ある先輩から、数年前に「システム監査技術者」の資格を取っておいたらいいぞ、と言われた。
しばらくは頭の片隅にあったぐらいだった。
私が就職して最も勉強した分野の一つがデータ通信であった。これはその時の業務上、やむにやまれぬことだった。
しかしそれはデジタル時代における技術を理解する上での基礎的な知識だったおかげで、今でもIT関係の様々な情報が違和感なく理解することができる。
私が情報通信業界の片隅で営業をしていたのが15年前までだ。
その後、営業第一線を離れてマネジメントやコミュニケーション系の仕事を経験させていただき、遂には情報通信業界そのものから離れ、かれこれ6年が経過した。
自分の中のITチックな素養はまだ通用するだろうか、との思いがあり、資格試験にチャレンジしてみようかと思った。
と言っても、データベースやセキュリティなど、情報技術の最新の実地経験が必要な分野に挑戦するほど愚かではない。
何年か前に言われた「システム監査技術者」という先輩の一言を思い出し、試験の内容を調べた。
ギリギリ、情報通信の端っこぐらいの位置からでも取り組めそうな唯一の試験がこれだ、と思い、力試しと運試しのつもりでチャレンジした。
一昨年初めて受けた時は、IT知識や要素系の内容を問う「午前Ⅰ」と「午前Ⅱ」までが合格点だったが、午後の試験はてんであきまへん、という結果だった。「午後Ⅰ」と「午後Ⅱ」は本当に歯が立たなかった。
昨年は色々別の用事があり受験せず、今年「午前Ⅰ」の合格有効期限が最後ということもあって、年明けから通信教育も行って一昨年より相当真面目に準備をして再チャレンジした。
結果、合格させていただくことができた。
今の会社で役に立たせることは全くできないが、将来に亘り、これまた世間様にお返しするタイミングがあればと思う。
まずは、私の受験勉強を心優しく見守ってくれ、応援してくれた家族に心から感謝したい。
ありがとうございました。
投稿者「kazuto nakajin」のアーカイブ
田中啓文さんの『蓬莱洞の研究』
ライトタッチのSF伝奇学園もの小説、田中啓文さんの『蓬莱洞の研究』。
この人の本はいわゆるハチャハチャSFの系統に近い、というふうに思っている。
例としては『蹴りたい田中』である。ヨコジュンこと横田順彌さんに作風が近いのかなと思っており、気持ちをほぐすSFとして前作などは読んでいた。
こちらはしかし、伝奇とホラーが入ってきており、軽くはない。とは言え、田中啓文さんらしく、オチはしっかりダジャレでまとめていただいており、は? ・・・わははははははははははははははは、となること請け合い。
言うならば、筒井康隆さんと横田順彌さんを足し合わせて、半村良さんと高橋克彦さんを少し振りかけたような味わいの学園伝奇SFものである。
最近はホラー小説でヒット作を出しておられるようだが、私はあえてこの手のハチャハチャオヤジギャグシリーズを、今後とも応援したい。
出口治明さんの『仕事に効く教養としての「世界史」』
著者は生命保険の世界では知る人ぞ知る立志伝中の人物、ライフネット生命会長兼CEOの出口治明さんである。
歴史を学ぶことは、人間の営みを知ることであり、国の名前や年号を覚えることが主眼ではない。
人々がどういう場合にどういう判断をしどういう行動をしその結果何がどうなったかを知ることだと思う。
但し、色々な出来事や判断が全て冷静に客観的に理性的に行われてきたかというと、そうでないことが結構多い。
例えば、民族大移動などは、どこそこへ行けばこういういいことがある、現地の人々と話し合って少し住む場所を分けてもらおう、などといって行われたわけではない。
大方が気候変動によって作物が取れなくなったり、食用にしていた生き物がいなくなったりしたことが原因であろうし、移動先にいる先住民を蹴散らして住もうとしていたことが大半であると歴史は教えてくれている。
そんなわけで、歴史の出来事は必然的な要素と偶然的な要素が絡まり合っているので、今同じシチュエーションがあったからといって同じ判断や結果にはならないが、学ぶべきところは多いと思う。
また、世の中というのは常に流動しており、ひと時も固定的なことはないのだということも歴史から学ばれる点である。
このことは既に鴨長明が方丈記で喝破していることであり、今さらここで声高に叫ぶ必要のあることではない。
さて『仕事に効く教養としての「世界史」』は、上述したようなことを、世界史を概観しながら、しかも特定の地域や国に焦点を当てるのではなく、テーマを絞って、それにまつわる国々や人々を縦糸・横糸を駆使して、著者の知識と見識を語ってくれている良書である。
単に世界史の知識を披歴するのではなく、歴史上の事象をを縦から横から関連づけて、著者の理解・解釈を交えて語ってくれているので、歴史好きにとってはおさらいプラス新たな知見を得ることができるという効用もあり、新しい解釈に触れることもできるので、とても楽しい。
歴史はあまり好きではない人にとっては、人々の営みや外国の成り立ちの背景にこんなことがあったんだ、と気づく楽しみ方があるかも知れない。
私にとって「目から鱗」だったのは、奈良時代の女帝たちには隣国のロールモデルがあったこと、焚書坑儒は実は墨家潰しだったのではないか、17世紀から19世紀前半までは中国とインドで世界GDPの半分を占めていたのであって最近の両国の勃興は歴史の大潮流からすれば波が再び戻ってきたようなことだとの認識などなどである。
こういう知見は、まさに5000冊の歴史書を読んできた出口治明さんという「樽」の中で揺籃し、熟成させられたもののほんの一部であろうと思われる。
ユーラシアの歴史における「トゥルクメン」、西欧の歴史における「ヴァイキング」など海と陸の移動系・遊牧系・狩猟系民族の果たした役割の重要性についても面白い語りがなされている。
著者は、これらを紐解く鍵として、交易を置いている。「人類を発展させるための重要な手がかりは交易である」という考え方が著者の文明観の根底に流れているような感じがする。栗本慎一郎氏やカール・ポランニー博士などの考え方と共通しているのかも知れない。
さて、では歴史を学ぶことの意義とは何か。
著者は「人生の出来事に一喜一憂するのではなく、長いスパンで物事を考え、たくましく生き抜いてほしい」と仰っている。「今日まで流れ続け、明日へと流れている大河のような人間の歴史と、そこに語られてきたさまざまな人々の物語や悲喜劇を知ってほしい」「それが人生を生き抜いていく大きな武器になる」と私たちに語りかけている。
本書でも言われている「縁もゆかりもない人々が<同じ国民であるという>植え付けられた国家という幻想」(米政治学者ベネディクト・アンダーソン)、ということも含め、自分たちの国や共同体や地域や親戚などの狭い領域だけに捉われた判断をせず、視野を広く持って考え、判断していくように、歴史に学ぶことはこれからも多そうだ。
村上春樹さんの『ねじまき鳥クロニクル 第1部』
知人の薦め(?)で、村上春樹さんの『ねじまき鳥クロニクル』に着手。
先日伊勢神宮に参詣した折の行きのJR車中で、「第1部 泥棒かささぎ編」のおおむね半分ぐらいを読み、その後は断続的にパラパラと読んできた。
この第1部のおしまいの方にノモンハンでの軍隊の活動が書かれてある。
そこまでの現代物語とはまったく様相を異にする内容で、妙な違和感があるが、この小説を書くに際して、著者はノモンハンのことを相当調べたようであり、してみると、村上春樹さんは、実はそれを強く言いたいのかな?と思う。
特に興味深かったのが次のような記述である。(主人公が世話になった人の遺品を届けにきてくれた元軍人の回想話の中の一節)
「戦線がどんどん前に進んでいくのに、補給が追いつかんから、私たちは略奪するしかないのです。捕虜を収容する場所も彼らのための食糧もないから、殺さざるを得んのです。間違ったことです。 (中略) うちの部隊でもやりました。何十人も井戸に放り込んで、上から手榴弾を何発か投げ込むんです。 (中略) この戦争には大義もなんにもありゃしませんぜ。こいつはただの殺しあいです。そして踏みつけられるのは、結局のところ貧しい農民たちです。 (中略) そういう人を意味もなくかたっぱしから殺すのが日本の為になるとはどうしても思えんのです。」
この言葉が実態かどうかはわからないが、かのローマの戦争・・・周辺を攻めるけれども、人を殺すこと自体が目的ではなく、ローマ文明を広げ、それによって国境地域の安定化を図ることが目的であり、そのため恭順すれば寛容で迎え入れ、ローマ人と同じ権利義務も付与していく政策。また周辺の安定化のため、軍とともに、必ずロジスティクスを確保し(当たり前のことであるが)、コツコツと道路を建設し、医療施設や入浴施設なども一緒に建設して都市を作っていく・・・という営みと比較すると、なんということか、と思ってしまう。
村上春樹さんはそういうようなことを訴えたいと思ったのかも知れない。
まだ、第2部、第3部が残っているので、以上の見方は間違った捉え方かも知れないが、途中経過で感じたことを記しておきたい。
司馬遼太郎さんの『街道をゆく33 奥州白河・会津のみち;赤坂散歩』
NHK大河ドラマ「八重の桜」・・・ここ何回か観ていないので最近の放映内容に疎いが、会津戦争の辺りから、そういえば司馬遼太郎さんは会津のことをどう思っていたのだろう? あるいは、会津についてどういう書き物を残しているのだろう?と気になっていた。
私と司馬さんの接点といえば、中学3年生の頃に放映されたNHK大河ドラマ「花神」に始まり、幕末関係で言えば、小説、ドラマいずれも薩長土肥側から見たものだけだった。一度なじむと、人間、その方が居心地がいい。そのため、おのずと「会津は敵」という史観がじんわり自分の中に定着していた感がある。それはたぶん司馬さんの本意ではなく、たまたま歴史上の主人公を誰にして小説を書いたか、だけの話であり、彼の著書には「王城の護衛者」や「最後の将軍」「新選組血風録」など、倒幕された側の人々が主役のものも幾冊もある。ただ私がそれらを遠巻きに眺めていただけのことだ。
さて、今年の大河ドラマは、そういう偏った私のものの見方を改めさせてくれている。ようやく妙な呪縛めいたものから解けて、司馬さんが会津をどう見、どう語っていたかを調べてみようという気になった。彼が比較的書きたいことを自由っぽく書いた紀行ものの一つに「街道をゆく」のシリーズがある。その第33巻に会津編が掲載されている。
ゆっくり時間をかけて全文を読んだ。
初めの頃、会津とはなんの関係もない(ように見える)ストーリーが延々と語られ、大阪を出発するまでに1章をかけており、その後も東京の話やら関東の話やら空海の話やら松尾芭蕉の話やら白河の関にまつわる話やら源融の話やら源義経の話やら源平屋島の戦いやらあっちへ行ったりこっちへ来たり、一体いつになったら会津が出てくるのか、やっぱり司馬さんは会津がきらいだったのかな?と読み止まることしばしば(ジョークではない)。
しかし、中盤に来て会津徳一という奈良末・平安初期の旧仏教の〝知的豪傑〟の話が出てきて、これも幕末の会津とは関係がないのだが、そろりと「会津」という単語を入れた話を聞かせてくれたり、旧陸軍大将だった柴五郎の話(会津戦争で肉親が自害、その後会津の藩替えで、藩の人々とともに凍える寒さの斗南藩で大変な苦労をしたことなど)が紹介されたり、山下りんというロシア正教会の修道女のイコンの話があったりして、徐々に幕末の会津に近づく。
今放映されている「八重の桜」にも重要なポジションで紹介されているが、会津藩家老だった山下浩という人物が明治後期に世に出した「京都守護職始末」という松平容保公と会津の人々の記録に筆が及ぶや、一気呵成に幕末会津の活躍ぶりやその後の仕打ち(悪役を仕立て、その悪役を倒すことで新政府が前政府に勝って天下を取ったということの正統性を示すための犠牲として扱われた)についての記述がなされている。江戸期における教育水準の高さ、純朴で他人のせいにしない悲しいくらいの潔さ、そういう会津人気質を司馬さんはガラスの風鈴を扱うようにいとおしんでいるように思える。
「会津藩」という章を司馬さんは次のような一節で括っている。この一節の末尾、括弧書きの中に司馬さんの当時の会津の人々に対する哀悼と尊敬の気持ち、自分は大阪人だが会津の人々の悔しさ・無念さをわずかでも代弁できないものか、という葛藤の混じった思いがこもっているような気がする。
<藩としての精度が高かったために、江戸時代、国事にこきつかわれた。・・・中略・・・この藩は北辺の各地に陣屋を設けて国家の前哨の役目をしたが、寒さのために罹患して死ぬ者が多く、いまも北海道やその属島に会津陣屋あとや藩士の墓がのこっている(このことについて、国家は一度も旧会津人に感謝をしていない)。>
今さらながら『中小企業診断士の資格を取ったら読む本』を読んだ
中小企業診断士の資格をいただいたのは、ちょうど西暦2000年4月。かれこれ13年も前のことだ。
今さら「資格を取ったら」というタイトルの本を読むのはちょっと変、ではあるが、将来的に資格をしっかり活かしていくことを考えると、今はどうなのか、という観点でもう一度しっかりと準備を整えておく必要がある。
そう考えて、この『中小企業診断士の資格を取ったら読む本』を拝読した。
この本は、私が中小企業診断士の受験勉強の時からずっと著書でお世話になっている、小林勇治氏と波形克彦氏の共編著である。
中小企業診断士の世界では超有名人、スーパースターのお二人である。著書も数百冊に及ぶのではないか。
一昨日から断続的に読み進め、今日終了した。
読み終えて、学ぶ点が山のようにあった。
特にハラハラした点は、この13年、なんとか資格を維持するための最低限の条件はクリアしてきたものの、診断技法・ノウハウといったものの自分の中での再履修がほとんど行われていないことである。もちろん新しい経営手法や財務分析のノウハウなどは多少身についたものはあるものの、基本の振り返りをしてこなかったことに改めて気付かされた。
というわけで、今後、年内は、中小企業診断士の知識・ノウハウを再履修すること、それから派生してITCのプロセスガイドラインもしばらく遠ざかっているので、コンサルタントの基本事項として再履修をしようと思う。
新しいことを積み上げていくことは極めて重要だが、土台がおろそかになってはいけない。
猛省した数日間である。その意味で私にとっては極めて有意義な書物であった。
私が猛省した、という点とは別に、この本に書かれてある重要なことをいくつか紹介しておく。
・この本は、著者たちの企業支援の経験に基づき、ミーコッシュ理論とダイヤモンドマトリクスメソッドいう考え方で整理し、書かれてある。
・診断士は、サラリーマンとは全く違うということを肚に落とし込み、サラリーマンとは全く違う哲学で行動しなくてはならない。
・生き様、行動基準、戦略ビジョンをしっかり持つ必要がある。
・その他、営業活動の仕方・心構え、研修や講演の準備、日頃の情報収集と整理、修得しておくべきコミュニケーション技法。
などなど、具体的で実践的な内容が盛り沢山である。大変たいへん参更になった。東京の素晴らしい先輩たちの素晴らしい著作だと思う。
自己啓発系の無料体験セミナーに参加して
ジェームス・スキナー氏の『100%』という本を今年のゴールデンウイークに読んだ。無料セミナーの案内があったので、昨日、ひょこひょこと出かけてきた。無論、本ちゃんの高額のセミナーへの誘客を目的としたものであることは100%承知の上で、である。
そういうことを割り引いても、なかなか良い内容だった。
スキナー氏の『成功の9ステップ』をちゃんと読もうと思う。そして実践できることはどんどん実践していきまっせ。
ところで、自己啓発セミナーと新興宗教は極めて近いものだという感じをあらためて持った。会場に来ていた多くの人が「自分は変わらなくてはならないと思って参加した」と仰っていた。このプログラムのことではないが、心理学系のセミナーは、参加者同士で自分のことをあれこれ語って開示し、徐々にほぐれてくるに従って、日常ではまずやらないだろうパッションあふれる行動や親との過去の関わり合いに思いを馳せさせて号泣させてスッキリさせるなど、色々なテクニックが駆使される。
私などは「変わりたい」と思うなら自分で変われよ、と天邪鬼めいた心がうそぶいているが、もちろんその場では声には出さない。セミナーをしらけさせるのが目的で参加したわけではないから。しかし、変わりたいと思っている人がセミナーの力を借りてでも変わろうとしているということは、そこにしっかりビジネスのチャンスがあるということなんだな、とあらためて理解した。
幸か不幸か、私は陽明学を学んでしまったので、知識からだけでも思いによって行動を変えることができる(と信じている)ので、今年はその種のセミナーには行かない。
が、自己啓発系の大物たちのほとんどは鬼籍に入ってしまっており、そういうことを考えると、このスキナー氏とか神田正典氏とかが生きていて、いくばくかのお金を払うことで直接その謦咳に触れることができるというのは僥倖かも知れない。論ずるより産むが易し(ちょっと違うが)という気合で受講するのも悪くないかも知れない。
堀公俊さんの『組織を動かすファシリテーションの技術』
ファシリテーターの基本技術集。ファシリテーターの良いダイアログ、悪いダイアログの事例中心に、様々な技術が書いてある。とてもためになる。使える。いい参考書だ。
さすが日本のファシリテーターの第一人者、堀公俊さん!
ファシリテーターの質問の仕方、セリフというのは、コーチングのそれと極めて似通っている。コーチングのスキルが相当流用可能だ。
図解(絵で議論を整理する技法)に関する部分では、まさしく経営コンサルの技法そのものといっていい内容だ。野口吉昭さんの色々な本で整理されている各種のチャートや図法と同じようなものが系統だてて用途に応じて書いてあり、これもいただきである。
今日の私自身の学びは、ズバリ、これである。<アイディアは切り捨てずに統合する>。ファシリテーションの世界ではずっと以前から当たり前に言われてきているが、会議の進行であっても、これはとても難しい。でも意識して<切り捨てずに統合する>はやっていかねばならないとあらためて感じた。ありがとうございます。
佐藤正浩さんの『会議は変わる!』
世に無駄な会議の多いこと、多いこと。
それらの会議の無駄、無理、ムラなどについて(本書ではそういう言い回しはないが)、とても科学的に合理的に解きほぐしたのが本書『会議は変わる!』(佐藤正浩著、東洋経済新報社)
あらためて、会議の3種類の目的、会議における問題点の原因、原因を除去し生産性を高めていくための方法、会議の設計やプロセスやインフラの列挙、会議の着地点などについて、豊富なチャートとテンプレートで構成されていてとても読みやすい本だった。ありがとうございます。
ちょんせいこさんの『人やまちが元気になるファシリテーター入門講座』
国籍の違いなどを乗り越えて元気に明るく生きておられる、ちょんせいこさんという人の書いた『人やまちが元気になるファシリテーター入門講座』(解放出版社)。
ファシリテーションの具体的な技法や実例がたくさん書いてあって、とってもわかりやすい。
いい本だ。