トーマス・マン『ブッデンブローク家の人びと』ようやく下巻まで読み終えました。

LinkedIn にシェア
Pocket

この本をトーマス・マンが書き上げたのは西暦1900年、彼が25歳の時だそうです。
今の日本ならさしづめ「新進気鋭の天才作家現る!」ということで素晴らしい賞を取るような出来事ではないかと思います。もちろん国も時代背景も異なるので、今の日本でどういう評価を得るかはわかりませんが。
読みながらずっと考えていたのが、この物語は全くの架空の話ではなく、トーマス・マンの一族の栄枯盛衰の物語だということだったので、一体この本のどの登場人物がトーマス・マンにとってどういう親族関係にあるのだろうか?という点でした。最後にはわかってビックリしましたが、なぜ彼はこの物語の中で一族の四代目である「ハンス」をチフスで死なせたのか、その疑問は私には解けていません。
そういうことを考えていて思ったのが『魔の山』にも通底する何かがあるのではないかということです。言い方は悪いですが、トーマス・マンは没落商家の子弟であり、家業を維持できなくなった。その遠因はこの人の祖父の代に近代機械化や新興産業への転換を怠り、1848年革命時の景気後退で打撃を受けたことのようです。『魔の山』は『ブッデンブローク家の人びと』の13年後の1913年に書き始められ、1914年の第一次世界大戦の時に一旦執筆を中止し、1924年にようやく完成したようです。この少し前、本書の描かれている時代である1835年から1877年のドイツは、産業革命の初期段階から統一国家成立後の急速な工業化へと移行する激動期で、経済の発展と合わせて近代的自我というようなものが素晴らしいと考えられていたのかも知れませんが、ドイツ帝国が誕生し都市化が進んで貧富の格差が出て来て社会主義という考え方が登場し、近代的自我が揺らいでいたようなことがどこかに書いてありました。そこへまたトーマス・マンにとっては同時代の出来事としての第一次世界大戦があり、どうも、ずっと世の中を悲観的に見る姿勢があったのではなかろうかと勝手に推測しています。
そうしたことから、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』が「父殺し」がテーマだと言われるのと対照的に、トーマス・マンの『ブッデンブローク家の人びと』は『魔の山』もそうですが、「自分殺し」が底に流れているテーマなのではなかろうかと感じた、というのが読了直後の印象となりました。
生成AIに聞くと、それらしいことを裏付けて解説してくれましたが、「自分殺し」と一義的に規定することは過度な一般化の可能性があるのであまり決めつけない方が良いとのコメントも合わせて返ってきました。(なるほど)
さて、以下はその生成AIからの解説です。

ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』は「親殺し=父権的秩序の内面化された破壊」を核に、人間の罪責意識と信仰の根源を問う作品であり、エディプスコンプレックスの文学的先行表現と位置づけられる。一方、トーマス・マンの『ブッデンブローク家の人びと』『魔の山』は、近代市民社会における主体が自らの生の根拠を失い、「自分殺し(自己同一性の解体)」へ向かう過程を描く。
両者の差異は、ロシア正教的・共同体的精神世界と、西欧ブルジョワ的・個人主義的精神世界の違いに根差す。
キェルケゴール『死に至る病』は、この両者を貫く理論的中核として、「自己が自己であろうとすることの絶望」を定式化し、両作家の文学的実践を哲学的に照射する。
これらの系譜は、日本文学では戦後以降、筒井康隆(自己解体の戯画化)→村上春樹(空洞化した自己の漂流)という形で継承・変容されている。
<上記の解説>
1.ドストエフスキーとエディプス・コンプレックス
・『カラマーゾフの兄弟』では、父フョードルの放蕩と暴虐が、息子たち全員に「父は死んでもよい存在だ」という無意識的欲望を生む。
・実際の殺害者はスメルジャコフだが、ドミートリイは「やったかもしれない」という罪責を引き受け、イワンは理性によって父殺しを正当化し精神崩壊に至る。
・フロイトは『ドストエフスキーと父殺し』(1928)で、本作をエディプス的罪責の集団化として解釈している。
→ 親殺しは事実行為ではなく、倫理・宗教・理性を通じて内面化された欲望の構造である。
2.トーマス・マンと「自分殺し」
・『ブッデンブローク家の人びと』では、商業的成功と倫理的規範を体現した家系が、感受性・芸術性の増大とともに衰退する。
・これは父を殺すのではなく、父から継承された「自分」を否定する過程である。
・『魔の山』のハンス・カストルプは、病と時間の停止の中で、近代的主体性そのものを解体されていく。
→ マン文学の核心は、近代的自己の内部崩壊=自分殺し。
3.キェルケゴール『死に至る病』との関係
・キェルケゴールは「絶望」を自己が自己であろうとしない/しすぎる状態と定義。
・イワン・カラマーゾフは「理性によって神を否定する自己」による絶望。
・ハンス・カストルプは「決断を回避し続ける自己」による絶望。
→ 両者は異なる形で、同一の実存的病理を体現している。
4.日本文学・社会への影響(筒井康隆・村上春樹)
◎筒井康隆
・父権・自己・物語構造そのものをメタ的に破壊(例:『脱走と追跡のサンバ』『虚人たち』)。
・ドストエフスキー的「罪と責任」は、アイロニーと笑いへ転化。
・自己解体を「遊戯」として引き受ける点で、マン的系譜を戯画化。
◎村上春樹
・父は不在、あるいは影としてのみ存在。
・主人公は罪を犯さず、闘わず、ただ喪失後の空洞を漂流する(例:『ねじまき鳥クロニクル』『海辺のカフカ』)。
・推測ですが、村上文学は「親殺しも自分殺しも起こらない社会」における、実存の後景化を描いている。
トーマス・マンが『ブッデンブローク家の人びと』を書いたのは、ドイツ帝国成立後の工業化とブルジョワ秩序の確立・変容の時期であり、古い市民的教養と新しい資本主義的競争社会が交錯していた時代でした。​
作品には、プロテスタント的禁欲倫理、芸術への誘惑、シューペンハウアー哲学の悲観主義と意志の形而上学が織り込まれ、市民社会それ自体の内部から静かに進行する「意味の疲弊」が描かれます。
『魔の山』が書かれたのは、第一次世界大戦後、ヨーロッパ全体が文明の危機を痛感し、合理主義と非合理主義、リベラリズムと全体主義的イデオロギーの対立が激化していた時期です。
ダヴォスのサナトリウムは、各国の患者が集う「縮小されたヨーロッパ」として設計され、啓蒙的ヒューマニズムを代表するセッテムブリーニと、神秘主義的・暴力的理念を唱えるナフタの対話は、理性と狂信、進歩信仰と破壊衝動のせめぎ合いとして、ヨーロッパ精神の分裂を象徴します。
・・・・・・・生成AIからの引用はここまで・・・・・・・
トーマス・マンの『ブッデンブローク家の人びと』は、他にもショーペンハウアーの『意思と表彰としての世界』やニーテェの哲学も影響しているようですし、またフロイトが『ドストエフスキーと父親殺し』という論文を書いているということも初めて知り、ドストエフスキーのギャンブル中毒とエディプスコンプレックスとを関連づけて論じているらしきこと、『カラマーゾフの兄弟』をエディプスコンプレックスについての文学的な先行表現と位置付けていること、などを知りました。
他方トーマス・マンの文学に通底しているのは『ヴェニスに死す』を見ても、どうも最後はバッドエンドになってしまっており、『魔の山』『ブッデンブローク家の人びと』も自らの生をひたすら消耗させ、衰退し解体していく過程が描かれており、当時のヨーロッパの精神的な危機を彼なりに受け止めて小説という別の形で造形していたのかなと感じました。若い時にこういうのを読むと果たしてどうなっていただろうかと思いますが、この年になると受け止めることができているように思います。


        ドストエフスキーのことは、村上春樹さんの小説によく出ていたこともありますが、『カラマーゾフの兄弟』を読むぞ、と決めたのは筒井康隆さんが「自分にも完読できる良い訳が光文社文庫から出た」と仰っていたことでした。その筒井康隆さんが様々な書評を書いている中に『魔の山』と今回読んだ『ブッデンブローク家の人びと』が紹介されており、どちらの作品も絶賛しておられたことからこれらの本も手にしました。
        まあ難しい難しい。とにかくページに余白がない。ということで、随分時間がかかりましたが、なんとか年内に読み終えることが叶いました。
        ・・・ので、少し休みます。

        LinkedIn にシェア
        Pocket

        現代に通じるソクラテス(『プロタゴラス』の冒頭部分より)

        LinkedIn にシェア
        Pocket

        「君がもしそういった彼らの売り物のうちで、どれが有益でどれが有害かをちゃんと知っているのだったら、いろいろな学識を買い入れるということは、それが誰からであろうと君にとって別に危険はない。
         だが、もしそうでないのなら、君は何よりも大切なものを危険な賭けに晒すことのないように、よくよく気をつけたほうがいい。
         実際、学識を買う場合には、食べ物を買う場合よりも遥かに危険が大きい。なぜって、これが飲食物だったら、卸商人や小売商人からそれを買っても、別の入れ物に入れて持ち帰ることができるし、飲んだり食べたりして、体に入れる前に家に取っておいて、食べたり飲んだりして良いものといけないもの、その量や時期などについて、識者を呼んできて相談することができる。
         だから、それを買うのに大した危険はない。だが、これが学識となると、別の入れ物に入れて持ち去るわけにはいかない。一旦お金を払うと、その学識を直接魂そのものの中に取り入れて学んだ上で、帰るまでには、すでに害されるなり益されるなりされてしまうからだ。」

         この文章の、たとえば「売り物」を「情報・知識・知恵」などと読み替え、「買い入れる」「買う」を「仕入れる」「取り込む」と読み替えるとどうでしょうか。
         プラトンが書いたソクラテスの対話として、『ソクラテスの弁明』に続く第二段として『プロタゴラス』と取っ組み合いをしています。

         この文章を読んで、思いもかけず、現代の情報過多時代に私たちの脳の発達が追い付かなくなって、情報を適切に処理できない場合があるという現状に思いが及びました。

         例えば生成AIとの付き合い方。
         アメリカでは生成AIに相談して自死に至った若者がおり、その親族が訴訟を起こしているという悲しい出来事も起きています。
         私自身は、自分の仕事の中では、知っていることの範囲内で整理のために使うことが多く、知らないことが生成された時は出典を確認したり他の方法での検証も行うようにしています。

         或いは最近のSNSがもたらす世の中の分断。
         本当のことやら嘘のことやらが判断つかなくなるように溢れかえっています。
         東日本大震災の時には動物園からライオンが逃げ出したという投稿が写真付きでなされていました(南アフリカの写真を日本での出来事のごとく投稿したものだったと思います)。
         よく言われているように、コンピューターのアルゴリズムによって、私たち自身がいつの間にか自分の好むようなフィルターバブルの中に入ってそれで世界観が構築・変容・強化されてしまったり、エコーチェンバー現象で多様な考え方と接することが著しく減ってしまったり、ということもあります。
         それあある意味本人にとっては心理的安全性の高い居心地の良い時間の過ごし方なのかも知れません。が、それがためにちょっとでも考え方や意見が異なると、相手を「敵」と見なして「排除」したり過度に攻撃的になったりということで、ここ最近はまたSNS空間が荒れ模様になってきているように思います。それだけ世の中がギスギスしているのか、了見が狭くなっちゃったのでしょうか。或いは情報を冷静に仕分けをする能力(脳力)が追い付いていないのか。

         仕事柄、経営相談に応じる際、特に事業を始めてあまり時間の経っていない創業者の方々などは、私たちのことを「先生」とお呼びになることがあります。先生と呼ぶ呼ばないということとは関係ないかも知れませんが、ご相談者は、私たちが提供する情報・知恵・考え方・経験談を「直接魂そのものの中に取り入れて学ぶ」可能性があります。大半のご相談者は自分で決めなければいけないということを認識おられますが。判断し決定するのはあくまで本人である、私たちはその判断材料を提供する役割だ、決して「教祖」のごとくなってはいけない、ということを肝に銘じつつ、またそのことをしっかりお伝えするよう今後とも心がけていくべきだと、改めて感じた次第です。

        LinkedIn にシェア
        Pocket

        「持続的競争優位性」について

        LinkedIn にシェア
        Pocket

        経営戦略について書かれた本を見ていると、ポーター学派(仮称)のポジショニング戦略(主に外部要因による競争戦略)とバーニー学派(こちらも仮称)のケイパビリティに基づく戦略(主に内部要因の強みを活かした競争戦略)のいずれか、または両方が書いてあるように思います。
        持続的競争優位を確保していくためには、その企業が持つリソース(経営資源)が、①V:機会を活かしたり脅威を和らげたりすることができるか、②R:希少性を持つものか、③I:その経営資源を持たない企業が模倣しようとした際にコスト面で不利になるくらい模倣困難性が高いか、④O:組織や制度で①~③が支えられる仕組みになっているか、という観点で取り組んでいくのが良いというようなことをジェイ・B・バーニーという学者が言っている、と私は感じています。
        ちなみに上記の4点は、V:Value経済的価値、R:Rarity希少性、I:Inimitability模倣困難性、O:Organization組織の頭文字で、略してVRIOなどと言われるようです。
        しかしそもそも「持続的競争優位性」というものが本当に存在するのだろうか?世の中の状況が変われば一変してしまい、昨日の優位性が今日は「弱み」どころか企業自身に向けられる刃にすらなるということが現実にあるのではないか?とずっと思っていたところ、ひょんなことで次の一文に出会いました。


        「世の中も環境も変化し、ずっと続く競争優位性は存在しない。つねに自分たちが変化することで小さな優位性を維持していく必要がある。」

        NTTの島田明社長が週刊東洋経済2025年10月25日号掲載のインタビューで語った言葉です。NTTですら、と言うと顰蹙を買うかも知れませんが、島田社長も「ずっと続く競争優位性は存在しない」と明言しておられます。まあ情報通信の世界はとても変化が速く、NTTはどんどんGAFAMなどのプラットフォーマーに先を越されていますから、当然そういう言葉が出て来てしかるべしではありますが。
        ということで、恐らく、社会で事業を営む全ての企業にとって「持続的競争優位性」というものは存在しないのではないか、まさに、つねに自分たちも変化していくとで小さな優位性を維持していくということが企業活動にほかならない、と思いました。これは我らが中小企業・小規模事業者・個人事業者としても共通することなのではないかと思います。


        さて1985年に民間企業になり早40年。企業の寿命15年説を思うと2回転以上しているわけで、人事制度も大きく変わり、今も存続していますが、収益構造もかなり変わり、ドコモがグループ全体の収益を支えているとはいうものの、NTTデータが今後の牽引車になりつつある状況です。私のいた東西ローカル会社は分社した頃とは大きく様変わりし売上は両社合わせて当時の4兆円から今は3兆円そこそこの企業になってしまっています。
        私自身NTT社員でいた頃に仕事をしていく上での心の拠り所としていたのは「社会のインフラを守り高度化していく公共的使命」でした。
        島田社長は次のようにも述べておられ、これも大いに共感しましたので転載させていただきます。
        「ルーツは『公共性』から始まっているので、従業員たちも「世の中に役に立っている」ことが働きがいでもあると思う。そういうところは組織体の中に持っているのであまり変わらないし、自分たちの誇りで前進するエンジンになる。(中略)ただ、どういう事業で世の中の役に立つことをしていくかは、時代とともに変わる。何らかのコミュニケーションをつかさどることはずっとやっていくと思う。」
        こういうことを、トップが明確に発信するというのは、働く人々に正しい価値観を伝えるという意味からも良いことではないかと思います。
        ドラッカーは、企業は社会との関わりに責任を持たなければならないという主旨のことを述べています(意訳です)。企業は社会の公器だという言い方もあります。今の私は個人事業者ですが、社会で仕事をさせていただいていることに変わりはなく、改めて当時のNTT魂を思い起こして仕事をしていこうと思います。島田社長、お目にかかったことはありませんが、ありがとうございます。

        LinkedIn にシェア
        Pocket

        トーマス・マン『ブッデンブローク家の人びと』(まだ「中巻」ですが)

        LinkedIn にシェア
        Pocket

        『魔の山』から派生して『ヴェニスに死す』を経由して映画まで観て、とうとう『ブッデンブローク家の人びと』まで来ました。『魔の山』と『ブッデンブローク家の人びと』は筒井康隆さんが絶賛している小説ですが、私には高校生の頃に教科書でそういう作家がいるということを見たぐらいでした。古典と言われるものには当時も関心がありませんでしたが、最近はそういうものが読まれ続けていることの意味があるように感じており、こうやって少しずつ触れていくようになってきました。
        さてこの小説、まだ中巻が終わったところであり、年内に下巻まで完読できるかどうかわかりませんが、中巻についてコメントしておきます。
        この小説は、著者であるトーマス・マンの一族をモデルにしたものだそうで、北ドイツのリューベックを舞台に、ブッデンブローク家の4代にわたる商家の繁栄と衰退を描いたものだということです。


        中巻は、大金持ちの実業家の一族の黄昏の始まりが描かれており、色々なほころびが徐々に出て来ています。
        中巻の主役であるコンスル・トーマス・ブッデンブローク(コンスルは一族や企業の代表者というような意味のようです)は、必死で家業を守り通そうとするものの、弟やその他周囲の人々はどうも「学び」や「責任感」が不足しているような気がします。弟のクリスティアンなどは勘と虚栄心と好き嫌いが商売の判断基準になっている、没落ゆく商家の典型的な人物に見えます。
        お金があるうちは良いですが、そのお金も、群がりくる金の亡者たちによって徐々に浸食されていきます。
        とどのつまりは、気の弱い8歳のハンノ(トーマスの一人息子)に対する「存在否定」とも言われるべき父トーマスからの非難の言葉です。これが中巻の一番最後に放たれており、結構衝撃を受けます。その少し前からのハンノが受けている、明るく前向きなピアノレッスンの様子が鈍い輝きを発しているだけに、その後の暗転ぶりがあるのだろうなとなんとなく予感はしていたものの、です。
        この中巻最後のトーマスからハンノへの叱責の言葉は私にとっては思いのほか暗澹たる気持ちにさせられました。母の溺愛(?)の反作用かも知れませんが、心の弱いハンノをなんとか元気に、生きがいをもって成長する子に育てたい、という母の気持ちであって決して溺愛というようなものではないと思うので、母ゲルダの振る舞いを責める気持ちにはなれません。
        存在を否定されたようなこのハンノは、それゆえに、恐らく心の成長を得ることができず(もしくは中途半端な偏った成長になってしまい)、やがて若くしてこの世を去ってしまうというのが下巻の想像です。
        ちょっと暗い話になりましたが、4代にわたる栄枯盛衰ものということで、しっかり向き合っていこうと思います。

        LinkedIn にシェア
        Pocket

        天の戮民

        LinkedIn にシェア
        Pocket

        これまたひょんな出会いとなりました。昨日偶然書店で求めた呉智英さんと適菜収さんの対談本をめくっていたら、荘子の話が出て来ました。

        曰く、外編と雑編派読まなくても良い。私も総感じていたので、我が意を得たり!とおもいつつ、さらに進むと大宗師編に、孔子のキャラをあてがわれた登場人物に「私は天の戮民である」と言わせているとのこと。そんな言葉知らなかったし、荘子は高校の頃から読んでいるものの全部を読み通したわけではなく、大宗師編も途中で止まっていたため、はっとして、そういう箇所があったのかと慌ててページをめくりました。

        天の戮民とは、天から刑罰を受けた身であり、無為自然に生きたいけれどもそうはできず、世俗の内につながれている(不自由な身の上だ)と語らせているのです。世俗の内にしばられて生きるというのは、知識や礼節を大切にするという面倒があり、安らかには生きられないと吐露させています。

        もうあと数ページのところで、このくだりに行き着いていたかと思うと自分の読書の要領の悪さを恥じるのですが、そこの手前で呉智英さんによる解説にたまたま出会えてから次に進めたというのは、なんともはや僥倖ではないかと感じ入ったひとときでした。

        これ、書物のセレンディピティと言っても良いかも知れません。感謝。

        LinkedIn にシェア
        Pocket

        『ソクラテスの弁明・クリトン』

        LinkedIn にシェア
        Pocket

        本文だけなら90ページもない薄い本であり、かつ40年以上前に購入したものでしたが、なかなか読むことができませんでした。
        どういう心境かは自分自身よくわかりませんが、ようやくちゃんと向き合う機会ができました。
        プラトン著『ソクラテスの弁明・クリトン』(岩波文庫)です。(40年以上前に買ったのは角川文庫で、日付を見ると高校二年の冬でした・・・1ページも読まない積読でした)

        気になった箇所を少し抜粋します。
        「私に対して全然虚偽のことをいい触らす多くの弾劾者・・・諸君の中の多くの人達をまだ少年であった頃から篭絡・・・彼らの数は多く・・・諸君のある者はまだ少年であり、諸君のある者はまだ青年であり、最も他の言を信じ易き年頃」
        ここまで読んで、今のSNSの隆盛ぶりとそこに流れる様々なウソやデマに容易に取り込まれてしまっている(そのように信じたい?)人々がいるのかも知れないということに思いが至ってしまいました(先のM県知事選挙で比較的若い世代の人びとが、どうも虚偽情報を信じた投票行動をしたのではないかという報道がありましたので)。
        さらに「私を弁護してくれる者のない欠席裁判において私を弾劾した・・・彼らの名前をすら知り得ずまた挙げ得ぬ・・・猜疑と讒謗慾とのために諸君を説得せんと試みた人々・・・これらの人々に対してはまったく策の施しようがない。・・・人は彼ら一人をもここに召喚してこれを反駁することが出来ず、弁明に際しても、たとえば影と戦うが如く、何人も応答する者なくして弁駁するより外に全く途が無い」(p14~15)
        これもSNSでの本名のわからないアカウント名による匿名での誹謗中傷の類と変わらない状況ではないかと感じました。
        後ろの解説を読むと、当時のアテナイの人々は、ペルシャとの戦争に勝利した後の隆盛後、ペロポンネソス戦争で敗北し、スパルタ配下という屈辱を味わい、三十人専制という恐怖政治を経由し、再び民主制にはなったものの往時の勢いはなく、自信と誇りを失った人々は誰かに責任を押し付けることで憂さ晴らしをしたい、「何事にもひたすら復古を念とし新を厭う反動時代となった」頃に、「聴者の意を迎え、手段を選ばざる成功術」を色々と言説を弄する「ソフィスト」と呼ばれる人々が跋扈していたようです。ソフィストは「何ら普遍的に通用する標準を認めざる極端なる主観主義」を持っており、伝統的な価値観を破壊する人だとみなされていたようで、現にそれらの人のいくばくかは裁判で国外追放とされていたようです。

        これなども、◯◯ファーストのように飛びつきやすく拡散しやすいワンワードポリティクスにも比せるものという気がします。
        真実を知っている人をひたすら探し、色々な人と議論をし、やはり本当のことを知っている人がいない、自分は「知らないということを知っている」「大切なことは単に生きることではなく、善く生きることである」という主張をしたがために、ギリシャの神を信ぜず「別の神を信奉する者だ」とし(ちゃんと既存の神への捧げ物などもしていたにも拘らず、批判者の「こうに決まっている」という一方的なイメージの押し付けにより)、ソフィストと同類、それもその中の大物だとみなされてしまい、結局不信人者として有罪の判決を受け、しかもそれでも自分の良心の主張をしたがために裁判官の多くの心証を悪くし、処刑という結果となったようです。
        そういう時代背景も考えると、今の日本の状況と重なって見えてしまうのがなんとも複雑な気持ちになってしまいましたが、いつの世にもあるようなことなのかも知れませんが、この2500年、「人をそしる」「人を貶める」ことで溜飲を下げることが相変わらず行われているという点で、私たちはほとんど進歩していないのかも知れません。リベラルアーツは西洋人の基礎教養だとか、哲学が諸学の基礎と言いますが。

        LinkedIn にシェア
        Pocket

        なりすましにご用心

        LinkedIn にシェア
        Pocket

         過日、友人からInstagramのフォローリクエストをもらいました。アカウントを変えたのかな?と思い、フォローするとその人からインスタメッセージが届きました。なんだかのLINEグループを作ったので参加しませんか?という案内。遠方だし、何かのサークルに新たに加わっている時間もないし、ということで断ったのですが、しつこく「私が主催している勉強会なので、登録だけでも」と言ってきて、「あ、そうか、加入してもスルーすれば良いかな」と思い、LINEグループへの登録をしました。その前に、Instagramのメッセージ上で名前などを改めて入力しました。(知ってるはずなのに、なんだか形式的だなあと思いつつ)ところが「主催者」はその当の友人ではなく全然別の人。しかもコンサルの勉強ではなく、投資セミナー。これはさすがにいらん、と思い、即LINEグループからは脱退しました。
         おかしいな、あの人がこんな変なセミナーに、自分が主催者だと嘘をついてまで勧誘するはずがないと思っていたら、本物の友人からメッセージが届き、にせものから変なメッセージが届きませんでしたか?とのこと。アカウント名の後ろに本人のアカウントとは異なる妙なアルファベットがついているので、私ではありません、気をつけて下さい、というお知らせでした。

         それから2,3週間後、別の友人から、中陳さん、Instagram乗っ取られていませんか?というメッセージとともに次のような画像を送ってくれました。

         先の、私が引っかかったものとは文面がだいぶん違いますが、LINEグループへの勧誘という点では共通しています。もしかすると先に私がひっかかったにせものが今度は私の名を騙って私のフォロワーに詐欺メッセージを送りつけているのかも知れません。
         アカウントを乗っ取られたわけではないのですが、私の名に似せて、表示名は「Kazuto Nakajin」としており、写真も私がInstagramで使っている顔写真をそのままコピーして使っているようです。アカウントは、私の名前の後ろに「g」をつけただけのもので、似て非なる、といってもパッと見はほぼ気づかないようになっています。
         何人かの友人が誤ってフォローしていたので、すぐに連絡して解除してもらいました。
         ただ、まだこのにせアカウントは存在していますし、類似の事象が発生しないとは限りませんので、注意していかねばと思います。
         親しい友人ほど、顔写真で、本物の二つ目のアカウントか何かだと思い込んでしまうきらいがあるような気がしますので、ご自身のアカウントのにせものの出現、「友人」からのLINEグループへのいざないなど変なメッセージ、などにはくれぐれもお気をつけ下さい。

        LinkedIn にシェア
        Pocket

        森見登美彦さんの『太陽の塔』

        LinkedIn にシェア
        Pocket

        魚津市立図書館で7/25~9/30まで開催されている「謎解きゲーム」。毎回5つ以上の本などを借りるとヒントのカードが1枚もらえ、それを4枚集めると、クイズの全容がわかり、回答を投函すると、抽選で図書カードなどがもらえるというイベントです。
        今回ようやく4回目の貸出を行い、応募用紙に答を書いて投函してきました。
        4回目に借りた本の一つが森見登美彦さんのデビュー作『太陽の塔』です。確か以前文庫本を購入してどこかに積んであるはずなのですが、どれだけ探しても見当たらないので、この機会にと思い、図書館で借り、一気に読みました。

        大学の五回生に上がる前に著者が書き上げたものらしく、しかも農学部の学生だったという経歴からは想像できないような文体と語彙の選び方に驚きます。
        世間でも言われているようですが、まさに万城目学さんと並び立つ京都ファンタジー小説の双璧だと言って良いのではないかと思います。(文体や方向性は異なりますが)
        詳しい内容は書きませんが、ちゃんと1970年大阪万博の跡地である万博記念公園の太陽の塔が出てきます。
        私が大阪に勤務していた頃、吹田の辺りでも仕事をしたことがありますが、当時は確か入館できない状態だったと思います。
        今大阪で改めて万博が開催されているからというわけではありませんが、先日も岡本太郎さんと太陽の塔にまつわるテレビ番組をやっており、中に入ってみたいなと思いつつ、この小説を読みました。
        大学生らしい青春小説です。自分は京都でも大阪でもなく東京で学生時代を過ごしましたが、この生産性ゼロの世界は懐かしくも恥ずかしい時間の使い方をしていたなあと共感をもって読ませてもらいました。この著者の「四畳半」シリーズも面白く、U-NEXTで時々観ています。中でも下鴨神社での古本まつりの情景はとても憧れを感じ、今でもやっているのならそぞろ歩いてみたいなと思います。
        百万遍、叡山電車、大文字山、京阪電車、阪急電車、四条河原町交差点・・・京都はいいなあと感じ入っている次第です。(心は万博記念公園の太陽の塔と国立民族学博物館に飛んでいっていますが)

        LinkedIn にシェア
        Pocket

        永井紗耶子著『秘仏の扉』、P.G.ウッドハウス『ジーヴズの事件簿 才智縦横の巻』

        LinkedIn にシェア
        Pocket

        魚津の市立図書館でちょっとしたイベントをやっており、しばらくぶりに訪れたところ、偶然目に入った一冊が、新聞の書評で目にして興味を持っていた永井紗耶子さんの『秘仏の扉』です。秘仏といえば、大体がお寺の奥深く厨子の中に安置され何百年も人の目に触れることのなかった仏像などが想起され、しかもその仏像の中には小さな本尊が納められていたり、あるいは作られた時のいわれが彫り込まれていたりと、色々なエピソードが連なってくるものです。日本の秘仏の中でも代表的なものが法隆寺夢殿の救世観音像ではないでしょうか。
        この本は法隆寺夢殿の救世観音像を軸に、その周りをめぐる様々な関係者の日常や歴史上の出来事を縦糸横糸で縦横無尽につないで話をつむいである、オムニバスのような物語です。どこまでは史実でどこからが著者の創作かはよくわかりませんが、場面が過去に遡ったり現在(明治21年)に戻ってきたり、行ったり来たりを繰り返していくうちに、時間の前後がだんだんわからなくなり、しまいには「過去はない、常に今なのだ」という感覚に陥ってしまいました。これは著者の力かも知れません。
        主人公は誰なのか、最初は夏目漱石のあの有名な写真なども撮った小川一眞(おがわかずまさ)さんという人が中心に描かれているのですが、途中から九鬼隆一・波津子夫妻と岡倉天心の醜聞に話がシフトしていき、最後は岡倉天心と町田久成という人物のやりとりに収斂されていき、当然アーネスト・フェノロサや千早定朝師なども出てくるのですが、やはりそれらの中心にいる(ある)のはかの救世観音像なのです。
        救世観音像がつぐませた(或いは、狂わせた)人々の人生と言いますか・・・。

        私自身、初めて本物の法隆寺夢殿の救世観音像に相まみえた時は、シニカルな微笑みに、安らぎよりも得体の知れぬ不安を感じたことを覚えています。と同時に、この仏像は聖徳太子を模した仏像だということから、こんな顔だったのか、という不思議な気持ちになりました。

        さて『ジーヴズの事件簿』は、どこで目にしたのかは覚えていませんが、現在の上皇后さまが、これから『ジーヴズ』を読むのが楽しみだという主旨のことを仰っていたとかいう情報を目にして、一度読んでみようと思った次第です。
        スーパー執事(20世紀の初め頃の英国での出来事であることを申し添えておきます)が活躍するユーモア推理小説という感じでしょうか。面白かったです。

        LinkedIn にシェア
        Pocket

        『魔の山』DVD、筒井康隆さんの『聖痕』、ロバート・A・ハインラインの『夏への扉』

        LinkedIn にシェア
        Pocket

        トーマス・マンの『魔の山』を読み終え、その勢いでDVDを観ました。この映画は原作の味を忠実に映像化した優れた作品だと感じました。一部相違していたやに感じたのは、主人公のハンス・カストルプが思い人であるショーシャ夫人に対する思いを遂げるシーンがあったことで、小説の文脈からはそこまでは読み取れなかったため、映像作品としてのファンサービスなのか、それとも小説から読み取る力のなかった単なる私の読解力不足なのかはわかりません。また、小説の結末はなんとも悲しい(従兄のヨアヒムも含め)ものでしたが、映画ではそこまでの悲劇的な終わり方ではなかった(小説を読んでいる人はどうせこの後の次第はわかるでしょ、ということかも知れませんが)のがせめてもの救いだったと言えるのかどうか。

        筒井康隆さんの『聖痕」を読みました。https://amzn.to/3IK3XrL
        十年前に文庫本が出た時すぐに購入したものの、読もうとしては挫折、数年後再びチャレンジしてまた挫折を繰り返し、このままこのおぞましい物語は死ぬまで読めないのかも知れないなあといつも書棚を見ては思いながら過ごしてきましたが、意を決してとうとう読み通しました。最初はやはり目を覆いたくなるような描写があり、つらくて悲しくて痛々しくてとても読むに堪えられず、筒井さんのえぐい描写は今に始まったことではないものの、大抵は尊大ぶった権威者を嗤い飛ばすパロティ的なものであり、こちらがつらくなることはなかったので、この時(東日本大震災の翌年の夏から新聞連載)なぜこんな暗い描写ではじまる物語を書かれたのか、不思議でなりませんでした。
        この小説の主人公が聖人のようになるのは、ちょっとだけ、絶望からスタートしたこの物語が(途中も暗くはないのですが)、とにかく前を向いて、歩いていきませんか?ということを訴えているようにも感じました。もしかすると多少ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャを重ねているのかも知れません。
        1970年代から2010年代初頭までを、途中から同時代小説みたいに描かれており、経済学者の野口悠紀雄さんを実名で登場させたり、阪神淡路大震災、オウム真理教事件、薬害エイズ、賃金削減と正社員減少、さらにはリーマン・ショックから東日本大震災(津波に吞み込まれる児童たちの意識の断片が主人公に聞こえという描写は体験者でない私ごときが言えることではないものの、目頭が熱くなりました)までを描いておられ、この40年間の日本の変容をなぞり、これからどう過ごしていくのだろうか?という問いを投げかけておられるようにも感じました。
        下に一部だけ引用しますが、P330~331(文庫)の「金杉君」の「長広舌」はもしかすると筒井さんの言いたいことだったのかも知れません。文学者としての遺言であり預言であり最後の希望のようなものかも。

        ネットフリックスで「夏への扉」が配信される、と聞いたと同じような時期に小説の『夏への扉』を購入しました。主人公の山崎賢人さん、面影がどことなく我が次男坊に、面影が、あくまでぼやっとした面影が(しつこいですね)ちょっとだけ似ているような気がして、他人のように思えないのです。これはただの、超・親バカ発言です。https://amzn.to/4nY9ISG
        しばらくトーマス・マンの『魔の山」と格闘していたため、他の小説などを手に取る余裕がなく、また、筒井さんの『聖痕』をなんとか超えないとという思いがあり、後回しになっていましたので、その間映画も我慢していましたが、ようやく、戒律から解かれ読むことができましたが、並行して映画も観ました。内容には触れませんが、小説も映画も良い作品でした。「タイムトラベル不朽の名作」とうたわれているだけあって、単なる時間旅行ではなく奥行きの深い作品でした。今、生成AIやロボットなどが何かと話題になっています。そんな未来(小説が書かれた1950年代からすると)を予想してのことかどうかわかりませんが、小説の終盤にこのような記述がありました。
        「人間精神が、その環境に順応して徐々に環境に働きかけ、両手で、かん(勘)で、科学と技術で、新しい、よりよい世界を築いていくのだ」
        筒井さんの『聖痕』は「人類の絶滅する時期がずっと早まって近づいてきたように思う」としつつ「残り少ない食べ物を分けあいながら、幸福に、そして穏やかに滅亡していける」と「金杉君」に言わせていました。科学技術は使い方次第ではディストピアが訪れる(チョムスキー氏の『誰が世界を支配しているのか?』にはこれまで何度もすんでのところで核が発射されそうになったことが書かれています)。そういう未来もありますが、この本では、そういう新しい技術を、人類の知恵で適切にコントロールしていけるのではないか、ということを示唆しているように感じました。

        LinkedIn にシェア
        Pocket