東京の電車内の中吊り広告のこと(地元の方はとっくにご存知なのでしょうけど)

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先日所用で上京しました。その際、井の頭線と都電(山手線)に乗りましたが、何気なく中吊り広告に目をやると、たまたまその時だけだったのかどうかわかりませんが、以前だったらとても色々な広告があったのが、まるっきり様変わりしており、ビックリしました。

具体的には、井の頭線では吊り棒(正しい名称がわかりませんが、要は広告の紙の上辺をクリップで挟んでいる二枚の棒?細い板?です)に「片面だけ」のもの、本来なら2枚×2枚の4枚(裏表)でワンセットなのに「1枚しかないもの」というぐらいに吊るして宣伝すべきものがない状態でした。

都電については、車両の中の大半が「SUICA」関連のもの。SUICAでこんな周辺サービスが受けられますよといったようなものであり、SUICAそのものの宣伝ではないというものの、要はJRと関連した広告であり、全くの第三者が広告主ではないというものだと私の目には映りました。

一方で車両側面吊り革上の動画広告は5秒おきでどんどん入れ替わり、繰り返し繰り返し激しい光が明滅していました。映像の切り替わりが早いためにずっと見ていることができません。こりゃあ都会の人でも見る気にはならないのではなかろうかと思うくらいの単調なメッセージの繰り返しでした。

中吊り広告が広告市場として魅力的なものではなくなってきた、ということなのかな?という仮説を持ちました。乗った曜日や時間帯がたまたま入替の時間帯だったから少なかったのかも知れませんが、これだけSNSやターゲット広告が花盛りになってきている現状からして、中吊り広告に頼る意味合いが極めて薄いものになったのかも知れませんね。

それはそれとして、この3年あまり、公共放送のテレビニュースを見ると、コロナの新規陽性者数などコロナ関連の報道があるたびに映し出されていたのが東京渋谷のスクランブル交差点の人出の様子でした。曰く「今の渋谷スクランブル・・・このように人出はほとんどありません」「以前から見ると少し賑わいが戻ったような週末です」といった感じで毎度毎度スクランブルの映像が流されていました。その際、必ず目に入ったのが、正面にデンと座った「大盛堂書店」の看板でした。ずっと気になっていましたが、今回の上京の折を利用して入口をくぐってみました。それほど大きな書店ではないものの、地下・1F・2Fの3フロアで書籍販売を行っておられました。もしかすると、コロナ前は3F以上もあったのかも知れませんが、今回お邪魔した時は3F以上は立入禁止となっていました。東京のど真ん中で、この人出の少ない時もしっかり店を守ってこられたことに敬意を表し、文庫本2冊を買い求めました。経営にはなんの足しにもならないかも知れませんが、ほんの応援の気持ちを表しました。それにしてもこの時のスクランブル交差点は大変な賑わいでした。それも若い人・外国人などなど。信号が変わるたびに新しい顔ぶれがどっと対岸に繰り出し、赤信号の間にどんどん溜まって歩道が人であふれ、青信号になるとまたそれらの人が吐き出されて、の繰り返し。東京は賑やかでした。

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村上龍さん『希望の国のエクソダス』

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西暦2000年に刊行された村上龍さんの『希望の国のエクソダス』を読みました。
最近「日本を脱出せよ」といった言説がちらほら聞こえてきており、これがその嚆矢となるような小説だと誰かが言っていたことがきっかけです。
内容は日本そのものを脱出するものではないので上記のこととは全くのイコールではないものの、現在の体制から抜け出して自分たちの才覚で、ある種独立的な自治体を作り上げていくものであり、その意味では「脱出」に通ずるものがあるようにも思います。

村上さん曰く「人材の国外流出が本格的に始まってしまったら、たぶんこの国の繁栄の歴史が本当に終わるだろう」(文庫p101)。

村上龍『希望の国のエクソダス』

まだ仮装通貨の片鱗も見えてない時代に「イクス」という仮装通貨的なパワーを持つ「地域通貨」を登場させてみたり、坂本龍一さん(音楽家、2023年3月逝去)を風力発電所のブレードで音楽を奏でるための実験をさせたり(実際にそのようなことがあったかどうかは確認していませんが、唯一実在の人物が実名で登場しているくだりです。p385)、実験的な小説にしては今日の日本を見通したような、近未来社会経済小説と呼んでも良いような感じがします。

他にも「日本経済はまるでゆっくりと死んでいく患者のように力を失い続けてきたが、根本的な原因の究明は行われず、面倒な問題は先送りにされた」(p16)、「これまで通りのやり方で何とかなるだろうと思っていたのだ。メディアは、危機へのそういう曖昧な対処に加担していた。本質を見なくてもすむような有名人のゴシップや社会事件を(中略)興味本位に報道した。」(p17)、「過去の日本を歴史的に美化するような動きも目立った。」(p17)といった20年後の今のことかと思うような主人公の独白もありました。

冒頭登場するナマムギ君はパキスタンとアフガニスタンの国境付近で地雷処理をしながら、なぜ日本を離れてここにいるのかという記者の質問に対して「あの国には何もない、もはや死んだ国だ」と語り、さらに「すべてがここにはある、生きる喜びのすべて、家族愛と友情と尊敬と誇り、そういったものがある、われわれには敵はいるが、いじめるものやいじめられるものがいない」(p12)と人と人との間で生きるとはどういうことなのか(敵と戦うことを是とする気持ちはありません)を端的に語っているように思います。

小松左京さんが『日本沈没』を書きましたが、科学的な知見(ウェゲナーの大陸移動説や日本海溝の深さとマントルの移動など)を下地にしつつ、小松左京さんが伝えたかったことは、戦後も戦前と日本人の閉鎖性は変わっていない、この辺で国際人にならなければ大変なことになる、そのためには一回日本がなくなったらどうなるかという思考実験をしてみることで、目を開くきっかけになりはしないか、といったようなことを考えてあの小説をお書きになったということをどこかで読みました。
実は村上龍さんも同じような思いを抱いてこの小説を書いたのではないかと感じたのがつぎのくだりです。「日本人みんなが、何か共通なイメージっていうか、お互いに、あらかじめ分かり合えることだけを、仲間内の言葉づかいでずっと話してきたってことなんじゃないかな。その国の社会的なシステムが機能しなくなるってことは、その国の言葉づかいも現実に対応できなくなる。」(p122)ということを主人公の交際相手の経済記者に語らせています。

これからの時代、若い人が地方から東京へ、東京からオーストラリアなどの海外へ、集団脱出するような日本にならないよう「希望」が持てる国であり続けるにはどうしたら良いか。まずは私たち大人が楽しく、誠実に、正直に(嘘をつかず)、明日に希望を持って生きていくことが必須だと思います。ポンちゃん(主要登場人物の一人、中学生)が国会の証人喚問で語るセリフ「この国には難でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない」・・・こんなことを若い人に言わせない社会にしなければ。外国から日本を訪れる人たちが、日本は観光だけでなく働いてスキルを身につける上でもとても良い国だ、と言われるような国にしていかなければと思います。

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