現代に通じるソクラテス(『プロタゴラス』の冒頭部分より)

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「君がもしそういった彼らの売り物のうちで、どれが有益でどれが有害かをちゃんと知っているのだったら、いろいろな学識を買い入れるということは、それが誰からであろうと君にとって別に危険はない。
 だが、もしそうでないのなら、君は何よりも大切なものを危険な賭けに晒すことのないように、よくよく気をつけたほうがいい。
 実際、学識を買う場合には、食べ物を買う場合よりも遥かに危険が大きい。なぜって、これが飲食物だったら、卸商人や小売商人からそれを買っても、別の入れ物に入れて持ち帰ることができるし、飲んだり食べたりして、体に入れる前に家に取っておいて、食べたり飲んだりして良いものといけないもの、その量や時期などについて、識者を呼んできて相談することができる。
 だから、それを買うのに大した危険はない。だが、これが学識となると、別の入れ物に入れて持ち去るわけにはいかない。一旦お金を払うと、その学識を直接魂そのものの中に取り入れて学んだ上で、帰るまでには、すでに害されるなり益されるなりされてしまうからだ。」

 この文章の、たとえば「売り物」を「情報・知識・知恵」などと読み替え、「買い入れる」「買う」を「仕入れる」「取り込む」と読み替えるとどうでしょうか。
 プラトンが書いたソクラテスの対話として、『ソクラテスの弁明』に続く第二段として『プロタゴラス』と取っ組み合いをしています。

 この文章を読んで、思いもかけず、現代の情報過多時代に私たちの脳の発達が追い付かなくなって、情報を適切に処理できない場合があるという現状に思いが及びました。

 例えば生成AIとの付き合い方。
 アメリカでは生成AIに相談して自死に至った若者がおり、その親族が訴訟を起こしているという悲しい出来事も起きています。
 私自身は、自分の仕事の中では、知っていることの範囲内で整理のために使うことが多く、知らないことが生成された時は出典を確認したり他の方法での検証も行うようにしています。

 或いは最近のSNSがもたらす世の中の分断。
 本当のことやら嘘のことやらが判断つかなくなるように溢れかえっています。
 東日本大震災の時には動物園からライオンが逃げ出したという投稿が写真付きでなされていました(南アフリカの写真を日本での出来事のごとく投稿したものだったと思います)。
 よく言われているように、コンピューターのアルゴリズムによって、私たち自身がいつの間にか自分の好むようなフィルターバブルの中に入ってそれで世界観が構築・変容・強化されてしまったり、エコーチェンバー現象で多様な考え方と接することが著しく減ってしまったり、ということもあります。
 それあある意味本人にとっては心理的安全性の高い居心地の良い時間の過ごし方なのかも知れません。が、それがためにちょっとでも考え方や意見が異なると、相手を「敵」と見なして「排除」したり過度に攻撃的になったりということで、ここ最近はまたSNS空間が荒れ模様になってきているように思います。それだけ世の中がギスギスしているのか、了見が狭くなっちゃったのでしょうか。或いは情報を冷静に仕分けをする能力(脳力)が追い付いていないのか。

 仕事柄、経営相談に応じる際、特に事業を始めてあまり時間の経っていない創業者の方々などは、私たちのことを「先生」とお呼びになることがあります。先生と呼ぶ呼ばないということとは関係ないかも知れませんが、ご相談者は、私たちが提供する情報・知恵・考え方・経験談を「直接魂そのものの中に取り入れて学ぶ」可能性があります。大半のご相談者は自分で決めなければいけないということを認識おられますが。判断し決定するのはあくまで本人である、私たちはその判断材料を提供する役割だ、決して「教祖」のごとくなってはいけない、ということを肝に銘じつつ、またそのことをしっかりお伝えするよう今後とも心がけていくべきだと、改めて感じた次第です。

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「持続的競争優位性」について

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経営戦略について書かれた本を見ていると、ポーター学派(仮称)のポジショニング戦略(主に外部要因による競争戦略)とバーニー学派(こちらも仮称)のケイパビリティに基づく戦略(主に内部要因の強みを活かした競争戦略)のいずれか、または両方が書いてあるように思います。
持続的競争優位を確保していくためには、その企業が持つリソース(経営資源)が、①V:機会を活かしたり脅威を和らげたりすることができるか、②R:希少性を持つものか、③I:その経営資源を持たない企業が模倣しようとした際にコスト面で不利になるくらい模倣困難性が高いか、④O:組織や制度で①~③が支えられる仕組みになっているか、という観点で取り組んでいくのが良いというようなことをジェイ・B・バーニーという学者が言っている、と私は感じています。
ちなみに上記の4点は、V:Value経済的価値、R:Rarity希少性、I:Inimitability模倣困難性、O:Organization組織の頭文字で、略してVRIOなどと言われるようです。
しかしそもそも「持続的競争優位性」というものが本当に存在するのだろうか?世の中の状況が変われば一変してしまい、昨日の優位性が今日は「弱み」どころか企業自身に向けられる刃にすらなるということが現実にあるのではないか?とずっと思っていたところ、ひょんなことで次の一文に出会いました。


「世の中も環境も変化し、ずっと続く競争優位性は存在しない。つねに自分たちが変化することで小さな優位性を維持していく必要がある。」

NTTの島田明社長が週刊東洋経済2025年10月25日号掲載のインタビューで語った言葉です。NTTですら、と言うと顰蹙を買うかも知れませんが、島田社長も「ずっと続く競争優位性は存在しない」と明言しておられます。まあ情報通信の世界はとても変化が速く、NTTはどんどんGAFAMなどのプラットフォーマーに先を越されていますから、当然そういう言葉が出て来てしかるべしではありますが。
ということで、恐らく、社会で事業を営む全ての企業にとって「持続的競争優位性」というものは存在しないのではないか、まさに、つねに自分たちも変化していくとで小さな優位性を維持していくということが企業活動にほかならない、と思いました。これは我らが中小企業・小規模事業者・個人事業者としても共通することなのではないかと思います。


さて1985年に民間企業になり早40年。企業の寿命15年説を思うと2回転以上しているわけで、人事制度も大きく変わり、今も存続していますが、収益構造もかなり変わり、ドコモがグループ全体の収益を支えているとはいうものの、NTTデータが今後の牽引車になりつつある状況です。私のいた東西ローカル会社は分社した頃とは大きく様変わりし売上は両社合わせて当時の4兆円から今は3兆円そこそこの企業になってしまっています。
私自身NTT社員でいた頃に仕事をしていく上での心の拠り所としていたのは「社会のインフラを守り高度化していく公共的使命」でした。
島田社長は次のようにも述べておられ、これも大いに共感しましたので転載させていただきます。
「ルーツは『公共性』から始まっているので、従業員たちも「世の中に役に立っている」ことが働きがいでもあると思う。そういうところは組織体の中に持っているのであまり変わらないし、自分たちの誇りで前進するエンジンになる。(中略)ただ、どういう事業で世の中の役に立つことをしていくかは、時代とともに変わる。何らかのコミュニケーションをつかさどることはずっとやっていくと思う。」
こういうことを、トップが明確に発信するというのは、働く人々に正しい価値観を伝えるという意味からも良いことではないかと思います。
ドラッカーは、企業は社会との関わりに責任を持たなければならないという主旨のことを述べています(意訳です)。企業は社会の公器だという言い方もあります。今の私は個人事業者ですが、社会で仕事をさせていただいていることに変わりはなく、改めて当時のNTT魂を思い起こして仕事をしていこうと思います。島田社長、お目にかかったことはありませんが、ありがとうございます。

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トーマス・マン『ブッデンブローク家の人びと』(まだ「中巻」ですが)

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『魔の山』から派生して『ヴェニスに死す』を経由して映画まで観て、とうとう『ブッデンブローク家の人びと』まで来ました。『魔の山』と『ブッデンブローク家の人びと』は筒井康隆さんが絶賛している小説ですが、私には高校生の頃に教科書でそういう作家がいるということを見たぐらいでした。古典と言われるものには当時も関心がありませんでしたが、最近はそういうものが読まれ続けていることの意味があるように感じており、こうやって少しずつ触れていくようになってきました。
さてこの小説、まだ中巻が終わったところであり、年内に下巻まで完読できるかどうかわかりませんが、中巻についてコメントしておきます。
この小説は、著者であるトーマス・マンの一族をモデルにしたものだそうで、北ドイツのリューベックを舞台に、ブッデンブローク家の4代にわたる商家の繁栄と衰退を描いたものだということです。


中巻は、大金持ちの実業家の一族の黄昏の始まりが描かれており、色々なほころびが徐々に出て来ています。
中巻の主役であるコンスル・トーマス・ブッデンブローク(コンスルは一族や企業の代表者というような意味のようです)は、必死で家業を守り通そうとするものの、弟やその他周囲の人々はどうも「学び」や「責任感」が不足しているような気がします。弟のクリスティアンなどは勘と虚栄心と好き嫌いが商売の判断基準になっている、没落ゆく商家の典型的な人物に見えます。
お金があるうちは良いですが、そのお金も、群がりくる金の亡者たちによって徐々に浸食されていきます。
とどのつまりは、気の弱い8歳のハンノ(トーマスの一人息子)に対する「存在否定」とも言われるべき父トーマスからの非難の言葉です。これが中巻の一番最後に放たれており、結構衝撃を受けます。その少し前からのハンノが受けている、明るく前向きなピアノレッスンの様子が鈍い輝きを発しているだけに、その後の暗転ぶりがあるのだろうなとなんとなく予感はしていたものの、です。
この中巻最後のトーマスからハンノへの叱責の言葉は私にとっては思いのほか暗澹たる気持ちにさせられました。母の溺愛(?)の反作用かも知れませんが、心の弱いハンノをなんとか元気に、生きがいをもって成長する子に育てたい、という母の気持ちであって決して溺愛というようなものではないと思うので、母ゲルダの振る舞いを責める気持ちにはなれません。
存在を否定されたようなこのハンノは、それゆえに、恐らく心の成長を得ることができず(もしくは中途半端な偏った成長になってしまい)、やがて若くしてこの世を去ってしまうというのが下巻の想像です。
ちょっと暗い話になりましたが、4代にわたる栄枯盛衰ものということで、しっかり向き合っていこうと思います。

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天の戮民

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これまたひょんな出会いとなりました。昨日偶然書店で求めた呉智英さんと適菜収さんの対談本をめくっていたら、荘子の話が出て来ました。

曰く、外編と雑編派読まなくても良い。私も総感じていたので、我が意を得たり!とおもいつつ、さらに進むと大宗師編に、孔子のキャラをあてがわれた登場人物に「私は天の戮民である」と言わせているとのこと。そんな言葉知らなかったし、荘子は高校の頃から読んでいるものの全部を読み通したわけではなく、大宗師編も途中で止まっていたため、はっとして、そういう箇所があったのかと慌ててページをめくりました。

天の戮民とは、天から刑罰を受けた身であり、無為自然に生きたいけれどもそうはできず、世俗の内につながれている(不自由な身の上だ)と語らせているのです。世俗の内にしばられて生きるというのは、知識や礼節を大切にするという面倒があり、安らかには生きられないと吐露させています。

もうあと数ページのところで、このくだりに行き着いていたかと思うと自分の読書の要領の悪さを恥じるのですが、そこの手前で呉智英さんによる解説にたまたま出会えてから次に進めたというのは、なんともはや僥倖ではないかと感じ入ったひとときでした。

これ、書物のセレンディピティと言っても良いかも知れません。感謝。

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『ソクラテスの弁明・クリトン』

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本文だけなら90ページもない薄い本であり、かつ40年以上前に購入したものでしたが、なかなか読むことができませんでした。
どういう心境かは自分自身よくわかりませんが、ようやくちゃんと向き合う機会ができました。
プラトン著『ソクラテスの弁明・クリトン』(岩波文庫)です。(40年以上前に買ったのは角川文庫で、日付を見ると高校二年の冬でした・・・1ページも読まない積読でした)

気になった箇所を少し抜粋します。
「私に対して全然虚偽のことをいい触らす多くの弾劾者・・・諸君の中の多くの人達をまだ少年であった頃から篭絡・・・彼らの数は多く・・・諸君のある者はまだ少年であり、諸君のある者はまだ青年であり、最も他の言を信じ易き年頃」
ここまで読んで、今のSNSの隆盛ぶりとそこに流れる様々なウソやデマに容易に取り込まれてしまっている(そのように信じたい?)人々がいるのかも知れないということに思いが至ってしまいました(先のM県知事選挙で比較的若い世代の人びとが、どうも虚偽情報を信じた投票行動をしたのではないかという報道がありましたので)。
さらに「私を弁護してくれる者のない欠席裁判において私を弾劾した・・・彼らの名前をすら知り得ずまた挙げ得ぬ・・・猜疑と讒謗慾とのために諸君を説得せんと試みた人々・・・これらの人々に対してはまったく策の施しようがない。・・・人は彼ら一人をもここに召喚してこれを反駁することが出来ず、弁明に際しても、たとえば影と戦うが如く、何人も応答する者なくして弁駁するより外に全く途が無い」(p14~15)
これもSNSでの本名のわからないアカウント名による匿名での誹謗中傷の類と変わらない状況ではないかと感じました。
後ろの解説を読むと、当時のアテナイの人々は、ペルシャとの戦争に勝利した後の隆盛後、ペロポンネソス戦争で敗北し、スパルタ配下という屈辱を味わい、三十人専制という恐怖政治を経由し、再び民主制にはなったものの往時の勢いはなく、自信と誇りを失った人々は誰かに責任を押し付けることで憂さ晴らしをしたい、「何事にもひたすら復古を念とし新を厭う反動時代となった」頃に、「聴者の意を迎え、手段を選ばざる成功術」を色々と言説を弄する「ソフィスト」と呼ばれる人々が跋扈していたようです。ソフィストは「何ら普遍的に通用する標準を認めざる極端なる主観主義」を持っており、伝統的な価値観を破壊する人だとみなされていたようで、現にそれらの人のいくばくかは裁判で国外追放とされていたようです。

これなども、◯◯ファーストのように飛びつきやすく拡散しやすいワンワードポリティクスにも比せるものという気がします。
真実を知っている人をひたすら探し、色々な人と議論をし、やはり本当のことを知っている人がいない、自分は「知らないということを知っている」「大切なことは単に生きることではなく、善く生きることである」という主張をしたがために、ギリシャの神を信ぜず「別の神を信奉する者だ」とし(ちゃんと既存の神への捧げ物などもしていたにも拘らず、批判者の「こうに決まっている」という一方的なイメージの押し付けにより)、ソフィストと同類、それもその中の大物だとみなされてしまい、結局不信人者として有罪の判決を受け、しかもそれでも自分の良心の主張をしたがために裁判官の多くの心証を悪くし、処刑という結果となったようです。
そういう時代背景も考えると、今の日本の状況と重なって見えてしまうのがなんとも複雑な気持ちになってしまいましたが、いつの世にもあるようなことなのかも知れませんが、この2500年、「人をそしる」「人を貶める」ことで溜飲を下げることが相変わらず行われているという点で、私たちはほとんど進歩していないのかも知れません。リベラルアーツは西洋人の基礎教養だとか、哲学が諸学の基礎と言いますが。

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