2015(平成27)年の大河ドラマスタートに際して

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 今年、平成27年(西暦2015年)の大河ドラマは吉田松陰の妹・文が主人公だということである。
 今さらではあるが、一昨年は同じ幕末・維新の物語ではあるが、新政府からすると敵とされてしまった、同じ日本の会津藩・新島八重が主人公であった。
 番組放送当時、川崎尚之助という人物が気になっていた。
 昨年末に偶然書店で見つけたのが、あさくらゆう氏の著書『川崎尚之助と八重』(知道出版)という本である。
 川崎尚之助が大河ドラマで登場した当初は、とても江戸時代の武家らしからぬ、現代風の容姿・振る舞い・喋り口調の人物であり、配役のミスではないかと思っていた程度の印象だった。
 しかし回を重ねるにつれ、会津の人々の向学心や国の行く末を思う気持ちに対するこの人物の取組姿勢が真剣で清々しく感じられていった。
 会津藩の最後の方では、京都に駐在して帰ってこられなくなっていた山本覚馬(義兄)に代わり、(この頃既に会津藩士になっており、かつ大砲頭取という役職を拝命していたこともあってだろうが)会津藩士たちに対して、軍事教練をも行い、会津城籠城戦では、妻・八重とともに新政府軍と激しい戦いを行った。
 同じ日本人同士、同じように国の行く末を思いつつ、色々な行き違いが重なって、遂には国の敵とされてしまった会津。
 出身は但馬の国、出石藩でありながら、学問を縁として会津に出仕し、真面目一筋で生き抜いた川崎尚之助。
 敗戦の責任を問われ、会津藩兵は東京へ送られ、さらに青森県の斗南を藩として与えられ、自然環境の厳しい中、その地を開墾したり、自給自足の生活の工夫を行う。
 しかし俸給は少ないため困窮すさまじく、藩の窮状を救おうと、川崎尚之助は、上司とともに函館に渡り、斗南で生産される“予定の”作物と米の交換交渉に当たる。現金に換える産物がまだないため、いわば先物取引に応じてくれる商人を探すのである。信用も交換すべき物産もなかったが、ある人物の仲立ちにより、幸いデンマークの商人と折衝をすることができた。
 仲立ちをしてくれた人物は斗南藩の商業担当者と名乗ったようだが、それは嘘偽りで、その人物は斗南藩とも会津藩とも関わりのない人物であり、しかも別の外国商人から多額の借金をしていた。そして会津藩が降り出した手形をその外国商人に渡していたため、商談が大混乱し、裁判にまで発展してしまった。
 さらに色々なトラブルが重なり、川崎尚之助は、それらを藩の命令で行ったことではなく、自分だけの思いでやったことだと供述し、やがて肺炎となり、39歳で亡くなってしまう。
 恐らく川崎尚之助は、日本全体の中でも相当優秀な人材であり(山本覚馬同様)、時と場所が異なっておれば、国全体に対しても相当な貢献をし、健康と幸せに恵まれた生涯を送ったと思われるが、残念ながらそうはならず、失意のうちに人生を終えざるを得なかったものと思う。
 1986年に放映された幕末の会津を描いたテレビドラマでは、川崎尚之助は「逃げた男」というような描かれ方をしたらしい。しかし、一昨年の大河ドラマ「八重の桜」では、開明的で男女平等的で思いやり深く一途な人物として見事名誉復活を果たした。
 川崎尚之助の資料は非常に乏しく、この人物像をつかむために、NHKスタッフもそうだろうが、今回読んだ本の著者も相当な苦労をなさったようだ。色々な史料に当たり、実家を探し当て、兄筋のご子孫にも協力を要請したり(兄筋のご子孫も川崎尚之助が縁者とはご存知なかったらしい)、執念の探索としか言いようのない努力をなさっている。
 ひたむきな努力と執念の取材・調査が実って、この本が世に出ることができたようだ。
 川崎尚之助について著者曰く「一にひたむきな努力が認められ、二にその素直な性格が会津藩に認められ、三に愛する八重に認められ、その思うがままに一途に尽くした人生だった。その最後も斗南藩の窮状を救うために一途に苦境と戦い、そして自身が暗黒星雲に飲み込まれるとも、八重や斗南藩を守るため、そのまま黙して昇華した。」
 兄筋のご子孫も曰く「本人は、後悔なんかはしていない、ただ私の真実の姿を皆に分かってもらって欲しいと言っているような気がする。」
 こういう人物たちが敗者の側にいて、それらを礎にしつつ、今日の日本の土台ができてきたということを感謝の念を持ちつつ、今年の大河ドラマを楽しみたいと思う。

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