NHKの新しい大河ドラマ「べらぼう」が始まりました。初回は明和九年の江戸の大火のシーンでした。今までの大河ドラマでは、主人公の子ども時代から始まるのが通例でしたが、今回はいきなり大人としての登場だったため、はて?この時蔦屋重三郎は一体何歳だったのだろう?と疑問を持ち、また天下御免では山口崇さんが平賀源内を、坂本九さんが杉田玄白を演じていましたが、平賀源内が初回から出てきており、既に有名人になっていたようなので、一体何歳ぐらいなんだろう?と思ったのがことの起こりです。関連する人たちが、いつ、何歳で各時代の場面にいたのかということがわかるようにしたいと考え、同時代人の年表を作りました。
去年は、ほとんど藤原さんばかりだったので、縁戚関係がわかれば良かったので、系図と年表があれば理解の助けになりましたが、今年は色々な人が登場するので、同時代人がわかるものがあればと思った次第です。下記にアップしておきますので、必要な方はダウンロードしてテレビを観られる際などに傍らに置いてお楽しみいただければと思います。ダウンロードの際、拡張子が変わってしまうようですので、ダウンロード後に改めて拡張子を「xls」に変換した上で開く必要がありそうです。また、印刷の際はA3版をお勧めします。
なおいくつかの年表を見て作成したものではありますが、名前や生没年その他誤りがある可能性はありますので、その点をお含みおきの上で個人の責任にてお使いいただき、ウイルス感染等を含め使用に際して何らかのトラブルが生じても責任は持てませんのでご承知下さいますようお願い致します。
正しいことは爽やかである(本田百合子さんの言葉)
TKC&D CREAREという会報誌が送られてきました。2025winter Vol.83とあります。
中に、日頃お世話になっているアシステム税理士法人の本田百合子代表のインタビュー記事が掲載されていました。
自分への戒めと備忘のため、感謝の念を持って、(私が感銘を受けた部分はご本人のお考えの中のどういう位置づけのものかはわかりませんが)一部抜き書きさせていただきます。
・メインの人をサブの人が必ずダブルチェックするきちんとした仕事
・正しいことがいかに爽やかであるか、明日ポックリ逝ってもいいようにと退路を断って本気でお話しする
・経営計画を作りましょう、ちゃんとした利益を出し続けましょうと、口酸っぱく言い続けている
・(関与先事業者の)利益にもこだわっていきたい
・先延ばししている場合ではない
・スタッフが幸せになるように頑張っている
ある事業者さんが、資金繰りが厳しくなって廃業の決意を伝えに本田先生の所へ挨拶に行かれた時、本田先生から「本当にできることをすべてやった上での判断なのか」と強く尋ねられ、まだできることがあることに気づき、その後業績が回復した方がいらっしゃいます。上記の「明日ポックリ逝ってもいいように」「本気で話をする」というお考えが根底にあってのご指導だったのだなとこのインタビュー記事を拝読して感じました。当然、ハッキリ言わなければならないくらいに切羽詰まった状態であったと思われ、またそれまでの信頼関係が作られていてのことだろうと思います。
そうした助言は、正しいことは爽やかであるという言葉ともつながっているのではないか感じます。
私の地元の魚津市を中心に県内全域でご活躍の本田先生は、大学の先輩でもあり、これからも(間接的ではありますが)ご指導を賜りたいと思っています。
脳と心について
心というものがあるのかないのか・・・心理学という学問がありますし、私たちは子どものころから霊魂というものの存在を聞かされており、地獄という世界があって死んだらそこに行かないように善行を積んでいかなければならないという教えに接していましたから、死んで肉体から分離していくものがあるのだろう、それが心もしくは霊魂というものなのだろうと、無条件で思っていました。
しかし、最近『心は存在しない』(毛内拡氏著)https://amzn.to/4gSgQM7という本を知り、これは仮説だとの見解で書かれたものではありますが、もしかすると吉本隆明さんの言っていた「国や社会は人間が作った共同幻想」というようなことと同じように、心や魂も脳が作った幻想ということかも知れないなあ、という仮説を立てて考えてみるのも面白そうだと感じています。
梶本修身さんという方が『すべての疲労は脳が原因』https://amzn.to/4a3B3wbという本をお書きになっていますが、先日ラジオでこの方の話を聴いていたところ、脳の真ん中あたりに自律神経の中枢があって、人間が色々な判断をすればするほどここが疲れて来るそうです。人間は一日に35000回もの意思決定・判断をしているそうなので、それは例えば単に走っているというだけでも(つまり、いわゆる仕事をしているわけではない時でも)周りの状況を見たり、足元の道の状態を感じて安全性を判断したり、ということらしく、尿意を催してトイレに行くのも自律神経が排泄を命じており、身体がその指示に従って動いているのでありそこにも自律神経による意思決定があり、それらの連続で脳の中枢が疲れてしまうのだそうです。沢山肉体を使って「疲れた」と感じることがあり、今日はよく肉体を駆使したからなあと思っていますが、それは肉体が疲れたのではなく、肉体に酸素を供給する前提の状況判断や送るという判断をして送り続ける自律神経の働きが疲れたということらしいのです。確かに言われてみれば、身体が疲れた、と感じても、そのあと事態が急を要するような時には、「動ける、あれ?動けるぞ」ということも実際にありますから、もしかして肉体が疲れたというのも錯覚(脳が、自分が休みたいので、身体を横たえさせようとしていることを勘付かれないように隠れて指示しているために起こる錯覚)なのかも知れません。
優秀な方は、意思決定の量を少なくすることを心がけており、日々の生活の中になるべくルーチンを多く取り入れていると聞いたことがあります。具体的には例えば故スティーブ・ジョブズ氏は、いつも黒のタートルネックとジーンズという風に衣類を選ぶために脳を使わないといった話がありますが、こうした事例も沢山あるようです。してみると、いかに脳を活力あふれる状態で使い続けられるかということは、一つには判断しなくても良いようなことの判断をしなくても良いような生活習慣を取り入れることのようです。
と同時に、睡眠が極めて重要だということも梶本修身さんは仰っていました。
睡眠と言えば上田泰己さんという方が『脳は眠りで大進化する』https://amzn.to/3DNy6Unという本を書いておられ、こちらも注目しています。日本人の睡眠が短いということは以前から指摘されており、この本の中でもOECD33か国中日本人は男女とも最も短いということが書いてあります。日本人の平均睡眠時間は7時間22分とのことですが、個人的にはそんなには寝ていないなあと感じます。それでも40代の激務時代から比べれば伸びてはいます。そういえば大谷翔平さんが睡眠をとても重視しているという話はよくインタビューでも言っておられますし、スケートの浅田真央さんも良い睡眠のためのマットを持参して遠征に行っておられたという話も聞いたことがあります。
論理性に著しく欠ける話ではありますが、脳科学の最新研究成果だと言われている上記の色々な話を総合すると、どうも、脳の真ん中にあって色々な命令をつかさどる機能が生命の本質なのではなかろうか?という仮説を持っています。その機能≒自律神経を司っている部分は、生れて来たからには生き続けるということがプログラムされているように思います。例えば他の人から危害を加えられそうになったら、人は一般的には防衛や反撃をします。肉体的な危害もあれば精神的な侮辱などのことも危害と捉えると、防衛や反撃は、自己の生存を守るための反応ですので、脳の中枢にある自律神経を司るものがそれを命じているのだなと考えます。
スピノザは『エチカ』https://amzn.to/41P9sNkという書物の中で人間の基本的感情を3つに限定して、それ以外の感情はその3つの基本的感情から派生しているものだといったことを述べています。3つの基本的感情は「喜び」「悲しみ」「欲望」(文庫(上)181ページ)ということで、(ここからは交流分析からの学びに関係していますが)それらはいずれも人間の生命を維持することを目的にしたもののようです。怒りやすい人も泣きやすい人も呵々大笑しやすい人も、恐らく子どもの頃にそういう反応をした際に「生命」を維持できた、という成功体験が積み重なって大人になってもそういう感情が表出しやすくなっているのではないかと思います。
そこで改めてアリストテレスがどのようにそこら辺りを見ていたのか?ということを調べてみようと思い立ちました。彼の『心とは何か』https://amzn.to/4hf3fyPという本が岩波文庫から出版されています。邦題は他にもいくつかのタイトルがあるようですが。この本の解説に「アリストテレスは、プシュケーが身体から独立した存在であることを否定」とあり、「心とは身体がある一定の能力をもった状態である」「一種の能力」とあります。さらに「心は、生きていることの原因であり、その原因とは、栄養摂取能力、感覚能力、運動能力、思考能力」ともあります。ちょっとだけ脱線しますが、アリストテレスはこの本の中で「睡眠と覚醒については別のところで考察する」と述べており、この別の考察について書かれたものはなんと『アリストテレス全集第6巻』という大部の著書に当たらなければならず、すぐには手が出ませんが、上記の「眠り」の本や「すべての疲労は脳」の本などとも関係があるかも知れないと考えると興味が尽きません。アリストテレスを絶対視するつもりはありませんが、今の色々な科学の多くが遡れば彼の思惟に行きつくことを考えると一旦彼が何を語っていたのかということに触れ、改めて考えるのも意味があるのではないかと思います。改めて同書の解説ですが、この本は「難しい著作のなかにあって、内容の深さの点から言っても、頂点に位置する」のだそうで「他の著作で論じた論点の上に築かれており」「この講義で用いる重要な概念に受講者があらかじめ通じていることを前提にしている」のだそうです。「睡眠と覚醒」などにしても別の所に書いたからそっちを先に読んでからこっちに来なさいね、ということなのだろうなという気もします。
生きんかな、というのが生命の本質だとすれば、そのために色々な外からの刺激にどう反応すれば最も生命維持にとって有効かを経験や知識から選択して判断している、ということが私たちの日常生活なのでしょうか。しかし中には『心配事の9割は起こらない』https://amzn.to/3W1LZ7Uとか『反応しない練習』https://amzn.to/49XM0zmといった、実際にそうだなあということもあり、ちょっと見渡せば、自律神経を酷使して「つっかれたあ」と感じなくても良いような知恵が周囲には沢山あることにも気づきます。
脳と心について、感情の起伏、睡眠による疲労回復、元気溌剌で過ごすために工夫できることなど、調べ始めたところですので、今後もっと勉強し2025年はこういう知恵も使いながら楽しく心地よく過ごしていけるようにしたいものです。
松岡正剛さんを悼む
その昔「遊」という雑誌がありました。何冊か購入したような覚えもありますが、今手元に残っているのは1981年秋の臨時増刊号一冊のみです。発行は工作舎、編集者は松岡正剛さんという方です。エディトリアル・ディレクターという聞いたことのない職業でした。カタカナの職業名に、なんだか変な、というのが第一印象でした。
数日前松岡正剛さんの訃報に接しました。新聞の片隅の著名人の死亡欄に載っていただけだったのであやうく見過ごすところでした。享年80歳とのこと。
「遊」で見ていた頃は、「日本はすごい」という論調が前面に出ていたこと、お名前が戦前のある政治家と同じであったことなどから、勝手な印象として、少し偏った思想の持ち主ではなかろうかと感じていました。そのため、超のつくようなこの人の博学ぶりに驚きと憧れを持ちつつも、その該博ぶりは本当であろうか、といぶかしがり、深入りすまいと距離を置いて眺めていました。
但し、この「遊」については、第一級の著名人が、それも大勢寄稿しており、これらの人が皆変な思想の持ち主だとはどうしても思えず、松岡さんに対する私自身の見方も妙な偏見やも知れぬと定まらぬ立場でしばらくはいたような気がします。
平成2年、「電話100年記念出版」として、NTTのグループ会社であったNTT出版から『情報の歴史』という分厚い書物が発行されました(非売品)。世界史年表の体をとった情報の歴史を扱った大部のもので、7000万年前から、人類の脳容量が1600立方センチになる時期を経て1989年(平成元年)に至るまでの歴史(地球の歴史を含む)を情報という切り口で編集されたものです(今年の大河ドラマの源氏物語についても記載されています)。企画監修・年代構成・本文執筆・作図構成を松岡正剛さん、構成編集を松岡正剛さんが主宰する編集工学研究所が担っており(当時の松岡正剛さんの活躍の舞台は主にこの編集工学研究所であったと思われます)、企画進行にはその数十年後に私の上司になった西山等さんが担っておられたことが巻末に記載されています。
これによって松岡正剛さんの印象が随分変わり、ああ、こういう仕事をしている人なのか、ちょっと偏見を持って敬遠し過ぎていたなあと見方を変えました。
その後の松岡正剛さんの活動を振り返って見ると、とにかく知が好きで、知を編集することが大好きなひとだったのではないかと感じます。最近は角川ソフィア文庫から「千夜千冊」のシリーズを刊行されており、この本自体は元々随分以前からネットで書き連ねておられたものだと思いますが、その他の著書や雑誌などにも登場しておられたため、てっきりまだまだ元気で知の啓発活動を進めて行かれるものだと思っていたので、急な訃報で本当に驚きました。松岡正剛さんの読書術なる本なども読み、この知の巨人がどのように読んでいるのか、読み方の一端に触れたような気もしますが、既に記憶からは抜け落ちてしまっています。
そういうわけで松岡正剛さんという人物に対しては、最初のちょっと斜に構えてしまった印象が尾を引いてしまって、あまり深く関わろうとしないこの40年間でしたが、そうはいっても色々と影響を受けてきたことには変わりなく、改めて感謝するとともに追悼の意を表したいと思います。そしてまた、彼と彼のお仲間が著わした『知の編集工学』や『探求型読書』なども読んでみようかと思っている次第です。
ガブリエル・ガルシア=マルケス氏の『百年の孤独』
ガブリエル・ガルシア=マルケス氏の『百年の孤独』読了です。
一言で言うと、面白かったあ、という感じ。
600ページを超える長い読み物。6代に及ぶ一族の物語。時にヒタヒタと時にハチャメチャに享楽ありバイオレンスあり突然死あり、ある時は筒井康隆さんの『脱走と追跡のサンバ』を思い出し、またある時はウルスラは中上健次さんの『千年の愉楽』のオリュウノオバでありマコンドは路地であろうなどと確信めいた思いを持ったりしながら読み進めました。オリュウノオバは、ああ見えて多分50代であり、映画では寺島しのぶさんが演じていたのですが、ウルスラは150歳まで生きていたようなので、単に印象だけの相似であり、全く違うのでしょう。中上健次さんも『百年の孤独』を知ったのは『千年の愉楽』を書いた後だと仰っているようなので、まあ類似性を感じたのは偶然であろうと思います。さて或いは、また筒井康隆さんですが『ダンシング・ヴァニティ』なども繰り返しが多用されており、同じ名前の人が繰り返し何度も出てきて似たような行為を繰り返す情景なども類似性を感じました。(感じ方は、多分人それぞれ、自由です)類似性だの相似だの、何を感じたかというのはそれほど重要なことではなく、この物語がとっても面白かったということを、とりあえず最後に述べさせて短い読後感想文とします。
『族長の秋』はずっと以前にザザザザザッと読んだだけだったので、いずれの時にか、今回の『百年の孤独』のように、もう一度しっかりと読んでみたいと思っています。
「山田宗睦さん」のこと
先日新聞に山田宗睦さんという方の死亡記事が載っていました。どなたかは全く存じ上げませんでしたが、なんとなく気になって著書を探し、古代史の解説ものその他色々なジャンルに及んでいることを知りました。たまたま地元の図書館を訪れた際に書庫にいくつかこの方の著書が蔵してあることを知り、借りてみました。
その中の一つ『旅のフォークロア』をパラパラとめくっていると、「能登」という紀行文に出会い、読んでみるととても興味深く引き込まれてしまいました。
「戸坂潤を百科全書的な思想家とみるのが、定説だ。厳格にエンサイクロペディストととるなら、わたしなどとても縁がないが、ややずらして、なにごとにも好奇心をもつというくらいにとるなら、わたしもまた戸板の徒だ。」(この謙虚な言い回しに引き込まれました)
「さいきん、能登半島への旅がクローズアップされてきたが、能登へ入るには、北陸本線の津端で七尾線に乗り換える。この七尾線が河北潟ぞいに海岸に出たところが、宇ノ気である。宇ノ気は、鳥取砂丘につく河北砂丘の北東の端にあたる。砂丘の南西の端は、清水幾太郎の名を高くした内灘だ。宇ノ気は西田幾多郎の生まれたところだ。(中略)敗戦の直後、軍隊から復員するとき、まずこの村によったのも、わたしに西田の生まれた村で今後の行き方を考えてみたいという気があったからだ。」
「戸板が西田を慕い、一高在学中に京都に訪ねたのは、1921年1月6日のことで、それは西田の日記に残っている。入学はその翌年。のちにマルクス主義者として戸板は西田哲学を批判するが、西田はその批判を『理解のある大変よい批評だ』と、戸板への手紙に書いた。」(ここで冒頭の戸板潤と西田幾多郎の関係が明かされます)
「その年(1936年)、小学生のわたしは、この海辺にきて、ようやく泳ぎをおぼえた。この辺り海はおどろくほど遠浅で(中略)十センチもある大きな蛤が、ごろごろ取れた。そう、今浜はわたしの父の古里だった。」(ここでまた驚きです。山口県下関生まれ、と奥付に書いてあったので、北陸はたまたま旅をしにきただけの紀行文かとおもいきや)
「1944年秋、わたしはこの村の神社で、村人の出征壮行会におくられ、金沢の連隊に入った。(中略)45年6月7日に、西田が死んだ。石川出のこの大哲学者が死ぬと、曹長はわたしのところまでやってきて、「元気をおとすな」と言った。戸板が獄死したのは-当時のわたしは知らなかったが-その二か月後、8月9日、敗戦の六日前である。」
「羽咋市から直線で20キロほど北、福浦から富来をへて関ノ鼻にいたすS字型の海岸33キロが昨今著名となった能登金剛である。戸板が幼年期をすごした里本江もこのなかにある。」
「雪のたたきつける内灘の砂上で、対戦車砲の演習をしながら眺めた、白い歯をむく海のこわさを、わたしは忘れがたい。松本清張『ゼロの焦点』が、原作でも映画でも、ともに、荒涼とした能登金剛の風物を、たくみに利用したのは、同じ印象からだろう。」
「能登の探訪は、美しいが疲れもする。その疲れをいやすのに、加賀温泉郷の一つ粟津温泉に泊まるのも一興だろう。なぜなら、戸板潤は四歳のとき、ここに移った。祖父が転勤したからだ。そそて五歳までいて東京の母のもとにかえる。この温泉のある小松市の東隣に根上町というのがある。わたしの母の古里だ。」
ふたりの哲学の師に連なる自身の立ち位置をさりげなく示しつつ、能登のことを織り込みつつ、最後は母で締めくくるという、なんとも素敵なエッセイだと感じ入った次第です。この本が発行されたのは1978年、私がまだ高校2年生の時です。私にとってはなんのゆかりもない方ですが、感じ入った文章の一部なりとも残しておきたいと思い、書写させていただきました。もう少しだけ本書から抜粋させていただきます。次の一文は「山の辺の道」です。
「山の辺の道を、いくども歩いた。(中略)この道が有名になると、案内板もできたし、ガイド・ブックに道筋を示した地図ものこっている。現代人は教条主義だな、とおもう。(中略)しかし道はきままに歩くのがいい。これが山の辺の道と、まるで試験のように一歩も路をふみはずすまいと歩くのでは、あじけない。一つや二つ、上下に、それとも自由に、畦道をたどる方がいい。それと、この道を歩くまえに、『万葉集』や古代史をのぞいて、古代人の心でこの道を歩く用意をした方がいい。(中略)山の辺の道は、初瀬街道に面した三輪山南麓の金屋からはじまる。ここから歩きだすのがいちばんいい。」という感じで山の辺の道と古代王家にまつわる女性たちの悲哀がつづられていきます。私の大阪勤務時代に何度も訪れ、歩いた山の辺の道を、この見知らぬ哲学者もよく歩いておられたのだということをこの書を手に取って知り、なんとなく、上の能登の話とあいまって、余計に親しみをおぼえた次第です。
ちなみにかつて大阪勤務時代に山の辺の道を歩いた時は、私はいつも石上神宮からしか出発したことがなく、都側から見れば当然のルートだと思っていたのですが、どうもそうではないということを後年知ったところですし、山田宗睦さんもこっちから歩くのが良いと仰っていますので、次に訪れる機会があれば、三輪山側から歩いてみようかと思います。
コンサルの仕事と働く人が本を読めなくなるという題材とダ・ヴィンチの手記
雑記です。支離滅裂な文章になっているものと思います。
先日ラジオで三宅香帆さんのベストセラー『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』についての解説がなされていました。
聞くと、すぐに求めているものにありつける即効性のあるもの=スマホのゲームや検索結果やSNS投稿への反応、などと異なって「本にはノイズがある」ために、求めるものがすぐに得られずタイムパフォーマンスが悪く、自然とすぐに答が得られるスマホなどを見てしまうのだ、と語られていました。
「ノイズ」という表現が新鮮で、「本が雑音?」とちょっと抵抗感はありましたが、なるほど、という納得感もありました。例えば推理小説などはその最たるものの一つで、一番最後まで読まないと犯人=答がわからないのが普通です。最近の若い人は、ネタバレOKや映画の早送り・倍速鑑賞などでいち早く答にたどり着くことを求めがちだという話も聞きます。
さて、それらが悪いということを一方的に述べることがこの稿の目的ではありません。
私たちコンサルタントの仕事は、一つには事業者の方から相談を受け、それに対する答を提供しなければならないこともありますが、もう一つは事業者の方が自分で方針を立てる=答を導き出す、ための考え方の枠組みを提供したり、他の事例を紹介するなどの「補助線」を提供したりということもあります。後者は、最近の流行でいえばエドガー・シャイン教授などが提唱している「プロセスコンサルテーション」という関わり方かと思います。すなわち「ノイズ」を提供し、ご自身が考えるための「雑音」「余白」を提供することであり、これは言い換えれば「問いを提供すること」ということではなかろうかと感じました。
「本にはノイズがある」ということに加えてもう一つ解説者が仰っていたのが「本を読むということは他者の文脈と向き合うことだ」というものでした。自分の文脈で本を読むとなると、調べたい内容だけを探して見つけてそれで良し、というような読み方ならば主体的に読めるのでしょうけど、それでは著者の主張は関係なく自分の文脈での読み方となるでしょう。それはそれで良い、フォトリーディングなどはそういう読み方を推奨しているような気もします。が、著者の主張を汲み取ろうとすると「他者(著者)の文脈」との向き合いという姿勢が必要になって来ます。自分の求める答ではないものとの向き合いとは、自分に対しては「問い」をいただくことになるのではないか。「これ、知ってる?」とか「これについて私(著者)はこう考えているがあなた(私自身)はどう考える?」などの問いを私に対して発せられ、それに対して自分で考えざるを得ない読み方、これが「他者の文脈」で読むこと=「他者の文脈と向き合うこと」で、自身に対して「問いを与える」読み方、ということではなかろうか・・・と思いました。
コンサルティングの仕事の中にも、このように、事業者さんに対して「問い」を提供する、それも事業者さんが自分の事業の問題点を深掘りすることや将来像や課題を考え、対応していこうと考えることにつながるような問いを提供すること、時間がかかりタイムパフォーマンスは悪く、そのため日頃はなかなか向き合わない(忙しい、考えたくない、など原因は様々でしょうけど)こと、と向き合うきっかけになることも私たちの大切な役割ではなかろうか、と考える次第です。私たちがそのように事業者さんと向き合うということはまさしく事業者さん=他者の文脈と向き合い、こちらの先入観を持たずにフラットな姿勢で、言われることをそのまま受け止める「傾聴」の姿勢に徹し、しかるのち「問い」を発する。「問い」に対して事業者さんが考えている間は口を挟まずに待つ。「間」を恐れずにひたすら待つ。必要があれば例え話などをして事業者さんの考えの整理を促したり言葉を引き出したりする。事業者さんの話の内容に共感できれば一緒に考える。こちらの考えもお伝えする。あくまで事業者さん側のレディネス(こちらの話を受け止める準備)ができてからであり、それまではひたすら待つ。観察する。そして一緒に考える。これこそが「傾聴と対話」ということではなかろうかと思う次第です。・・・というようなことを上記のラジオからあれこれ派生的に考えた次第です。
閑話休題。
山口周さんの『外資系コンサルの知的生産術』という本があります。これは山口さんの事例や手法などを惜しげもなく開陳してくれており、加えて、古今東西の名言などを添えてあるのですが、この本の後ろの方に『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』からの以下の抜粋が掲載されていました。
<<食欲なくして食べることが健康に害あるごとく、欲望を伴わぬ勉強は記憶をそこない、記憶したことを保存しない>>
あれ?どこかで見たかも・・・と思い、1987年に購入した岩波文庫を引っ張り出してきました。ありましたありました。なんと初めの方で、しかも自身で赤線まで引いていました。が、そうしたことすら覚えていませんでした。その前には<<老年の欠乏をおぎなうに足るものを青年時代に獲得しておけ>>という箇所に線が引いてあり、後ろには<<鉄が使用せずして錆び、水がくさりまたは寒中に凍るように、才能も用いずしてはそこなわれる>>という文章に線が引いてありました。線を引いてからの数十年間、私は果たしてどのような生き方をしてきただろうか?と後ろを振返りそうになりますが、幸いまだこの先も歩むべき道がありますので、いい機会だと捉え直し、今から再度、改めてこれらの言葉を胸に刻みつけて歩き続けようと思います。
ちなみに『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』のもう少し後ろの方には次のようなことも書いてあります。
<<十分に終わりのことを考えよ。まず最初に終わりを考慮せよ>>
<<「幸福」が来たら、ためらわず前髪をつかめ、うしろは禿げているからね>>
<<必要であればあるほど拒まれるものがある。それは忠告だ。それを余計に必要とする人々からいやがられる>>
「問い」を上手に使うことで、コンサルの仕事に取り組み続けていきたいと思います。
杉本貴司さんの『ユニクロ』
中小企業診断士である私がユニクロのような大企業について勉強するのはあまり意味がないかも知れません。しかし私が社会人になった40年前にユニクロの1号店を広島で作った小郡商事は、当時は山口県の一中小企業だったということを考えると、柳井正さんという経営者が仮に不世出の天才だったとしても、今のユニクロではなく、これまでのユニクロの辿ってきた道を知ることで、他の中小企業にとってもヒントになることがあるかも知れない、と考え、時のベストセラーを手に取りました。著者の杉本貴司さんもp6で「私が見つけたのは「希望」である。この国に存在する名もなき企業や、そこで働く人たちにとって希望になるであろう物語である。」と述べておられます。
p38 なにかと言うと柳井が口にしたのが「それになんの意味があるんかね」だった。73歳になった柳井が母校の早稲田大学の新入生たちを前にこんなことを語りかけた。「人が生きていくうえで最も大切なことは使命感を持つこと。自分は何者なのか、そのことを深く考える必要がある」
p78 ノートに自分自身の性格について思うことを書き記していった。俺の長所はなんなのか。逆に短所はなんだ。
p79 ある思考法にたどり着いた。「できないことはしない」「できることを優先順位をつけてやる」悩みというものは、悩めば悩むほど出口が見えなくなってしまう。「いくら悩んでもできないこと」と「よく考えれば、悩むまでもなくできるかもしれないこと」に二分する。そして割り切る。エネルギーを割くのは後者だけ。そもそも解決できないようなことについて悩んでいる時間がもったいない。
p80 長所だけの人間になろうなんて考える必要はない。そもそも長所だからといって他人に誇るようなものでもないし、短所だからと劣等感にさいなまれる必要もない。
p80 仕事の内容を正確に伝えるために日々の仕事でやってもらいたいことをひとつずつ文章化してみた。この時の自筆の「仕事の流れ」がマニュアルの第一歩だった。口下手であることを認識しているが故の工夫だが。
p81 マニュアルの作成が終わると次に取り組んだのが、日々の商売の「見える化」だった。どの商品のどのサイズ、どの色が売れたのか。そんなことを毎日店を閉じてから自らノートに詳細に書き記していった。
こういう基本をしっかり大事に経営者自らコツコツとやっていったということが一つ。この頃のスタッフは一人か二人だったようです。
p82 カネ儲けは一枚一枚、お札を積むこと。信用の源泉は銀行預金を積み上げること。
p84 父から25歳の時に銀行通帳と印鑑を渡され、経営者となった。この時は山口県宇部市の商店街にふたつの小さな店を持つだけの存在だった。ここから10年ほど暗く長いトンネルの中でもがき続ける日々だった。
p90~101 柳井は経営者としての決意を一枚の紙に記した。・・・柳井の目標を大きく持ち上げてくれたのが・・・本を通じての偉人たちとの対話という静かな時間だった。・・・自宅に戻り食事を終えると、書物を通じて世界の英知と向き合う時間を大切にする。・・・松下幸之助と本田宗一郎。ユニクロの足跡は現実の延長線を越える足し算を描き実行に移す。ハロルド・ジェニーン(『プロフェッショナルマネジャー』)という事物の著書から学び取り、実行に移したこと。米マクドナルド創業者のレイ・クロック(『成功はゴミ箱の中に』)。ピーター・ドラッカー『マネジメント』『現代の経営』『イノベーションと企業家精神』『プロフェッショナルの条件』などは何度も読み返してきた。・・・クロック曰く「勇敢に、誰よりも先に、人と違ったことを」・・・柳井流の読書法は「もし自分だったらどうするか」と考え、筆者と対話するよう点にその妙がある。
p118 失敗を次の成功への気づきに変えてしまえばいい。
p121 まずはひょっとしたら大成功するんはないかと考えることがすごく大事。
p133 経営者のオヤジだけが元気でしきりに売り込んでくる。ところが現場を見ると社員を大切にしていないことがすぐに分かった。若い人たちが暗い顔で働いている。こんなところに未来はない。
p137 消費者はその商品について一番よく知っている人から買いたい。中内さんは小売業の革新者でありイノベーターだった。しかし商品について一番よく知っている人になろうという発想の転換がなかったことが、ダイエー凋落の原因だ。
p139 ゴールを定めていなかった。だから、たいして成長しなかった。
p140 柳井がレイ・クロックの『プロフェッショナルマネジャー』から学んだ二つのこと。
①現実の延長線上にゴールを置いてはいけない
②本を読む時は、初めから終わりへと読む ビジネスの経営はそれとは逆だ 終わりから始めて、そこへ到達するためにできる限りのことをするのだ・・・三行の経営論であり、逆算思考だ。
p155~160 商店街の個人経営店から「企業」へと脱皮するためのおおまかな見取り図。安本(安本隆晴公認会計士。小郡商事が上場企業になるための参謀となった人物)が最初に手がけたのが、組織図の作成だった。組織図とは、経営戦略を機能別に解き明かした説明書である。社長の下に書かれた各部門名の下に、誰が何を担当し、どんな責任を負う売上高や集客数、生産性、商品ロス率などの目標数値を書き記していく。組織を縦割りに分解するだけでなく具体的な機能と責任を明記していく。組織を動かすにはルールが必要。仕事のカタマリごとに誰が何をやるのかを割り当てる必要がある。安本が持ち込んだもう一つの概念が「会計思考」だった。簡単に言えば収益構造とキャッシュフロー構造のふたつを常にモノサシにせよということ。
p224 そもそも新しいことをやると失敗する。でも失敗することは問題じゃない。失敗から何を得るか。失敗の原因を考えて次に失敗しないために何をすればいいのかを考えるのが経営者。だから、失敗しないと始まらない。
もちろん無謀をよしとするのではない。柳井は「失敗しないためにとことん考え抜け」とも話す。最善を尽くしたつもりでも、経営に失敗は避けられない。失敗から何かを学び、より大きく成長するためには、つまずいてもまた這い上がってやるという覚悟が最初からなければ始まらない。
本田宗一郎も『俺の考え』の中でこんな言葉を残している。「研究所なんていうのは、99パーセントが失敗で、それが研究の成果である。人は座ったり寝たりしている分には倒れることはないが、何かをやろうとして立って歩いたり、駆け出したりすれば、石につまずいてひっくり返ったり、並木に頭をぶつけることもある。だが、たとえ頭にコブを作っても、膝小僧をすりむいても、座ったり寝転んだりしている連中よりも少なくとも前進がある」
p228 「どこが去年と違うんですか」「どこが他社と違うんですか」それが尋問のように続く。つまり、売れる理由です。売れる理由を一つずつ積み上げていく。
p241 待てど暮らせどお客は来ない。このままじゃ倒産する。胃がキリキリと痛む。経営者はそれでも考え続ける。そういう経験をしないと絶対に経営者にはなれません。(柳井さんが玉塚元一氏に語った言葉)
これ以降は、ユニクロが海外にも進出しつつ異文化とのコミュニケーションの齟齬や大企業病をいかに克服していったかという件になっていくので割愛しますが、最後に一つだけ。私がセミナーでよくお話をするユニクロの野菜販売の失敗(撤退ラインの事例として紹介しています)に絡んだエピソードを記しておきます。
p363~370 柚木治氏は2002年9月に野菜を扱うSKIPを立ち上げた。「野菜のロールスロイスをカローラの価格で販売します」・・・しかし結果は大失敗だった。2年もしないうちに26億円の赤字を出して撤退に追い込まれた。(柚木氏の奥さんは何度も警告を発しておられたとのこと)・・・その後「僕は失敗していない柚木君より、失敗したことがある柚木君の方が良いと思うな。失敗を生かして10倍返してください」という柳井さんの言葉でGUの立て直しに送り込まれた。柚木には野菜の失敗で得た3つの教訓がある。「顧客を知る努力は永遠に続けなければならない」「新しいことを始める時は、今ある常識を誰よりも勉強しなければならない」「社内外を味方に付けて、その力を使い尽くさなければならない」・・・柚木氏がGUの立て直しを図る歳にも、奥さんから言われた言葉がとてもためになったようですし、店舗スタッフの「ホントは私、GUの服は嫌いなんですよ」という言葉に、改めて顧客のこと、今ある常識を虚心坦懐に学ばなければいけないと思ったそうです。
ということで『ユニクロ』を読んだ直後に私が走った先は、5年ぶりの「GU」でした。
『徒然草』第百十七段の「よき友」を目指して
先日、ある会合で「よろず支援拠点の伴走支援」について仲間と情報共有を行いました。「よろず支援拠点の伴走支援」とわざわざ断りを入れる理由は、現在国の勧めで色々な中小企業支援機関(商工会、商工会議所、信用保証協会、金融機関、認定支援機関、中小企業活性化協議会などなど)が「伴走支援(中小企業、小規模事業者、個人事業者に対して寄り添った形での支援)」をやっており、それぞれ微妙にやっていることが異なるためです。異なること自体は問題ではなく、色々な伴走の仕方があってしかるべし、とされているようです。
それはそれとして、私の所属する富山県よろず支援拠点(勤務は週2日ほどですが)では、令和3年からエドガー・シャイン教授の唱える「レベル2」の関係でのコンサルティングを志向してきました。これはコンサルティングが「答を教える」という従来のスタイルでは通用しないことが発生する時代になり、これまでとは異なるやり方をしていかなければならなくなったという研究結果から出てきた一つのあり方を提示したものです。もちろん「答を教える」ことで解決する課題も相変わらずありますので、これまでのコンサルティングを全否定するものではありません。
クライアントとコンサルタントの「レベル2の間柄」とは何か。シャイン教授はこんな感じの説明をしてくれています。曰く、「固有の存在として認知」「たまに会う友人」「次の3点で通常より深い・・・①交わした約束を互いに守る、②相手を傷つけたり相手が努力を傾けたりしていることをけなしたりしないと合意する、③嘘をついたり仕事に関わる情報を隠したりしないことに合意する」・・・令和4年の春によろず支援拠点の全国本部から提示された伴走支援のガイドラインにも、このシャイン教授の考え方に基づいて仕事をするように、とされていました。
さてそこで改めてふと思い出したことが『徒然草』でした。第百十七段に以下のようなことが書いてあります。以前も投稿したかも知れませんが・・・「友とするに悪き者、七つあり。一つには、高く、やんごとなき人。二つには、若き人。三つには、病なく、身強き人。四つには、酒を好む人。五つには、たけく、勇める兵、六つには、虚言する人。七つには、欲深き人。よき友、三つあり。一つには、物くるる友。二つには、医師。三つには、知恵ある友。」
と、これだけの文章ですが、まず、自分自身「友とするに悪き者」に該当する要素がいくつかあり、この時点で汗顔の至りではありますが、それを踏み越えて、「よき友」に進ませていただきます。私たちコンサルタントは、エドガー・シャインの警句を待つまでもなく、この「よき友」を目指していかなければならないのではないかと思うわけです。ま、その中でも「物くるる友」はシャインの区分では恐らく「レベル3」の親友などに当たるような気がします。コンサルタントがここまでやると、不特定多数の相談者への対応が困難になります。また「医師」は「レベル1」の技術的課題を回答する専門家になるのではないかと思います。もちろん「医師」も「レベル2」の関係を構築することが望ましいと思いますし、ある意味コンサルタントは経営の「専門医」たるべし、とも言われていますので。そうしたことに加え、私たちが目指すべきは「知恵ある友」になれるよう、人間的な面、知識や経験の面など、日々研鑽を続けていくことが大事ではないかなと、2年ぶりによろず支援拠点の通常支援担当に戻って、改めて感じている今日この頃です。
吉田満梨さんと 中村龍太さんの『エフェクチュエーション 優れた起業家が実践する「5つの原則」』
起業や事業化に当たっての進め方として、目標を設定しそこに至る道筋や必要な資源などを考えて取り組む「コーゼーション」型と、今何ができるかということを手持ちの資源から考えて取り組んでいく「エフェクチュエーション」型の、2つのアプローチ方法があり、それらを市場での自社のポジションや市場の成熟状況などに応じてうまく使い分けて行くことが大切だとありました。
私はこれら2つの言葉を初めて知りましたし、うまく発音できるかもおぼつかないのですが、現実の世界では、後者のような走りながら考えるということが往々にしてあるような気がします。重要なのは、走りながら考える場合であっても、予め損失許容範囲を定めておくということのようです。これにしても、多くの人は意識してか無意識のうちでかは別として、そのようにしておられるようにも思います。子どもの頃の「小遣いの範囲内で遊ぶ」という習慣みたいなものかも知れませんが(例えが卑近すぎるかも知れません)。
もしかすると、旧日本軍の「失敗の本質」に見られるような戦力の逐次投入や現代の日本企業にも見られる損失回避のための追加投資によってさらなる損失をもたらす、いわゆるサンクコストのようなもの、或いは賭け事に依存して負けても負けても借金を増やしてまた賭け事をしてしまう・・・結果的に、そのうち取り返すことができるのかも知れませんが、多くの場合取り返すことができない結果になるのは、この損失許容範囲を決めていないことが原因かも知れません。
他にも、「目から鱗」といって良い知見をいくつも得られました。機会があればまた投稿したいと思います。