『ザ・マスター・キー』で夢のさらなる実現へ

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 連休の時に十数年ぶりに再会したN先生との出会いをきっかけに、自分の夢を実現しようという思いがまた強くなってきた。
 いつも4月頃までには今年の目標や夢をまとめ上げるのだが(1月にあらかたできているが、会社の異動等で前提条件が変わることがしばしばあるため)、今年は4月を迎えてもまだ途中段階であった。
 そんなこんなで、まだできていないなあという思いが頭の片隅にあった。
 『引き寄せの法則』や『ザ・シークレット』などの本をめくるにつけ、N先生と語らうにつけ、自分の夢を具体化して思い浮かべ実現に向けた営みをしていかなければ、と強く思うようになってきた。
 色々願望や夢はあるのだが、自分の頭の中でも散乱していて、これだ!と強く主張したり強烈にイメージしていこうという準備には至っていない。
 今日は上の子どもの用事がなくなったので、一日仕事の準備に充てる予定だった。
 ところが、朝早くに起きたことや、先週の疲れなどで、結局1日近く寝ていた途中、昼すぎに『ザ・マスター・キー』という本の第1章を読んだ。
 いいことが色々書いてあった。
 この本は、謝世輝氏の「願望はゼッタイかなえられる」というようなタイトルの一連の本、カーネギーやマーフィー、その他いわゆる「成功哲学」と言われるものの全ての、総まとめ、元締めのような内容であるように思う。
 今まで色んな成功哲学の類の本を読んできたが、これが核心だ、という確信を持った。(ダジャレ?)
 他の本では、あいまいにされていた秘密のようなことも、全て開陳してある。
 そういう点では『引き寄せの法則』もそうであろう。宇宙人みたいな人が出てくる点は、ホントかな?と思わないでもないが、そういうことを気にして核心をつかもうとしないのなら読まなければ良いのである。
 ということで『ザ・マスター・キー』の第1章を読んだのだが、飛ばし読みはいけない、と書いてあり、1週間につき、1章ずつを熟読し、しっかり心に叩き込め、と書いてあるので、その第1章をしっかり熟読した。
 そして、今年に入って色々なところに書き散らした「願望」「夢」のメモをとりまとめ、一枚の紙にまとめた。
 ようやく、願望を強烈にイメージしていくための準備が整った。

 夢はなるべく具体的に描くのが良い。
 そして、ありありと、実現している状態としてイメージすることだ、と色々な本に書いてある。
 思考には無限の力がある、とその本には書いてある。
 なぜなら、イメージすることには、誰もなんの制限もしないしできないからである。
 そして・・・
 ここからが大事なのだが、イメージし思考することが自分の意識をその願望へ向かわせ、自分の意識が宇宙全体の意識に作用し、宇宙全体の意識が自分に対して、その「意識したこと、もの」を具現化してくれる、というのである。
 ただし、マイナスのイメージ、自分にとってイヤなことは思い描かないこと。
 それを「排除する」「出会わない」という表現であっても、「それ」を思い描くと「それ」は自分に近づいてくるので、そもそも意識しないことが大事だという。
 つまり、自分の欲しいものやなりたい状態だけに意識を集中し、思考し、想像する。
 想像が創造を呼び起こす。(ダジャレ?)
 宇宙の意識が具現化してくれるらしい。
 というわけで、今日ようやく2009年版の「夢」「願望」が紙の上で、文字として整理できたので、これらを強烈にイメージして、さらに夢を叶えていこうと思う。
 今週末は、県庁公園の噴水、石川セリの「遠い海の記憶」N、松原みきのCUPID、手塚治虫の「百物語」のスダマなどの話が新たなネタとしてあったのだが、今日はこれからまだ仕事の準備にかからなければならないので、次回へ送る。

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カムイについて

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 田中優子教授の著書に『カムイ伝講義』(小学館)というのがある。
 まだ読んではいないが、白土三平の「カムイ伝」を大学の授業で使った際の講義録らしい。
 カムイと言えば、私にとっては「カムイ外伝」である。
 子どもの頃、テレビで見た。
 「外伝」は忍者ものであり、サスケなどと同じように、子ども向けであったが、それでも「サスケ」よりは少し難易度が高く、難しいなあと思ったものだが、「カムイ伝」は「外伝」よりもさらに政治的な意味合いが濃く、江戸時代の穢多非人を扱ったものらしい。
 確かに、子どもにまで広くポピュラーになる内容ではなかったかも知れない。
 ところで、カムイというのは、どこかで聞いたが、カミのことらしい。
 カミ、すなわち、神である。
 カムイ族(?)は神の子孫だということのようだ。
 そういえば、役小角=役行者は、役公(えだちのきみ)と言う山の民族のリーダーであり、彼らも神の子孫だと言っていたような気がする。(黒須紀一郎氏の著作だったか)
 してみると、日本には色んな神があり、それら神の末裔たちの争いが行われていく中で、敗れて行ったグループたちが、その力を発揮できないように、時の権力者たちからおとしめられてきたのかも知れない。
 大人の目で「カムイ伝」を見てみないといけないかも。

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森のゆめ市民大学受講

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 友人からの突然の誘いで「森のゆめ市民大学」というところへ行ってきた。
 場所は魚津市天神山付近。
 元の洗足学園短大があったところである。
 今は「新川学びの森 天神山交流館」という施設になっている。
 高台の、大変学習には良い立地なのだが、洗足学園が撤退してからは、生涯学習向けの施設としてなんとか建物やいくばくかの設備が残っていることが救いか。
 それはさておき、魚津市の山の中の施設の「市民大学」とはいえ、そんなに人も集まらないだろうし、地域の文化人の講演的なものかなと思っていったがさにあらず。
 田中優子という方の講演だったのだが、紫綬褒章までもらわれている、法政大学の教授である。
 江戸学の研究者だという。
 驚いたのはもう一つ。
 この「市民大学」は、故筑紫哲也氏が学長をしておられ、福岡政行氏と稲本正氏という方が副学長をされている。
 いや、魚津駅の掲示板で見ていたような気もするが、どうせ名誉職、名前を借りているだけだろう、ぐらいに思っていたのだが、全然そうではなく、かなり熱い思いでこの「市民大学」に関わっておられたのではないかと感じた。
 筑紫氏は亡くなって既に半年が過ぎるので、当然この場には来られないが、どうも、毎度来ておられたような感じだ。
 挨拶に立たれた福岡政行氏が、大変熱のこもったスピーチをしておられた。
 今の政治情勢に関して真剣にかつ滔滔と、まるで政治演説のようにすら思えるくらい熱い語り口であった。
 えっ?文化講演会じゃないの?
 と思ったが、考えてみたら筑紫氏自体、文化人というよりも政治に深く関わってきたマスコミ人だし、その筑紫氏が熱い思いで携わってきたこの「市民大学」も、当然単なる文化講演会であるはずがない、と気づいた。
 これまでの講師の顔ぶれを見ても、中坊公平氏、江川紹子氏、塩川正十郎氏、大宅映子氏、増田寛也氏、野中広務氏などなど、政治に関係のある人が結構いる。もちろん芸能・文化の人も大勢いるが。
 ということで、今年が8年目になるようであり、会場には老若男女200人以上が参加しており、その人数の多さにも大変驚いた。
 私の友人など、はるばる富山市から、車で50分ぐらいかけて来ているのである。
 さて本日の田中優子氏。
 江戸時代は循環型経済であった、とするお話だった。
 そしてそのためには、農村があることが前提条件であった、ということである。
 確かに現代よりも文明レベルは低いが、人や動物の排泄物、衣類の最終処理、魚介類の最終処理、などなど、あらゆるものが最後は土へ肥料として使われていたらしい。
 しかも人々の生活必需品の多くは農家で生産されており、農民は農民というよりも衣類や紙などの製造業者であり、家屋の建設業者であり、屋根などの修理業者であり、栽培家でもあり、すなわち農業だけに留まらず、百姓というのが、その仕事のバリエーションの広さ、技術レベルの高さからみてふさわしいのではないか、ということであった。
 田中氏は、バリバリの市場経済主義者であり循環経済論者の田中氏とは立場を逆にしてきた、中谷巌氏と最近講演を一緒にすることが多いと言っておられた。中谷教授は『資本主義はなぜ自壊したのか 「日本」再生への提言』という本を出し、小泉行革の旗振りをやった自らの立場について、懺悔のためにこの本を書いたらしい。
 本の売れ行きは好調で、既に20万部も売れたとか。
 反省して20万冊もの本が売れるというのはやはりネームバリューであろうか。
 それにしても、こんな片田舎の魚津の山で、これほど格調の高い勉強会が行われていたとは知らなかった。
 それも8年もずっと継続されて。
 世の中にはまだまだ知らないことが多い。
 連絡をくれた友人に感謝!

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一年で一番心地よい季節

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 大人になってから5月が一年で一番好きな月になった。
 田んぼに水が入り、新緑が生い茂り、花々も一斉に香りだす。
 5月病なんて言葉は私には縁がない。
 こんな明るく清々しい季節はない。
 我が家の近くの田んぼにもこのGWに水が入った。
 近くをJRと富山地方鉄道の線路が通っており、夜はその水面に電車が逆さになって映る。
 とても幻想的でいい眺めだ。
 それも稲の新芽が吹き出すまでのしばらくの間だけだが、その幻想的な水面が好きだ。
 しばらくその光景を見ることすらできなかったが、最近は以前から見ると帰りが少し早くなったので、その光景を眺めながら食事を採ることができている。
 朝は花の香りである。
 富山へ出勤してちょうど富山市役所の裏通りを通っていると、どこからともなく良い香りがする。
 たまたま前を女性が歩いていたりするので、もしかするとその人の香水の匂いかなと思ったりもするが、空気全体が香っているので、そうではなかろう(と思いたい)。
 JRの富山駅の改札には藤の花が置いてあり、その横を通り過ぎるときも良い香りがして嬉しい。
 5月は本当にいい季節だ。

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The Secret

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 今日、1週間ぶりにN先生を訪れた。
 十数年間お目にかかっていなかったのだが、先週師のお寺で主宰されている写経に訪れたところ、また来てもいいよということで、早速今日の再訪が実現した。
 「The Secret」という、日本でもかなり売れた本の映像版を見せていただいた。
 内容の詳細を書いていくのも大変なので、N先生から教わったことも含め、私がメモしたキーワードだけをここに羅列することにする。
 思考=周波数、感情に委ねる、意識する
 感謝する
 感謝リストを作る
 シークレット・シフター(気分を切り替えるための方法)を持つ
 Allow:許す、解放する、受け入れる、どうぞ
 今持っているものに感謝する
 想像する・・・現実的に
 気分がいいと感じること
 宇宙はスピードを好む
 ひらめいたら即行動すること
 (満足は)内面⇒外面の順で
 人間は脳の(パワーの)5%しか使っていない
 絵を描く(自分の希望する状態の)
 全ての病気の根本的な原因はストレスである
 「いやだ」と言ったら余計にそれを引き寄せる
 体の細胞は5年で全部入れ替わる
 がん細胞も新陳代謝で死んでゆくのだが、ストレスがあると新陳代謝が遅れ、がん細胞が死なない
 気分に浸る
 いやなことは、それを「いやだ」と思ったり意識したりせず、かわす
 望むことに集中する
 「今、その望む状態になっている」と信じる、感謝して
 「できない」ということは全て創作(なんでもできる)
 自分の至福に従う
 人間はエネルギーでできている
 lifeとlife situationは違う
 前者は自分のやったことを事実としてのみでなく、それで何に気がついたか、など日頃から意識して学んでゆくこと
 後者は自分のやったことそのものであり、自慢話になったり事実の列挙にしかならず、学びがない
 人生はopen endである。closed endではない。
 前者は定まらない結果、後者は結果が定まっているという考え方。
 これまでの人生は過去の結果である。過去を意識していると、その過去を引きずり、その過去の延長上の将来しかない。そうではなく、未来を意識すること。未来の自分を今実現したように信じると、それが未来の自分になるし、そうなるように今が変わっていく。未来に起こる結果が今を定義する。結果がプロセスを作るのである。
 人間の体は、自分(心=精神=魂)のために死んですらくれる。
 命をかけて自分に尽くしてくれる、それが自分の体である。
 そんな人、他にはいないよ。
 Your body can even die for you.
 エックハート・トール:アルツハイマーになる人をある団体で調べたところ、それらの人は一様に優等生であった。優等生は、栄誉や世俗的な成功を追い求めバリバリ働きすぎるあまり、心を置いてきぼりにしていくため、心が体を守るために「スイッチ」をスポンと抜いてしまう。そのためにそれまでバリバリ働いていた人が突然うつになったり、アルツハイマーになってしまうようだ。「病気」にはなるが、それによって命が守られる。「心がスイッチを抜く」のである。
 心を置き去りにしない生き方が必要だ。

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長年のゴミ処分で気持ちがかる~くなった。

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 納屋を改修しなくてはならなくなった。
 それに乗じて、2つある納屋の中身をきれいにしようと思い、4月の後半に2回の週末を使い、子どもたちにも手伝ってもらって整理した。
 結果、出るわ出るわゴミの山。
 いや、元々ゴミではなかったのだが、使わない状態が長く続くうちにゴミ状態になってしまったものたちである。
 便利業を営む友人に相談したところ「ウチで引き取って処分することはできるが、数万円から十数万円かかるから、自分でちゃんと分別して処分した方が安くあがるよ」という助言を受けた。
 それに従い、準備してようやく今日。
 親戚の叔父に2トントラックを借りて、上の息子と二人で積み上げた。
 1回では収まらず、結局2回。
 黒部の宮沢清掃センターへ。
 2回×2トン車(実際の目方はわからないが)で、結局4500円。
 安いやすい。
 随分くたびれたが、気持ちは大変軽くなった。
 母の嫁入り道具らしきタンス、40年ほど使用した(途中から納屋のこやしになっていた)テーブル、買っただけでほとんど使わなかった生ゴミ処理機(肥料にする機械)、オフシーズンに片付け、また次のシーズンに新しいのを買って使っては片付け、を繰り返し、10枚ぐらい溜まったカーペットやらすだれやら、知らず知らずのうちに溜まってしまったスコップやスノーダンプの山(家族の数以上にあった!)、などなど、ずっと心に重しのようになっていたこれら「ゴミ」の類をそれこそ一気に処分したのである。
 昨年末だったか、掃除をしてツキを呼ぶ、といったような類の本が沢山売れたことがあった。
 今回の“4トン処分作業”は、言うならばそれの大規模版か。
 
 処分風景の写真でも撮っておけば良かったが、時間の制約の中、1回で終わらず2往復ということで大変あせっており、記録はなんにもしていない。
 ま、いいや、とにかく長年の澱がすっきり流されたのだから。
 さ、次は本と衣類の整理だ。
(いつになることやら・・・)

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GWの記録5月6日

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 GW5日目=最終日。
 朝、起きて気がついた。
 今日は結婚20周年記念日だあ!!
 妻の休みがGW中は今日一日しかないため、有意義に過ごそうということを夕べ話し合って、結局善光寺のご開帳に出かけよう、ということになった。
 結婚記念日だということはお互い知っていたが、20周年ということまでには頭が回っていなかった。
 本来ならば、ゆっくり越し方行く末などを話し合う時間があった方がいいし、ディナーなどをゆっくり食べながら話をすべきだが、こちとら仕事の準備ができていないため、急遽日中だけのお出かけで頼む!と夕べの打合せをしたところであった。
 そんなわけで、折角の20周年記念日のイベントはおあずけ。
 まあ、車の中の道中、色々話もできるし。
 ということで、朝7時半過ぎに家を出発。
 高速で長野の須坂長野東IC下車。
 10時ちょっと過ぎには善光寺に到着。
 あいにくの雨天ではあったが、おかげで人手がまだそれほどではなく、回向柱にもしっかりさわり、願をかけることができた。
善光寺
 内陣には2年前に入ったので、今回は省略。
 御印文頂戴という儀式を僧侶から受け、外陣から前立本尊を遠目に眺めて、寺を後にした。
 ところで、最近出た『善光寺の謎』(祥伝社黄金文庫)には、物部守屋の首を納めたところの上に立つ柱の周りを回るのが内陣の参拝時に行う「戒壇めぐり」であるということが書かれているが、してみると、その際に触れる「極楽の錠前」というのは、守屋の首を封じている鍵に触っている=我々庶民が知らず知らずに物部守屋の鎮魂をしている、ということなのかも知れない。
 いやあ、歴史のミステリーかなあ?
 さて続いて。
 友人から教えてもらった「戸隠神社」へ。
 どんないわれか全然知らなかったが、天照大神が天岩戸に隠れていたときに、アメノウズメノミコトがダンスを踊り、なんだろな?と天照大神が岩戸を少し開けた隙に、アメノタヂカラオノミコトが岩戸を一気に引き開け、世の中に太陽が戻った、という神話があるが、その時にぶんなげられた岩戸が飛んできたところが、この地、戸隠山だということであり、そのため、祭ってある神様はアメノタヂカラオノミコトなのだということである。
戸隠神社1
 いや、大変なところだった。
 奥社というところに行ってきたのだが、入り口から2km、ということは事前の情報で知っていたが、普通の2kmではない。徒歩40分以上かかったか。
 しかも、最初は普通の神社の参道っぽいのだが、徐々に山道のようになり、道の両サイドは杉木立となり、さらに奥へ行くと、とんでもない杉の巨木に囲まれてくる。
 初めの杉木立の時は、高野山の奥の院に行くような森閑とした雰囲気なのだが、古代から群生しているであろう巨木群に囲まれだすと、今度は、ここは伊勢神宮か?と思わせるような雰囲気が出てくる。
戸隠神社2
 あえて言うと、高野山は空海の人としての懐の中に入るような、威厳の中にもあったかさを感じるが、ここはそうではなく、何か、人を寄せ付けない強さを感じる。冷たくはないが、峻厳とでも言うべきか。
 さらにどんどん歩き続ける。
 そして遂には、信仰の山、という感じになってくる。
 到着。
 雪がまだ残っているのにビックリ。
 鳥居と建物があるのだが、神様は建物の中ではなく、どうも、その背後にそびえる山の中、または山そのものなのではないか?と思う。奈良県の大神(おおみわ)神社のように。
 そういうふうに色々自分の感じたことを並べてみると、この戸隠神社は、伊勢神宮や高野山や大神神社や河内の磐船神社など以上に、霊性が高いのではないかという感じがする。
 お参りをしての帰路、疲れているのだが、すがすがしい心地である。
 霊的、というと変で、神霊的、という印象だ。
 カタカナで言うとサイキックスポット。
 そんな感じがする。
 長くなったのでやめる。
 今回は宝光社とこの奥社だけ訪問したが、次回、機会があれば、中社も訪れなくてはと思っている。
 ここの不思議な特徴は、鳥居が木で作られているという点だ。
 木の鳥居など、初めて見た。
 いずれにしろ、日本にはまだまだ不思議な空間が沢山あって楽しいなと思った。
 明日からまた仕事再開。
 今夜は遅れている明日からの仕事の準備だ。
 さ、はりきって行こう。

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線路は続くよどこまでもを彷彿とさせる新幹線建設風景

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 富山県地方に新幹線がやって来る。
 開通すれば、東京まで2時間半ほどで行けるらしい。
 私の親の世代の時は、12時間ぐらいかかったという。
 私が学生だった30年前は6時間だった。
 午後4時に魚津を出発し、上野には10時に到着、それから調布のアパートまで1時間。
 今はどうか。
 途中新幹線への乗換をすることで、3時間半ぐらいで行くのではないか。
 それがさらに1時間短縮される。
 もう東京はすっかり日帰りコースになってしまう。
新幹線建設1
 このような風景を見ると、その新幹線の建築が着々と進められている、という実感が沸く。
新幹線建設2
 車の道路を挟んで反対側を見ると、こちら側もどんどん延びている。
 こういう風景を見ると「線路は続くよどこまでも」という歌が思わず口から出てくる。
 色々問題はあると思うが、正直言って単純にわくわくする。
新幹線建設3
 写真はうまくないが、両サイドから線路が延びてきている。
 これがつながり、さらにその上を新幹線がビューッと走り抜ける姿を想像すると、なんだか嬉しくなってくる。
 早くこいこい、しんかんせん、である。

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GWの記録5月5日

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 GW4日目。
 我が家の近くの田んぼにもようやく水が入り、かえるの鳴き声もかまびすしくなってきた。
 良い季節である。
 さて今日は、事実上GW最終日のため、一日仕事の準備に専念しようと思っていた。
 が、さにあらず。
 遅い朝食の後、眠気が襲ってきてなにごともやる気が起こらず、とりあえず気力の充実を図らねばと思い、仮眠。
 気がついたら正午。
 昼食をとり、近くを10分ほど散歩。
 本来なら起床後すぐに行うべき太陽の光をようやく存分に浴び、田んぼの水と空気にも触れ、やる気満々にして家に戻る。
 30分ほど読書をしていたら、またしても睡魔がやって来た。
 時計を見たら午後2時。
 夕方までにはまだ間がある。
 少し寝るか、とまた仮眠。
 気がついたらもう午後4時過ぎ。
 朝から5時間も「仮眠」をした。
 これはもはや仮眠ではなく、寝だめだ。
 ということで、まったくなんにもしない一日であった。
 こんな日もあっていい。
 この一年ほどは、以前なら休日に時々やっていた寝だめを全然やっていない。
 相当疲れが溜まっていたのだろう。
 と、自分で自分を慰めてみる。
 ちなみに、今日やったことと言えば、謝世輝氏の『願望はゼッタイかなえられる』という本の再読、宮口公寿という人の記憶術に関する資料の読み込み、友人から薦められた「戸隠神社」への行き方調べ、洗濯物の取り込み、とまあ仕事とは何の関係もないことばかりであった。
 明日からまた頑張ろう。

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GWの記録5月4日

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 GW3日目。
 今日の出来事。
 朝7時半、次男坊を伴い、上市町の穴の谷の霊場へ水を汲みに。
 4月初めに既に水がなくなっていたため、少しでも早く行きたかった。
 しかし、20リットル×4本を一人で汲みに行くのは大変だ。
 幸い、下の子がつきあってくれることになり、ようやく今日行くことができた。
 よく働いてくれて、おかげで無事汲むことができた。
穴の谷の帰路
 穴の谷の帰路、森林の中を歩く次男坊。
 帰宅後、昼前後までかかり、机周りの片付け。
 その後、午睡をとりつつ、昨日購入した『引き寄せの法則』の本読み。
 フォトリーディングを机上で学んだわりにはなかなかスピーティーには読めない。
 でも、わくわく読み進んでいる。
 夕方、高岡へ。
 大学時代の先輩たちとの飲み会。於「新やる気茶屋高岡駅前店」
 午後5時40分スタートで、延々9時半まで。
 ラーメンを食べ、終電で帰宅。
 二十年以上ぶりの再会であるが、昨日か一昨日も飲んでいたような感じがするくらい、すぐに色んな話で盛り上がった。
 人間の時間とか記憶とかいうものっていったいなんだろう?と不思議な感じを覚えた。
 息子と水汲み、整理整頓、諸先輩との語らい、の良い一日であった。
 この連休の少し前から、何人もの人と、本当に長い時間ぶりの再会を果たせている。
 大変ありがたいことだ。

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