「持続的競争優位性」について

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経営戦略について書かれた本を見ていると、ポーター学派(仮称)のポジショニング戦略(主に外部要因による競争戦略)とバーニー学派(こちらも仮称)のケイパビリティに基づく戦略(主に内部要因の強みを活かした競争戦略)のいずれか、または両方が書いてあるように思います。
持続的競争優位を確保していくためには、その企業が持つリソース(経営資源)が、①V:機会を活かしたり脅威を和らげたりすることができるか、②R:希少性を持つものか、③I:その経営資源を持たない企業が模倣しようとした際にコスト面で不利になるくらい模倣困難性が高いか、④O:組織や制度で①~③が支えられる仕組みになっているか、という観点で取り組んでいくのが良いというようなことをジェイ・B・バーニーという学者が言っている、と私は感じています。
ちなみに上記の4点は、V:Value経済的価値、R:Rarity希少性、I:Inimitability模倣困難性、O:Organization組織の頭文字で、略してVRIOなどと言われるようです。
しかしそもそも「持続的競争優位性」というものが本当に存在するのだろうか?世の中の状況が変われば一変してしまい、昨日の優位性が今日は「弱み」どころか企業自身に向けられる刃にすらなるということが現実にあるのではないか?とずっと思っていたところ、ひょんなことで次の一文に出会いました。


「世の中も環境も変化し、ずっと続く競争優位性は存在しない。つねに自分たちが変化することで小さな優位性を維持していく必要がある。」

NTTの島田明社長が週刊東洋経済2025年10月25日号掲載のインタビューで語った言葉です。NTTですら、と言うと顰蹙を買うかも知れませんが、島田社長も「ずっと続く競争優位性は存在しない」と明言しておられます。まあ情報通信の世界はとても変化が速く、NTTはどんどんGAFAMなどのプラットフォーマーに先を越されていますから、当然そういう言葉が出て来てしかるべしではありますが。
ということで、恐らく、社会で事業を営む全ての企業にとって「持続的競争優位性」というものは存在しないのではないか、まさに、つねに自分たちも変化していくとで小さな優位性を維持していくということが企業活動にほかならない、と思いました。これは我らが中小企業・小規模事業者・個人事業者としても共通することなのではないかと思います。


さて1985年に民間企業になり早40年。企業の寿命15年説を思うと2回転以上しているわけで、人事制度も大きく変わり、今も存続していますが、収益構造もかなり変わり、ドコモがグループ全体の収益を支えているとはいうものの、NTTデータが今後の牽引車になりつつある状況です。私のいた東西ローカル会社は分社した頃とは大きく様変わりし売上は両社合わせて当時の4兆円から今は3兆円そこそこの企業になってしまっています。
私自身NTT社員でいた頃に仕事をしていく上での心の拠り所としていたのは「社会のインフラを守り高度化していく公共的使命」でした。
島田社長は次のようにも述べておられ、これも大いに共感しましたので転載させていただきます。
「ルーツは『公共性』から始まっているので、従業員たちも「世の中に役に立っている」ことが働きがいでもあると思う。そういうところは組織体の中に持っているのであまり変わらないし、自分たちの誇りで前進するエンジンになる。(中略)ただ、どういう事業で世の中の役に立つことをしていくかは、時代とともに変わる。何らかのコミュニケーションをつかさどることはずっとやっていくと思う。」
こういうことを、トップが明確に発信するというのは、働く人々に正しい価値観を伝えるという意味からも良いことではないかと思います。
ドラッカーは、企業は社会との関わりに責任を持たなければならないという主旨のことを述べています(意訳です)。企業は社会の公器だという言い方もあります。今の私は個人事業者ですが、社会で仕事をさせていただいていることに変わりはなく、改めて当時のNTT魂を思い起こして仕事をしていこうと思います。島田社長、お目にかかったことはありませんが、ありがとうございます。

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トーマス・マン『ブッデンブローク家の人びと』(まだ「中巻」ですが)

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『魔の山』から派生して『ヴェニスに死す』を経由して映画まで観て、とうとう『ブッデンブローク家の人びと』まで来ました。『魔の山』と『ブッデンブローク家の人びと』は筒井康隆さんが絶賛している小説ですが、私には高校生の頃に教科書でそういう作家がいるということを見たぐらいでした。古典と言われるものには当時も関心がありませんでしたが、最近はそういうものが読まれ続けていることの意味があるように感じており、こうやって少しずつ触れていくようになってきました。
さてこの小説、まだ中巻が終わったところであり、年内に下巻まで完読できるかどうかわかりませんが、中巻についてコメントしておきます。
この小説は、著者であるトーマス・マンの一族をモデルにしたものだそうで、北ドイツのリューベックを舞台に、ブッデンブローク家の4代にわたる商家の繁栄と衰退を描いたものだということです。


中巻は、大金持ちの実業家の一族の黄昏の始まりが描かれており、色々なほころびが徐々に出て来ています。
中巻の主役であるコンスル・トーマス・ブッデンブローク(コンスルは一族や企業の代表者というような意味のようです)は、必死で家業を守り通そうとするものの、弟やその他周囲の人々はどうも「学び」や「責任感」が不足しているような気がします。弟のクリスティアンなどは勘と虚栄心と好き嫌いが商売の判断基準になっている、没落ゆく商家の典型的な人物に見えます。
お金があるうちは良いですが、そのお金も、群がりくる金の亡者たちによって徐々に浸食されていきます。
とどのつまりは、気の弱い8歳のハンノ(トーマスの一人息子)に対する「存在否定」とも言われるべき父トーマスからの非難の言葉です。これが中巻の一番最後に放たれており、結構衝撃を受けます。その少し前からのハンノが受けている、明るく前向きなピアノレッスンの様子が鈍い輝きを発しているだけに、その後の暗転ぶりがあるのだろうなとなんとなく予感はしていたものの、です。
この中巻最後のトーマスからハンノへの叱責の言葉は私にとっては思いのほか暗澹たる気持ちにさせられました。母の溺愛(?)の反作用かも知れませんが、心の弱いハンノをなんとか元気に、生きがいをもって成長する子に育てたい、という母の気持ちであって決して溺愛というようなものではないと思うので、母ゲルダの振る舞いを責める気持ちにはなれません。
存在を否定されたようなこのハンノは、それゆえに、恐らく心の成長を得ることができず(もしくは中途半端な偏った成長になってしまい)、やがて若くしてこの世を去ってしまうというのが下巻の想像です。
ちょっと暗い話になりましたが、4代にわたる栄枯盛衰ものということで、しっかり向き合っていこうと思います。

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天の戮民

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これまたひょんな出会いとなりました。昨日偶然書店で求めた呉智英さんと適菜収さんの対談本をめくっていたら、荘子の話が出て来ました。

曰く、外編と雑編派読まなくても良い。私も総感じていたので、我が意を得たり!とおもいつつ、さらに進むと大宗師編に、孔子のキャラをあてがわれた登場人物に「私は天の戮民である」と言わせているとのこと。そんな言葉知らなかったし、荘子は高校の頃から読んでいるものの全部を読み通したわけではなく、大宗師編も途中で止まっていたため、はっとして、そういう箇所があったのかと慌ててページをめくりました。

天の戮民とは、天から刑罰を受けた身であり、無為自然に生きたいけれどもそうはできず、世俗の内につながれている(不自由な身の上だ)と語らせているのです。世俗の内にしばられて生きるというのは、知識や礼節を大切にするという面倒があり、安らかには生きられないと吐露させています。

もうあと数ページのところで、このくだりに行き着いていたかと思うと自分の読書の要領の悪さを恥じるのですが、そこの手前で呉智英さんによる解説にたまたま出会えてから次に進めたというのは、なんともはや僥倖ではないかと感じ入ったひとときでした。

これ、書物のセレンディピティと言っても良いかも知れません。感謝。

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『ソクラテスの弁明・クリトン』

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本文だけなら90ページもない薄い本であり、かつ40年以上前に購入したものでしたが、なかなか読むことができませんでした。
どういう心境かは自分自身よくわかりませんが、ようやくちゃんと向き合う機会ができました。
プラトン著『ソクラテスの弁明・クリトン』(岩波文庫)です。(40年以上前に買ったのは角川文庫で、日付を見ると高校二年の冬でした・・・1ページも読まない積読でした)

気になった箇所を少し抜粋します。
「私に対して全然虚偽のことをいい触らす多くの弾劾者・・・諸君の中の多くの人達をまだ少年であった頃から篭絡・・・彼らの数は多く・・・諸君のある者はまだ少年であり、諸君のある者はまだ青年であり、最も他の言を信じ易き年頃」
ここまで読んで、今のSNSの隆盛ぶりとそこに流れる様々なウソやデマに容易に取り込まれてしまっている(そのように信じたい?)人々がいるのかも知れないということに思いが至ってしまいました(先のM県知事選挙で比較的若い世代の人びとが、どうも虚偽情報を信じた投票行動をしたのではないかという報道がありましたので)。
さらに「私を弁護してくれる者のない欠席裁判において私を弾劾した・・・彼らの名前をすら知り得ずまた挙げ得ぬ・・・猜疑と讒謗慾とのために諸君を説得せんと試みた人々・・・これらの人々に対してはまったく策の施しようがない。・・・人は彼ら一人をもここに召喚してこれを反駁することが出来ず、弁明に際しても、たとえば影と戦うが如く、何人も応答する者なくして弁駁するより外に全く途が無い」(p14~15)
これもSNSでの本名のわからないアカウント名による匿名での誹謗中傷の類と変わらない状況ではないかと感じました。
後ろの解説を読むと、当時のアテナイの人々は、ペルシャとの戦争に勝利した後の隆盛後、ペロポンネソス戦争で敗北し、スパルタ配下という屈辱を味わい、三十人専制という恐怖政治を経由し、再び民主制にはなったものの往時の勢いはなく、自信と誇りを失った人々は誰かに責任を押し付けることで憂さ晴らしをしたい、「何事にもひたすら復古を念とし新を厭う反動時代となった」頃に、「聴者の意を迎え、手段を選ばざる成功術」を色々と言説を弄する「ソフィスト」と呼ばれる人々が跋扈していたようです。ソフィストは「何ら普遍的に通用する標準を認めざる極端なる主観主義」を持っており、伝統的な価値観を破壊する人だとみなされていたようで、現にそれらの人のいくばくかは裁判で国外追放とされていたようです。

これなども、◯◯ファーストのように飛びつきやすく拡散しやすいワンワードポリティクスにも比せるものという気がします。
真実を知っている人をひたすら探し、色々な人と議論をし、やはり本当のことを知っている人がいない、自分は「知らないということを知っている」「大切なことは単に生きることではなく、善く生きることである」という主張をしたがために、ギリシャの神を信ぜず「別の神を信奉する者だ」とし(ちゃんと既存の神への捧げ物などもしていたにも拘らず、批判者の「こうに決まっている」という一方的なイメージの押し付けにより)、ソフィストと同類、それもその中の大物だとみなされてしまい、結局不信人者として有罪の判決を受け、しかもそれでも自分の良心の主張をしたがために裁判官の多くの心証を悪くし、処刑という結果となったようです。
そういう時代背景も考えると、今の日本の状況と重なって見えてしまうのがなんとも複雑な気持ちになってしまいましたが、いつの世にもあるようなことなのかも知れませんが、この2500年、「人をそしる」「人を貶める」ことで溜飲を下げることが相変わらず行われているという点で、私たちはほとんど進歩していないのかも知れません。リベラルアーツは西洋人の基礎教養だとか、哲学が諸学の基礎と言いますが。

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なりすましにご用心

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 過日、友人からInstagramのフォローリクエストをもらいました。アカウントを変えたのかな?と思い、フォローするとその人からインスタメッセージが届きました。なんだかのLINEグループを作ったので参加しませんか?という案内。遠方だし、何かのサークルに新たに加わっている時間もないし、ということで断ったのですが、しつこく「私が主催している勉強会なので、登録だけでも」と言ってきて、「あ、そうか、加入してもスルーすれば良いかな」と思い、LINEグループへの登録をしました。その前に、Instagramのメッセージ上で名前などを改めて入力しました。(知ってるはずなのに、なんだか形式的だなあと思いつつ)ところが「主催者」はその当の友人ではなく全然別の人。しかもコンサルの勉強ではなく、投資セミナー。これはさすがにいらん、と思い、即LINEグループからは脱退しました。
 おかしいな、あの人がこんな変なセミナーに、自分が主催者だと嘘をついてまで勧誘するはずがないと思っていたら、本物の友人からメッセージが届き、にせものから変なメッセージが届きませんでしたか?とのこと。アカウント名の後ろに本人のアカウントとは異なる妙なアルファベットがついているので、私ではありません、気をつけて下さい、というお知らせでした。

 それから2,3週間後、別の友人から、中陳さん、Instagram乗っ取られていませんか?というメッセージとともに次のような画像を送ってくれました。

 先の、私が引っかかったものとは文面がだいぶん違いますが、LINEグループへの勧誘という点では共通しています。もしかすると先に私がひっかかったにせものが今度は私の名を騙って私のフォロワーに詐欺メッセージを送りつけているのかも知れません。
 アカウントを乗っ取られたわけではないのですが、私の名に似せて、表示名は「Kazuto Nakajin」としており、写真も私がInstagramで使っている顔写真をそのままコピーして使っているようです。アカウントは、私の名前の後ろに「g」をつけただけのもので、似て非なる、といってもパッと見はほぼ気づかないようになっています。
 何人かの友人が誤ってフォローしていたので、すぐに連絡して解除してもらいました。
 ただ、まだこのにせアカウントは存在していますし、類似の事象が発生しないとは限りませんので、注意していかねばと思います。
 親しい友人ほど、顔写真で、本物の二つ目のアカウントか何かだと思い込んでしまうきらいがあるような気がしますので、ご自身のアカウントのにせものの出現、「友人」からのLINEグループへのいざないなど変なメッセージ、などにはくれぐれもお気をつけ下さい。

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森見登美彦さんの『太陽の塔』

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魚津市立図書館で7/25~9/30まで開催されている「謎解きゲーム」。毎回5つ以上の本などを借りるとヒントのカードが1枚もらえ、それを4枚集めると、クイズの全容がわかり、回答を投函すると、抽選で図書カードなどがもらえるというイベントです。
今回ようやく4回目の貸出を行い、応募用紙に答を書いて投函してきました。
4回目に借りた本の一つが森見登美彦さんのデビュー作『太陽の塔』です。確か以前文庫本を購入してどこかに積んであるはずなのですが、どれだけ探しても見当たらないので、この機会にと思い、図書館で借り、一気に読みました。

大学の五回生に上がる前に著者が書き上げたものらしく、しかも農学部の学生だったという経歴からは想像できないような文体と語彙の選び方に驚きます。
世間でも言われているようですが、まさに万城目学さんと並び立つ京都ファンタジー小説の双璧だと言って良いのではないかと思います。(文体や方向性は異なりますが)
詳しい内容は書きませんが、ちゃんと1970年大阪万博の跡地である万博記念公園の太陽の塔が出てきます。
私が大阪に勤務していた頃、吹田の辺りでも仕事をしたことがありますが、当時は確か入館できない状態だったと思います。
今大阪で改めて万博が開催されているからというわけではありませんが、先日も岡本太郎さんと太陽の塔にまつわるテレビ番組をやっており、中に入ってみたいなと思いつつ、この小説を読みました。
大学生らしい青春小説です。自分は京都でも大阪でもなく東京で学生時代を過ごしましたが、この生産性ゼロの世界は懐かしくも恥ずかしい時間の使い方をしていたなあと共感をもって読ませてもらいました。この著者の「四畳半」シリーズも面白く、U-NEXTで時々観ています。中でも下鴨神社での古本まつりの情景はとても憧れを感じ、今でもやっているのならそぞろ歩いてみたいなと思います。
百万遍、叡山電車、大文字山、京阪電車、阪急電車、四条河原町交差点・・・京都はいいなあと感じ入っている次第です。(心は万博記念公園の太陽の塔と国立民族学博物館に飛んでいっていますが)

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永井紗耶子著『秘仏の扉』、P.G.ウッドハウス『ジーヴズの事件簿 才智縦横の巻』

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魚津の市立図書館でちょっとしたイベントをやっており、しばらくぶりに訪れたところ、偶然目に入った一冊が、新聞の書評で目にして興味を持っていた永井紗耶子さんの『秘仏の扉』です。秘仏といえば、大体がお寺の奥深く厨子の中に安置され何百年も人の目に触れることのなかった仏像などが想起され、しかもその仏像の中には小さな本尊が納められていたり、あるいは作られた時のいわれが彫り込まれていたりと、色々なエピソードが連なってくるものです。日本の秘仏の中でも代表的なものが法隆寺夢殿の救世観音像ではないでしょうか。
この本は法隆寺夢殿の救世観音像を軸に、その周りをめぐる様々な関係者の日常や歴史上の出来事を縦糸横糸で縦横無尽につないで話をつむいである、オムニバスのような物語です。どこまでは史実でどこからが著者の創作かはよくわかりませんが、場面が過去に遡ったり現在(明治21年)に戻ってきたり、行ったり来たりを繰り返していくうちに、時間の前後がだんだんわからなくなり、しまいには「過去はない、常に今なのだ」という感覚に陥ってしまいました。これは著者の力かも知れません。
主人公は誰なのか、最初は夏目漱石のあの有名な写真なども撮った小川一眞(おがわかずまさ)さんという人が中心に描かれているのですが、途中から九鬼隆一・波津子夫妻と岡倉天心の醜聞に話がシフトしていき、最後は岡倉天心と町田久成という人物のやりとりに収斂されていき、当然アーネスト・フェノロサや千早定朝師なども出てくるのですが、やはりそれらの中心にいる(ある)のはかの救世観音像なのです。
救世観音像がつぐませた(或いは、狂わせた)人々の人生と言いますか・・・。

私自身、初めて本物の法隆寺夢殿の救世観音像に相まみえた時は、シニカルな微笑みに、安らぎよりも得体の知れぬ不安を感じたことを覚えています。と同時に、この仏像は聖徳太子を模した仏像だということから、こんな顔だったのか、という不思議な気持ちになりました。

さて『ジーヴズの事件簿』は、どこで目にしたのかは覚えていませんが、現在の上皇后さまが、これから『ジーヴズ』を読むのが楽しみだという主旨のことを仰っていたとかいう情報を目にして、一度読んでみようと思った次第です。
スーパー執事(20世紀の初め頃の英国での出来事であることを申し添えておきます)が活躍するユーモア推理小説という感じでしょうか。面白かったです。

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『魔の山』DVD、筒井康隆さんの『聖痕』、ロバート・A・ハインラインの『夏への扉』

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トーマス・マンの『魔の山』を読み終え、その勢いでDVDを観ました。この映画は原作の味を忠実に映像化した優れた作品だと感じました。一部相違していたやに感じたのは、主人公のハンス・カストルプが思い人であるショーシャ夫人に対する思いを遂げるシーンがあったことで、小説の文脈からはそこまでは読み取れなかったため、映像作品としてのファンサービスなのか、それとも小説から読み取る力のなかった単なる私の読解力不足なのかはわかりません。また、小説の結末はなんとも悲しい(従兄のヨアヒムも含め)ものでしたが、映画ではそこまでの悲劇的な終わり方ではなかった(小説を読んでいる人はどうせこの後の次第はわかるでしょ、ということかも知れませんが)のがせめてもの救いだったと言えるのかどうか。

筒井康隆さんの『聖痕」を読みました。https://amzn.to/3IK3XrL
十年前に文庫本が出た時すぐに購入したものの、読もうとしては挫折、数年後再びチャレンジしてまた挫折を繰り返し、このままこのおぞましい物語は死ぬまで読めないのかも知れないなあといつも書棚を見ては思いながら過ごしてきましたが、意を決してとうとう読み通しました。最初はやはり目を覆いたくなるような描写があり、つらくて悲しくて痛々しくてとても読むに堪えられず、筒井さんのえぐい描写は今に始まったことではないものの、大抵は尊大ぶった権威者を嗤い飛ばすパロティ的なものであり、こちらがつらくなることはなかったので、この時(東日本大震災の翌年の夏から新聞連載)なぜこんな暗い描写ではじまる物語を書かれたのか、不思議でなりませんでした。
この小説の主人公が聖人のようになるのは、ちょっとだけ、絶望からスタートしたこの物語が(途中も暗くはないのですが)、とにかく前を向いて、歩いていきませんか?ということを訴えているようにも感じました。もしかすると多少ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャを重ねているのかも知れません。
1970年代から2010年代初頭までを、途中から同時代小説みたいに描かれており、経済学者の野口悠紀雄さんを実名で登場させたり、阪神淡路大震災、オウム真理教事件、薬害エイズ、賃金削減と正社員減少、さらにはリーマン・ショックから東日本大震災(津波に吞み込まれる児童たちの意識の断片が主人公に聞こえという描写は体験者でない私ごときが言えることではないものの、目頭が熱くなりました)までを描いておられ、この40年間の日本の変容をなぞり、これからどう過ごしていくのだろうか?という問いを投げかけておられるようにも感じました。
下に一部だけ引用しますが、P330~331(文庫)の「金杉君」の「長広舌」はもしかすると筒井さんの言いたいことだったのかも知れません。文学者としての遺言であり預言であり最後の希望のようなものかも。

ネットフリックスで「夏への扉」が配信される、と聞いたと同じような時期に小説の『夏への扉』を購入しました。主人公の山崎賢人さん、面影がどことなく我が次男坊に、面影が、あくまでぼやっとした面影が(しつこいですね)ちょっとだけ似ているような気がして、他人のように思えないのです。これはただの、超・親バカ発言です。https://amzn.to/4nY9ISG
しばらくトーマス・マンの『魔の山」と格闘していたため、他の小説などを手に取る余裕がなく、また、筒井さんの『聖痕』をなんとか超えないとという思いがあり、後回しになっていましたので、その間映画も我慢していましたが、ようやく、戒律から解かれ読むことができましたが、並行して映画も観ました。内容には触れませんが、小説も映画も良い作品でした。「タイムトラベル不朽の名作」とうたわれているだけあって、単なる時間旅行ではなく奥行きの深い作品でした。今、生成AIやロボットなどが何かと話題になっています。そんな未来(小説が書かれた1950年代からすると)を予想してのことかどうかわかりませんが、小説の終盤にこのような記述がありました。
「人間精神が、その環境に順応して徐々に環境に働きかけ、両手で、かん(勘)で、科学と技術で、新しい、よりよい世界を築いていくのだ」
筒井さんの『聖痕』は「人類の絶滅する時期がずっと早まって近づいてきたように思う」としつつ「残り少ない食べ物を分けあいながら、幸福に、そして穏やかに滅亡していける」と「金杉君」に言わせていました。科学技術は使い方次第ではディストピアが訪れる(チョムスキー氏の『誰が世界を支配しているのか?』にはこれまで何度もすんでのところで核が発射されそうになったことが書かれています)。そういう未来もありますが、この本では、そういう新しい技術を、人類の知恵で適切にコントロールしていけるのではないか、ということを示唆しているように感じました。

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NTTグループの生成AIサービス「Stella AI」(有料版)の利用を始めました。

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有料版の生成AIについては既に様々な企業から提供されて久しいです。しかしあまりにもめまぐるしくサービス品質が変化しており、それこそ生き馬の目を抜くような勢いで昨日はできなかったことが今日はこのAIでできるようになったりこちらのAIでしかできなかったことが別のAIでもできるようになったりと、ラットイヤー以上の激しい変化が繰り広げられているため、どれか一つに絞らず、無料の範囲で様々な生成AIを使い比べてきたのがこの2年半でした。
しかし先日NTTグループが、色々な生成AIを使うことができ、しかもパワポなどとの親和性も高いというサービスを発表し、多少いきさつはありましたが、とうとう有料のサービスを契約しました。https://www.ntt.com/about-us/press-releases/news/article/2025/0616.html
発表されたのは、NTTグループのNTTドコモビジネス株式会社(旧NTTコミュニケーションズ)の「Stella AI for Biz」というサービスですが、法人でないと契約できないとのことで、困ったなあと思っていたら、個人向けに元からStellaAIというものがあるとの返事をいただき、個人でも利用可能な月額1480円のスタンダードプランを契約しました。

個人の場合は、利用回数が月1000回(AIの行に10とか3とか書いてあるのは、10回分相当とか3回分相当とかいう意味です)という上限がありますが、法人向けサービスの「for Biz」の場合は、Gemini 2.5 Flash/ GPT-4.1 mini/ Claude Sonnet 4であれば無制限で利用可能とのことです。しかも法人向けは、入力データがAIモデルの学習に使用されないことや、日本国内リージョンのサーバーを使用、全データを暗号化して安全に保存など、セキュリティに力を入れていることを表明しています(私が契約した個人向けについてはこのようなことが書かれていない感じなので、自分で情報管理については気をつける必要がありそうですが)。

写真のように11種類の生成AIを選んで利用するようですが、まだうまく使い分け方を心得ていないので今後勉強していかなければなりません。加えて、WebSearchとDeepResearchを使える生成AIとそうでないものがあり、かつそれらの違いもよくわかっていないのでこれも勉強せねばです。また11種類の生成AIがあるのですが、PerprexityやNOTEBOOK LMやCiciがないので、それらについては引き続き無料版を別途使っていくことになろうかと思います。
また画像生成については上記11種類とは別に、GPT-Image-1、DALL-E3、Imagen-4、Grok2の4種類が搭載されているため、それらから選択して生成させることができます。
プロンプトについてもよく使われるものがテンプレとして記載されており(たぶん100種類以上)、色々と使い勝手が良さそうです。
いずれにしても単独でも有料版が2000円ぐらいする色々な生成AIを2000円以下で月間1000単位まで使えるというのはとっても便利な気がします。NTTのtsuzumiにはちょっと出遅れ感がありますが・・・でもNTTさん、よくぞやってくれました。

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清水ミチコさんのパロディソングに思う

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タレントの清水ミチコさんの『米唄』『米がない』など最近の社会情勢を風刺したyoutube動画が静かに流行しているそうです。以前はこういったパロディに触れ、気に入らない偉い人や不条理な現実を笑い飛ばすことで私たち庶民は明日もなんとか頑張ろうという気持ちになっていたものですが、最近はすっかり鳴りを潜めてしまったような気がします。このネット時代では、様々な場面で「炎上」するリスクがあるために権威を笑う芸が避けられているのかも知れません。
そもそもパロディや風刺はかなり古い時代から存在しており、ある意味エンターテインメントの本質と言っても過言ではないのではないかという気がします(もちろんエンタメ全体としてはもっと色々な要素があると思いますが)。
西洋の偉い王様は常に道化師をそばに置いて自分の振る舞いを正すようにしていたと聞いたことがありますし、また中国でも唐の李世民は「諫議大夫」という官職を設け、あえて諫言を言う者をそばに置いていたと言います。ことほどさように上に立つ人は耳障りの悪い話を直接聞く仕組みを作っておくことも治世のバランスを保つ重要な工夫だと思います。
裸の王様にならないように・・・とここまで書いて、はて自分はどうか、ということに思い至りました。私はもちろん王などというご大層なものではありませんが、メンバーとスタッフ計22人と一緒に一定の目標を目指して取り組むチームのチーフという役割を担っています。先日も会議の後で、あるメンバーから「ものが言いにくい雰囲気がある」と苦言を呈されましたし、「言っていることとやっていることが違う」とも言われました。既にして耳障りの良いことを求めているではないか、こりゃまずい、ということに、清水ミチコさんの歌からの連想で気が付きました。
さて明日からちゃんと振舞えますでしょうか。とりあえず清水ミチコさんの他の歌も聞いてみることにします。

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