NHK大河ドラマ「八重の桜」・・・ここ何回か観ていないので最近の放映内容に疎いが、会津戦争の辺りから、そういえば司馬遼太郎さんは会津のことをどう思っていたのだろう? あるいは、会津についてどういう書き物を残しているのだろう?と気になっていた。
私と司馬さんの接点といえば、中学3年生の頃に放映されたNHK大河ドラマ「花神」に始まり、幕末関係で言えば、小説、ドラマいずれも薩長土肥側から見たものだけだった。一度なじむと、人間、その方が居心地がいい。そのため、おのずと「会津は敵」という史観がじんわり自分の中に定着していた感がある。それはたぶん司馬さんの本意ではなく、たまたま歴史上の主人公を誰にして小説を書いたか、だけの話であり、彼の著書には「王城の護衛者」や「最後の将軍」「新選組血風録」など、倒幕された側の人々が主役のものも幾冊もある。ただ私がそれらを遠巻きに眺めていただけのことだ。
さて、今年の大河ドラマは、そういう偏った私のものの見方を改めさせてくれている。ようやく妙な呪縛めいたものから解けて、司馬さんが会津をどう見、どう語っていたかを調べてみようという気になった。彼が比較的書きたいことを自由っぽく書いた紀行ものの一つに「街道をゆく」のシリーズがある。その第33巻に会津編が掲載されている。
ゆっくり時間をかけて全文を読んだ。
初めの頃、会津とはなんの関係もない(ように見える)ストーリーが延々と語られ、大阪を出発するまでに1章をかけており、その後も東京の話やら関東の話やら空海の話やら松尾芭蕉の話やら白河の関にまつわる話やら源融の話やら源義経の話やら源平屋島の戦いやらあっちへ行ったりこっちへ来たり、一体いつになったら会津が出てくるのか、やっぱり司馬さんは会津がきらいだったのかな?と読み止まることしばしば(ジョークではない)。
しかし、中盤に来て会津徳一という奈良末・平安初期の旧仏教の〝知的豪傑〟の話が出てきて、これも幕末の会津とは関係がないのだが、そろりと「会津」という単語を入れた話を聞かせてくれたり、旧陸軍大将だった柴五郎の話(会津戦争で肉親が自害、その後会津の藩替えで、藩の人々とともに凍える寒さの斗南藩で大変な苦労をしたことなど)が紹介されたり、山下りんというロシア正教会の修道女のイコンの話があったりして、徐々に幕末の会津に近づく。
今放映されている「八重の桜」にも重要なポジションで紹介されているが、会津藩家老だった山下浩という人物が明治後期に世に出した「京都守護職始末」という松平容保公と会津の人々の記録に筆が及ぶや、一気呵成に幕末会津の活躍ぶりやその後の仕打ち(悪役を仕立て、その悪役を倒すことで新政府が前政府に勝って天下を取ったということの正統性を示すための犠牲として扱われた)についての記述がなされている。江戸期における教育水準の高さ、純朴で他人のせいにしない悲しいくらいの潔さ、そういう会津人気質を司馬さんはガラスの風鈴を扱うようにいとおしんでいるように思える。
「会津藩」という章を司馬さんは次のような一節で括っている。この一節の末尾、括弧書きの中に司馬さんの当時の会津の人々に対する哀悼と尊敬の気持ち、自分は大阪人だが会津の人々の悔しさ・無念さをわずかでも代弁できないものか、という葛藤の混じった思いがこもっているような気がする。
<藩としての精度が高かったために、江戸時代、国事にこきつかわれた。・・・中略・・・この藩は北辺の各地に陣屋を設けて国家の前哨の役目をしたが、寒さのために罹患して死ぬ者が多く、いまも北海道やその属島に会津陣屋あとや藩士の墓がのこっている(このことについて、国家は一度も旧会津人に感謝をしていない)。>
司馬遼太郎さんの『街道をゆく33 奥州白河・会津のみち;赤坂散歩』
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