又同じころ(元暦2年(西暦1185年)7月9日)かとよ、おびただしく大地震振ることはべりき。そのさま、世の常ならず。山は崩れて河を埋づみ、海はかたぶきて陸地をひたせり。土さけて水わきいでて、巌われて谷にまろびいる。渚漕ぐ船は波にただよい、道行く馬は足のたちどを惑わす。都のほとりには、在々所々、堂舎塔廟、ひとつとして全からず。あるいは崩れ、あるいは倒れぬ。塵灰立ち上りて、盛るなる煙のごとし。地の動き、家の破るる音、雷にことならず。家のうちにをれば、忽ちにひしげなんとす。走り出れば、地われさく。羽なければ、空をも飛ぶべからず。竜ならばや、雲にものらむ。
若しせばき地にをれば、近く炎上ある時、その災をのがるることなし。若し辺地にあれば、往反わづらい多く、盗賊の難はなはだし。
世にしたがへば、身苦し。したがはねば、狂せるに似たり。いづれの所をしめて、いかなるわざをしてか、しばしも此の身を宿し、たまゆらも心をやすむべき。
(令和6年能登半島地震から14日目)
ここに転載したのは、岩波文庫の『新訂 方丈記』p22~26に書いてあった839年前の地震の様子とそれについての鴨長明さんの叙述からの抜粋です。今回の能登半島地震と比較しようとか世は無常とか、このことに関連付けて何かを述べようという意図はありません。そのような意図はないものの、何かにすがらなければこの気持ちを落ち着かせるすべがなく、永井荷風の『断腸亭日乗』の関東大震災のくだりを読み直したり、徒然草を紐解いたり、方丈記をめくってみたりしているうちに、方丈記の中に地震に関する記事を見出し、平安末期のこの頃にもこのようなことがあり、それを記述している人がいたのだなあと感じ、心を落ち着かせようとあとなぜをしてみたものです。転載していない部分には、本震の後の一日ニ三十回の余震、その後の数日おきの余震などについても記載されており、また地震本部の「主要活断層の長期評価」には能登半島の大部分には活断層が描かれていないにもかかわらず大きな地震があったように(専門家の間では危険であるとの認識があったような記事も目にしましたが)、日本はそもそもいつどこで地震があるかわからない不安定な陸地であることを今更ながら思い知らされたことです。
(令和6年能登半島地震から19日目 追記)