天の戮民

LinkedIn にシェア
Pocket

これまたひょんな出会いとなりました。昨日偶然書店で求めた呉智英さんと適菜収さんの対談本をめくっていたら、荘子の話が出て来ました。

曰く、外編と雑編派読まなくても良い。私も総感じていたので、我が意を得たり!とおもいつつ、さらに進むと大宗師編に、孔子のキャラをあてがわれた登場人物に「私は天の戮民である」と言わせているとのこと。そんな言葉知らなかったし、荘子は高校の頃から読んでいるものの全部を読み通したわけではなく、大宗師編も途中で止まっていたため、はっとして、そういう箇所があったのかと慌ててページをめくりました。

天の戮民とは、天から刑罰を受けた身であり、無為自然に生きたいけれどもそうはできず、世俗の内につながれている(不自由な身の上だ)と語らせているのです。世俗の内にしばられて生きるというのは、知識や礼節を大切にするという面倒があり、安らかには生きられないと吐露させています。

もうあと数ページのところで、このくだりに行き着いていたかと思うと自分の読書の要領の悪さを恥じるのですが、そこの手前で呉智英さんによる解説にたまたま出会えてから次に進めたというのは、なんともはや僥倖ではないかと感じ入ったひとときでした。

これ、書物のセレンディピティと言っても良いかも知れません。感謝。

LinkedIn にシェア
Pocket

『ソクラテスの弁明・クリトン』

LinkedIn にシェア
Pocket

本文だけなら90ページもない薄い本であり、かつ40年以上前に購入したものでしたが、なかなか読むことができませんでした。
どういう心境かは自分自身よくわかりませんが、ようやくちゃんと向き合う機会ができました。
プラトン著『ソクラテスの弁明・クリトン』(岩波文庫)です。(40年以上前に買ったのは角川文庫で、日付を見ると高校二年の冬でした・・・1ページも読まない積読でした)

気になった箇所を少し抜粋します。
「私に対して全然虚偽のことをいい触らす多くの弾劾者・・・諸君の中の多くの人達をまだ少年であった頃から篭絡・・・彼らの数は多く・・・諸君のある者はまだ少年であり、諸君のある者はまだ青年であり、最も他の言を信じ易き年頃」
ここまで読んで、今のSNSの隆盛ぶりとそこに流れる様々なウソやデマに容易に取り込まれてしまっている(そのように信じたい?)人々がいるのかも知れないということに思いが至ってしまいました(先のM県知事選挙で比較的若い世代の人びとが、どうも虚偽情報を信じた投票行動をしたのではないかという報道がありましたので)。
さらに「私を弁護してくれる者のない欠席裁判において私を弾劾した・・・彼らの名前をすら知り得ずまた挙げ得ぬ・・・猜疑と讒謗慾とのために諸君を説得せんと試みた人々・・・これらの人々に対してはまったく策の施しようがない。・・・人は彼ら一人をもここに召喚してこれを反駁することが出来ず、弁明に際しても、たとえば影と戦うが如く、何人も応答する者なくして弁駁するより外に全く途が無い」(p14~15)
これもSNSでの本名のわからないアカウント名による匿名での誹謗中傷の類と変わらない状況ではないかと感じました。
後ろの解説を読むと、当時のアテナイの人々は、ペルシャとの戦争に勝利した後の隆盛後、ペロポンネソス戦争で敗北し、スパルタ配下という屈辱を味わい、三十人専制という恐怖政治を経由し、再び民主制にはなったものの往時の勢いはなく、自信と誇りを失った人々は誰かに責任を押し付けることで憂さ晴らしをしたい、「何事にもひたすら復古を念とし新を厭う反動時代となった」頃に、「聴者の意を迎え、手段を選ばざる成功術」を色々と言説を弄する「ソフィスト」と呼ばれる人々が跋扈していたようです。ソフィストは「何ら普遍的に通用する標準を認めざる極端なる主観主義」を持っており、伝統的な価値観を破壊する人だとみなされていたようで、現にそれらの人のいくばくかは裁判で国外追放とされていたようです。

これなども、◯◯ファーストのように飛びつきやすく拡散しやすいワンワードポリティクスにも比せるものという気がします。
真実を知っている人をひたすら探し、色々な人と議論をし、やはり本当のことを知っている人がいない、自分は「知らないということを知っている」「大切なことは単に生きることではなく、善く生きることである」という主張をしたがために、ギリシャの神を信ぜず「別の神を信奉する者だ」とし(ちゃんと既存の神への捧げ物などもしていたにも拘らず、批判者の「こうに決まっている」という一方的なイメージの押し付けにより)、ソフィストと同類、それもその中の大物だとみなされてしまい、結局不信人者として有罪の判決を受け、しかもそれでも自分の良心の主張をしたがために裁判官の多くの心証を悪くし、処刑という結果となったようです。
そういう時代背景も考えると、今の日本の状況と重なって見えてしまうのがなんとも複雑な気持ちになってしまいましたが、いつの世にもあるようなことなのかも知れませんが、この2500年、「人をそしる」「人を貶める」ことで溜飲を下げることが相変わらず行われているという点で、私たちはほとんど進歩していないのかも知れません。リベラルアーツは西洋人の基礎教養だとか、哲学が諸学の基礎と言いますが。

LinkedIn にシェア
Pocket

なりすましにご用心

LinkedIn にシェア
Pocket

 過日、友人からInstagramのフォローリクエストをもらいました。アカウントを変えたのかな?と思い、フォローするとその人からインスタメッセージが届きました。なんだかのLINEグループを作ったので参加しませんか?という案内。遠方だし、何かのサークルに新たに加わっている時間もないし、ということで断ったのですが、しつこく「私が主催している勉強会なので、登録だけでも」と言ってきて、「あ、そうか、加入してもスルーすれば良いかな」と思い、LINEグループへの登録をしました。その前に、Instagramのメッセージ上で名前などを改めて入力しました。(知ってるはずなのに、なんだか形式的だなあと思いつつ)ところが「主催者」はその当の友人ではなく全然別の人。しかもコンサルの勉強ではなく、投資セミナー。これはさすがにいらん、と思い、即LINEグループからは脱退しました。
 おかしいな、あの人がこんな変なセミナーに、自分が主催者だと嘘をついてまで勧誘するはずがないと思っていたら、本物の友人からメッセージが届き、にせものから変なメッセージが届きませんでしたか?とのこと。アカウント名の後ろに本人のアカウントとは異なる妙なアルファベットがついているので、私ではありません、気をつけて下さい、というお知らせでした。

 それから2,3週間後、別の友人から、中陳さん、Instagram乗っ取られていませんか?というメッセージとともに次のような画像を送ってくれました。

 先の、私が引っかかったものとは文面がだいぶん違いますが、LINEグループへの勧誘という点では共通しています。もしかすると先に私がひっかかったにせものが今度は私の名を騙って私のフォロワーに詐欺メッセージを送りつけているのかも知れません。
 アカウントを乗っ取られたわけではないのですが、私の名に似せて、表示名は「Kazuto Nakajin」としており、写真も私がInstagramで使っている顔写真をそのままコピーして使っているようです。アカウントは、私の名前の後ろに「g」をつけただけのもので、似て非なる、といってもパッと見はほぼ気づかないようになっています。
 何人かの友人が誤ってフォローしていたので、すぐに連絡して解除してもらいました。
 ただ、まだこのにせアカウントは存在していますし、類似の事象が発生しないとは限りませんので、注意していかねばと思います。
 親しい友人ほど、顔写真で、本物の二つ目のアカウントか何かだと思い込んでしまうきらいがあるような気がしますので、ご自身のアカウントのにせものの出現、「友人」からのLINEグループへのいざないなど変なメッセージ、などにはくれぐれもお気をつけ下さい。

LinkedIn にシェア
Pocket

森見登美彦さんの『太陽の塔』

LinkedIn にシェア
Pocket

魚津市立図書館で7/25~9/30まで開催されている「謎解きゲーム」。毎回5つ以上の本などを借りるとヒントのカードが1枚もらえ、それを4枚集めると、クイズの全容がわかり、回答を投函すると、抽選で図書カードなどがもらえるというイベントです。
今回ようやく4回目の貸出を行い、応募用紙に答を書いて投函してきました。
4回目に借りた本の一つが森見登美彦さんのデビュー作『太陽の塔』です。確か以前文庫本を購入してどこかに積んであるはずなのですが、どれだけ探しても見当たらないので、この機会にと思い、図書館で借り、一気に読みました。

大学の五回生に上がる前に著者が書き上げたものらしく、しかも農学部の学生だったという経歴からは想像できないような文体と語彙の選び方に驚きます。
世間でも言われているようですが、まさに万城目学さんと並び立つ京都ファンタジー小説の双璧だと言って良いのではないかと思います。(文体や方向性は異なりますが)
詳しい内容は書きませんが、ちゃんと1970年大阪万博の跡地である万博記念公園の太陽の塔が出てきます。
私が大阪に勤務していた頃、吹田の辺りでも仕事をしたことがありますが、当時は確か入館できない状態だったと思います。
今大阪で改めて万博が開催されているからというわけではありませんが、先日も岡本太郎さんと太陽の塔にまつわるテレビ番組をやっており、中に入ってみたいなと思いつつ、この小説を読みました。
大学生らしい青春小説です。自分は京都でも大阪でもなく東京で学生時代を過ごしましたが、この生産性ゼロの世界は懐かしくも恥ずかしい時間の使い方をしていたなあと共感をもって読ませてもらいました。この著者の「四畳半」シリーズも面白く、U-NEXTで時々観ています。中でも下鴨神社での古本まつりの情景はとても憧れを感じ、今でもやっているのならそぞろ歩いてみたいなと思います。
百万遍、叡山電車、大文字山、京阪電車、阪急電車、四条河原町交差点・・・京都はいいなあと感じ入っている次第です。(心は万博記念公園の太陽の塔と国立民族学博物館に飛んでいっていますが)

LinkedIn にシェア
Pocket

永井紗耶子著『秘仏の扉』、P.G.ウッドハウス『ジーヴズの事件簿 才智縦横の巻』

LinkedIn にシェア
Pocket

魚津の市立図書館でちょっとしたイベントをやっており、しばらくぶりに訪れたところ、偶然目に入った一冊が、新聞の書評で目にして興味を持っていた永井紗耶子さんの『秘仏の扉』です。秘仏といえば、大体がお寺の奥深く厨子の中に安置され何百年も人の目に触れることのなかった仏像などが想起され、しかもその仏像の中には小さな本尊が納められていたり、あるいは作られた時のいわれが彫り込まれていたりと、色々なエピソードが連なってくるものです。日本の秘仏の中でも代表的なものが法隆寺夢殿の救世観音像ではないでしょうか。
この本は法隆寺夢殿の救世観音像を軸に、その周りをめぐる様々な関係者の日常や歴史上の出来事を縦糸横糸で縦横無尽につないで話をつむいである、オムニバスのような物語です。どこまでは史実でどこからが著者の創作かはよくわかりませんが、場面が過去に遡ったり現在(明治21年)に戻ってきたり、行ったり来たりを繰り返していくうちに、時間の前後がだんだんわからなくなり、しまいには「過去はない、常に今なのだ」という感覚に陥ってしまいました。これは著者の力かも知れません。
主人公は誰なのか、最初は夏目漱石のあの有名な写真なども撮った小川一眞(おがわかずまさ)さんという人が中心に描かれているのですが、途中から九鬼隆一・波津子夫妻と岡倉天心の醜聞に話がシフトしていき、最後は岡倉天心と町田久成という人物のやりとりに収斂されていき、当然アーネスト・フェノロサや千早定朝師なども出てくるのですが、やはりそれらの中心にいる(ある)のはかの救世観音像なのです。
救世観音像がつぐませた(或いは、狂わせた)人々の人生と言いますか・・・。

私自身、初めて本物の法隆寺夢殿の救世観音像に相まみえた時は、シニカルな微笑みに、安らぎよりも得体の知れぬ不安を感じたことを覚えています。と同時に、この仏像は聖徳太子を模した仏像だということから、こんな顔だったのか、という不思議な気持ちになりました。

さて『ジーヴズの事件簿』は、どこで目にしたのかは覚えていませんが、現在の上皇后さまが、これから『ジーヴズ』を読むのが楽しみだという主旨のことを仰っていたとかいう情報を目にして、一度読んでみようと思った次第です。
スーパー執事(20世紀の初め頃の英国での出来事であることを申し添えておきます)が活躍するユーモア推理小説という感じでしょうか。面白かったです。

LinkedIn にシェア
Pocket

『魔の山』DVD、筒井康隆さんの『聖痕』、ロバート・A・ハインラインの『夏への扉』

LinkedIn にシェア
Pocket

トーマス・マンの『魔の山』を読み終え、その勢いでDVDを観ました。この映画は原作の味を忠実に映像化した優れた作品だと感じました。一部相違していたやに感じたのは、主人公のハンス・カストルプが思い人であるショーシャ夫人に対する思いを遂げるシーンがあったことで、小説の文脈からはそこまでは読み取れなかったため、映像作品としてのファンサービスなのか、それとも小説から読み取る力のなかった単なる私の読解力不足なのかはわかりません。また、小説の結末はなんとも悲しい(従兄のヨアヒムも含め)ものでしたが、映画ではそこまでの悲劇的な終わり方ではなかった(小説を読んでいる人はどうせこの後の次第はわかるでしょ、ということかも知れませんが)のがせめてもの救いだったと言えるのかどうか。

筒井康隆さんの『聖痕」を読みました。https://amzn.to/3IK3XrL
十年前に文庫本が出た時すぐに購入したものの、読もうとしては挫折、数年後再びチャレンジしてまた挫折を繰り返し、このままこのおぞましい物語は死ぬまで読めないのかも知れないなあといつも書棚を見ては思いながら過ごしてきましたが、意を決してとうとう読み通しました。最初はやはり目を覆いたくなるような描写があり、つらくて悲しくて痛々しくてとても読むに堪えられず、筒井さんのえぐい描写は今に始まったことではないものの、大抵は尊大ぶった権威者を嗤い飛ばすパロティ的なものであり、こちらがつらくなることはなかったので、この時(東日本大震災の翌年の夏から新聞連載)なぜこんな暗い描写ではじまる物語を書かれたのか、不思議でなりませんでした。
この小説の主人公が聖人のようになるのは、ちょっとだけ、絶望からスタートしたこの物語が(途中も暗くはないのですが)、とにかく前を向いて、歩いていきませんか?ということを訴えているようにも感じました。もしかすると多少ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャを重ねているのかも知れません。
1970年代から2010年代初頭までを、途中から同時代小説みたいに描かれており、経済学者の野口悠紀雄さんを実名で登場させたり、阪神淡路大震災、オウム真理教事件、薬害エイズ、賃金削減と正社員減少、さらにはリーマン・ショックから東日本大震災(津波に吞み込まれる児童たちの意識の断片が主人公に聞こえという描写は体験者でない私ごときが言えることではないものの、目頭が熱くなりました)までを描いておられ、この40年間の日本の変容をなぞり、これからどう過ごしていくのだろうか?という問いを投げかけておられるようにも感じました。
下に一部だけ引用しますが、P330~331(文庫)の「金杉君」の「長広舌」はもしかすると筒井さんの言いたいことだったのかも知れません。文学者としての遺言であり預言であり最後の希望のようなものかも。

ネットフリックスで「夏への扉」が配信される、と聞いたと同じような時期に小説の『夏への扉』を購入しました。主人公の山崎賢人さん、面影がどことなく我が次男坊に、面影が、あくまでぼやっとした面影が(しつこいですね)ちょっとだけ似ているような気がして、他人のように思えないのです。これはただの、超・親バカ発言です。https://amzn.to/4nY9ISG
しばらくトーマス・マンの『魔の山」と格闘していたため、他の小説などを手に取る余裕がなく、また、筒井さんの『聖痕』をなんとか超えないとという思いがあり、後回しになっていましたので、その間映画も我慢していましたが、ようやく、戒律から解かれ読むことができましたが、並行して映画も観ました。内容には触れませんが、小説も映画も良い作品でした。「タイムトラベル不朽の名作」とうたわれているだけあって、単なる時間旅行ではなく奥行きの深い作品でした。今、生成AIやロボットなどが何かと話題になっています。そんな未来(小説が書かれた1950年代からすると)を予想してのことかどうかわかりませんが、小説の終盤にこのような記述がありました。
「人間精神が、その環境に順応して徐々に環境に働きかけ、両手で、かん(勘)で、科学と技術で、新しい、よりよい世界を築いていくのだ」
筒井さんの『聖痕』は「人類の絶滅する時期がずっと早まって近づいてきたように思う」としつつ「残り少ない食べ物を分けあいながら、幸福に、そして穏やかに滅亡していける」と「金杉君」に言わせていました。科学技術は使い方次第ではディストピアが訪れる(チョムスキー氏の『誰が世界を支配しているのか?』にはこれまで何度もすんでのところで核が発射されそうになったことが書かれています)。そういう未来もありますが、この本では、そういう新しい技術を、人類の知恵で適切にコントロールしていけるのではないか、ということを示唆しているように感じました。

LinkedIn にシェア
Pocket

NTTグループの生成AIサービス「Stella AI」(有料版)の利用を始めました。

LinkedIn にシェア
Pocket

有料版の生成AIについては既に様々な企業から提供されて久しいです。しかしあまりにもめまぐるしくサービス品質が変化しており、それこそ生き馬の目を抜くような勢いで昨日はできなかったことが今日はこのAIでできるようになったりこちらのAIでしかできなかったことが別のAIでもできるようになったりと、ラットイヤー以上の激しい変化が繰り広げられているため、どれか一つに絞らず、無料の範囲で様々な生成AIを使い比べてきたのがこの2年半でした。
しかし先日NTTグループが、色々な生成AIを使うことができ、しかもパワポなどとの親和性も高いというサービスを発表し、多少いきさつはありましたが、とうとう有料のサービスを契約しました。https://www.ntt.com/about-us/press-releases/news/article/2025/0616.html
発表されたのは、NTTグループのNTTドコモビジネス株式会社(旧NTTコミュニケーションズ)の「Stella AI for Biz」というサービスですが、法人でないと契約できないとのことで、困ったなあと思っていたら、個人向けに元からStellaAIというものがあるとの返事をいただき、個人でも利用可能な月額1480円のスタンダードプランを契約しました。

個人の場合は、利用回数が月1000回(AIの行に10とか3とか書いてあるのは、10回分相当とか3回分相当とかいう意味です)という上限がありますが、法人向けサービスの「for Biz」の場合は、Gemini 2.5 Flash/ GPT-4.1 mini/ Claude Sonnet 4であれば無制限で利用可能とのことです。しかも法人向けは、入力データがAIモデルの学習に使用されないことや、日本国内リージョンのサーバーを使用、全データを暗号化して安全に保存など、セキュリティに力を入れていることを表明しています(私が契約した個人向けについてはこのようなことが書かれていない感じなので、自分で情報管理については気をつける必要がありそうですが)。

写真のように11種類の生成AIを選んで利用するようですが、まだうまく使い分け方を心得ていないので今後勉強していかなければなりません。加えて、WebSearchとDeepResearchを使える生成AIとそうでないものがあり、かつそれらの違いもよくわかっていないのでこれも勉強せねばです。また11種類の生成AIがあるのですが、PerprexityやNOTEBOOK LMやCiciがないので、それらについては引き続き無料版を別途使っていくことになろうかと思います。
また画像生成については上記11種類とは別に、GPT-Image-1、DALL-E3、Imagen-4、Grok2の4種類が搭載されているため、それらから選択して生成させることができます。
プロンプトについてもよく使われるものがテンプレとして記載されており(たぶん100種類以上)、色々と使い勝手が良さそうです。
いずれにしても単独でも有料版が2000円ぐらいする色々な生成AIを2000円以下で月間1000単位まで使えるというのはとっても便利な気がします。NTTのtsuzumiにはちょっと出遅れ感がありますが・・・でもNTTさん、よくぞやってくれました。

LinkedIn にシェア
Pocket

清水ミチコさんのパロディソングに思う

LinkedIn にシェア
Pocket

タレントの清水ミチコさんの『米唄』『米がない』など最近の社会情勢を風刺したyoutube動画が静かに流行しているそうです。以前はこういったパロディに触れ、気に入らない偉い人や不条理な現実を笑い飛ばすことで私たち庶民は明日もなんとか頑張ろうという気持ちになっていたものですが、最近はすっかり鳴りを潜めてしまったような気がします。このネット時代では、様々な場面で「炎上」するリスクがあるために権威を笑う芸が避けられているのかも知れません。
そもそもパロディや風刺はかなり古い時代から存在しており、ある意味エンターテインメントの本質と言っても過言ではないのではないかという気がします(もちろんエンタメ全体としてはもっと色々な要素があると思いますが)。
西洋の偉い王様は常に道化師をそばに置いて自分の振る舞いを正すようにしていたと聞いたことがありますし、また中国でも唐の李世民は「諫議大夫」という官職を設け、あえて諫言を言う者をそばに置いていたと言います。ことほどさように上に立つ人は耳障りの悪い話を直接聞く仕組みを作っておくことも治世のバランスを保つ重要な工夫だと思います。
裸の王様にならないように・・・とここまで書いて、はて自分はどうか、ということに思い至りました。私はもちろん王などというご大層なものではありませんが、メンバーとスタッフ計22人と一緒に一定の目標を目指して取り組むチームのチーフという役割を担っています。先日も会議の後で、あるメンバーから「ものが言いにくい雰囲気がある」と苦言を呈されましたし、「言っていることとやっていることが違う」とも言われました。既にして耳障りの良いことを求めているではないか、こりゃまずい、ということに、清水ミチコさんの歌からの連想で気が付きました。
さて明日からちゃんと振舞えますでしょうか。とりあえず清水ミチコさんの他の歌も聞いてみることにします。

LinkedIn にシェア
Pocket

トオマス・マン『ヴェニスに死す』

LinkedIn にシェア
Pocket

 今まで、難しそうな文学書を読む時には、その前に同じ著者の薄い本やエッセイなどに一旦目を通して、その著者の言葉遣いや書きぶりに多少「土地勘」をつけてから取り組むようにしていました。
 ドストエフスキーの『罪と罰』を読む前には『貧しき人々』を、塩野七生さんの『ローマ人の物語』に挑戦する前には『サイレント・マイノリティ』や『ルネサンスの女たち』で先に肩慣らしをしました。
 今回のトーマス・マンの『魔の山』にしても、相当難儀な読書体験になることが容易に想像できたので、それに取り組む前に入門書みたいなものがあれば、そこから手をつけようと、一旦は思いました。そこで有名な『ヴェニスに死す』を購入して読み始めたのですが、どうにもこうにもこれも難解。最初のページから「意志の透徹と細密とを要する労作で」とか「自分の内部にある生産的な機関の不断の振動を」とか「キケロによれば、雄弁の本体にほかならぬ」などという文言が私に襲い掛かってきて、いきなりお手上げになりました。
 そういう次第で、薄い文庫本を「入門書」と勝手に思い込んだ私が間違っていたのですが、『ヴェニスに死す』で倒れてしまいそうでとても『魔の山』には進めないと感じたため、もう入門書は通り越して、いきなり『魔の山』に取り掛かりました。『魔の山』の読書メモは先のブログの通りですが、『魔の山』を終わった勢いでそのまま『ヴェニスに死す』に取り組みました。

 しかしやはりこの本もよくわからないものでした。不条理文学というものなのか、『魔の山』の、ある種ドタバタとも言えるような雰囲気がこの物語にもありました。こちらはドタバタというより、おじさんの倒錯、最後は何がなんやらわからぬあっけない終わり方。おじさんの秘かな、しかし大っぴらな公然ストーカーの如き追尾行動の結果としての欲望は果たされず、病弱と形容されていたおじさんの恋慕の相手はやがて故郷へ帰っていくというなんとも不条理な結末でした。『葉隠』にも相通ずるような解説(同性間は、異性間の愛情よりも精神的な要素がつよい)がありましたが、そのまんまでは私には受け止めにくいのがこの本を読む際の抵抗感だったのかも知れません。
 訳者の実吉捷郎さんの訳は名訳だということのようです。
 文章の意味をしかと理解するためにはもう少し思索を深めなければならないと思いますが、気になった箇所をいくつか抽出しておきます。
・p46「自分がもし腹を立てていないとしたら、ともかくどんなにかゆったりと休むことができるだろうに」「物事をなりゆきにまかせるのが、最も賢明なのだ」・・・最近の経験から、なりゆきに任せることも必要だと感じました。たまたまそういう経験をしている最中にこの一文に出会えたのはラッキーでした。
・p90「彼の精神は陣痛の苦しみを味わった」・・・陣痛できない男に陣痛の苦しみを感じさせるくらいに大変な苦しみをということを言いたいのだろうなと思いましたが、それであっているかはわかりません。
・p98「彼の心臓は彼の冒険を思い起こす」・・・心臓がものを覚えているのだろうか?この意味を理解できるにはまだしばらくかかるだろうと思います。いや、永遠に理解できないかも。

読後、U-Nextの配信動画の中に「ベニスに死す」(1971年、ヴィスコンティ監督)があることを知り、観てみました。全編無声映画と言っても良いくらいにセリフが少ない。原作も会話はほとんどなく、ひたすらに主人公の心情や情景の描写に徹しているため、映画もそれに忠実に従ったものと思われます。これを『魔の山』の先に、読み、または観ていたら、やはり『魔の山』に挑戦しようという気にはならなかっただろなあと感じました。

ところで、筒井康隆さんがどこかで『魔の山」について書いておられたことが、私が『魔の山』を読むきっかけになったと前回のブログで書きましたが、どこに書いておられたのかを失念していました。が、見つけました。『本の森の狩人』という岩波新書の中で述べておられました。出版が1993年ですから、今から32年も前のことです。筒井さんは高校三年生の時に初めて挑戦し、第一章で中断し、その後三十代半ばまで何度か挑戦し、その都度「いや気がさして投げ出した」そうです。「上巻の三分の二あたりから急に面白く」なり、下巻に至るやその面白さがさらに面白くなり、初めの頃の「私たち」という一人称複数の語りがいやだったのが、「意味がわかった」となります。
筒井さんもこの小説は「不条理」を描いていると説明しておられますが、この稿の末尾には「教訓。名作といわれる作品はいくら面白くなくても、一応は最後まで読んでみないとえらい損をします。」と結ばれていました。ああ、そうか、これを読んだことが自分の脳裏に焼き付いていて、挑戦しなければと思ったのだったなあと随分時間が経ってから思い出した次第です。疑問が解消しました。

ところで別の岩波新書である『短編小説講義』の中で、筒井康隆さんは、ここでもまたトオマス・マンの『幻滅』という、これも同じく実吉捷郎さん訳の小説について、なんと17ページも割いて論評しており、『ブッデンブロオク家の人びと』についても絶賛しています。いつかこれらの小説についても取り組んでみようかと思っています。

LinkedIn にシェア
Pocket

トーマス・マン『魔の山』を読み終えて

LinkedIn にシェア
Pocket

年明けから挑戦していたトーマス・マンの『魔の山』をようやく読み終えました。1912年に書き始めて1924年まで12年間、1200ページの大作となったものです。私も意を決してから読了するまで5カ月かかりました。理解できたかというと文字を追うのが精いっぱいでほぼ理解できていないと思います。

https://amzn.to/4jeB4jT


そもそもどういういきさつでこの本を読むことにしたのか、記憶が定かではありません。大方、筒井康隆さんがお勧めしていたから、というような理由ではないかと思いますが。
最初は岩波文庫で上巻を買って読み始めようとしたのですが、全く歯が立たず、新潮文庫であればもう少し平易な言葉で書いてあるかも知れないと思い込み、新潮文庫で上下巻を買い、取り組みました。しかし新潮文庫の方も難解であることは変わりなく、これは原書がそもそも回りくどく難しい単語を並べ立てているからかも知れないなと観念して、そのまま続けました。
訳した高橋義孝さんが解説で「ユーモア小説」だと書いておられますが、どう読んでも面白おかしいという感じではありません。むしろ本当に難解で、書いてあることの1割も理解できていないような気がします。シーツ・オブ・サウンドばりの文字が敷き詰められている書面、観念的な言葉の羅列、しかも突然場面が変わったり、行間を読まないといけないような意味深な文脈。
ではありましたが、最後まで読んで「ユーモア小説」だと言われれば、そう思えなくもありません。むしろ、壮大なドタバタだったのではないかとすら思えてきました。小説であることを考えると、登場人物の死すら「出来事」として傍観的なものとして扱われているのかも知れず、私の中では筒井康隆さんの『俗物図鑑』が思い起こされてきました。
そうは言いつつ、箴言的な、「あっ」と気づくような文章もあちこちにあり、小説でありながら沢山のページの角を折り曲げ、線を引くというようなこともしました。
箴言ではありませんが、20世紀の前半に書かれたこの本で、こういうことを書いていたのだ、と感じた部分を一つだけ紹介しておきます。『魔の山』上巻p570に「だから意識なるものは、結局のところ、生命を構成している物質の一機能」という言い回しがあり、これは最新科学の一つかも知れませんが、毛内拡さんの『心は存在しない』(本は読中)という著書に関連してラジオで「結局肉体と別に魂というものがあるわけではない」というようなことをおっしゃっていたことに通じるような気がします。もちろん学説の一つであって、解明されたものではないのかも知れませんが。
わからないことが多いため、生成AIに色々尋ねてみました。得られた回答らしきものをnoteに投稿しましたので、ご関心がありましたら覗いてみて下さい。https://note.com/light_quokka2104/n/n1daf7d493f51

さ、次へ。

LinkedIn にシェア
Pocket