アグネス・チャンが大学を開設

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 以前、アグネス・チャンのブログを紹介したが、今日はアグネスが開設した「アグネス大学」についての記事。
 彼女がやっている「サニーサイドアップ」というラジオ番組がある。
 我が富山では、KNBラジオで日曜朝の9時45分ぐらいから入っている。
 その中で、今日おっしゃっていたのが「アグネス大学開設」についての話だった。
 大学と言ってもどこかの建物でやっているわけではなく、インターネット上の動画を見る形式だし、卒業して学士号をもらっても、それは世間で通用する学位ではない。ということを前提として理解した上で、しっかり学べばそれはそれで楽しく、かつ自分の人生観を高められる学問の場だと思う。
 人生大学だ、とのことのようである。
 アグネス大学のURL:
 http://sub.recordchina.co.jp/agnes_chan/
 ということで早速先ほどいくつかの動画を見させていただいた。
 コミュニケーション論についての話の中で、コミュニケーションを構成する要素として8つの要素があるとのこと。コミュニケーションの8つの要素は以下のとおり。
①送り手
②内容
③受け手
④共通の記号(日本語、英語、etc)
⑤媒介(喉、文字、手話、etc)・・・相手の立場に立つ
⑥到達度
⑦理解度
⑧反応
 アグネスの言うコミュニケーションは、あくまでツーウェイコミュニケーションなので、送り手だけでは成り立たない。相手がいてちゃんと伝わって反応があって、ということである。当たり前のことだが、ちゃんと伝えるのは送り手の「相手の立場に立つ」ということであり、それが基本。そして、それ以前の大前提として「自分の価値を認める」ことが大事だと言っておられる。自分の価値を認めずして相手とのコミュニケーションなどできないよ、まず自分をしっかり認めてあげてね、と言っている。
 毎週火曜と金曜に更新(講座の追加登録)がなされるらしいので、なるべく見ていこうと思っている。

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ちょっと気になっています、太陽黒点ゼロ

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 去年の秋、太陽の黒点活動がゼロだということが一部で騒がれていた。
 ちょうどリーマンショックの後ぐらいだったろうか。
 それからずっと私も太陽の黒点活動の状況をウォッチしているが、一向に増える気配がない。
 多いときは100を超えるときもあるようだが、ゼロがずっと続くというのは、異常事態らしい。
 太陽の黒点は、周囲の他の部分よりも温度が低いらしいのだが、黒点の数が多いということは活動が活発だということらしい。この辺の理屈がよくわからないが、太陽活動の活発化=黒点数の多さ=人間の興奮度合いの強さ=経済活動の活性化や戦争の多発など人間活動の活発化、ということをかの栗本慎一郎氏が言っていた。
 それが本当なら、今はまだ経済活動が上向きにはならない時期だと言える。
 過去のデータを少し調べてみたが、すっきりとした相関関係は今のところ見当たらない。
 他の人が書いているブログなどを見ると、相関関係があるのだよ、という記事もあるのだが、私の調べではまだそういう根拠には当れていない。
 しかし、あちこち見ていると「太陽黒点の数のゼロ更新状態は100年に一度の異常事態」ということであり、グリーンスパン氏の言う「100年に一度の金融危機(経済危機)」と符合する。(誰かが意図的にそういうことを流布して不安を掻き立てているのかも知れないが)
 そんなことで、しばらくは黒点活動と経済の動きから目が離せないなあと思っている。
20090418太陽黒点ゼロ
 写真はここから転載:http://swc.nict.go.jp/sunspot/

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仏像窃盗について考える(収まり悪いんちゃう?)

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 朝からむかっ腹の立つニュースをやっていた。
 どこぞのお寺(普段は無人らしい)で、仏像が盗まれたというニュースである。
 仏像は私も大好きだ。
 いつも眺めていたいという気持ちがある。
 心安らげさせてくれたり、自分の内面を振り返らせてくれたり、もっといかれ(いかって魔を断ち切れ)と呼びかけてくれたり、色々な声を私の心に呼びかけてくれる。ような気がする。
 それと同じ気持ちが窃盗の動機かどうかはわからない。
 金目当てかも知れない。
 しかし、自分の住まいの一角に置いて眺めるにせよ、他の誰かに渡してその人の家かどこかで眺められるにせよ、いずれにしても凡俗の人間のありかに置かれるわけである。
 仏像はなぜ拝まれるのか。
 仏像が置かれている場所=お寺は、我々庶民が信仰しようとして純粋な気持ちで訪れる場所である。
 訪れる人々が崇高な気持ちで訪れる場所。
 これは神聖な場所と言えるのではないか。
 お寺が作られた動機は、人の不満を宗教で吸収(救済ではなく吸収)しようという、たとえば統治目的であったり、人々を救済するという名目での金集め目的であるかも知れない。
 僧侶とて、必ずしも神聖とは限らない。むしろ、なまぐさナントカと言われるくらいだ。
 でもそこを訪れ、そこにいます仏さまを拝もうという人々、我々庶民は、そういう、建立目的とは無関係な次元にいて、かなりピュアな気持ちで訪れているのである。
 そういう場所は人々の気持ちを反映して、おのずと神聖な場所になるはずだ。
 そういう神聖な場所にあるからこそ、俗人が作ったモノでありながら、仏像は崇高な面持ちを湛えているのであり、拝みの対象となりうるのである。
 盗人さんへ。
 あんたの家の仏間に飾っても、ちっとも崇高さはないし、ありがたみも感じられないはずだよ。
 逆に、こんなすすけた人形に、なんでみんなお寺へ拝みに行くんだろう?って違和感すら覚えるのではなかろうか、と思う。きっとどんな立派な仏壇や飾り棚に収めても、収まりが悪いはずである。
 そう感じられたら、それはあんたがまだまともな感覚を少しは持っていたことの証拠になると思う。
 なぜって、あんたの家には誰も頭を下げやしないから、神聖な場所にはなりえない場所なのだから。
 普通の人間が普通に暮らしている、俗なところに安置されている仏像は仏像ではなくただの人形でしかないのだから。
 そのことに早く気づいて、元の場所にお返しすべきだと思う。(当然、世間を騒がした責任は負わねばならないが)
 まったく。

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