昨日、新潟へ行って来た。
魚津から高速を使ってちょうど200km。
魚津インターで高速に乗ったのが朝の7時40分ぐらいだったが、既に車で道は溢れかえっていた。
巻潟東インターというところで下車。
そこから30分ほど走ってカーブドッチというワイナリーへ行ってとりあえずかみさんのご機嫌を結び、しかるのち国上山へ。
途中友人のお勧めの「岩室温泉」という街を通ったが、寄る時間もないので一路南下。
国上山は心配したほどのしんどい山ではなく、ほぼお寺の境内のそばまで車で上がることができた。
駐車場から展望台のところへ行き、そこから吊橋を渡って五合庵へ。
通常とは逆のルートかも知れないが、私の心はまっすぐに五合庵へ向かっていたので、国上寺から五合庵へ抜ける右回りではなく、左回りをとった。
五合庵。
本当に何もないところである。
昔はひょうたん池という名の池があり、湧き水が出ていたそうだ。
でなければ生きてはいけないだろう。
私の上司のTさんもここに来たのだろうか。
庵内に上がらせていただき、良寛さんの木像に手を合わせる。
作家の中野孝次氏は「無いのゆたかさ」と言っている。
ここにはものの見事に何もない。
良寛さんが持っていたものと言えば「正法眼蔵」と手まりぐらいだ。
でもここからとてつもなく色々な書や詩や教えが生まれ、今に至るも息づいているのである。
「無いのゆたかさ」ということの意味がわかったような気がした。
国上寺。
行基菩薩が開いたお寺だという。
お堂に入る前に、先に宝物館に入ってしまった。
寺務所の女性が「どうぞどうぞ」と招致してくれたので、言葉のままに招じ入れさせていただいたという感じだ。
中に金色に輝く観音菩薩の屏風が掛けてあり、隣に「弘法大師書」と書いてあったので、その女性に尋ねたところ、「ここは真言宗のお寺ですから、弘法大師様がお書きになったものだと伝わっております」とのことだった。
良寛さんというから、てっきり曹洞宗のお寺かと思っていたら、さにあらず、こんなところにも空海か、と驚いてしまった。
しかも寺の縁起を見ると、聖徳太子に始まり、役行者、行基、円仁などと、日本の仏教界の名だたるスーパースターが関係者として顔を揃えている。しかもあの酒呑童子が修行をしていたお寺でさえあるという。空海が唐から日本に帰る際に海に向かって投げた五鈷杵が引っかかった松すらあるという。そこまで作るか。
松に引っかかる法具と言えば、高野山の「三鈷の松が超有名である。それの向こうを張ろうというのだから稀有壮大だ。
というような、なかなか凄いお寺なのだ。
宝物館を見てから表に回って上記の写真のところから拝観したのだが、偶然、30年に一度の秘仏開示をやっていた。(本当は去年中に行く予定だったのを、子どもの受験や自分の仕事の忙しさなどのために一年延期して今年になったものであり、まさしく不思議な印縁を感じる)
秘仏は十体あり、それらすべてを間近で拝ませていただくことができた。
まことにありがたいえにしであった。
さてそれから我々は寺泊の魚市場などで寄り道しつつ、遂に出雲崎に着いた。
良寛記念館。
受付の人に聞くと、年間3万人ぐらいの人が訪れるとのことだった。
「多いですね」と言ったら、「いやいや、すっかり減りましたよ。中越地震の前は5~6万人ぐらいが来ていたのですが、あれから団体さんがすっかり減ってしまって」と残念そうな顔をしておられた。
毎日200人も来ていたのか、この小さな記念館に、と正直驚いた。それくらい小さな・・・畳20畳ぐらいなのだ。
良寛記念館では、般若心経に笑ってしまった。
解説を見ると「4文字挿入している一方で10文字欠落している」と書いてあった。
書を読んでみると、確かに「般若波羅密多」の「羅」が抜けていたり「密」が抜けていたり、ところどころ欠落しているのがわかる。
極めつけは最後である。
一番最後に「般若心経」と結ぶところがまるまる欠落している。
忘れたのか、ま、最初にタイトルで般若心経とつけたからいいや、って思ったのか・・・。
枝葉末節はいいんよ、というような大らかさを感じる。
もう一つ。
大きな掛軸に「今日乞食云々」という漢詩がかかっていた。
これには感動した。
とてもダイナミックな草書だ。
内容は大変深いもので、一見みじめに見える自分の托鉢の様子を、大らかに笑い飛ばしているような感じに聞こえる。
それにしても、その文字は・・・。
波打ち、躍動し、天真爛漫、自由奔放、誰はばかることもない自由さを感じる。
しかも上手な字だ。
これかな? Tさんが良寛に傾倒していたのは。
いや、そんなものだけではもちろんないだろう。
う~ん。
やっぱりわからない。
Tさんはなぜあれほどまでに良寛はいいと言っていたのだろうか。
そうこうするうちに相馬御風の本を目にした。
そこの解説のところに「会津八一が良寛を世に広めた」というようなことが書いてあった。
一つ結びついた。
Tさんが好きだった「会津八一」と「良寛」。
会津八一が良寛を紹介した。
となるとつながる。
だからと言ってそれが何かと言われると、説明できない。
海辺に降りて行き、良寛堂を訪れた。
良寛さんが良寛堂を背に海を見つめていた。
静かでひたむきで暖かく厳しい目であった。
彼が見つめていたものはおのれ。
そして人々の暮らし。
五合庵には何もなく、あるのはただ、良寛自身の心であったろうか。
最後に良寛堂の前の良寛坐像に手を合わせて、私の日帰り良寛ツアーは幕を閉じた。
一瞬良寛さんが微笑んでくれたような気がしてシャッターを切った。
父のように憧れていたTさんが好きだった良寛。
何もわからなかった。
けれど、五合庵のたたずまい、良寛堂の背後の良寛坐像。
これらを実際に訪れ、その空気を吸ったことで、良寛さんの書や良寛さんについて書かれたものを読むときに、まったく知らないのとは違う何かを感じながら、読むことができるのではないか。
それがまたTさんが好きだった良寛さん、その良寛さんを好きだったTさんの心に少しでも近づくことができるのではないか。
そんなことを思いながら昨日の日帰り旅行は終えたが、私のTさん探しの旅はまだまだ続くことだろう。
良寛さんのこと(新潟国上寺と五合庵と出雲崎)
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