ドストエフスキー『賭博者』

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フロイトさんが論文「ドストエフスキーと父親殺し」(光文社古典新訳文庫所収)の中で、ドストエフスキーのことをどうしようもないダメ人間であるかの如く酷評しており、ほんまかいなと思い、その最も端的な根拠の『賭博者』を読みました。
この本はほぼ実話をもとにして書かれたということです。
読んでびっくり。ああ、こうもダメ人間だったのか、この人は。と思う記述が至るところに。(フロイトさんが酷評している理由が少し理解できたような気がしました)


病気で寝ている奥さんを置いて、別の若い女性を追いかけて海外旅行に行った。このこと自体、一体この人は何をしておるのか、と思いますし、その女性に対して全身全霊をささげるような(かなり無様な)真似をして、歓心を買おうと必死になっている。挙句はルーレットにのめりこんですっからかんになり、しかもひとところで留まらずにルーレット行脚のために次の旅先まで行く始末。
滑稽なのは彼が訪れた街の名前が「ルーレテンブルク」。ルーレット(賭博)の街という意味の架空の街だそうです。
現代では、ギャンブル依存症というのはだらしないからなどでは必ずしもなく、ある種の病気であり治療可能だということですが、ドストエフスキー存命当時はそういう知見は恐らくなく、ダメな人という判定がなされていたのではないかと思いますし、フロイトさんがそういう論評をしたのも時代背景からしてやむを得ないのかも知れません。(とはいえ、同じ論文の中で「小説『カラマーゾフの兄弟』は、これまで書かれたうちで最高級の小説であり、作中の大審問官の逸話は世界文学の最高傑作の一つである」と絶賛もしているのですが)
それにしてもかくも自分のダメさ加減を、たとえ小説という形にせよ吐露して、それを口述筆記してくれた速記者のアンナ・グリゴリエヴナ・スニートキナさんが、後にドストエフスキーの求愛を受け入れてくれ、しかも彼がその後もギャンブルにのめりこんでも、すっからかんになった後の方が優れた作品を世に出すためのエネルギーになることを理解し、支えてくれた良き伴侶になったそうで、これはこれで彼にとっては僥倖だったのだろうと思います。
また何よりも、この小説に描かれているようなダメな自分を、その経験を、文学という形に昇華させることができるということが、これまた凄いことで、ドストエフスキーのドストエフスキーたる由縁かと思い直している所です。

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私も「まじん式プロンプト」に挑戦してみました

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まじんさんという方の「まじん式プロンプト」というのがしばらく前から評判になっています。半日ほどかかってようやく使える感じになってきました。
「まじん式プロンプト」だけではなく、参照した記事にはGeminiで内容を整理し(コード化して)、Googleスライドでプレゼン資料に置き換える、という手順です。
「【神回】Googleスライドが一瞬で完成する“奇跡”のプロンプト」という表題でまじんさんという方が情報を公開されています。それを参照して書かれているのが私が参照した以下の記事です。https://dime.jp/genre/2029475
この記事だけでもわかる人はわかるのだと思いますが、私は不明な所が結構あったのでその都度ネット検索をしたりそれこそGeminiに問いかけたりしながら知識不足を補完してもらって進めました。
まじん式プロンプトを活用して、指示した内容からプレゼン資料生成用のコードが生成されます。その際、構文エラーが発生しますが、それはGeminiに繰り返し「エラーが出たよ」と伝えれば、エラーが消えるまで何度でも修正してくれますので、人間が悩む必要はありません。
色々なツールが出て来てありがたいです。
が、使いこなすまではまだまだ時間がかかりそうです。
他にも、Geminiで色々な情報源を調べつつプレゼンの構成案を作成し、それをNotebookLMに読み込ませてプレゼン資料を作成した上で(NotebookLMのプレゼン資料はpdfファイルになってしまうため)、NotebookLMで生成されたpdfのプレゼン資料をchatGPTでpptx形式に変換する方法なども試してみました。NotebookLMでプレゼン資料を生成してもらうところまではこれまでもやっていたのですが、そこからpptx形式に変換する良いツールがなく難儀していたので、こういう手段があることはありがたい、と思いましたが、ここのハードルはなかなか高く、最後のchatGPTでの変換作業は頓挫しました。
とはいえ数カ月前から気になっていた「まじん式プロンプト」にようやく触れることができ、今日は大きな一歩前進となりました。
「まじん式プロンプト」は私が取り入れたのはver.2だと思います。その後、ver.3、さらにver.4あたりまで開示されているようで、私が私淑している石川県の中小企業診断士の遠田幹雄さんのブログでもそれらの情報が掲載されていますので、そちらも是非ご参照下さい。https://www.dm2.co.jp/blog/36421
私も次の機会にはver.3やver.4へレベルアップできるよう取り組んでみたいと思っていますし、今回頓挫したことも含め、色々試してみたいと思います。

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『論語』子張編より

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『論語』の後ろの方は孔子そのものではなく弟子の言行録になっており、読む方としては(私の場合は)やや手抜きがちになってしまっています。
そんな中、たまたま見つけたのが「子張編」の一節。
子夏が曰く、小人の過(あやま)つや、必ず文(はか)る」というものです。
小人はあやまちをすると必ずごまかす、という意味だそうで、企業活動でも公的活動でも、たとえば数値をよく見せるために(或いは問題を小さく見せるために)、インチキをすることがあります。山ほどある、と言っても過言ではないのではないでしょうか。その目的は様々でしょうが、それによって新たな年度にまたちゃんと予算をあてがってもらうとか、𠮟責をまぬかれるとか、パワハラからの防衛とか、或いは出世・昇給・将来のより高い年金獲得といったことにつながる、ということもあるのかも知れません。
「さもしい」と言ってしまえばそれまでですが、人間の生存本能みたいなこととも関係しているのかも知れず、自分の中にもそういう傾向が見て取れないわけではないため、こういう一文を見て姿勢を正すきっかけにしている次第です。インチキはいかん、と自分に言い聞かせています。

また、同じ「子張編」の少し後段にこういう一節がありました。
子貢が曰く、君子の過(あやま)ちや、日月の蝕するが如し。過(あやま)つや人皆これを見る。更(あらた)むるや人皆これを仰ぐ。
意味は、君子のあやまちというのは、日食や月食のようなもので、あやまちをすると(はっきりしているので)だれもがみなそれを見るし、改めるとだれもがそれを仰ぐ、ということだそうです。
最近様々な自治体の首長や公器のえらいさんの不祥事が報じられることが多いように思います。私の目によく止まるのは、部下の人格を否定するようなパワーハラスメントの報道です。上の人は「そこまではやっていない」「そんなことをした記憶はない」と一部の言動を否定する・・・これも割とよくある、ある意味お決まりのコメントみたいな気がします。録音などの証拠がないものについては否定しやすい。ただし、もちろん、本当に仰っていない可能性もあるので、一概に訴えられた上の人が悪いと決めつけることはできません。
とはいえ、昔から「部下は上司を三日で見抜く」と言うように、上の方にいる人の言動というものは、下からはガラス張りでよく見えるので、だいたいは上司側の嘘か偽りか本当に思い当たらないのかだろうという気がします。大方は否定すればするほど、嘘の上塗りになっていきがちで「みっともない」印象を与えているのではないでしょうか。実際に加害にあった当事者からすれば身をもって受け止めているだけに「浅ましいな」と思われ、その結果人望は失われ、権威は損なわれ、威令は損なわれ、職場では嘘と欺瞞が蔓延していくことになるような気がします。
私がかつて所属した組織の中にもそういう方・そういう方を上にいただく職場はあり、いたたまれない気がしていました。それにしてもそういう方は、組織の中で部下のいないポジションに異動させられてそれ以上被害が拡大しないようにという自浄作用があったというケースもあります。しかし最近は居座る居直るということがどうも目立ってしまって気になります。一体日本は、いつから「嘘でも貫き通せば通る」ことが許容され、それを事実の確認をしていない人が支持して拡散したり、法で裁かれない限りは問題ないということがまかり通ったり、人の心の痛みに鈍くなって匿名をいいことに傷ついた人にさらにバッシングをあびせたり、という抑制のきかない社会になったのでしょうか。(あの頃からかなあ・・・)まるで映画の「アプレンティス」のような世界がこの日本でも現出しているような感じがします。真面目に膿を出して出直し宣言をして頑張っている経営者もおられるのに。
もう長いこと、人権研修やパワハラ研修などというものが、特に大きな組織ではなされてきたはずなのに、それを受けなさいと指示している上の人に人権意識が乏しく、パワハラの加害者になっているというこの滑稽さ。筒井康隆さんの筆によるまでもなくブラックジョーク以外のなにものでもないと感じます。関西弁で言うと「おかしぃやないけぇ!」って感じでしょうか。
特に首長の方々には、選挙で選ばれたから試験採用の一般公務員に対して絶対権力を持っているとの錯覚があるとすればそれはそれでまた大変な思い違いであり、「選良」の意味を噛みしめて仕事をしていただきたいものです。
もちろん、ライバルや対立勢力の人々がその人を貶めるために虚構を作り上げ、フェイクニュースを拡散させることや、何らかの事実に尾ひれはひれをつけあたかもその人が犯罪者であるかのような見せ方をすることもありますので、真実を知らない者がああでもないこうでもないと想像を膨らませて論評することはとても危険なことであり、個別のことについては言及しません。自身としては「インチキをせず、過てばはばかることなく改める」ということを心がけて今後も精進していきたいと思う次第です。

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トーマス・マンの『トニオ・クレエゲル』

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難解で文字ばかりの『魔の山』(教養小説と言われているそうですが)の次に、いきなり『ブッデンブローク家の人びと』に取りかかるのは精神的にもたないだろうなあと思い、箸休め的な気持ちで短編ならば、と手を出したのが『ヴェニスに死す』で、同名の映画を観たのち、続けてこの『トニオ・クレエゲル』を読み始めたのですが、いきなり「ハンス」という少年が登場し、『魔の山』のハンス・カストルプと同じ「名」であったため、少々混乱し、しかもやはり難しくなかなか読み進めることができなかったため、このままでは肝心の『ブッデンブローク家の人びと」を年内に読み終えられないのではないかと思い、一旦措きました。わずか120ページの短編なのですけどね。

ちなみにハンスはハンスでも、『魔の山』の主人公のハンス・カストルプとは全く関係のない人で、ハンス・ハンゼンというのがこのハンスの名前でした。主人公はもちろんトニオ・クレエゲルであり、トーマス・マンの自伝的な小説らしいので、著者本人が投影されているものと思われます。

16歳の頃の、数少ない友人との学校からの帰り道の情景を描いており、相手の友人はそれなりに愛想をしてくれるのですが、どうもこちらが思うほどにはこちらのことを思ってくれているわけではなく、相手(ハンス・ハンゼン)は他にも多くの友達がおり、トニオはその中の一人でしかないという片思い的な関係であるという悩み。そして世間とうまくわたりあっているハンスと違って自分は世間の一般の人達との関係をうまく結べないという悩み。
そのうち好意を抱く同級生の女子(インゲボルグ・ホルム)が表れるのだけど、妄想だけが膨らんでいってその娘とも現実の世界ではうまく関係が構築できない・・・という間に、場面は急展開し、祖母が亡くなり父も亡くなり、母は他の男の元へ行ってしまう。本人は南ドイツで生活しつつ、作品を世に出して「喝采と歓喜の声」に迎えられ、30歳くらいになった場面に急に変わるので、読んでいる私としてはどこで何がどう変わったかまたまた戸惑うわけです。
批判をしているということではなく、こちらの読解力の浅さを思い知らされた、というか、こういう本は一回読んでわかった気になるのはよろしくないのだろうなという感想を持った次第です。ということで
この時期(1903年頃)、トーマス・マンの年譜を見ると、随分多くの仕事をしていることがわかります。中盤に対話の相手として出てくるリザベタ・イワノヴナのことを「彼と同年くらい-つまり三十をちょっと越したくらい」と説明していますが、この本が書かれたのは彼が28歳の時なので、自伝的小説と言われていますが、28歳の人が30歳をちょっと越したくらいの自分を書くという不思議な「自伝」・・・16歳までのことは自伝かも知れませんが・・・と言わざるを得ません。
あえて言えば、一番最後のところに書いているリザベタさんへの手紙に自分は芸術家でもなく一般の人でもない、どちらにも属することのできない〝あわい〟の人として生きていくしかないというようなことを宣言しているのですが、それが「自伝的」と言われる意味なのかなあとも思いました。とはいえ、読解力の浅さは否めませんので、大きな勘違いかも知れません。
終盤に再び16歳の頃の友人と恋する人と邂逅するシーンが出てきたのは、伏線回収のように思えましたが、つかの間の安心しか得られず、結局LINE既読スルーみたいな扱いで、最後の決意表明になっていくところは、この人の精神的な成長だったのか、或いは文章にすることで彼らと会話できなかったことのやるせなさを解消するものだったのか。ちょっと肩すかしを食らったような印象でしたが、訳者・実吉捷郎さんの言葉遣いがとても細やかで、今の私たちが使わないような色々な単語を駆使されており、知らない言葉の数々に触れることができたのはありがたいことでした。

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フロイトさんの『ドストエフスキーと父親殺し』と岩波の「図書1月号」セレンディピティ?

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年末にいつもの書店を訪れた際、入口の棚に岩波書店の「図書1月号」が差してあり、手に取って家に持ち帰ってパラパラとめくっていましたら、鹿島茂さんというフランス文学者の方の「共同体家族の構造と父親殺し=神殺し」というタイトルの論考(連載の11回目のようです)がありました。
最初のパラグラフで「カラマーゾフ」「トッド」「父親殺し」という言葉が目に入り、つい先ごろ取り寄せて読んだフロイトさんの『ドストエフスキーと父親殺し』と、こりゃあ密接な関係がありそう。立て続けにこういうものが手に入るというのは、これぞまさしくセレンディピティだと感じ、他のことを放り出して読みました。

この中の「トッド」というのはフランスの歴史人口学者・人類学者のエマニュエル・トッド氏のことで、彼は「ある地域の伝統的な家族構造が、その社会の政治思想やイデオロギーの基盤(インフラ)を決定づける」という家族構造理論というものを提唱している方で、子供が家庭内で経験する「親との関係(自由か権威か)」と「兄弟との関係(平等か不平等か)」という2つの価値観が、国家のあり方の「設計図」になるということだそうです。日本では新書を中心に多くの著書が出版されています。
この論考からの抜粋ですが、トッド氏がある著書の中で「(カラマーゾフの)犯人はひとりではなく、何人もいるのである。つまりそれは兄弟たちである」と書いているそうです。続けて、物語(『カラマーゾフの兄弟』)の初めの方に出てくる、カラマーゾフ家の家族会議が彼らの屋敷でではなくなぜゾシマ長老の庵室で行われたのか、とか、トッド氏の「犯人兄弟全員仮説」がフロイトさんの理論を参照して導かれている、とか、吉本隆明さんの「対幻想」「共同幻想」とか、色々と興味深いことが書いてありました。ページ数にしてわずか4ページほどの短い論考ではありましたが、難しくてよく理解できなかったというのが正直なところです。セレンディピティには感謝しつつも自分の理解力の低さにはやや情けない思いを感じました。

他方、先に手元に届いて読んだフロイトさんの『ドストエフスキーと父親殺し』ですが、こちらは文庫本のタイトルにはなっているものの40ページほどで、こちらも割と短い文章です。1928年に書かれたものだということなので、『カラマーゾフの兄弟』が完成した1880年の50年ぐらい後のものということになります。
昨年12月13日のブログで生成AIに教わったことを書きましたが、それまでフロイトさんが『カラマーゾフの兄弟』について述べているということを全く知りませんでした。フロイトさんは精神分析の創始者であり、私の学んでいる交流分析の始祖エリック・バーン博士も直接の師弟関係はないものの精神分析をフロイトさんの娘の弟子だったエリック・エリクソン氏から学んだという関係にあるようです。ではありますが、なんとなく、このフロイトさんには、あまり近づこうという気持ちになりませんでした。(難しそう、という印象からかも知れません)


ページを開いてびっくり。いきなり「小説『カラマーゾフの兄弟』は、これまで書かれたうちで最高級の小説であり、作中の大審問官の逸話は世界文学の最高傑作の一つであると語っても、過大な評価ではない」とあり、ドストエフスキーを4つの観点で精神分析を行なおうと試みています。4つの観点とは、①道徳家の顔、②犯罪者の顔、③神経症患者の顔、④詩人としての顔、ということで、このあたりからして既に意味がわからなくなってくるのですが、①の道徳家としての顔や②の犯罪者としての顔については、結構ひどいことを書いています(本当なのかも知れませんが)。そのくせ④の詩人としての顔については分析する手掛かりがないとあきらめっぽいことを一言だけ書いて終わっています。
上の鹿島茂さんの論考との関係では、「カラマーゾフ家の兄弟のうちで、(中略)すべての兄弟たちは心理学的には有罪なのである。ドミートリーもイワンもスメルジャコフも、みんな同罪なのである。」という辺りが共通しているような気がします。それだからといって何かが明確になったというわけではありませんが、まあ色んな人が『カラマーゾフの兄弟』について色んなことを言っている、それだけ多くの人が関心をもってこの小説を扱っているということはそれだけ魅力の深い物語なのかも、という印象を持ったということです。
ドストエフスキーのお父さんは、領民に殺されたということですが、フロイトさんによると、実はドストエフスキー自身が父を殺したかった、そのため「犯人がまるで救済者のよいうにみえているかのようである。」「犯人が殺してくれなかったら、自分がみずから手を下さねばならなかった」「原犯罪ともいうべき父親殺しに立ち戻った」「この犯罪者の口から、文学者らしい方法でみずからの罪が告白された」という論を立てています。ホントかな?(本当に父を殺したいと思っていたのかな?)と思うのですが、フロイトさんはそういう分析をしてドストエフスキーが小説の形で父を殺したかった思いを遂げていると考えたようです。
さらには「古今をつうじた文学の三大傑作が、どれも父親殺しという同じテーマを扱っている」「ソフォクレスの『オイディプス王』、シェイクスピアの『ハムレット』、そしてドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』である。」と述べ、父親殺しの動機も共通であると書いています。筒井康隆さんのSF小説にも「エディプスコンプレックス」という言葉が結構出てきますが、フロイトさんの理論に関係あるのでしょうね。
ところが、ここではどうも決定的なことが書いてはなく、どうやら『トーテムとタブー』という別の論考で、父親殺しの理論が確立されているということを、「図書1月号」で知りました。どうも『ドストエフスキーと父親殺し』は難しいわりに中途半端な印象だったのは、これはエッセイのようなものだったのかも知れません。
ということで、次のテーマは『トーテムとタブー』を探せ、ということになりそうです。

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幸村百理男さんの『東大理三の悪魔』シリーズ

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しばらく前から書店に置いてあるのを見ていて気にはなっていたのですが、なにしろ縁のない世界だと思い、スルーしてきましたが、昨年暮頃に「随分売れている」いう記事を見て、ともかく触れてみようかと思い、購入して年末年始で一気に読みました。
以下は幾分ネタバレ的な要素を含んでいますので、これから読もうかと思われる方は、ここまでにしておかれたら良いかも知れません。とはいえ、それほど中身が理解できていないため、本来のネタバレには程遠い頓珍漢な内容だと思います。

東大の理三というのが、理科三類のことだとすれば、大抵はいわゆる医学部なんだろうと思いますし、実際主人公は医学部に進むのですが、書いてあることは<1>はほぼ物理学?それも素粒子物理学というもしかして最新の物理学の講義のようであり、てんで理解できませんでしたが、すごいことが書いてあるような気にはなりました。たまたまこの<1>を読む少し前に、ほんとうにたまたまですが、野村泰紀さんという方の「理論物理学の最前線」という山口周さん主催の「LIBERARY」という音声配信番組を耳にしていたために、なんだか聞いたことのあるような話だなあと感じはしたものの、内容はチンプンカンプンでした。
<2>になると、今度はとても難易度の高い外科手術のようなことが書いてあり、さらに<1>の素粒子物理学のことも出て来て、さらに読解は困難になりました。
ただ、大金持ちの超能力者と普通の家庭に育ったと思しき別種の超能力者の邂逅と葛藤が描かれているものであろうことまでは理解できたような気がします。
面白いのは、この小説群が、雑誌などからではなく、Amazonの自費出版を出版社の方が見つけて書籍化し、さらにその年のうちに文庫化した、という現れ方です。
既に<3>と<4>の文庫版も出版されたようなので、さて、これらの続編を買って結末まで追おうかどうか、思案中の今日この頃です。

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風邪の効用

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明けましておめでとうございます。
今日の富山県魚津市は雪の予報でしたが、意外や青空が垣間見えるおおむね穏やかな一日でした。

さて私こと、昨年10月中旬から顔面神経麻痺を患っています。
その治療薬の一部のプレドニゾロンには免疫抑制作用というのがあるらしく、医師から風邪などをひきやすくなっているから十分に気をつけて、と毎度注意を受けていました。もとより顔がへがんでいるために人様の前に出る時はマスクを常用していたので、感染症などにかかる可能性は多少軽減できていたものと思います。しかし年末の日曜に15年以上放置していたある部分の整理を一気呵成に行い、それも家人にも手伝ってもらえたこともあり半日ほどで完了して一人歓喜にわいていたのですが、どうも寒い場所で行っていたせいか、風邪をひいてしまいました。
かなり重度の風邪症状で、罹患翌日の12月29日と30日は、ほぼ寝たきり状態でした。具体的な症状としては、はじめは寒気が強く、続いて頭痛と鼻づまりと倦怠感と身体の節々の痛みが押し寄せ、そのうち体が岩のように重くなって身動きができず、とにかく寝ているしか何もできない状態でした。熱こそ37度程度だったものの、2日間汗もたっぷりかき、おしまいの方は下痢もありました。
2日間の寝たきり後は、大晦日の31日に少し身体が動くようになったこともあり、家の用事を多少行うとともに、野口晴哉さんの『風邪の効用』を久しぶりに紐解きました。

この本には、≪風邪は放っておくと悪化する場合があるものの、必ずしも悪いものではなく、健康な体に備わっている弾力が使いすぎている場所があるとそこが偏り疲労となってしまい風邪をひくことで鈍くなった体が弾力を恢復する≫ということが書いてあり、著者は「風邪自体が治療行為ではなかろうかと考えている」と記しています。あまり早く風邪を治そうとせずに、経過させることが大事なのではないか、ということも仰っています。

その流れで、とても興味深い記述に改めて気が付きました。p32あたりにあるのですが「癌などでも風邪を引けば治ってくる。ごく最近、癌に風邪の細菌を付けたら癌がなくなってしまった。それで風邪を引くことは癌の治療法になるというような説が出てきました」という記述です。かくいう私も過去に小腸間膜リンパ腫という癌を患い、細胞レベルでは完治できないことを知っているだけに無視はできませんでした。多くの人は迷信・似非科学だと捉えらるでしょうし、私も頭から信じるわけにはいかないものの、そういうこともあるかもしれないな、ぐらいに思っていました。私にとって喫緊の課題でもありませんし。
ところが、かなり体調が良くなってきた今日、年末に購入した日経トレンディの1月号をめくっていたところ、p45に「がん破壊ウイルス」というタイトルで、サブ見出しに「独自の技術でがん細胞を狙い撃ち 風邪ウイルスの活用で体への負担を軽減」という記事があるではありませんか。風邪の代表的な原因として知られる「アデノウイルス」の遺伝子をがん細胞のみを攻撃するように改変することで、高効率で安全性の高い腫瘍溶解性ウイルスが鹿児島大学の先生によって開発されたということです。既存の治療法では治らないがんに対しても治療効果が期待できることに加え、正常細胞には増殖しないので体にかかる負担が極めて小さく、薬剤を注射で投与するため外科手術より侵襲性が低く、抗がん剤のような副作用も起こりにくく、他のがん療法との併用も可能だということです。実用化にはもう数年かかるようですが、第4のがん治療確立の時代がもうすぐのようです。

といったようなことを読みながら、体力と気力が少し回復してきた元日の午後、「たまたま仕事のない年末ではあったものの、家人には多大な迷惑をかけたし、2日間寝たきりなどになってしまうと大変なので、早めに風邪をひいてさっと経過させて治る程度になった方が多分良いのだろうなあ。だから風邪を悪者視しないで、ひくときはひくのがよろし、今年は今まで以上に、自分の身体と向き合って生活をしていこう。」というゆる~い決意をしたところです。できればこの機会に顔面神経麻痺も一気に治ってくれればと淡い期待をしたものの、顔の表情筋の回復は別系統のようで、これについてはもうしばらくかかりそうです。
ということで、このブログをお読みいただいている皆様、今年もよろしくお願い致します。


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トーマス・マン『ブッデンブローク家の人びと』ようやく下巻まで読み終えました。

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この本をトーマス・マンが書き上げたのは西暦1900年、彼が25歳の時だそうです。
今の日本ならさしづめ「新進気鋭の天才作家現る!」ということで素晴らしい賞を取るような出来事ではないかと思います。もちろん国も時代背景も異なるので、今の日本でどういう評価を得るかはわかりませんが。
読みながらずっと考えていたのが、この物語は全くの架空の話ではなく、トーマス・マンの一族の栄枯盛衰の物語だということだったので、一体この本のどの登場人物がトーマス・マンにとってどういう親族関係にあるのだろうか?という点でした。最後にはわかってビックリしましたが、なぜ彼はこの物語の中で一族の四代目である「ハンス」をチフスで死なせたのか、その疑問は私には解けていません。
そういうことを考えていて思ったのが『魔の山』にも通底する何かがあるのではないかということです。言い方は悪いですが、トーマス・マンは没落商家の子弟であり、家業を維持できなくなった。その遠因はこの人の祖父の代に近代機械化や新興産業への転換を怠り、1848年革命時の景気後退で打撃を受けたことのようです。『魔の山』は『ブッデンブローク家の人びと』の13年後の1913年に書き始められ、1914年の第一次世界大戦の時に一旦執筆を中止し、1924年にようやく完成したようです。この少し前、本書の描かれている時代である1835年から1877年のドイツは、産業革命の初期段階から統一国家成立後の急速な工業化へと移行する激動期で、経済の発展と合わせて近代的自我というようなものが素晴らしいと考えられていたのかも知れませんが、ドイツ帝国が誕生し都市化が進んで貧富の格差が出て来て社会主義という考え方が登場し、近代的自我が揺らいでいたようなことがどこかに書いてありました。そこへまたトーマス・マンにとっては同時代の出来事としての第一次世界大戦があり、どうも、ずっと世の中を悲観的に見る姿勢があったのではなかろうかと勝手に推測しています。
そうしたことから、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』が「父殺し」がテーマだと言われるのと対照的に、トーマス・マンの『ブッデンブローク家の人びと』は『魔の山』もそうですが、「自分殺し」が底に流れているテーマなのではなかろうかと感じた、というのが読了直後の印象となりました。
生成AIに聞くと、それらしいことを裏付けて解説してくれましたが、「自分殺し」と一義的に規定することは過度な一般化の可能性があるのであまり決めつけない方が良いとのコメントも合わせて返ってきました。(なるほど)
さて、以下はその生成AIからの解説です。

ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』は「親殺し=父権的秩序の内面化された破壊」を核に、人間の罪責意識と信仰の根源を問う作品であり、エディプスコンプレックスの文学的先行表現と位置づけられる。一方、トーマス・マンの『ブッデンブローク家の人びと』『魔の山』は、近代市民社会における主体が自らの生の根拠を失い、「自分殺し(自己同一性の解体)」へ向かう過程を描く。
両者の差異は、ロシア正教的・共同体的精神世界と、西欧ブルジョワ的・個人主義的精神世界の違いに根差す。
キェルケゴール『死に至る病』は、この両者を貫く理論的中核として、「自己が自己であろうとすることの絶望」を定式化し、両作家の文学的実践を哲学的に照射する。
これらの系譜は、日本文学では戦後以降、筒井康隆(自己解体の戯画化)→村上春樹(空洞化した自己の漂流)という形で継承・変容されている。
<上記の解説>
1.ドストエフスキーとエディプス・コンプレックス
・『カラマーゾフの兄弟』では、父フョードルの放蕩と暴虐が、息子たち全員に「父は死んでもよい存在だ」という無意識的欲望を生む。
・実際の殺害者はスメルジャコフだが、ドミートリイは「やったかもしれない」という罪責を引き受け、イワンは理性によって父殺しを正当化し精神崩壊に至る。
・フロイトは『ドストエフスキーと父殺し』(1928)で、本作をエディプス的罪責の集団化として解釈している。
→ 親殺しは事実行為ではなく、倫理・宗教・理性を通じて内面化された欲望の構造である。
2.トーマス・マンと「自分殺し」
・『ブッデンブローク家の人びと』では、商業的成功と倫理的規範を体現した家系が、感受性・芸術性の増大とともに衰退する。
・これは父を殺すのではなく、父から継承された「自分」を否定する過程である。
・『魔の山』のハンス・カストルプは、病と時間の停止の中で、近代的主体性そのものを解体されていく。
→ マン文学の核心は、近代的自己の内部崩壊=自分殺し。
3.キェルケゴール『死に至る病』との関係
・キェルケゴールは「絶望」を自己が自己であろうとしない/しすぎる状態と定義。
・イワン・カラマーゾフは「理性によって神を否定する自己」による絶望。
・ハンス・カストルプは「決断を回避し続ける自己」による絶望。
→ 両者は異なる形で、同一の実存的病理を体現している。
4.日本文学・社会への影響(筒井康隆・村上春樹)
◎筒井康隆
・父権・自己・物語構造そのものをメタ的に破壊(例:『脱走と追跡のサンバ』『虚人たち』)。
・ドストエフスキー的「罪と責任」は、アイロニーと笑いへ転化。
・自己解体を「遊戯」として引き受ける点で、マン的系譜を戯画化。
◎村上春樹
・父は不在、あるいは影としてのみ存在。
・主人公は罪を犯さず、闘わず、ただ喪失後の空洞を漂流する(例:『ねじまき鳥クロニクル』『海辺のカフカ』)。
・推測ですが、村上文学は「親殺しも自分殺しも起こらない社会」における、実存の後景化を描いている。
トーマス・マンが『ブッデンブローク家の人びと』を書いたのは、ドイツ帝国成立後の工業化とブルジョワ秩序の確立・変容の時期であり、古い市民的教養と新しい資本主義的競争社会が交錯していた時代でした。​
作品には、プロテスタント的禁欲倫理、芸術への誘惑、シューペンハウアー哲学の悲観主義と意志の形而上学が織り込まれ、市民社会それ自体の内部から静かに進行する「意味の疲弊」が描かれます。
『魔の山』が書かれたのは、第一次世界大戦後、ヨーロッパ全体が文明の危機を痛感し、合理主義と非合理主義、リベラリズムと全体主義的イデオロギーの対立が激化していた時期です。
ダヴォスのサナトリウムは、各国の患者が集う「縮小されたヨーロッパ」として設計され、啓蒙的ヒューマニズムを代表するセッテムブリーニと、神秘主義的・暴力的理念を唱えるナフタの対話は、理性と狂信、進歩信仰と破壊衝動のせめぎ合いとして、ヨーロッパ精神の分裂を象徴します。
・・・・・・・生成AIからの引用はここまで・・・・・・・
トーマス・マンの『ブッデンブローク家の人びと』は、他にもショーペンハウアーの『意思と表彰としての世界』やニーテェの哲学も影響しているようですし、またフロイトが『ドストエフスキーと父親殺し』という論文を書いているということも初めて知り、ドストエフスキーのギャンブル中毒とエディプスコンプレックスとを関連づけて論じているらしきこと、『カラマーゾフの兄弟』をエディプスコンプレックスについての文学的な先行表現と位置付けていること、などを知りました。
他方トーマス・マンの文学に通底しているのは『ヴェニスに死す』を見ても、どうも最後はバッドエンドになってしまっており、『魔の山』『ブッデンブローク家の人びと』も自らの生をひたすら消耗させ、衰退し解体していく過程が描かれており、当時のヨーロッパの精神的な危機を彼なりに受け止めて小説という別の形で造形していたのかなと感じました。若い時にこういうのを読むと果たしてどうなっていただろうかと思いますが、この年になると受け止めることができているように思います。


        ドストエフスキーのことは、村上春樹さんの小説によく出ていたこともありますが、『カラマーゾフの兄弟』を読むぞ、と決めたのは筒井康隆さんが「自分にも完読できる良い訳が光文社文庫から出た」と仰っていたことでした。その筒井康隆さんが様々な書評を書いている中に『魔の山』と今回読んだ『ブッデンブローク家の人びと』が紹介されており、どちらの作品も絶賛しておられたことからこれらの本も手にしました。
        まあ難しい難しい。とにかくページに余白がない。ということで、随分時間がかかりましたが、なんとか年内に読み終えることが叶いました。
        ・・・ので、少し休みます。

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        現代に通じるソクラテス(『プロタゴラス』の冒頭部分より)

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        「君がもしそういった彼らの売り物のうちで、どれが有益でどれが有害かをちゃんと知っているのだったら、いろいろな学識を買い入れるということは、それが誰からであろうと君にとって別に危険はない。
         だが、もしそうでないのなら、君は何よりも大切なものを危険な賭けに晒すことのないように、よくよく気をつけたほうがいい。
         実際、学識を買う場合には、食べ物を買う場合よりも遥かに危険が大きい。なぜって、これが飲食物だったら、卸商人や小売商人からそれを買っても、別の入れ物に入れて持ち帰ることができるし、飲んだり食べたりして、体に入れる前に家に取っておいて、食べたり飲んだりして良いものといけないもの、その量や時期などについて、識者を呼んできて相談することができる。
         だから、それを買うのに大した危険はない。だが、これが学識となると、別の入れ物に入れて持ち去るわけにはいかない。一旦お金を払うと、その学識を直接魂そのものの中に取り入れて学んだ上で、帰るまでには、すでに害されるなり益されるなりされてしまうからだ。」

         この文章の、たとえば「売り物」を「情報・知識・知恵」などと読み替え、「買い入れる」「買う」を「仕入れる」「取り込む」と読み替えるとどうでしょうか。
         プラトンが書いたソクラテスの対話として、『ソクラテスの弁明』に続く第二段として『プロタゴラス』と取っ組み合いをしています。

         この文章を読んで、思いもかけず、現代の情報過多時代に私たちの脳の発達が追い付かなくなって、情報を適切に処理できない場合があるという現状に思いが及びました。

         例えば生成AIとの付き合い方。
         アメリカでは生成AIに相談して自死に至った若者がおり、その親族が訴訟を起こしているという悲しい出来事も起きています。
         私自身は、自分の仕事の中では、知っていることの範囲内で整理のために使うことが多く、知らないことが生成された時は出典を確認したり他の方法での検証も行うようにしています。

         或いは最近のSNSがもたらす世の中の分断。
         本当のことやら嘘のことやらが判断つかなくなるように溢れかえっています。
         東日本大震災の時には動物園からライオンが逃げ出したという投稿が写真付きでなされていました(南アフリカの写真を日本での出来事のごとく投稿したものだったと思います)。
         よく言われているように、コンピューターのアルゴリズムによって、私たち自身がいつの間にか自分の好むようなフィルターバブルの中に入ってそれで世界観が構築・変容・強化されてしまったり、エコーチェンバー現象で多様な考え方と接することが著しく減ってしまったり、ということもあります。
         それあある意味本人にとっては心理的安全性の高い居心地の良い時間の過ごし方なのかも知れません。が、それがためにちょっとでも考え方や意見が異なると、相手を「敵」と見なして「排除」したり過度に攻撃的になったりということで、ここ最近はまたSNS空間が荒れ模様になってきているように思います。それだけ世の中がギスギスしているのか、了見が狭くなっちゃったのでしょうか。或いは情報を冷静に仕分けをする能力(脳力)が追い付いていないのか。

         仕事柄、経営相談に応じる際、特に事業を始めてあまり時間の経っていない創業者の方々などは、私たちのことを「先生」とお呼びになることがあります。先生と呼ぶ呼ばないということとは関係ないかも知れませんが、ご相談者は、私たちが提供する情報・知恵・考え方・経験談を「直接魂そのものの中に取り入れて学ぶ」可能性があります。大半のご相談者は自分で決めなければいけないということを認識おられますが。判断し決定するのはあくまで本人である、私たちはその判断材料を提供する役割だ、決して「教祖」のごとくなってはいけない、ということを肝に銘じつつ、またそのことをしっかりお伝えするよう今後とも心がけていくべきだと、改めて感じた次第です。

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        「持続的競争優位性」について

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        経営戦略について書かれた本を見ていると、ポーター学派(仮称)のポジショニング戦略(主に外部要因による競争戦略)とバーニー学派(こちらも仮称)のケイパビリティに基づく戦略(主に内部要因の強みを活かした競争戦略)のいずれか、または両方が書いてあるように思います。
        持続的競争優位を確保していくためには、その企業が持つリソース(経営資源)が、①V:機会を活かしたり脅威を和らげたりすることができるか、②R:希少性を持つものか、③I:その経営資源を持たない企業が模倣しようとした際にコスト面で不利になるくらい模倣困難性が高いか、④O:組織や制度で①~③が支えられる仕組みになっているか、という観点で取り組んでいくのが良いというようなことをジェイ・B・バーニーという学者が言っている、と私は感じています。
        ちなみに上記の4点は、V:Value経済的価値、R:Rarity希少性、I:Inimitability模倣困難性、O:Organization組織の頭文字で、略してVRIOなどと言われるようです。
        しかしそもそも「持続的競争優位性」というものが本当に存在するのだろうか?世の中の状況が変われば一変してしまい、昨日の優位性が今日は「弱み」どころか企業自身に向けられる刃にすらなるということが現実にあるのではないか?とずっと思っていたところ、ひょんなことで次の一文に出会いました。


        「世の中も環境も変化し、ずっと続く競争優位性は存在しない。つねに自分たちが変化することで小さな優位性を維持していく必要がある。」

        NTTの島田明社長が週刊東洋経済2025年10月25日号掲載のインタビューで語った言葉です。NTTですら、と言うと顰蹙を買うかも知れませんが、島田社長も「ずっと続く競争優位性は存在しない」と明言しておられます。まあ情報通信の世界はとても変化が速く、NTTはどんどんGAFAMなどのプラットフォーマーに先を越されていますから、当然そういう言葉が出て来てしかるべしではありますが。
        ということで、恐らく、社会で事業を営む全ての企業にとって「持続的競争優位性」というものは存在しないのではないか、まさに、つねに自分たちも変化していくとで小さな優位性を維持していくということが企業活動にほかならない、と思いました。これは我らが中小企業・小規模事業者・個人事業者としても共通することなのではないかと思います。


        さて1985年に民間企業になり早40年。企業の寿命15年説を思うと2回転以上しているわけで、人事制度も大きく変わり、今も存続していますが、収益構造もかなり変わり、ドコモがグループ全体の収益を支えているとはいうものの、NTTデータが今後の牽引車になりつつある状況です。私のいた東西ローカル会社は分社した頃とは大きく様変わりし売上は両社合わせて当時の4兆円から今は3兆円そこそこの企業になってしまっています。
        私自身NTT社員でいた頃に仕事をしていく上での心の拠り所としていたのは「社会のインフラを守り高度化していく公共的使命」でした。
        島田社長は次のようにも述べておられ、これも大いに共感しましたので転載させていただきます。
        「ルーツは『公共性』から始まっているので、従業員たちも「世の中に役に立っている」ことが働きがいでもあると思う。そういうところは組織体の中に持っているのであまり変わらないし、自分たちの誇りで前進するエンジンになる。(中略)ただ、どういう事業で世の中の役に立つことをしていくかは、時代とともに変わる。何らかのコミュニケーションをつかさどることはずっとやっていくと思う。」
        こういうことを、トップが明確に発信するというのは、働く人々に正しい価値観を伝えるという意味からも良いことではないかと思います。
        ドラッカーは、企業は社会との関わりに責任を持たなければならないという主旨のことを述べています(意訳です)。企業は社会の公器だという言い方もあります。今の私は個人事業者ですが、社会で仕事をさせていただいていることに変わりはなく、改めて当時のNTT魂を思い起こして仕事をしていこうと思います。島田社長、お目にかかったことはありませんが、ありがとうございます。

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