敬愛していた氷見の“父”が亡くなりました。コロナ禍での葬儀ということもあり、一般弔問客に許されるのは喪主・ご遺族への挨拶と焼香のみでしたが、最後のご挨拶ができました。思えば私が初めて社会人になって氷見の職場で働き始めた時、“父”はもうその地域の顔役であり、どこへ行っても「かっちゃん」「かっちゃん」と親しく呼ばれていました。
私からすれば、実の父よりも3歳ほど上だったため、大叔父って感じでその方を見ていた気がします。確か社会人になって2年目の春、少し仕事(とっても狭い領域でしかないのですが)がわかったような気になったのか、なんだか回りが遅いように思えて、イライラしていた時期がありました。無性に腹が立つ、って感じです。
その時、私は不遜にも時の上司である課長(当時49歳)とこの“父”(当時55歳)に「最近なんだか腹が立つんですが」などという暴挙とも言える相談をしました。ぶっきらぼうにそれだけを伝え、とても相談の体をなしてはいなかったと思います。言葉に出せなかった部分をあえて書くと「腹が立つようなことがあるとどう対処されていますか、お知恵を聞かせて下さい」という表面的な質問だったのでしょうが、その下にある隠れた本心は「私は仕事がとてもできるんです。でも周りは遅くてなんだかイライラします。私は優秀な人材なので私のことを高く評価して下さい。ほめて下さい」という図々しく尊大な気持ちがあったように思います。
課長はその時「仕事せんこっちゃ(しなきゃいいんじゃないの)」と一言。この言葉には「お前の仕事はそんなに大した仕事じゃないよ。お前がいなくても仕事は回る。作業速度がちょっと速くなっただけなのに、できてる気になってんじゃないよ。少し頭を冷やしたらどうだ」という意味を優しく易しくやさしーく仰ったのだと、実は次の“父”の言葉との合わせ技で気がつきました。(ちなみにこの課長は私にとって石動の“父”です。もう16年も前に69歳の若さで鬼籍に入ってしまわれました)
課長に相談した数時間後、自分の求める反応が得られずに、“父”にも同じ問いをしました。そして“父”は私にこう仰いました。「俺は、ダラやから、腹が立つことはないなあ。むしろ周りのみんなにいつも迷惑ばかりかけているから、ごめんなさい、ごめんなさい、と言ってるばっかりやねえ」(ダラ:関東で言う「バカ」、関西で言う「アホ」に近い語感です)
たぶんその時の私は「お前、ようやっとるのお。さすがや。まあ、周りの人に腹立てずにお前が習得した新しいノウハウなんかがあれば教えてやってや」みたいな、労いやほめ言葉やプラスのストロークが返って来ることを期待していたのだと思うのですが、期待したのとは全く異なる反応であり、しかもご自身のことを無茶苦茶卑下してみんなのおかげでなんとか自分は生きている、だから腹が立つなんてありえない、と言われ、絶句して次の応答ができませんでした。
私は雷で打たれたような衝撃でした。自分はなんと増上慢になっていることか。実父よりも年上の人が私みたいな若造に対して、ここまでへりくだって謙虚な態度を、日頃の自然な振舞い方としてとれるのか、とショックでした。ちょっと一つ二つ事務作業を覚えた程度で自分はできぶつだと思いあがっていたことに、たった一文節で気づかされ、それからは多少は謙虚になれたような気がしています。
その後、私が金沢に転勤し、結婚、子どもが生まれ、実の父から氷見で海水浴をしようと提案があった時も、氷見の“父”に相談し、民宿を紹介してもらいましたし、それ以降も数年に一度程度はご自宅に顔を出しに伺っていました。直近では3年前の春。久しぶりに顔を出しに行きました。その当時で89歳です。しかし目も耳も口も胃も元気溌剌で、まだまだお元気だなあと意を強くしていました。ちょっと車に乗せてくれ、と仰り、ある観光施設まで同行したところ、そこで地域の特産品など数千円分を買い求められ、私に持ってけ、と仰いました。いやいや、土産代ぐらい自分で払いますよ、と申し上げたのですが、「子どもがっ!何を言うか!黙って持っていかっしゃい!」と一喝され、さらにその後、町まで下り喫茶店でおそばまでご馳走になってしまいました。確かに32歳も上で、ご本人のお子さんよりも年齢が下の私は、50歳を超えていようとなんだろうと「子ども」でしかないので、素直に従いました。40年近く経っても当時の学習が生きてない私でした。
またそろそろ顔を出さなければなあと思っていた今日この頃、朝刊に訃報が出ていました。祭壇の写真は在りし日の笑顔満面の“父”が写っていました。長いこと、本当にお世話になりました。心からお礼を申し上げて来ました。本心を言えば、もう一回お目にかかりたかったです。つくづく思いますね。悔い始めればきりがありません。ああもしたかった、こうもしたかった、こんな話をしたかった、もっとゆっくりそばにいたかった・・・人間は後悔の積み重ねを生きているのかも知れません。
とても個人的な思い出話のブログとなりましたが、この方のこの時の一言がなければ、その後の私の人生は大きく様変わりした(悪い方へ)ものと思い、想像するとぞっとします。今の私の元となった社会人一年目の経験、その経験をさせて下さった氷見の“父”Nさんへの感謝をこめて本日のブログとさせていただきました。