樹木の生命力

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 ホンダが、島津製作所と協同で、人間の思考を読み取って体を動かす仕組みを開発した。
 受け手は、あのAsimoロボットである。
 右手、などと考えると、脳の微弱な電波を解析し、それをAsimoに伝えてAsimoが「受け取りました、右手ですね」などと喋って右手を動かすという流れである。
 今日のニュースで報じていた。
 いよいよ思考がものを動かす時代の幕開けだ。
 凄い時代となったものだ。
 ところで先日近くの学校に出かけた時に、街路に一本の伐採された木があった。
 胴の辺りでバッサリやられているのだが、その胴から二本の小枝が出ている。
樹木の生命力
 小枝を生やして、そこからまた復活している。
 すごい生命力だ。
 さて、今日発表された我が国の2月の有効求人倍率は0.59。
 100人の求職者に対して仕事が59しかない。
 しかし現実には、(わがままかも知れないが)就きたくない仕事や就こうにも条件を満たすことができずに就けない仕事もあるわけで、59が埋まるわけではない。
 私の皮膚感覚から言えば、本当の求人倍率(仮に「有用求人倍率」と呼ぶ)は、その半分の0.3ぐらいではなかろうか。
 と考えつつ、我が富山県内の有効求人倍率を調べると、全国平均よりさらに低い0.53である。
 しかも、分母となる求人数は、富山県内での求人とは限らず、富山県内のハローワークの管轄エリアの会社が募集した人数なので、もしかすると、勤務地は他県である可能性がある。とすると、本当の有効求人倍率はさらに低くなる。
 これはもう絶望的に仕事が見つからない状態である。
 いや、農業分野では担い手不足でもあり、人手を求めているところもあろうかと思うが、今まで経験のない人たちが、仕事がないからと言って農業に進むような簡単なわけにはいかないだろう。技術的にも、心理的にも。
 雇用調整助成金で、186万人の雇用が維持されているらしい。
 それがなかったら、今現在の失業者よりも186万人の失業者が街にあふれることになるという。
 大変なことだ。
 企業は、わが身を守るために人件費などの固定費を削らざるを得ない(ところが多い)。
 雇用調整助成金で、なんとかしのいでいる間に、さっさと仕事を創出しなければならない。
 古代エジプトの例に倣って「ピラミッド建設」のような大規模土木事業がいいかどうかわからないが、それができるのは政府であり、大型の未来につながる公共事業であるべきだろうと思う。
 明日から新年度だ。
 樹木の生命力にあやかって新たな年度を、力強く前進して行こう。
 不景気に負けてたまるか。

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早咲きの桜

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 我が住まいの近くに、魚津高校と魚津市立東部中学校がある。
 それらは、車1台分ぐらいの細い道を隔てて隣り合っている。
 その道路には桜並木があり、毎年桜の季節になると美しい春爛漫の並木道を装ってくれる。
 その季節がとても嬉しい。
 うららかな春の日差しの下、桜並木をゆったりとしてペースで歩くのが好きだ。
 今年ももうすぐその季節がやってくる。
 沖縄では既に海開きだというこの時期に、北陸の富山では、そろそろ桜かな、と言っている。
 日本は広い。
 というわけで、普段の年ならたいてい入学式ぐらいが桜の開花時期であるが、今年は早いのかなんなのかわからないが、その桜並木の端っこの方に、二本だけ、早咲きの桜があるのを見つけ、写真を撮った。
高校前の早咲きの桜1
 二本は、色が違う。
 片方は薄い桜色、もう片方はピンク色だ。
 無粋な電柱やら電線やらがあってなかなかいい写真は取れないのだが、この角度で見ると、二本が寄り添う夫婦桜といった感じにも見える。
 なかなか乙なもんだ。
高校前の早咲きの桜2
 たった二本の早咲きの桜。
 二人だけでちょっと寂しいが、他の桜よりも先に満開を楽しんでいるようだ。

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アメリカの住宅価格

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 先日のネットニュースで、2月のアメリカの住宅販売件数が7ヶ月ぶりに増加(対前月比4.7%増)したということが報じられていた。(米商務省発表による)
 今回の景気悪化は、最終的にはアメリカの住宅価格が下げ止まらないと、本格的な景気の底にはならないと思っていた。
 それが、アメリカの消費者の購買動向、コマツなどが生産している中小型建設機械の受注量、自動車販売など、色々なものの下支えをしており、ひいては日本の輸出産業及びその関連産業全般にも影響していると考えられるからである。
 建設機械については、そろそろ中国向けが回復してきているようであるが、アメリカの経済回復に負うところはまだまだ多いだろうと思う。
 そんなところへの「住宅販売件数増加」のニュースである。
 私の言う「下げ止まり」ではないが、ニアリイコールと思ってもいいのではないか。
 そろそろじんわりと景気回復の下支えになる指標が見えてきたということであろう。
 もちろん、我が国の各企業は、資金繰り難などで倒れるところがまだ出てくるとは思うが、全体的には少しずつ良くなりつつあるのではないか。
(但し、この動きは財政出動などの支援措置のおかげかも知れないので、雇用対策や財政支援や金融緩和などの行政による対策はまだまだ必要ではあるが)
 ということで、かすかに光が見えてきたと感じたニュースであった。

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中国四千年の秘術「吸玉」

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 4月26日は、魚津しんきろうマラソンである。
 とりあえず初めての参加なので、5キロメートルという「マラソン」の名にはあまりふさわしくないコースを選ばせてもらった。(55歳までにはハーフを走れるように徐々に高めていきたい)
 昨年出場しようと思い立ち、一昨年の暮れからジムに通い始めたが、月に一回通ってグループエクソサイズをちょこっとやって息切れするのが関の山、しかも仕事も忙しく、とても休日がある状態ではなかったため、昨年は断念。
 今年も暇はわけではないが、ともかく滑り込みセーフで申込をした。
 というわけで、ジムで走る機会があるのは相変わらず一月に一回である。
 今日も一ヶ月ぶりに行って来た。
 少しまじめにやらねば、と思い、ランニングマシンの使用制限時間30分を目いっぱい使わせてもらった。
 中学生の頃に、部活で「2.5キロ」というトレーニングメニューがあった。
 学校の周り約2.5キロメートルを走るものである。
 虚弱体質・運動音痴の私にとっては過酷なメニューでありいつもビリだったし、大変だった。
 今日は走りながらそれを思い出した。
 2キロぐらいのところまでがきつかった。
 2.5キロを過ぎた。
 あ、意外に楽に走れるものだなと思った。
 あまり色んなことを考えずに、8.5というペースで一貫して走ったのが良かったのか。
 今までは、ペースを早くしたり、遅くしたり、自分のペースがわからないものだから、機材をあれこれいじってやっており、3キロメートルが最高だった。
 今日は、テクテク走るという感じでペースを守って走り続けたところ、制限時間の30分で、4キロメートルまで走りぬいた。
 時間の許しさえあれば、5キロは行けたのではないかという感触がつかめた。
 当日までの間にもう一回ぐらい練習に行けるだろう。
 さて今日の午後は、中国マッサージに行って来た。
 日頃の疲れを癒すのが目的だが、今日はジョギングの疲労回復の意味もあった。
 待合中に壁のメニューを見ていて、久しぶりに「吸玉」をやってもらいたいなと思った。
 時間を聞いたら、私の後はすぐには入っていないので、OKだということだった。
 「吸玉(すいたま、と呼ぶようだ)」は、握りこぶしぐらいの大きさのガラス玉(たこつぼのような形で一方のみ穴が空いている)を患部に吸い付けて、体の中の毒素を吸い出す施術である。
 中国四千年の秘術であろうか。
 うつ伏せに寝て、背中に油らしきものを塗り、その上を「吸玉」を滑らせつつ、悪いところを探し出す。
 探し出した悪いところに、十数個の「吸玉」を次々に付けて行く。
 火を使っているようなのだが、うつ伏せに寝ているため、どんな準備作業がなされているのかよくわからない。
 そういうよくわからないところも、いかにも中国四千年の秘術である(単に見えないだけだが)。
 吸い終ったら、その跡は直径5センチぐらいの丸い跡がつく。色は紫色である。
 病の度合いが強いほど、色は濃くなるようである。
 但し、自分には見えない。背中だから。
 そして、気孔がすっかり開いているので、湯船には入らない方がいいということである。風呂の中の微細なばい菌が開いた気孔から入る危険があるからだという。
 そういうところも中国四千年らしく面白い。
 今日は、首と背中が一番ひどかったらしい。
 特に首は、帰ってきて子どもに見てもらったら、見るもすさまじいことになっていたようだ。
 確かに、ここのところ神経を病むような仕事が多く、首も凝っていた。
 1、2日するとだいぶ楽になる。
 終わって外へ出たら、目もすっきり見えるようになっていた。
 いい施術だと思う。
 と満足感に浸っていたら、帰ってきた妻から「走って疲れて、お金かけてマッサージ受けるなんて、ばっかじゃないの」と笑われた。
 しかし、こういういいところは当分人には教えられないなあ。

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ドラッカーの遺言

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 魚津私立図書館で『ドラッカーの遺言』(講談社)という本を借りて読んでいる。
 中に「スーパー経営者は恥ずべき存在」という一節がある。
 お金持ちの代表とも言うべきJ.P.モルガンというモルガン財閥の創始者が「トップの人間が一般社員の20倍を超える給料を得るようであれば、それは誤った経営である」として、そういう会社にはモルガン氏は投資をしなかった、という話が紹介されている。
 スーパー経営者が得る高額な報酬ほど恥ずべきものはない、と断じている。
 最近のアメリカでのビッグスリーや金融機関の経営層の巨額ボーナス騒ぎを考えると、モルガンやドラッカーの警告が活かされていないと感じるとともに、巨大金融機関の祖であるモルガンがそういう発言をしていることが意外だった。
 ドラッカーはさらに、リーダーを待望してはいけない、リーダーの登場を恐れよ、カリスマは唾棄すべき存在だ、など、みんなもっと勉強して知識を蓄え、たゆまざる変化に対応していきなさい、そうすればリーダーなどに頼らず自分で判断できる、というようなことを書いておられる。
 また経営の本質とは「どんな長所を活かし、何をすることで、どれだけの成果を挙げるのか?」であると語っている。
 その他その他、まことに示唆に富む本である。
 世界一の見識だと思う。亡くなってしまったのは残念だが、この人の考えや提案からはまだまだ学ぶことは多い。

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奇しき因縁~人の人生ってものは・・・~

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 なぜだか、前の職場のある飲み会に誘われ、恥ずかしげもなく出かけて行った。
 個人的には時々飲んだりしているのだが、今日の飲み会はその担当チームのかなり公式的な「打ち上げ」であり、私などが本来顔を出すべき会ではないので、2次会から参加させていただいた。
 実際には、1次会も2次会もなく、同じ場所でずっとやっておられたので、1次会に参加したのとなんら変わりはなかったのだが。
 さてその席に、営業部長がおられた。
 私とは人事異動の入れ違いとなった方なので、引継ぎにお越しになった時に一度お目にかかったぐらいで、どんな方か全く知らない間柄だったのだが、その部長氏、なんと、私の大阪での出向時代の同僚のKさんと同期だということで、部長氏がこちらに異動される時に、K氏から「富山に○○(私)がいるからヨロシク」なんてメールをもらっていたらしい。
 いやあ、世間って狭いものだ。
 と思う。
 そのK氏。同志社大学の落研出身で、先輩には、「トリック」や「サラリーマンNEO」その他、舞台、テレビなどで大活躍中の生瀬勝久氏がいるんですよ、というような思い出話をした。
 会が終わってからK氏に電話したのは自然の流れだった。
 大阪の兎ヶ野にいるらしい。
 元気そうで何よりだった。
 そんな感じで、本来私などが参加すべきではない会に、当たり前そうな顔をして出させていただき、9ヶ月前まで一緒に仕事をしていた人たちとごく当たり前そうに話をさせていただく・・・。
 もっとも、私自身、その会社のOB会には入ったので、今後その職場仲間も、やがてOBになられた際は、そのOB会でお互い顔を合わせて昔話などするのだろうけど、まだお互い社会の現役でありながら、ある者は会社を去り、他の人たちはその会社に残って一生懸命に頑張って日本の電気通信基盤を支えている、というように道が分かれていってしまっている。
 でも、距離的にはすぐ近くで、それぞれの仕事をしている。
 でも、まったく別の人生、別の社会人になっている。
 たまに会えば、それはそれで会話になっている。
 人間の人生って珍妙なものだなあとつくづく思った。
 そして、感謝、である。
 ありがとうございます。

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社会に出てからの力

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 友人とメールをしながら思ったこと。
 人間が社会で生きていく力、社会に出てから役に立つ力の源泉というものは、学力や知識の量や体力などがベースであることは言うまでもないことだが、それらは数年も経てば陳腐化してしまい、それらを持っていること自体はすぐに役に立たなくなってしまう。
 社会に出てから本当に効くのは、「不断の努力」と「人間性」と「執着心」ではなかろうか。
 そしてそれらの要素の根底にあるものは、「前向きな気持ち」「明るさ」「いい意味での欲望」。
 そういうものを持ち続けている人は、社会に出てからも進化しているような気がする。
 もちろん、基礎知識がベースとして必要なのは言うまでもないが。
 ま、そういう目で自分の子どもたちについても、もう一度見つめ直してみたいと思う。
 人間、生きる力が最も大事だから。

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ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」

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 昨年暮にNHKテレビで「名曲探偵アマデウス」とかいう番組をやっていた。
 てっきりモーツァルトを探偵に仕立てて何か中世ヨーロッパの事件を絡めるようなドラマかと思って、一回だけだったが録画しておいた。
 モーツァルトではなく、筧利夫氏が「天出臼夫」(アマデウス オ)という名の探偵役であった。
 ま、それはいいのだが、その回はドヴォルザークの偉大なるシンフォニー「新世界より」であった。
 高校2年の時だったか、FMラジオで偶然聞いたのが最初だった。
 カール・ベームというドイツ人が指揮するウィーン・フィルの演奏だったように思う。
 ベームという人は、モーツァルトを振らせたら当代随一と言われていた人だった。
 その時の演奏はモーツァルトではなく、ドヴォルザークであったわけだが、そんなことを知らない私にとっては、それが初めて大感動したクラシックであり、交響曲というものはすごいものだなあと思ったものだ。
 就職してからバロックなども聞いたが、ダイナミック、人の魂を震わすという点で「新世界より」以上にすさまじい曲は聴いたことがない。
 久しぶりに、録画したそのテレビで第4楽章を全部聞いたが、相変わらず大きな曲であった。
 感涙。

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我が家の「春」

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 春分の日を迎え、我が家では、4月からの子どもたちの進む道がようやく決まった。
 上の子は、富山市にある私立大学で、教員養成の学部に進む。新設学部だ。学力のレベルははっきり言って大変低いが、新しく作られた学部であり、学校としても力を入れて行くだろう。しかし何よりも本人がこれから真剣に自分のなりたい職業に向かって現実的な努力をすることが必要だ。親があれこれ心配して与えるのではなく、自ら必要なものを先取りして獲得していくようになってもらわなければならない。
 下の子も、富山市にある私立高校。県立の普通科に入る力がないと判定され、かといって職業科には行きたくないということで、県立の願書を出す少し前に意思決定(県立は受験しないと)した。蓋を開けると、定員に満たない県立普通科もあったため、ありゃあと思ったが、それはやむを得ない。大学に行きたい、と今頃言っているありさまではあるが、進学に関して熱心な学校だし、塾も続けて自分の不足点を補って行きたいと言っているので、塾の先生にも個別のプログラムをお願いしたところであり、親としてできる限りのバックアップをしていきたい。
 ピリピリしていた1年間が過ぎたわけだが、ピリピリしていたのは私と妻と双方の両親。
 子どもたちはどこ吹く風、であったように思う。
 親の立場からすれば満足の行く結果にはならなかったし、子どもたちも志望校を落とし続けなければならなかったので精神的にはしんどかっただろう。また、これからの彼らの人生を考えたらまだまだ不安で一杯だが、過ぎ去った時間はどうにもならない。
 前を向いて生きていくしかない。
 二人とも十代。
 一人立ちをした後に、どんな人生が待ち受けているかわからない。
 幸い、荒波にもまれていく手前の、まだモラトリアムの時間だ。
 少しでも荒波の手前で、波への対応力を持たせたい。
 そのために、本物の学力、生きる力をつけてもらいたいと思っているが、マンガとゲームではそれは覚束ない。
 そういうことに、上から押し付けずに気づかせることが、5年間仕事にかまけて子育てから逃げてきた私の責務ではないかと思う。
 しかし、すっかり自我も確立しているようなこの子らにどうやって気づかせたら良いものか。
 口やかましく言えば言うほど、心は遠のいてしまう。
 かと言って何も言わなければなかなか伝わらない。(背中で教える、というのはやってきたつもりだが効果があったとは思えず、そのため結局口やかましくなってしまった・・・)
 彼らと接触する時間を少しでも持ち、お互いに色々と話をしていくこととに尽きるのではないか。
 やれるだけやろうと思う。
 前を向いて進もう。
春の芽生え

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半村良さんの講演

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 語り部(かたりべ)という仕事がかつて我が国にはあったらしい。
 昔から伝わる説話や神話を語り伝えることをなりわいとしている人々のことであるらしい。
 さて今から30年ほど前、高校生のときに、この魚津という田舎町に流行作家の半村良さんがやってきた。
 文芸春秋主催の「文化講演会」というようなものではなかったか。
 講演者は、半村良さんのほかにもう一人いたが、覚えていない。
 話はすっかり忘れてしまったが、1時間ぐらいの講演で、ご自身のある体験談だったように思う。
 聞くほどにどんどん引き込まれて行き、話しておられる内容が目に浮かぶような感じだった。
 ところが、最後に、これらは全部夢の中の出来事だった、というオチで、一気に現実に引き戻されるような、目の覚めるような話の展開だったような気がする。
 その急転直下の展開があまりに鮮やかだったので、しばらくはぼうっとしていた。
 半村良さんが、冒頭に書いた「語り部(かたりべ)」にかこつけて、「嘘部(うそべ)」というようなキャッチフレーズで文壇におられ、その小説は語り部が語るが如く、虚構なのに現実世界を細部までこと細かく反映して嘘を構築する、ということはその時点では知っていたが、まさかご自身の講演でもそれ(虚構を巧妙にホントのようにつむぎだすこと)をされるとは、いやあ一本取られたなあという感じであった。
 それ以来半村良さんの小説にのめりこみ、『産霊山秘録』や『石の血脈』『魔女伝説』などの伝説シリーズなど、いわゆる伝奇ものを読み漁った時期があった。
 今日ラジオで「語り部」という言葉を耳にし、ふと、昔のそんなことを思い出した。
 半村作品はまだまだ読んでいない人情ものやSF作品なども沢山あるので、これからも読んでいきたいものだ。(時間があれば)

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