24歳のドイツ人青年ハンス・カストルプがいとこが入院しているスイスの高原のダヴォスにあるサナトリウム(療養所)を訪れるところから始まる物語です。
こういうものを読もうという動機はなかったのですが、たまたまなんとなく気になって、昨年秋頃に買い求めました。はじめは岩波文庫で読み始めたのですが、さっぱりわからず、途中で断念し、新潮文庫ならもう少しやさしいかもとなんの根拠もなく切り替えました。しかしながら手に負えず、結局10月に読み始めた上巻が半年近くかかってようやく読了にこぎつけました。NHKの「100分de名著」でも扱っており、とても興味深く視聴しましたが、本はなかなか手強く、テレビでうんうんと眺めていたような感じではありませんでした。
「魔」の山というくらいなので、普通の健常者がそこで治療を受けている人たちと一緒に過ごしているだけで、日に日に体調がおかしくなっていくという不思議な、ある種ホラーめいたところも感じる小説です。そういう筋書きなのかなと予想はしていたものの、実際に読んでいくと難渋です。この人はなんでこんな面倒な難解なものを書いたのだろうと疑問を持ちつつ読み進めています。言い回しが面倒。見開きの2ページがほぼ文字で埋まっていて余白がない。ジョン・コルトレーンのシーツ・オブ・サウンズを小説で表現するとこのようになるのだろうなという感じです。コルトレーンの演奏でも、あまりにもソロのアドリブが長いので観客が全員帰ってしまったことがあるというエピソードを聞いたことがありますが、この小説も「退席」したいと思うことしばしばです。
20世紀ドイツ文学の最高傑作だと言われているそうです。しかもこの作品をはじめとする色々な作品群で、トーマス・マンはノーベル文学賞を受賞しているとか。下巻の裏表紙にも「ファウスト、ツァラストラと並ぶ二十世紀屈指の名作である」なんてことまで書かれていました。そんなことも知らずに私はこの本の巨大な迷宮にほとんど準備をせずに入り込んでしまっています。読んでいて、確かに「観念的」だなあと感じます。ドイツ観念論なんて言葉は知っていても意味は知りませんので、安易なことは言えませんが、なるほど、そういうことなのかな?と思ったりもします。登場人物の言葉からとても観念的な印象を受けます。
もしかすると、本当の病気になったわけではなく、偶然見初めた年上の女性に対する恋心が発熱となって出ただけなのかも知れません。ということが上巻の一番最後まで来て感じられました。私の気のせいかも知れませんが。
読んでいて、とても興味をそそられる記述がありました。p570「だから意識なるものは、結局のところ、生命を構成している物質の一機能」であるというくだりです。
あれ? 毛内拡さんの『心は存在しない』やレイ・カーツワイルさんの『シンギュラリティはより近く: 人類がAIと融合するとき』などに「意識は体と別のところにあるものではなく、脳の働きなのだ」というような主張と同じことがこんなところに書いてある、と思い、びっくりしました。(これも気のせいかも知れませんが)
またこんな記述もありました。p586「原子はエネルギーの充満した一宇宙を構成しており、その体系内では、太陽にも似た中心体の周囲を多くの天体が自転公転し、たくさんの彗星が、中心体の引力によって外心的軌道内に引きとめられながら、光年的速度でその天空を飛びちがっている」・・・という感じで、小説の中に、生命論やら物理学的なものやらなんやらかんやらをごった煮の如く詰め込まれたもので、難儀してます。
しかし上巻の最後に来て急転直下、これまでの長い道のりはここにつながっているんだ、という感じで話が進み、それまでの悪路難路が一気に報われた感じがしました。孤独のグルメで松重豊さんがいつも言っている「ああ、そう来たか」というつぶやきを私も思わず漏らしてしまいました。
さてこの先、下巻が待っており、上巻ですら文字が敷き詰めて700ページもあったのに、それよりさらに100ページ分パワーアップの800ページも待っているということで、どういう展開になるか、期待ワクワク、腕が鳴ります。
