはありませんが、これだけ世界から問題視されている大統領が国内では半数の人から支持されているというのはそれなりの(彼らからして)真っ当な理由があるはずだと考えるのは不自然なことではないのではないかと思います。
つまり、米国の人々は、世界中に対する関与に疲れ、少し「普通の国」になりたがっているのではないか。その昔人気絶頂期のキャンディーズが「普通の女の子に戻りたい」と言って解散したのと同じような心情かも、と感じています。思えばオバマ大統領が「もう世界の警察官じゃない」と言ったことが「普通の女の子になりたい」と言ったキャンディーズの思いと通ずるところがあるように感じます。
私の学んでいる「交流分析」という心理学では、コミュニケーション過多で疲れると、一旦他者との交流から離れて一人になりたくなることがあり、そのことを「閉鎖・引きこもり」と言い表しています。この単語はマイナスのイメージがあるかも知れませんが、放出しきったエネルギーを蓄積し、再び他者とコミュニケーションを取るための準備期間が必要になるための行為、という見方もできるようです。
私などはこれまで一部のビリオネアの姿ばかりに目がいき、ウォールストリートやデジタルビリオネアがアメリカだ、という風に感じていましたが、存外それらの人は本当に1%程度であり、残りの多くはヴァンス副大統領が書いた『ヒルビリー・エレジー』の世界の住人だとすれば、自分たちの納めた税金が自分の生活を守るためでなく他国の戦争の武器購入や他国の難民の生活のために使われていることに耐えられない不満を持っていると考えるのは無茶な想像ではないように思います。そんな考えは近視眼的だという批判もあるでしょうが、自らの立場で考えると、果たしてそうかなとも思います。
トランプ大統領は「Make America Great Again」と主張しています。確かに小松左京さんの小説に描かれている大統領も「輝けるアメリカ」という主張をして当選したようですし、「みんな、自信を取り戻そうよ」という呼びかけは、ロジカルに大国の役割を主張するよりもよほど心に響きますし、萎えた心を鼓舞するには必要なスローガンだと思います。しかし彼らの本音は「もう、別に世界から尊敬されなくてもいいから、世界の警察官を務めるのも大変だから、とにかく自分たちの生活をなんとかしようよ Make America Shrink Again」ということなのではないでしょうか。「MAGA」というスローガンの背後に隠れている本音は「MASA」なのでは?と考えると、彼らの支持と政策がなんとなく整合性が取れているように感じられるのです。もしもそうなら、自動車一つとっても、日本市場に売るための努力をしないからではないか、という論理的な反証をしても彼らにはなんら響くことはないように思います。米国を市場としてあまり期待しないという方向性もありかも知れません。もちろん関税分が高くなっても買って下さる米国顧客には従来どおり販売すれば良いのですが、シュリンクしたがっている米国市場をこれまで同様の巨大市場であると思わず、違う国を向いて商売していくという風に割り切るのも一つかも知れません。
昨4月26日の日経新聞「経済論壇から」にありましたが、黒田東彦氏は「米国は外国の資源や市場に依存せず、すべて自国の中で生産して完結するという方向性で、保護主義というよりも孤立主義」と見ており、小松左京さんの小説と同じことを述べておられるようです。とはいえ、現時点でドルは基軸通貨であり米国が大国であることに変わりはなく、この先も当面は「国際関係のハブ(岩井克人氏)」でしょうが、トランプ政策を支持しているであろう半数の米国民の思いも考えることで、私たちの打ち手も「米国に売るためになんとかしよう」という考え方から解放されることにつながるかも知れません。

(2025年4月28日 ニュース配信を見ての追記)
米国大統領が半数の国民から支持を得ていると述べましたが、米紙ワシントン・ポストの実施した世論調査結果によると、支持率は39%で、2月の調査から6ポイント下落したとのことです。同紙は支持率下落について「国民はトランプ氏が経済を悪化させたと感じている」と分析しているとのことであり、さすがに急進すぎるこの間の政策変更に対しては必ずしも半分の国民が納得し支持しているわけではなさそうです。

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2025年(令和7年)NHK大河ドラマ「べらぼう」の蔦屋重三郎同時代年表を作りました

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NHKの新しい大河ドラマ「べらぼう」が始まりました。初回は明和九年の江戸の大火のシーンでした。今までの大河ドラマでは、主人公の子ども時代から始まるのが通例でしたが、今回はいきなり大人としての登場だったため、はて?この時蔦屋重三郎は一体何歳だったのだろう?と疑問を持ち、また天下御免では山口崇さんが平賀源内を、坂本九さんが杉田玄白を演じていましたが、平賀源内が初回から出てきており、既に有名人になっていたようなので、一体何歳ぐらいなんだろう?と思ったのがことの起こりです。関連する人たちが、いつ、何歳で各時代の場面にいたのかということがわかるようにしたいと考え、同時代人の年表を作りました。
去年は、ほとんど藤原さんばかりだったので、縁戚関係がわかれば良かったので、系図と年表があれば理解の助けになりましたが、今年は色々な人が登場するので、同時代人がわかるものがあればと思った次第です。下記にアップしておきますので、必要な方はダウンロードしてテレビを観られる際などに傍らに置いてお楽しみいただければと思います。ダウンロードの際、拡張子が変わってしまうようですので、ダウンロード後に改めて拡張子を「xls」に変換した上で開く必要がありそうです。また、印刷の際はA3版をお勧めします。
なおいくつかの年表を見て作成したものではありますが、名前や生没年その他誤りがある可能性はありますので、その点をお含みおきの上で個人の責任にてお使いいただき、ウイルス感染等を含め使用に際して何らかのトラブルが生じても責任は持てませんのでご承知下さいますようお願い致します。

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正しいことは爽やかである(本田百合子さんの言葉)

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TKC&D CREAREという会報誌が送られてきました。2025winter Vol.83とあります。
中に、日頃お世話になっているアシステム税理士法人の本田百合子代表のインタビュー記事が掲載されていました。
自分への戒めと備忘のため、感謝の念を持って、(私が感銘を受けた部分はご本人のお考えの中のどういう位置づけのものかはわかりませんが)一部抜き書きさせていただきます。
・メインの人をサブの人が必ずダブルチェックするきちんとした仕事
・正しいことがいかに爽やかであるか、明日ポックリ逝ってもいいようにと退路を断って本気でお話しする
・経営計画を作りましょう、ちゃんとした利益を出し続けましょうと、口酸っぱく言い続けている
・(関与先事業者の)利益にもこだわっていきたい
・先延ばししている場合ではない
・スタッフが幸せになるように頑張っている
ある事業者さんが、資金繰りが厳しくなって廃業の決意を伝えに本田先生の所へ挨拶に行かれた時、本田先生から「本当にできることをすべてやった上での判断なのか」と強く尋ねられ、まだできることがあることに気づき、その後業績が回復した方がいらっしゃいます。上記の「明日ポックリ逝ってもいいように」「本気で話をする」というお考えが根底にあってのご指導だったのだなとこのインタビュー記事を拝読して感じました。当然、ハッキリ言わなければならないくらいに切羽詰まった状態であったと思われ、またそれまでの信頼関係が作られていてのことだろうと思います。
そうした助言は、正しいことは爽やかであるという言葉ともつながっているのではないか感じます。
私の地元の魚津市を中心に県内全域でご活躍の本田先生は、大学の先輩でもあり、これからも(間接的ではありますが)ご指導を賜りたいと思っています。

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