ロボットプログラミングの授業(小学生向け)のこと

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ご縁のご縁のご縁で、ITマスターという役割をいただき、時々お仕事をいただいています。もちろんジェダイの騎士のようなことはできません。小学生から高校生までを対象に、将来の職業としてIT関連の仕事を選んでもらえたら良いなあという厚労省系の施策の一環です。

2017年度から取組が始まり、初めの頃は職業体験イベントでのお披露目が中心でした。本来は小学校高学年向けに作られたカリキュラムということで、担当の職員さんが各小学校などを回り、出張授業を受けてみませんかと提案しておられた甲斐があり、2年目からはあちこちの小学校で出張授業を実施してきました。

いよいよ来年度2020年度からは小学校でプログラミングが授業で必修化となるということもあり、この一年は随分多くの小学校から引き合いがあり、私たち講師陣も大忙しでした。珍しいということからか、テレビ、新聞などマスコミの取材も結構ありました。ありがとうございました。

毎回20~30人の生徒を対象に実施するということで、実機を使うため、操作指導をする必要があります。かつ受講者全員がある程度は触って実感できるようにするという目標があるため、一人の講師で対応することは極めて厳しいものがあります。
おかげさまで私と同じITマスターの登録者が増え、小学校からの引き合いの増加とともに、一回の授業で同時に数人のITマスターが携わって授業を作ることができました。その都度メイン講師も持ち回りでできるようになり、他の講師の語りや進行の仕方など、毎回とても勉強になりました。 自分でもインストラクションプランは作りましたが、講師によってはA3数枚にわたる進行表(すごい!) を作っていた方もおられました。

今日が今年度の最終回でした。富山県西部の某小学校で5年生総勢61人が参加し、人数が多いので1、2限目と3、4限目の2回に分けての実施でした。基本的な進め方はカリキュラムに沿って同じやり方なのですが、子どもたちの発想は実にユニークで、毎回楽しく授業を進めさせてもらいました。来年度は正規の授業としてプログラミング(ロボットということではないのでしょうけど)が導入されるため、恐らくこの授業に対するニーズは大きく減るような気がしますが、一般的なプログラミングとロボットを使ったプログラミングは必ずしも同じではないので、案外またニーズが続くかも知れません。

ITマスターとしての役割はまだ他のメニューもありますので、今後も精進が必要なようです。がんばらなくっちゃ。

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久しぶりのチーム・コンサル

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過日、ある先輩診断士から声をかけていただきました。長い付き合いの、ある中小企業の経営者から「後継者のことで、複数の候補者がいるが、誰にすべきか悩んでいる」という相談を受けた。ついては、それら複数の候補者から絞り込むための知恵を一緒に考え、提案したい、とのことでした。先輩は私ともう一人の診断士に声をかけられ、チーム・コンサルがスタートしました。

初回は社長へのヒアリングです。進め方については腹案をリーダーに示してはいたものの、実際に経営者の思いを直接伺うことが大事だとの判断で、進め方の案を事前に出すことはしませんでした。ヒアリングの結果、複雑な事情も教えていただき、その辺りも考慮しつつ、進めることが必要であるとわかりました。
とは言え、誰を後継者にするか決めるのは現・社長である、ということはチーム一同共有認識として、以下のように進めました。

まずは後継候補者へのインタビューです。この時の留意事項は、「あなた方は後継候補者です。これから選抜面接をします。」といったようなことは言わないことです。もちろんケースバイケースで、そのように伝えてインタビューをした方がいい場合もあるでしょうが、今回はそれについては触れずに、皆さん幹部であり今後会社がさらに良くなっていくために現在の問題点や課題についてお聞かせいただき、後日幹部でその解決策等の話し合いをする、という説明にしました。

インタビューの結果を整理し、次に、後継候補者である幹部たちに同席してもらい、グループディスカッションを行いました。インタビューで出された問題点や課題については、あらかじめコンサルチームでその背景にあると想定される一般的な原因について仮説を立て、マップにしておきました。マップはあくまで仮説ですので、「参考になさっても結構です」という言い方でマップを見ていただきながら、多数出された問題点や課題の中から、幹部の皆さんに緊急度と重要度の高いものを選んでいただき、それらについて付箋紙を使って原因の深掘りをしてもらい、さらに付箋紙を使って対策案を検討していただきました。

その間、私はファシリテーションの真似事のようなことをして進行のお手伝いをし、もう一人の診断士は観察役(及び記録役)を担いました。誰が次の経営者に相応しいか、など、一回や二回の面談やミーティング観察で赤の他人が判断できるものではありませんが、少なくとも気心の知れた間柄で交わすディスカッションの様子を見ていれば、誰がどんな時にどんな言動をするかの普段の癖(やその背景にある考えの深さ・浅さなど)が知らずに表れてきます。それを観察し、記録し、経営者に提示することで、経営者にとってもっとも望ましいと思われる言動をしている人が誰なのか、についておのずと経営者が判断できる材料を提供することができるのではなかろうか、と考え、上記のような進め方をしました。虚心坦懐の観察がとても重要です。

後継者にはどなたがなってもおかしくはないのでしょうが、誰かに決めなくてはならない。いずれ経営者にも引き時がありますので、後継者をしっかり決め、内外にそのことを示し、自身は後見役として支援&指南を行う。そうした承継ができれば、事業はしっかり次世代につないでいくことができるのではないかと感じます。しかしもちろん問題はこの先も山積しています。誰かに決まったとして、他の幹部はどう出るか。場合によっては会社を後にする人が出てくるかも知れず、しかしそれが損失であると経営者が判断するならばしっかり引き止めねばならず、そのためには待遇をどうするか、どういう期待役割をその人に伝えるか、なぜ他の人なのかをどう伝えるか、など、やらなくてはならないことはまだまだ沢山あります。

色々と勉強にもなった久ぶりのチーム・コンサルでした。

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コンタクトセンターのマネジメントと交流分析

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経営コンサルタントの仕事をしている中で、時々「交流分析」(米国のエリック・バーンが創始した心理学)の知識を活用する場面があります。

今回は、ある企業のコンタクトセンターにおけるマネジメント力向上のお手伝いでの事例です。そのコンタクトセンターには、業績のさらなる向上、従業員が明るく元気に働けるような環境改善、などの課題がありました。

組織の長である店長さんたちと個別に話をしていたところ、それぞれ店長さんも係長さんたちも、毎日忙しく業績向上に向けて数字の管理やオペレータさんたちの後処理やクレーム対応などで働きまわっていることがわかりました。しかしなんとなく職場のムードが沈滞していたり、業績がなかなか上向かない、やる気のなさそうな人もいる、ということでした。

よくよく聞いてみると、店長さんがみんなに「おはよう」といった挨拶をしていない、店長(男性)によっては女性が多い職場での勤務経験があまりなく、どう対応して良いのかわからない。下手に声をかけるとセクハラだと言われるのではないかと恐れ、結果として誰にも挨拶の声すらかけられなくなってしまっている、そんな状況が見えてきました。

これでは仕事をする以前だ、と感じました。各店長さんの個別の課題はそれぞれまちまちですが、コミュニケーションレスの問題はかなり多くの職場に共通していそうだということが見えてきました。朝起きて挨拶しない家族はない(ちょっと極論ですが)、ということを引き合いにお示ししました。

その上で、まず、係長さんたちに所掌のオペレーターに対して朝必ず自分から声をかけるように伝えて下さい、とお願いしました。そして、マネージャー自身が身をもってそれを示すことが大事なので、店長さんは少なくとも係長さんには必ず声をかけ、できれば何か褒めてあげて欲しい、なんでもいいから、と伝えました。その上で「交流分析」のストロークの話をしました。

・人はストロークを得るために生きている。ストロークを得ることがなければ生きていられない。ストロークには肯定的なものと否定的なものがある。それらを決めるのはストロークの発信者ではなく受け手である。叱りつけるのもストロークだが、できれば人は自分にとって心地よいストロークを得たいと思っている。否定的に感じるストロークも条件をつけて「〇〇だから良くない」という風に伝えれば、教育的な効果があるので、否定=だめというものではない。しかし、最もやっていけないのは「無視」である。

皆さんの職場の方々の多くは、この「無視」の状態に置かれていたのではないでしょうか。それでは仕事にしっかり取り組もう、この会社で頑張ろうという意欲など生まれません。従って、可能な限り、オペレーターも含め全員に挨拶ぐらいはやって下さい、というお願いをしました。

店長さんによっては「受注したらその瞬間に褒めます」と宣言をしてご自身のマネジメントのあり方の変革を始めた方もおられます。有言実行。その結果、自分から「売りましたよ」と店長席まで報告に来るオペレーターさんも登場したそうです。これまでオペレーターが店長席に来ることなどなかったのに、と仰っていました。ストロークの効果絶大です。

またある店長さんはオペレーター全員と面談をしたそうです。これまではオペレーターと面談などしたことがなかったようです。こちらから直接働きかけて会話をするということ自体、はばかりがあったようです。

その結果、職場の様々な問題点や自身のマネジメントに関する要望も沢山聞けたようです。中には個人的な悩みの相談も・・・。

次の課題はそこです。職場のトップとの直接のコミュニケーションができるという安心感、話を聞いてもらえるんだという信頼感が醸成されると、次に出てくる課題は「交流分析」でいうところの「心理ゲーム」です。もちろん、このコンサルティングは「交流分析」の授業ではないのて、心理ゲームや時間の構造化という専門的な言葉を多用するわけにはいきませんので、「コミュニケーションの段階が深まっていくと、人によっては無意識に相手を自分の心の闇に引きずり込もうとする人が出てきます」という警告を発しています。既にそういう場面に出くわした店長さんもあったようです。今後さらにそういう人が増える可能性があります。しかしそれは悪いことではなく、それだけあなたが信頼された証しです。ではありますが、あくまで会社でありビジネスの世界なので、ある程度は話を聞いても途中で仕事そのものの話に戻すことが必要です、と助言しています。さすがに「交差交流をしてみて下さい」とは言えません。

そんな風に経営コンサルティングにおいても「交流分析」の知識が役に立つ場面が色々あります。

ところで、コンタクトセンターの経営に関して何か参考になるものがないかと探してみたら、良さそうな参考図書があり2冊購入し、ひもときながら仕事をしています。たまたま2冊とも同じ方の著書でした。

『コールセンターの経営学』『戦略的コールセンターのすすめ』(谷口修氏著)

随所にいいことが書いてあります。「オペレータは、業務時間中、電話や画面越しに顧客と向き合い続けている。(中略)休憩時間を除いて、社内のメンバーとコミュニケーションを取る時間はない。一日の業務を振り返って、「対話をした相手は顧客だけ」という状態では、企業への帰属意識もチームワークも生まれない。(中略)家庭や友人関係についても話し合うことのできる仲間の存在が長時間の仕事に耐える拠り所になるはずだ。(中略)交換日記を行っているセンターも数多い。」「センターは、業務自体が単純ではなく、複雑化、高度化していく顧客対応に追随する専門能力を持たざるを得ない組織だ。(中略)そのような組織に、経営陣が直接日頃の努力を労うことや、献身を感謝する言葉をかけるということでセンターのメンバーは、大いにモチベーションを上げることにつながる。<経営陣の理解が必須>」「執務環境のベースとなるのが『職場の明るさ』だ。皆と達成感を共有して喜びあい、わくわくするような楽しい雰囲気が職場を活性化させる源となる。そこにはリーダーのスマイルが不可欠だ。」などなど。

まるでこの本に書いてあることを自分が読んでいたのかなと思うくらい、共感するところが多いです。交流分析の知恵を生かしながら、個別業界のことも勉強してコンサルティングのレベルを高めていかなければと思います。

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陳舜臣さんの『小説 十八史略』再び

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雑誌「財界」の副主幹だった伊藤肇さんが著書の中で、日産コンツェルン総帥の鮎川義介氏から「十八史略の中に4517人の人物が登場している。しかもその登場人物の性格が全部違うんだ。したがってこれを徹底的に研究すれば、おのずから人間学とか人物学とかが身についてくるのだ。読めば読むほど味わいが出てくるし、人生が深くなる。何しろ無数の人間が気の遠くなるような長い時間をかけて織りなした壮大な社会劇が『十八史略』なんじゃかなら」と言われ、その足で神田の古本屋にとんでいった、と書いておられます。さらに、買ってはみたが『十八史略』の読み方がわからず、再度鮎川義介氏に教えを乞うたところ、安岡正篤氏について学びなさい、と言われ、爾来安岡正篤氏を師と仰いで学びを深めた、というエピソードがあります。

安岡正篤氏につこうと思っても既にこの世になく、伊藤肇さんもずっと前に鬼籍に入られましたが、幸い私のような庶民にも手の届くところに、陳舜臣さんが「小説」という形で全六巻ものの文庫本を残してくれています。

四巻目に入ってから、よく知っている(つもりの)三国志になり、興味が途切れてしまい、途中で放置した状態でかれこれ10年ぐらい経ってしまいました。久しぶりに書棚から取り出して、続きを読んでみると、やれ面白い、やはり面白い。孔明が亡くなり、生ける仲達が走り、とそこまでは悲報五丈原という感じですが、その後の晋建国から八王の乱に至る歴史がまた凄いことになっています。

晋の建国者は司馬炎ということになっています。しかし実質は祖父の̪司馬懿仲達が魏で実権者になっており、その子の 司馬昭も魏の重臣となり、そこから司馬炎に至るまでは紆余曲折がありつつ、魏の皇帝から禅譲を受けるという形で晋を建国します。司馬仲達や司馬昭が魏を奪わなかったのは、魏の禄をはみながら王位を簒奪した悪者、と後世言われないように慎重にことを進めた、と書かれていました。これは多分に前漢から王位を簒奪した王莽の言われようが当時もひどい悪者として扱われていたからであろうと思います。

さてこの晋の初代皇帝の司馬炎。三代目ともなると相当なボンボンだったようです。口を開けて天を仰いでいたら棚から牡丹餅よろしく天下が転がり込んできたような塩梅ですから、仕方のないことかも知れませんが、親の教育がなってなかったのかも知れません。呉を滅ぼし、天下統一を成し遂げた直後、天下安寧のために徳政をしたわけでもなく、司馬氏の安寧のために行政制度をしっかり整えたわけでもなく、「呉の国には美女が多いそうだから5千人ほど美女を連れてきて皇宮に入れろ」と命じたとか。

そんなこんなで彼の皇宮には1万人もの女性がいたそうで、毎晩その女性たちとの時間を過ごすのですが、彼女たちはそれぞれ自分の部屋を持っており、件の皇帝さんは選ぶのが面倒で羊のひく車に乗って部屋の前をめぐり、羊が止まった部屋に入っていったとか。女性たちもさるもので、羊に止まってもらうために羊の好きな「竹の葉」を部屋の前にさし、羊の好きな「塩」を地面にまいていたとか。飲酒店が店前に「塩」をまく習慣はここから来ている、と陳舜臣さんは書いています。へええーっという歴史のエピソード。

司馬炎は26人の王子を残し、行政体制をしっかり整えぬまま55歳でこの世を去ってしまい、その後残された奥様たちや子どもたちで天下大乱が続き、後の世に「八王の乱」という内戦がもたらされ、結果晋の疲弊と再びの不安定な三百年(五胡十六国時代と南北朝時代)につながってしまいます。じいさんの司馬仲達や父の司馬昭の慎重なことはこびが雲散霧消してしまうことになってしまいます。

私たち経営コンサルタントの仕事でも、人との関わりがとても多く、歴史に学ぶべきことも沢山ありそうです。十八史略、またおいおい読んでいこうと思います。(鮎川さんは何度も何度も繰り返し読め、と言っているようですが、まだ一回目の途中。道は長い・・・)

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アナログコミュニケーション実践編

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倉益幸弘さん率いる「株式会社インパクト・コンサルティング」の支援現場に同席させていただいてから4年半になります。機会を見ては付箋紙を使ったアナログコミュニケーションの真似事をさせていただくようにしています。

先日は、ある組織のある部門で「新しい事業の提案があったが、具体的にいつ誰が何をするのかがまったく考えられておらず、このままでは始まらない」という相談をいただき、すかさず「付箋紙会議」の提案をしました。

現場の責任者・実務者など最低3人、できれば5~6人くらい集めて下さい、とお願いし、大きめの付箋紙とマジックと模造紙の用意をしていただきました。あいにく模造紙は伝わっておらず、使っていないカレンダーの裏面を張り合わせて模造紙もどきを作って行いました。

今回のテーマのポイントは、提案されている新規事業を実施するために、具体的に何をしなければならないかが、関係者の間で共通の認識になり、それを誰がいつやるか、についても関係者が共有することです。実施すべきことと実施すべき人が決まれば、あとはやるだけです。

先に発想するためのガイドを提案しました。「許認可」「ハードの整備」「人のスキルや雰囲気などソフトの準備」「集客」などです。これにこだわる必要はなく、これ以外のアイディアが出てきてもどんどん出していただきます。ガイドはあくまで発想のための呼び水のようなもので、「人」「モノ」「金」「情報」といった枠の提示でもなんでも良いと思います。

参加されたメンバーにそれぞれ何をしなければならないかを考えてもらい、考えたことからどんどん付箋紙1枚に1件記入してもらいます。この「1枚に1件」が大事で、極力キーワードだけを書いてもらうようにします。

書いていただいた付箋紙を模造紙もどき(もちろん白い面)に貼っていきます。今回は時間軸を最初から横軸に取るようにしました。書いていただいたものをどんどんいただきます。ある程度貼ってから、少しずつ整理していきます。一枚一枚について、意味や内容を確認します。同じ内容のものがあれば隣に貼ります。一枚も「これは無関係だ」と言ってはずしたりすることはありません。こうすることによって、皆さん自分の出した考えが大切に扱われているという誇りが芽生えます。とまあそれほどおことはないにしても、少なくとも悲しい気持ち・失望・挫折感を味わうことはありません。一枚一枚を丁寧に扱うことも大事です。どうしても今回のテーマと関係なく欄外にずらす場合でも、書いた人の同意をもって確認してからずらすことが望ましいです。

付箋紙会議のやり方(一部)

書いてある付箋紙が具体的ではない場合、「これを具体的にするにはどうしたらいいですか?」とか「これの前にすべきことはありますか?」などと聞いて、皆さんから声を出してもらいます。出てきた意見をまた誰かに付箋紙に書いてもらい、それを発問のきっかけになった付箋紙の下や左側や右側など、時間軸を意識して関連付けて貼ります。

メンバーが同じ方向を見ながら一緒に文字を見て、ずれがあれば合わせるための付箋紙を新たに追加し、それをまたみんなで見て、ということを繰り返していると、ファシリテーターが発言しなくても、メンバーの方から異論や疑問や建設的な新たな提案などが出てきます。・・・といったような議論の活性化と認識の共有が短い時間で形成できるのがアナログコミュニケーション、付箋紙会議のメリットではないかと思っています。

仕事の量やリミットが見えてくると、従来の担当決めだけに縛られない、自由な発想が出てきます。仕事の担当決めに従ってものごとを考えていくと、特定の人に負担がかかりすぎたり、組織の硬直化を招いてしまう恐れがありますが、やるべきことを洗い出してからやる人を考えると、ものごとの優先度にあった人のアサインがやりやすくなります。もし担当としてみんなで決めた人にその仕事をするためのスキルが足りない、となった場合はみんなでどうサポートするか、という議論もできます。

こんな感じで進めてみた結果、参加したリーダークラスの方からは、「一人で事前に考え、ある程度完成に近いものができていたと思っていたが、現場の人とこういう風に話し合うと、想像もしていなかった問題点が明らかになったし、吐き出すべきものを全部吐き出し、取組事項と役割分担もできてスッキリした」というコメントをいただきました。

このグループのミーティングの進め方を、近く、組織全体に紹介する予定です。紹介するのはこのグループのメンバーです。各グループで同様のミーティングを実施してもらい、組織の再活性化に活用していただくことができればと思っています。

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歴史の見方が変わっていくことについて

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先日ラジオを聴いていたら、私たちが小中学校で教わった江戸時代は「士農工商」という縦型の身分社会だったというのは、後の世に捏造されたものだったという話が出ていました。

そもそも「士農工商」というのは中国から来た概念であり、しかも「全ての職業の人たち」というような意味合いだということでした。「農」が「工」や「商」よりも上位に位置付けられていたということはなく、それらが4階層のピラミッド構造になっていたという事実もないという話でした。

教員を務めている親族に聞いたところ、確かにそのとおりで、階層は、武士の下に「町人」と「百姓」が並立していた、というふうに今の教科書はなっているそうです。この辺のことはネットにも既に沢山書いてありますね。

しかも百姓というのは農民だけのことを指すのではなく、色んな職業の総称だということです。当時差別されていた人たちはそのさらに下、ではなく、「外の人」という位置づけだったという話もありました。

網野善彦さんの歴史書にはヒーローが出てきません。多くの歴史書は人物中心で描かれており、その人物がどのような立派なことをなしたか、それによって日本という社会にどういう影響を与えたか、という観点で書かれており、読めば納得し感心し記憶に刻み込まれていきますし、そのような歴史書は読みやすいです(私の場合、ですが)。そんなわけで、ついつい敬遠しがちでした。

しかし今回上のような話を聞いて、そういえばそんなことを研究して世の中の日本の歴史観を見直させてくれたのが網野善彦さんの色々な著述ではなかったかと思い起こし、『日本の歴史をよみなおす』を紐解いてみました。

網野善彦氏の著『日本の歴史をよみなおす(全)』(ちくま学芸文庫)

書かれていたのは、縄文や弥生の時代には恐らく差別はなかったということ、13世紀頃までは文献を見る限り差別はなかったということ、13世紀後半頃から「人間と自然のかかわり方が大きく変化してきたこと」「自然がより明らかに人びとの目に見えてきたが故に、ケガレに対する畏れが消えていった」「それにともなって、ケガレを清める仕事に携わる人びとに対する忌避、差別感、賤視の方向が表に現れてくるようになった」。しかしそれだけではなく、「日本の社会において悪とは何か、・・・いかに考えるべきかについて、かなりきびしい思想的な緊張のあった時期だった」ともあります。その前は神仏の奴婢として「聖なる方向に区別された存在」であったり、「畏れられていたケガレを清める力を持つ聖別された職能民として社会の中に位置づけられていた」、「権威をもって威張っていた」「商売もしていた」「なんらかの事情で平民の共同体からは排除されていた」が、「裁判の訴状には自分たちはこれこれの仕事をしているとても重要な職業の者だということが書かれている」など、差別とは違う属性を持っていたことが文献から読み取れる。しかし徐々に自然への畏怖心の変化とともに、区別が差別に変わっていき、さらに江戸幕府でそれを固定化した、ということのようであり、決して昔からずっとそうだったわけではない、というようなことが書かれていました。一遍上人をテーマに描いた同時代の正反対の書物『一遍聖絵』と「天狗草子」に関する記述も面白かったです。

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アメリカの歴史

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アメリカは一つじゃない、ということは、アメリカに限らずどこの国でも同じことなのでしょうが、外と対峙する時のかの国の力強さを考えると、なんとなく一枚岩の国なのかなという錯覚に陥っています。

その、時として一枚岩に見えるアメリカにおいて、国を二分する大戦争「南北戦争」が起こった理由や、どういう経緯で終結に至ったのか、戦後の国内の分断や国民相互の不信感は修復できたのか、など、知らないことだらけだと思い、アメリカの歴史、特に南北戦争のことを少し調べようと思い、図書館で『アメリカ史』(紀平英作編、山川出版社)という本を借りてきました。

日本は、古くから中国や朝鮮半島と交流があるため、歴史の学習において、中国の歴史も一緒に学ぶことが多いです。しかし編者の紀平さんも書いていますが、1853年にペリー提督が軍艦4隻を率いて浦賀にやってきた時を境に、アメリカは海を挟んだ隣の国として極めて近い関係にあり続けてきました。当時のアメリカの人口は、アメリカ統計局のデータから類推すると3,000万人に満たず、恐らく日本の人口よりも少なかったと思われます。(1850年 2,319万人、1860年 3,144万人 アフリカから連れてこられた人々がこの人数に含まれているかどうかまでは確認に至っておらず)http://ocw.nagoya-u.jp/files/221/lec10.pdf
そんなことも私は知りませんでした。考えたこともありませんでした。 しかし19世紀のアメリカは帝政ヨーロッパの動乱と産業革命後の需要をうまく取り込んで、めまぐるしい工業化と領土拡大と経済発展を成し遂げていたようです。

アメリカが国として太平洋岸の土地を自らの領土にしたのは1846年だということです。しかしそれは北部のオレゴンであり、その後メキシコ領だったカリフォルニアなどをメキシコとの戦争で1848年に獲得。日本にやってきたわずか5年前です。

この本を読んで初めて知ったことのもう一つ。今のアラスカ地方は、1763年頃はロシア領だったということ。アメリカがロシアだった・・・というと言いすぎですが、少なくとも北部の一部はロシアが占有していた時期があったということで、米ロ関係ということを考えると、近親者なのかなあと思わざるを得ません。ロシアからすると、お宅のこの辺は250年前はウチだったんだよ、という感じでしょうか。しかも当時はイギリス領とフランス領とスペイン領というものと同列にロシア領があり、アメリカという独立国が存在しない時期です。

上部(北部)左側がロシア領

さて、なぜ南北戦争という同国人での争いが行われたのか。1807年に奴隷貿易禁止法というものが制定されたとのことです。差別禁止という考え方もあったようですが、もっと大きな声はアメリカを白人だけの国にしようという意見であり、そのために黒人をアフリカに返そうという考え方だったようです。そのためにアメリカはアフリカの一角にリベリアという国を作り、そこへアメリカの黒人を引っ越しさせようとしていたようです。みんながみんな同じ考え方ではなく、色んな考え方があって、そのうちの一つではあったようですが。

法制定当時は、多くのアメリカ人が奴隷制は自然消滅するだろうと考えていたとのことです。しかしイギリス産業革命が進展して、アメリカ南部で栽培されていた綿花への需要が増大して、綿花栽培の担い手である奴隷が必須だったため、奴隷制が息を吹き返してしまったということのようです。一方北部は自国で工業化を進めればヨーロッパに高く売れるとばかりに紡績工場を作って木綿をどんどん製造した、ということです。外国から工業製品が安く入ってもらっては困る北部工業地域の人たちは関税を上げようとし、最高税率40%という時期があったそうです。他方南部の人たちは安く輸出したいがために、関税には反対。そんな南北の利害相反が相互の関係を悪化させていったようです。

長らく、南北の上院の人数は、色んな知恵を出しながらうまく妥協して同じ人数になっていたようです。しかし、徐々に北部が、人口では2.5対1、工業生産額では10対1、農場面積で3対1というふうに南部よりも圧倒的に力を持つようになり、国会議員の数も北部が多くなるという状況になり、南部にとって不利益を蒙るような関税率が維持されたようです。その結果、南部にとってこの合衆国にいると損する、という判断が働いたようで、合衆国から離脱し、南部の6州が「アメリカ連合国」という独立国を樹立した、ということです。それに対して時のリンカーン大統領は、アメリカ全土で選ばれたという正当性がゆらぎかねないと自分の立場を維持するために、彼らは反乱分子であり、討伐しなければならない、とばかりに戦争を始めた(戦端を開いたのは南部だったようですが)、というようなことがこの本には書いてありました。

私なりの解釈でつづめて言えば、関税をかけたい人とかけたくない人の意見の相違があり、関税をかけられ続けては困る人たちが「そもそも独立州が集まって連合しているだけなのだから離脱しても構わない」と考えて離脱し、オレの正当性はどうなる!と怒った行政トップがその動きを潰しにかかって始まったのが南北戦争だった、ということのようです。イギリスやフランスは、アメリカが一枚岩ではなく分裂してくれていた方が世界のパワーバランス上は良いとの考えで、南部を応援しようとの思いもあったようですし、南部もヨーロッパは自分たちに味方してくれると期待していたようです。そうこうするうちに、南部の奴隷を解放すれば、北部の戦闘員として使えるという打算もあり、南部地域に対する奴隷解放令を(最初は準備令だったようです)出し、その効果として南部から多くの奴隷が逃げ出して北部の軍に参加し、そんなこともあり、1861年に南部エリア内にある北部の砦を南部が陥落させて始まった南北戦争は丸四年、双方62万人の死者を出して1865年4月に終結したということでした。

しかし驚くべきは、戦死者の3倍の人が戦争中の野戦病院、便所などの不備や不衛生など戦闘以外が原因で死亡したということ。日本が第二次世界大戦でインパールや南洋の島々で戦闘以外で大勢の死者を出したことと同じようなことを、その100年前に彼らは経験していたということ。アメリカは合理的な国だと思っていましたが、合理的になる前に、そういう非人道的な失敗を沢山やってそれを乗り越えてきたということ。その一方で、リンカーンは偉人かも知れないが、黒人を白人と平等だとはまったく考えておらず、差別の対象として見ており、国から出て行ってもらいたいと考えていたこと、つまり奴隷解放は差別撤廃ではなく自分たちだけでこの国を運営していくためにいらない人に出て行ってもらうための前段階の政策であり戦争に勝つための一時しのぎの策だったこと、など知らなったことが沢山ありました。

隣の国なのに知らないことが多すぎます。また勉強しなければ。

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キャッシュレス決済失敗の記(メルカリ/セブンイレブン編)

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年の初めから、今年10月に予定されている消費税率引き上げに伴うキャッシュレス決済・QR決済の普及促進のためのポイント還元やキャッシュレス端末導入補助など、世間ではキャッシュレス決済に関する話題にことかきません。あちこちで事業者向けのセミナーも行われ、経済誌なども特集記事を組んでいます。

私もご多分に漏れず、いくつかの「pay」サービスのアプリをスマホに入れ、銀行口座やクレジットカードとの括り付けを行ったり、現金情報をチャージしたりしたものの、支払の際に「なんとかペイで」というのがなんだか面倒でこれまで使っていませんでした。

しかし先日ある先輩診断士のブログ記事を拝見し、この連休中、メルペイというメルカリの決済手段を使うと50%のポイント還元が行われることを知りました。しかもセブンイレブンでは70%のポイント還元という(還元の上限は2,500ポイント=2,500円相当)大きな還元率とのこと。これは早速やってみなければとメルペイをはじめ、またいくつかの「pay」サービスのアプリをスマホに入れて各種の設定を行いました。

そして今日、勢い込んでセブンイレブンに行き、あれこれ買物をして「支払はメルペイで」と店員さんに告げました。店員さんは慣れたものでバーコードリーダーを私のスマホ画面にかざし、ピッという音はなったのですが、首をかしげて疑念顔。「少々お待ちください」と別の店員さんに相談して帰ってきて仰るには「セブンイレブンではメルペイはまだ利用できません。」との答え。えええっ?と思い、レジカウンターに貼ってある「メルペイ利用できます。70%ポイント還元」という内容のステッカーを指し、「ここに書いてありますが」と言ったところ、「iDの登録をしていただかなければ利用できません」とのお返事。

折角ここまで来て現金払いはしたくないなあと思い、それ以外の「pay」サービスを模索したのですが、私の持っているいくつかの「pay」サービスはセブンイレブンではどれも使えず(交通系ICカードはあるのですが、それを使う新鮮味はないので使用せず)、結局現金払いとしました。

一旦帰宅して調べてみると、今回のメルカリさんのポイント還元施策には、①チャージした現金情報(=メルペイ)またはメルカリで何かを販売して得たポイントを、バーコードを提示して支払する方法と、②スマホのおサイフケータイ機能(iD)を使って上記メルペイまたはポイントの支払いをする方法との2種類があり、セブンイレブンは②のみということのようです。背景には、セブンイレブンが今年(7月頃?)自社の独自仮想通貨を出す予定のため、新しい決済手段に対応するための設備投資や教育などをしないという判断があるのかも知れません。

私のスマホは残念ながらiD機能を持たない古い機種のため、セブンイレブンでのメルペイ支払はできないことがわかりました。しかしバーコード支払は他のコンビニや松屋さんなどでできるということだったので、気を取り直してローソンへ。店員さんに「メルペイで払います」と伝えると最初は戸惑ったような反応でしたが、少しゆっくり説明するとご理解いただけ、「あ、ペイね」とバーコードリーダーを取り出し、決済は無事完了。明日には支払額の50%203ポイントが還元されることでしょう。

 後日譚。支払った金額の50%(端数切捨て)に当たる203ポイントが、今日の午前1:40に還元されていました。早速使おうと思いましたが、今日5月5日はローソンには行かず、ファミマだったため、LINEpayで支払をしました。654円の決済でついたポイントは22ポイント。3%分程度はリターンがあったということになりますね。しかもその後、くじ引きとかいうのがあり(もちろんスマホ上で、ですが)1円当たり喜んでいる有様です。こういうのは当然全て販促費としてLINE会社の収支で見た上でそれでも儲かるようなビジネスモデルなのだろうなあと同社の決算書に思いを馳せているような次第です。

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秘儀・法隆寺の「お会式 逮夜法要」実見録

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何年か前に、宗教学者の島田裕巳さんがラジオ番組で法隆寺の特別な日の話をされていました。
聖霊院(しょうりょういん)の本尊を一年で一回だけ間近で拝むことができる日のことです。

法隆寺正門

聖徳太子は、西暦622年の2月22日に亡くなったそうですが、現在の暦では3月22日とのことで、この日から三日間毎年法要が営まれているそうです。この法要のことを「お会式(おえしき)」と言うそうです。
「お会式」の期間中は聖霊院の本尊などを安置した厨子が開帳されるらしいのですが、厨子の前にはぎょうさんのお供え物が積み上げられているため、ご本尊のご開帳とは言いながら実際には見えないそうです。

法隆寺聖霊院外観

人が亡くなった日は忌日であり、忌日の前日に夜通しで行う法要のことを「逮夜法要」というんだそうで、3月22日の前日3月21日には、この法隆寺聖霊院でも「お会式 逮夜法要」が営まれ、その時に限って法要が営まれた後で一般参詣者も内陣まで入って、開けられた扉の真ん前で本尊を拝むことができる、という話でした。
観光ガイドなどには書いてない話で、よほどの「通」の人じゃないと知られていない話のようで、地元の篤信の方々はそのタイミングをめがけて夕方から徐々に集まってくるのだと言っておられました。

大阪勤務時代に何回も法隆寺を訪れましたが、そういう話は聞いたことがありませんでした。

もう一つ。この日の法要では、お坊さんたちが散華を撒き、参詣者はそれをいただけるという話も知りました。これもなかなか得難い貴重なものです。

法隆寺東院伽藍内

 何年かの準備期間を経て、平成31年(2019年)3月21日、ようやく出かけることができました。
 事前の調査では、午後6時に「逮夜法要」が始まるのですが、夕方から徐々に人が集まるということで、後ろの方に並んでしまうと、折角の散華をいただくことができないということで、我々は意を決して午後4時に入堂。それでも最前列ではなく、2列目になってしまいましたが。
 御簾の手前両サイドには、各地から寄せられたお供え物(麩と大根と人参を切ったもの)が積まれ、内陣は(御簾の真ん中からしか見えませんが)餅や果物や木の実などが沢山積まれていました。
 御簾の上の壁には火の鳥が描かれており・・・。

 待つこと2時間。御簾がシュルシュルと上げられ、やがて、午後6時の鐘が鳴るちょっと前から儀式は始まりました。
 内陣の脇部屋みたいなところに蝋燭が10本ほど立てられており、その蝋燭の炎に照らされたのは神主姿の8人の楽団員。(後ろの人の会話では「楽僧」というお坊さんだそうです)
・琵琶
・大太鼓
・鐘
・琴
・鼓
・笙
・小笛
・横笛
 見事な8人の雅楽団です。

 この楽団がなんとお寺で雅楽を演奏し始めたのです。雅楽団なので演奏するのは雅楽であり、それは当然なのでしょうが、聖徳太子の時代には日本古来の神様と大陸伝来の仏様のどっちをあがめるかということで大きな内戦まで行われていたはずなので(聖徳太子&蘇我馬子vs物部守屋)、意外な感じがしましたが、雅楽=神道ということでは必ずしもなく、昔の日本にはこれらの楽器しかなかったはずであり、仏教寺院で雅楽の演奏が行われるからといってむしろ古いしきたりとしては不自然でも不思議でもないことなのかも知れません。

 彼らが厳かに演奏を始めたかと思うと、右手奥の入口から黒ずくめの僧形が10人。一人、また一人と内陣の畳敷きをゆるゆると歩き、全員が各持ち場に着いたところで一斉に座りました。
 一通り雅楽の演奏が終わり、一息ついたタイミングで左手前に座していたサブリーダー格と思しき僧侶が扇子を立てて読経のようなものを静かに唱え始め、そのあとは全員で読経の合唱。しかし聞いたことのないお経でした。ここの宗派は聖徳宗なので、当然我々が日ごろ聞きなじんでいるようなものではないはずです。

 やがて読経と雅楽演奏の合奏が始まりました。違和感のないハーモニー。

 一旦読経がやんだところで、首座の方が祝詞のようなものを唱え始めました。「ようなもの」であり、もちろん祝詞ではありません。何を言っているのかよくわかりませんでしたが、途中で「秦野川勝に命じ」とか「四天王」とかいう単語が出てきて気がついたのですが、要は聖徳太子の事跡の紹介だったようです。
 個人の遺徳を称えるという役割をこのリーダー僧侶が担っているということなのでしょう。推古天皇を支え、遣隋使を正史として派遣したり冠位十二階や十七条憲法など色々な制度を立ち上げた一方、この国の仏教興隆に大きな貢献をなさった・・・・というようなことを語り、感謝の意を表しておられたのでしょう。あと2年で、亡くなってから1400年も経過するというのに、このように長い間法要で事跡が読み上げられ、感謝され続けるというのは、本当にすごいことだと今さらながら感じ入りました。

 その後クライマックスの読経が始まりました。10人の僧侶と8人の楽団員全員参加の大合奏。
 とてもユニークで実に聞き応えがありました。何がユニークかと言うと、読経の途中で突如女性のような声で経を謡う部分があることです。極めて高いソプラノのようなキーで、まるで裏声で歌っているような、と思ったら一気にオクターブが下がって男の野太い声に戻り、また女性声になり瞬時にまたテノールになるというジェットコースターのような音域の上がり下がりがあり、合奏もそれに連れて上がったり下がったり、こんな世界があるんだなあと驚きつつ聞き入っていました。

 散華は読経の途中に、僧一人につき3~4枚程度方々に撒いており、最前列の人の前にもヒラヒラと舞い降りていました。後からいただくものかと思っていたら、目の前に落ちた散華をさっと拾い上げ、自分の手提げに納める最前列の人々。ははあ、そういう風にするんだね、と感心。
 読経の合間に、自分で撒いた散華を拾い集めて懐に仕舞い込む僧侶も。ええええええっ?と思いましたが、声に出すこともできず。

約1時間の法要が終了した段階で、係のお坊さんが声をかけられ、前の方から順番に内陣の中へ、左回りにお進みください、ってな感じで案内していただき、我々も内陣の中に入らせてもらいました。
幸い散華もいただくことができ、内陣の中にある3つの厨子の秘仏も一通り拝ませていただくことができました。
左の厨子には如意輪観音像、聖徳太子の息子の山背大兄王像、聖徳太子の弟の殖栗王(えぐりおう)像、右の厨子にはこれまた不思議なことに地蔵菩薩像、聖徳太子の兄弟の卒末呂王像、聖徳太子の仏教の師匠だという恵慈法師像が安置されています。そして中央の厨子には眉の吊り上がったちょっとキツめのお顔の聖徳太子像。摂政としてのお姿だという説や勝鬘経(しょうまんぎょう)を講じている姿だという説があるようです。

法隆寺の散華の一つ

富山県くんだりから容易には参加することのできない貴重な体験をさせてもらうことができました。

法隆寺五重塔夜景
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デレク・シヴァーズ氏のTEDトーク「ファーストフォロワーのリーダーシップ論」

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先日、あるビジネスプランコンテストを聞きに行ってきました。

その会場でリーダーシップについて短い動画を見せながらのプレゼンがありました。後から聞くと、デレク・シヴァーズという人が「社会運動はどうやって動かすか」というテーマで行われたTEDトークでの動画だということでした。

http://digitalcast.jp/v/12412/

内容は、ある奇妙な踊りをしている人物がいて、周囲の人々がそれを奇異な目で見ているのですが、そのうち一人の人物がその奇妙な踊りの人物に近づいていき、同じ踊りを踊り出し、そのうち三人目がやってきて二人目から踊りを教わり、さらにそこから大勢の人が踊りの輪に加わっていき、一つの運動体になってしまうという動画です。

デレク・シヴァーズ氏は、リーダーシップで大事なのは最初のフォロワーだと言っています。そしてリーダーは最初のフォロワーたちを対等に扱うことが重要だとも言っています。

この動画を見て思ったのは、幕末の長州藩で幕府への(長州征伐に対する)恭順が議論の大勢を占めていた時に高杉晋作が一人立ち上がり、功山寺で挙兵をした時に真っ先に駆け付けた「ファーストフォロワー」は、彼が創生した奇兵隊ではなく(奇兵隊の当時の指揮者だった山形有朋たちは反対して最初は動かなかったとか)、伊藤博文が率いる力士隊など数隊に過ぎなかったという逸話です。高杉晋作と伊藤博文らはその後快進撃を続け、徐々に他の諸隊もそれに続き、遂には藩論を覆した、ということだったと思います。高杉晋作一人だけが暴れ回っても到底そういう事態には至らなかったのではないか、ファーストフォロワーの伊藤博文たちがいてこそ、はねっかえりの行動が回天の偉業にまで至ったのだ、という話だったと思います。

私たちにプレゼンをされた方は、その動画を、ある時ある自治体の職員に見てもらったそうです。その自治体の首長が新しいことに取り組もうとした時に、首長を「裸の王様」にするもしないも、職員の何人かが支えるかどうかにかかっていますよ、ということを伝え、支えないと改革は成し遂げられないのではないか、まず皆さんがファーストフォロワーになってこの自治体を良くしていく原動力にならなければならないのではないか、と伝えたそうです。

これは、やりようによっては動きに加わらない人を排除・差別・懲罰の対象にすることにつながったりする可能性もあり、ある意味危険なことではあります。特に忖度や空気が支配する日本では起こりがちかも知れません。しかしうまく運んだ事例で考えると、ホンダの本田宗一郎氏に対する 藤沢 武夫氏であったり、ソニーの井深大氏に対する盛田昭夫氏であったり 、三国志の劉備に対する関羽と張飛であったりするのではないかという気もします。そういう支えがあったればこそ、天才が活きるのではないか、つまりリーダーシップはファーストフォロワーのフォロワーシップとリーダーによる差別しない接し方が大事、そして、また、輪に加わらない人たちに対しても彼らの価値観を尊重して排除・排斥しない包容力も大事なのではないかな、などと考えさせられました。

ご興味のある方は上のサイトをご覧になってみて下さい。

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