出口治明さんの『仕事に効く教養としての「世界史」』

LinkedIn にシェア
Pocket

 著者は生命保険の世界では知る人ぞ知る立志伝中の人物、ライフネット生命会長兼CEOの出口治明さんである。
 歴史を学ぶことは、人間の営みを知ることであり、国の名前や年号を覚えることが主眼ではない。
 人々がどういう場合にどういう判断をしどういう行動をしその結果何がどうなったかを知ることだと思う。
 但し、色々な出来事や判断が全て冷静に客観的に理性的に行われてきたかというと、そうでないことが結構多い。
 例えば、民族大移動などは、どこそこへ行けばこういういいことがある、現地の人々と話し合って少し住む場所を分けてもらおう、などといって行われたわけではない。
 大方が気候変動によって作物が取れなくなったり、食用にしていた生き物がいなくなったりしたことが原因であろうし、移動先にいる先住民を蹴散らして住もうとしていたことが大半であると歴史は教えてくれている。
 そんなわけで、歴史の出来事は必然的な要素と偶然的な要素が絡まり合っているので、今同じシチュエーションがあったからといって同じ判断や結果にはならないが、学ぶべきところは多いと思う。
 また、世の中というのは常に流動しており、ひと時も固定的なことはないのだということも歴史から学ばれる点である。
 このことは既に鴨長明が方丈記で喝破していることであり、今さらここで声高に叫ぶ必要のあることではない。
 さて『仕事に効く教養としての「世界史」』は、上述したようなことを、世界史を概観しながら、しかも特定の地域や国に焦点を当てるのではなく、テーマを絞って、それにまつわる国々や人々を縦糸・横糸を駆使して、著者の知識と見識を語ってくれている良書である。
 単に世界史の知識を披歴するのではなく、歴史上の事象をを縦から横から関連づけて、著者の理解・解釈を交えて語ってくれているので、歴史好きにとってはおさらいプラス新たな知見を得ることができるという効用もあり、新しい解釈に触れることもできるので、とても楽しい。
 歴史はあまり好きではない人にとっては、人々の営みや外国の成り立ちの背景にこんなことがあったんだ、と気づく楽しみ方があるかも知れない。
 私にとって「目から鱗」だったのは、奈良時代の女帝たちには隣国のロールモデルがあったこと、焚書坑儒は実は墨家潰しだったのではないか、17世紀から19世紀前半までは中国とインドで世界GDPの半分を占めていたのであって最近の両国の勃興は歴史の大潮流からすれば波が再び戻ってきたようなことだとの認識などなどである。
 こういう知見は、まさに5000冊の歴史書を読んできた出口治明さんという「樽」の中で揺籃し、熟成させられたもののほんの一部であろうと思われる。
 ユーラシアの歴史における「トゥルクメン」、西欧の歴史における「ヴァイキング」など海と陸の移動系・遊牧系・狩猟系民族の果たした役割の重要性についても面白い語りがなされている。
 著者は、これらを紐解く鍵として、交易を置いている。「人類を発展させるための重要な手がかりは交易である」という考え方が著者の文明観の根底に流れているような感じがする。栗本慎一郎氏やカール・ポランニー博士などの考え方と共通しているのかも知れない。
 さて、では歴史を学ぶことの意義とは何か。
 著者は「人生の出来事に一喜一憂するのではなく、長いスパンで物事を考え、たくましく生き抜いてほしい」と仰っている。「今日まで流れ続け、明日へと流れている大河のような人間の歴史と、そこに語られてきたさまざまな人々の物語や悲喜劇を知ってほしい」「それが人生を生き抜いていく大きな武器になる」と私たちに語りかけている。
 本書でも言われている「縁もゆかりもない人々が<同じ国民であるという>植え付けられた国家という幻想」(米政治学者ベネディクト・アンダーソン)、ということも含め、自分たちの国や共同体や地域や親戚などの狭い領域だけに捉われた判断をせず、視野を広く持って考え、判断していくように、歴史に学ぶことはこれからも多そうだ。

LinkedIn にシェア
Pocket