塩野七生さんの『海の都の物語』

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塩野七生さんの『ローマ人の物語』の最終巻(文庫では42巻)にアッティラに攻められるイタリア北部の様子が描かれています。一部の人々は塔の上にのぼり、どこへ逃れれば助かるだろうかと考え、そこから遥か海の方に葦のはえている潟まで行けば、何もない所だから、奪われるような財物は何もないから助かるのではないか、と考え、移動した先が後のヴェネツィアになった、ということが書いてありました。『ローマ人』の次は『ヴェネツィア』だ、と決めていました。

学生時代に読んだ高坂正堯さんの『文明が衰亡するとき』という名著があります。私にとっては小室直樹さんの『危機の構造』や山本七平さんの『空気の研究』野中郁次郎さんたちの『失敗の本質』などと同じようなポジションの本です。塩野さんの『海の都の物語』は文庫上巻だけで521ページ、下巻はさらにボリュームがあって607ページ、両方合わせると1128ページという大作です。よって先に、もう一度『文明が衰亡するとき』を読んで肩慣らしをしてから、と思って(第二部 通商国家ヴェネツィアの栄光と挫折を)読み始めたところ、第一章の途中に「ヴェネツィアが海洋貿易にはっきり転換したのは、西暦1000年ごろアドリア海の海賊を退治してから後と言ってよいが、その遠征に至る外交過程はヴェネツィアの外交の巧みさを如実に示している。この過程は塩野七生氏の『海の都の物語』にあざやかに描かれているから、くわしくはそちらを読んで欲しい」とあり、さらにその章の脚注に「始めにヴェネツィアの歴史を知るために読むべき書物をあげておくと、日本では、塩野七生『海の都の物語』(中央公論社 昭五十五)、同続(昭五十六刊行予定)がある。ディティルの描写がすばらしく、それが全体像とつながっている。」という文章に遭遇してしまいました。本文中にも塩野さんの同著からの引用が何カ所かあり、こりゃ、なまくらしてはいけない、高坂さんが引用した本を先に読めということだなと思い、改めて、塩野さんの本から取り組もうと決意しました。

『ローマ人の物語』の二十五年前に書かれたのがこの『海の都の物語』です。私自身は文庫になって、1989年=平成元年にこの上下本を買っていましたが、なにせ分厚いので手にとっては挫折、の繰り返しでしたが、ローマの終焉を終え、ようやくそれに連なるものとして読み終えることができました。

第四次十字軍に関する記述の中にこんな一節がありました。文庫上巻のp198です。「神はわれらとともにある、という確信は、往々にして、自分たちと同じように考えない者は悪魔とともにある、だから敵である、という狂信につながりやすい。私には、それが物欲をともなわない高貴なものであろうとも、絶対に同意するわけにはいかない。」最近また世情を騒がせている新興宗教(?)の協議にも似たような考え方があるように聞いています。塩野さんは「絶対に同意するわけにはいかない」と強い口調で述べておられます。歴史を学び、そこから得られる智恵を活かしていこう(自分勝手ではなく、お互いを尊重し合って、人の自由を侵害しない限りにおいて自由であるというルールが共有できる社会を作っていく)と考えるからこそ、ほとばしり出てきた言葉ではないかなと感じます。私たちが歴史を学ぶ意義の一つが、そういうことではないかなと思います。

さてその記述に続いて、第五次十字軍のことについても少し書いてあります。そこでの主人公はフリードリッヒ二世という人物です。塩野さんの著作にも何年か前に文庫化されたものがあります。

高坂さんの『文明が衰亡するとき』のヴェネツィアの部は、選書で70ページあまりですが、ヴェネツィアの歴史、興隆から衰退に至る経緯をコンパクトに、しかし決して単純な因果論ではない書き方をしてある点がとても考えさせられます。ヴェネツィアは印刷術を商業化し、商業演劇を始め、海洋貿易で財をなし、簿記を取り入れて複式にし、商業銀行を創始した、など、今に通じる様々なものの始まりをなしていることが書かれていました。そして改めて塩野さんの著作を引き、個人の野心と大衆の専横とが結びつく危険を避けるため、個人に権力が集中しすぎないようにしつつ、安定したリーダーシップが発揮できる政治体制を作ったという主旨のことも書かれていました。もちろん、それを単純に礼賛しておられるわけではなく、叙述的な記載に徹しておられます。何か一方向に偏り過ぎないことが大事なことなのではないかということを高坂さんの記述からも感じます。

塩野さんの著作で読んでいないものもまだ沢山あります。楽しみは尽きません。

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氷見の“父”の思い出

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敬愛していた氷見の“父”が亡くなりました。コロナ禍での葬儀ということもあり、一般弔問客に許されるのは喪主・ご遺族への挨拶と焼香のみでしたが、最後のご挨拶ができました。思えば私が初めて社会人になって氷見の職場で働き始めた時、“父”はもうその地域の顔役であり、どこへ行っても「かっちゃん」「かっちゃん」と親しく呼ばれていました。

私からすれば、実の父よりも3歳ほど上だったため、大叔父って感じでその方を見ていた気がします。確か社会人になって2年目の春、少し仕事(とっても狭い領域でしかないのですが)がわかったような気になったのか、なんだか回りが遅いように思えて、イライラしていた時期がありました。無性に腹が立つ、って感じです。

その時、私は不遜にも時の上司である課長(当時49歳)とこの“父”(当時55歳)に「最近なんだか腹が立つんですが」などという暴挙とも言える相談をしました。ぶっきらぼうにそれだけを伝え、とても相談の体をなしてはいなかったと思います。言葉に出せなかった部分をあえて書くと「腹が立つようなことがあるとどう対処されていますか、お知恵を聞かせて下さい」という表面的な質問だったのでしょうが、その下にある隠れた本心は「私は仕事がとてもできるんです。でも周りは遅くてなんだかイライラします。私は優秀な人材なので私のことを高く評価して下さい。ほめて下さい」という図々しく尊大な気持ちがあったように思います。

課長はその時「仕事せんこっちゃ(しなきゃいいんじゃないの)」と一言。この言葉には「お前の仕事はそんなに大した仕事じゃないよ。お前がいなくても仕事は回る。作業速度がちょっと速くなっただけなのに、できてる気になってんじゃないよ。少し頭を冷やしたらどうだ」という意味を優しく易しくやさしーく仰ったのだと、実は次の“父”の言葉との合わせ技で気がつきました。(ちなみにこの課長は私にとって石動の“父”です。もう16年も前に69歳の若さで鬼籍に入ってしまわれました)

課長に相談した数時間後、自分の求める反応が得られずに、“父”にも同じ問いをしました。そして“父”は私にこう仰いました。「俺は、ダラやから、腹が立つことはないなあ。むしろ周りのみんなにいつも迷惑ばかりかけているから、ごめんなさい、ごめんなさい、と言ってるばっかりやねえ」(ダラ:関東で言う「バカ」、関西で言う「アホ」に近い語感です)

たぶんその時の私は「お前、ようやっとるのお。さすがや。まあ、周りの人に腹立てずにお前が習得した新しいノウハウなんかがあれば教えてやってや」みたいな、労いやほめ言葉やプラスのストロークが返って来ることを期待していたのだと思うのですが、期待したのとは全く異なる反応であり、しかもご自身のことを無茶苦茶卑下してみんなのおかげでなんとか自分は生きている、だから腹が立つなんてありえない、と言われ、絶句して次の応答ができませんでした。

私は雷で打たれたような衝撃でした。自分はなんと増上慢になっていることか。実父よりも年上の人が私みたいな若造に対して、ここまでへりくだって謙虚な態度を、日頃の自然な振舞い方としてとれるのか、とショックでした。ちょっと一つ二つ事務作業を覚えた程度で自分はできぶつだと思いあがっていたことに、たった一文節で気づかされ、それからは多少は謙虚になれたような気がしています。

その後、私が金沢に転勤し、結婚、子どもが生まれ、実の父から氷見で海水浴をしようと提案があった時も、氷見の“父”に相談し、民宿を紹介してもらいましたし、それ以降も数年に一度程度はご自宅に顔を出しに伺っていました。直近では3年前の春。久しぶりに顔を出しに行きました。その当時で89歳です。しかし目も耳も口も胃も元気溌剌で、まだまだお元気だなあと意を強くしていました。ちょっと車に乗せてくれ、と仰り、ある観光施設まで同行したところ、そこで地域の特産品など数千円分を買い求められ、私に持ってけ、と仰いました。いやいや、土産代ぐらい自分で払いますよ、と申し上げたのですが、「子どもがっ!何を言うか!黙って持っていかっしゃい!」と一喝され、さらにその後、町まで下り喫茶店でおそばまでご馳走になってしまいました。確かに32歳も上で、ご本人のお子さんよりも年齢が下の私は、50歳を超えていようとなんだろうと「子ども」でしかないので、素直に従いました。40年近く経っても当時の学習が生きてない私でした。

3年前の春 氷見を訪れた時の“父”と私

またそろそろ顔を出さなければなあと思っていた今日この頃、朝刊に訃報が出ていました。祭壇の写真は在りし日の笑顔満面の“父”が写っていました。長いこと、本当にお世話になりました。心からお礼を申し上げて来ました。本心を言えば、もう一回お目にかかりたかったです。つくづく思いますね。悔い始めればきりがありません。ああもしたかった、こうもしたかった、こんな話をしたかった、もっとゆっくりそばにいたかった・・・人間は後悔の積み重ねを生きているのかも知れません。

とても個人的な思い出話のブログとなりましたが、この方のこの時の一言がなければ、その後の私の人生は大きく様変わりした(悪い方へ)ものと思い、想像するとぞっとします。今の私の元となった社会人一年目の経験、その経験をさせて下さった氷見の“父”Nさんへの感謝をこめて本日のブログとさせていただきました。

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司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』

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 司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』を読みました。
 そして、10年ほど前にNHKのテレビでやっていたドラマもようやく“追い見”しています。

 4年前にある先輩から経営戦略の参考になるので是非読んだら良いと言われており、チャレンジしたのですが、文庫版3冊目の途中で挫折してしまいました。その後昨年から再度挑戦しましたが、やはり3冊目の途中から読むペースが遅くなりました。何が原因か。一つは、正岡子規の命が燃え尽きるのを見たくないという気持ちが働いたのと、もう一つは、そこを越えた次に出てきた戦闘シーンの多さ、人が砲撃にあって沢山亡くなる、これでもかこれでもかというくらいに「突撃」と「殲滅(される)」の繰り返しに、この小説はいったいなんなんだろう? 司馬さんはなんのためにこのように人が次々と勝算のない突撃で意味もなく亡くなり続けるシーンを描いているのだろう? という疑問がわいてきたこと、だったのではなかろうかと思います。(指揮官たちは「意味もなく」とは考えていなかったと思いますが)
 司馬文学の金字塔と言われているくらいの『坂の上の雲』は日本が明治維新を経て、さらに瑞々しく希望あふれた豊かな国になっていく道程を描いたものだろうと勝手な想像をしていました。もちろん日露戦争を描いたものであることは承知していました。実は私の誕生日は、戦前は陸軍記念日と言われていたそうです。日本陸軍の生みの親たる大村益次郎さんの誕生日だったと聞いたことがあり、それに因んでかと思っていましたが、どうやら日露戦争・奉天会戦における戦勝記念日だったことから来ているようです。そのため、どんな戦争だったのかという関心もありました。経営戦略の勉強という観点とは別の意味でも読書欲をかきたてられた次第です。
 しかしタイトルにある「坂の上の雲」など私の眼には一向に見えてきませんでした。そして、日本という国を俯瞰するのみならず、戦いの相手だったロシアについてもじっくりと丁寧に、特にバルチック艦隊が母港を出て喜望峰を回り、マダガスカルで無為な時間を過ごし、東南アジア付近では疑心暗鬼になり、といったことを実に丁寧に読む者がその情景が目に浮かぶような丁寧さで書いてくれています。組織の統率、指揮官はいかにあるべきかということを、彼我の対比も含め、描いています。単に日本がどう、ロシアがどうという単純比較ではなく、日本の軍隊における(組織の意思決定の仕方・データの扱い方などの)良い点、だめな点、ロシア側の良い点、だめな点もかなり客観的に描かれていたと思います。組織論といっても、人それぞれに着目した、だれそれはこの時こういう発言をした、といった感じですが、一方で民族的な習性といったような、やや曖昧なことに原因を求めるような記述もありましたが。
 私の勝手な想像とは裏腹に、司馬さんの『坂の上の雲」は、決して希望あふれた豊かな国になっていく道程というよりは、太平洋戦争での滅亡の原因がこの成功体験の中にあった、ということを説明しようとしたものではなかったか、という気もします。特に陸軍に対しては「滅亡」という言い回しを何度か使っています。そして、司馬さんがこの小説の連載を始めた1968年といえば、太平洋戦争終結からまだ23年しか経っておらず、当事者も大勢生存していた時期であり、日露戦争の従軍者もおられたとのことであり、色々書きにくいこともあったのではないかと想像します。
 いったいなにが楽しくてこんなこと(突撃と殲滅の延々たる繰り返し)を書き連ねているのだろう?と思っていました。しかし司馬さんは相当つらい思いをしながら書いていたんではなかろうか、と最終巻のあとがきを読んで思いました。司馬さんは「あとがき」の最後にこんなことをさらりと書いています。「私の四十代はこの作品の世界を調べたり書いたりすることで消えてしまった。この十年間、なるべく人に会わない生活をした。友人知己や世間に生活人として欠礼することが多かった。古い仲間の何人かが、その欠礼について私に皮肉をいった。これはこたえた。(p358)」
 ただ司馬さんの作品の年譜を見ると、この十年ほどの時期に『竜馬がゆく』『『燃えよ剣』『尻啖え孫市』『功名が辻』『城をとる話』『国盗り物語』『俄 浪華遊侠伝』『関ヶ原』『北斗の人』『十一番目の志士』『最後の将軍』『殉死』『夏草の賦』『新史太閤記』『義経』『峠』『宮本武蔵』など、幕末や戦国時代のものを中心に、その後の大河ドラマの原作になった大作も沢山書いておられ、とてもエネルギッシュに作品群を世に出しておられ、四十代を日露戦争のあとなぜだけで浪費したわけではないということも事実としては押さえておきたいと思います。 

 さて、司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』から自戒としての抜き書きです。

・人間の頭に上下などはない。要点をつかむという能力と、不要不急のものはきりすてるという大胆さだけが問題だ(秋山真之)(文庫版二 p230~231)
・大海図に点々と軍艦のピンがおされている。軍艦が移動するごとにそれがうごく。たれの目にも状況把握が一目瞭然であり、状況さえあきらかであれば、つぎにうつべき手-たとえば艦船の集散、攻撃の目標、燃料弾薬の補給など-がどういう凡庸な、たとえば素人のような参謀でも気がつく。作戦室の全員が、書記ですら、刻々の状況をあたまに入れてそれぞれの分担を処理している。(文庫版二 p252)
⇒見える化の重要性と有効性
・マカロフの統率法は、水兵のはしばしに至るまで自分がなにをしているかを知らしめ、なにをすべきかを悟らしめ、全員に戦略目標を理解させたうえで戦意を盛りあげるというやりかたであった。(文庫版三 p326)
・命令があいまいであることは軍隊指揮において最大の禁物(文庫版四 p261)
⇒軍隊を企業に置き換えて読む
戦略や戦術の型ができると、それをあたかも宗教者が教条をまもるように絶対の原理もしくは方法とし、反復してすこしもふしぎとしない。(文庫版五 p50)
・日本軍の師団参謀たちの頭は開戦一年余ですでに老化し、作戦の「型」ができ、その戦闘形式はつねに「型」をくりかえすだけという運動律がうまれていまっていた。「型」の犠牲はむろん兵士たちであった。(文庫版七 p42)
⇒日本軍を大企業に置き換えて読む
・戦術家が、自由であるべき想像力を一個の固定概念でみずからしばりつづけるということはもっとも警戒すべきこと。情報軽視という日本陸軍のその後の遺伝的欠陥。(文庫版五 p355)
⇒これも陸軍を企業に置き換えて読む
一行動が一目的のみをもたねば戦いには勝てないというのがマハンの戦略理論であった。東郷がこの「目的の単一性」という原則に忠実であったのに対し、ロジェストウェンスキーが二兎を追うためにその行動原理がきわめてあいまいになっていることをマハンは指摘している。(文庫版七 p331)

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もうすぐ新年度

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もうすぐ4月、新年度ですね。北陸は雪もほぼ解けて日増しに空気も暖かくなってきました。早い所では桜も咲いています。定期人事異動も多く行われる時期になりました。友人知人の異動も色々あったようです。同級生の多くは定年退職という時期を迎え、さあ自分も一巡終えて再出発、と気持ちの切り替えが必要かななどと思っている今日この頃です。

しかし気持ちの切り替えをしようにも、令和4年、2022年に入ってから、従来に増して慌ただしい日々を過ごして来ました。この先もゆるやかになるわけではないので、いつ切り替えられるかなあと思いつつ、一瞬仕事が一段落してきたため、この1月から3月までの仕事を改めて列挙してみました。書き並べてみると、あくせくしていたわりには大した仕事量でもなかったなあと感じますが。

・ある団体からの依頼による取材2件                        ・ある団体からの依頼によるzoomの使い方説明                         ・企業の経営計画策定3件                                  ・国の支援策利用のためのお手伝い4件                                  ・DXに関するセミナー                                      ・補助金に関するセミナー                                             ・従来からのよろず支援拠点の経営相談業務                                    ・従来からの経済2団体の経営相談業務                                 ・心理学の勉強会                                       ・ある団体からの依頼事項                                ・よろず支援拠点の新規事業着手の準備と従来事業の後任への引継ぎ

よろず支援拠点は、平成26年6月にスタートした国の単年度事業で、私は平成27年から相談員として参画してきましたので、丸7年になります。前職の金融機関での仕事が7年弱でしたので、いつの間にかその期間よりも長く(但し、勤務は週2回程度ですが)携わってきたことになります。そのよろず支援拠点の事業が転換点を迎えているようで、従来の比較的小規模な事業者さんへの対応というメイン業務は引き続き行われるのですが、私はそれとは少し異なる内容の事業に携わることになりました。詳しくはまだよくわかりませんが、「今・ここ」で精一杯取り組むというスタンスは変わりません。お客様の幸せに貢献することができればと思います。

新型コロナウイルスが流行し始めてからかれこれ2年が経過します。この間、外に出たり、公共交通機関を利用したり、人と積極的に会ったりすることを控えてきました。しかしそろそろまた外での活動にも取り組んでいきたいところですし、3カ月も休んだこのブログでの情報発信ももう少し頻度を上げてやっていきたいと思っています。

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トヨタ自動車のEVシフトの衝撃

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昨日2020(令和3)年12月14日に、トヨタ自動車の豊田章男社長が、2030年までに世界の電気自動車(EV)の販売台数を年間350万台にするという方針を示しました。うち、最高級ブランドのレクサスについては2035年までにEVを100%にすることを目指すそうです。以前はFCEVも含んで200万台と言っていたようですので、一気に8割増し目標の設定への転換ということです。関連ニュースhttps://www3.nhk.or.jp/news/html/20211214/k10013387871000.html

思えば、通信回線の分野では一旦xDSLでアメリカの後塵を拝していましたが、その後光戦略で世界最先端となったものの、その中を通る情報、IT化、デジタル化、またテレビのディスプレイ、白物家電、スマホ、パソコン、ソフトウェア、半導体に至るまで、どんどん世界の先端から脱落してきたのがこの20年ほどではなかったかと思います。そうした中で遂に自動車分野でも、と落胆しかけていたところにこのトヨタのニュースです。

トヨタ自動車は既存の裾野産業を守るため、部品の少ないEVではなく、燃料車へのこだわりを捨てられず、自動車分野でも世界の潮流から取り残されてしまう、という危惧を抱いていました。日本がいくら燃料車で頑張っていても、そのうち中東などから原油が入ってこなくなる恐れもあり、そうすると日本人の移動手段が大きく損なわれる恐れもあり、そちらもまた恐ろしいことです。

しかしトヨタがオロオロ迷走している(と見えていました)間に、ニッサンが間隙を縫ってEV戦略を強力に推し進めると宣言したのがつい先ごろだったと思います。さてトヨタはいつまでスッキリしない態度を続けるのだろうかと思っていた矢先、昨日一気に15台の新型EVを引っ提げて、大きな方針の転換を発表しました。

となると気になるのが裾野産業たる我らが下請・孫請の中小企業です。EVやFCVへの大転換にトップランナーたるトヨタや他の自動車メーカーが向かう中、部品点数が少なくなると、ついていける中小企業はおのずと限られてくるものと思います。確かに人口減少・後継ぎ不在・自主廃業という企業もこれからさらに増えると見える中、残った企業でやっていけるだけの仕事量になるのかも知れません。

もう一つ、産業界への影響の大きなことが、給電施設の整備についてです。豊田章男社長は、日本中の販売店に給電スタンドを設置するという構想も明らかにしていました。ガソリンスタンドにとっては戦々恐々ものだと思います。エネルギー産業もトヨタが担っていこうという宣言に近いものではないかと思います。世界中を舞台にした競争ですので、国内産業の保護育成ということでは解決できない大問題への挑戦なのだろうと思います。

今回15台のモデルを発表したそうで、普通乗用車からピックアップトラックのようなものまで様々な車種が並んでいたのですが、よく見るとワゴン車が見当たらないような・・・是非ワゴン車も早々に発表して欲しいものです。https://trafficnews.jp/photo/113561#photo5

今後、日本の産業界は大きな激動の時代に入るのではないかと思われます。企業は生き残りをかけて、文字通り鵜の目鷹の目になって技術の取り込みや人材の確保・仕事の確保に取り組む必要がありそうです。そんな時に、受注量の水増し(行きつく先はGDPの嵩上げ)を都道府県に指示する国のお役人たち・・・一体全体何をしているのか、そんなヒマがあればもっと目の前の現実の問題・課題にちゃんと立ち向かえ!と喝の一つも入れたい気持ちです。歯がゆいことこの上なし、の昨日今日でした。

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剱岳を望む町での交流分析カフェと20年ぶりの歯医者さん(痛!)

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10月になり、コロナウイルス感染症の新規陽性者数が減少してきたこともあり、以前からお声がけをしていた「交流分析カフェ」を、ある方々と一緒に始めました。場所は上市町の剱岳など立山連峰を望む某所。一緒に学ぶ仲間は約10名。

ゆくゆくは全ての高校生に交流分析の「知恵」をお伝えしたいという気持ちを持ちつつ、今は少しずつ自分のできる範囲での取組です。

偶然、市から歯科検診に行きなさいという案内ハガキをいただき、しばらく温めていたのですが、10月という何か今ならというような気になって、息子たちがいい歯医者さんだよと言っている市内の歯科医院に行ってきました。今日が3回目。1回目は市の指定検診。レントゲンを撮って異常があるかないかを見るもので、外見は異常なしとの見立てだったのですが、折角だから溜まっている歯石を取りませんか?という提案をもらいました。私自身、大阪から帰ってきて、しばらくのちに近所の歯医者さんに「歯石を取って欲しいのですが」と予約のつもりで電話をしたら、「うちはそういうのはやってません」と言われ、爾来、大阪で最後に歯医者さんに行った時から通算約20年間、歯医者さんの門をくぐったことがありませんでした。そういうこともあったので、こちらとしても是非歯石除去をお願いしたいということで、先週と今日の2回にわたり、歯石除去作業をしてもらいました。さあこれで晴れて放免、と思っていたら、件のレントゲン写真を見せられ、あなたはここの歯が実は虫歯なんです、とショッキングな宣告。しかも「相当やばいかも知れません」という言い知れぬ恐怖を覚えるような付け足しまでいただく始末です。最近は麻酔技術も進んでいると期待してはいるものの、20年間放置したつけかなあと思ってみたり、いやいや、20年間歯医者さんに行かなかったにしては、虫歯が一本だけ、しかも自覚症状なし、というのは良い方ではないだろうか、と自画自賛の気持ちになったり。

今日は色々揺れ動いた一日でした。

交流分析カフェで使用している交流分析の基礎テキストと図書館で借りた本(双方に関係はありません)

写真の『知的文章術入門』は、地元の図書館で借りたものですが、とっても良い内容です。しかも著者が素晴らしい。1936年のお生まれということですからあと15年で100歳になられるお年であるにもかかわらず、現役の大学の先生で、zoomだウィキペディアだ大江健三郎だ『スマホ脳(今年の流行本の一つ)』だコピペがなぜいけないかだフェイクニュースだ英語だなんだと、ご自身の専門分野を土台にしつつ新しいことも沢山取り入れ、いまどきの若い人にもわかりやすい文章読本になっています。(あ、既に長文になってしまい、この本の教えを逸脱してしまいました。反省。)特に行政文書のわかりにくさについて、極めて明快な解説とあるべき文章を鮮やかに提示されている辺りは、行政官の方々はもとより、私自身も(行政官ではありませんが)とくと見習うべき点だと感じ入っています。

さて、今夜からまたブラッシングを楽しみます。

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利賀村で水野和夫さんと大澤真幸さんのお話しを聞きました。

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2年ぶりに利賀に行ってきました。鈴木忠志さん主宰・劇団SCOTのお芝居を観るためです。しかし今回はもう一つ大きな楽しみがありました。経済学者の水野和夫さんと社会学者の大澤真幸さんのシンポジウムがあったのです。水野和夫さんは名著『資本主義の終焉と歴史の危機』他「資本主義の終焉」シリーズや対談本を多数出版されています。他方大澤真幸さんは小室直樹さんの高弟のお一人であり、NHKeテレ100分de名著『メディアと私たち』で山本七平さんの『「空気」の研究』を取り上げたり『世界史の哲学』シリーズや平易に社会学の流れを解きほぐした『社会学史』や最近では『新世紀のコミュニズムへ』の出版の他、橋爪大三郎さんや国分功一郎、木村草太さんなど色々な方との共著も多い、ともに現代の碩学、と私は思って日頃から発信されるものを注視してきました。

今まで知らなかったことが恥ずかしいくらい、このお二人は随分長い間、毎年この利賀村にお越しになり、SCOTのお芝居を観て、勇気をもらい、また都会に戻って精力的に著述や発言をなさってきたということでした。私自身、一昨年久しぶりに利賀へ行こうと思ったきっかけは、水野和夫さんの『資本主義の終焉』シリーズを三冊読んで、そこに書かれていた、水野さんが毎年通って観ている利賀での芝居の話に魅了されたからというのが大きな理由の一つです。(残念ながらまだその肝心の「世界の果てからこんにちは」は観ることができていないのですが)

さて、お二人の碩学のシンポジウムでのご発言など、勝手に抄録。尊敬する碩学お二人の時代認識などを生で聴くことができ、感激の2時間弱でした。

左から、司会進行の山村武善さん、水野和夫先生、大澤真幸先生
(肖像権を考慮しお顔の一部にマスキングをしました)

・1995年に米国の疾病センターの医師がこれから感染症が増えると警告していた。しかし日本では1990年代から保健所の数を減らし公立病院のベッドを減らし続けてきた。そして今回の新型コロナウイルス感染症の事態となり、国家は国民の生命の安全保障をしなくなったことがわかった。同時に資本の暴力性が顔を出した。

・コロナ危機は終わらない。大きな地球規模の気候変動の一部であり、終わりなき非日常を我々は生きていかなければならない時代になった。この一年半の間に、私たちは資本主義は死ぬかも知れないと一瞬思ったし、それがどんな状態になるかを垣間見たのだが、知らなかったことにしよう、というのが今の異様な株高の背景にある。

・資本主義と近代オリンピックには共通点がある。例えば近代資本主義社会の原理は「より早く、より遠くに、より合理的に」であり、オリンピックは「より早く、より高く、より強く」である。より強くをより合理的にに置き換えれば近代社会の特徴そのものである。近代社会は不確実性を減らすこと、予測可能性を高めることで成長してきた。しかしニクソンショック(ドル-金本位制の廃止)で、今日の1円が明日も同じ価値を持つ1円とは限らない状態になってしまい、確実性が消滅した。それと同時に近代オリンピックmその役割を終えた。特に顕著になったのは1984年のロス五輪からであり、神々に人間の身体を見せる・人間の身体を神々に近づけるという崇高なはずのオリンピア精神ではなく、コマーシャリズム・資本の一部に呑み込まれてしまった。もちろん競技者たちは純粋に取り組んでいると思われるが、競技自体は資本の一部にならないと存続できない状態になっている。

・グローバル資本主義・・・人・物・金の移動の自由が標榜されていたが、実際にその恩恵に浴することができているのは、ほんの一握りである。そして、私たちは本当はもう死んだことを知っているのに、究極まで手放せないでいる。トムとジェリーのトムがブルドッグに追いかけられて崖を飛び出して走り続けているのに、ある瞬間それに気づいてそのまま地上に落ちるようなものである。私たちはこの一年半の間に、ほんのわずかな時間、資本主義を手放した。ヨーロッパでは贈与経済の復活があり、日本でも私的所有の否定につながるベーシックインカムに近いこと(全国民に一律10万円配布)が行われた。本当の危機になれば資本主義も「不要不急」になる。

・2100人のビリオネアが10超ドルの資産を保有している。下位6割の46億人の資産は8兆ドルである。資本主義では努力した人・能力の高い人が成功し、そうでない人が貧困となるというような言説があるが、GAFAのトップが数億人・数十億人の人よりも能力が高いという証明はない。昨年の特別定額給付金は全部で12兆円配布されたが、その一方で個人資産が20兆円増えている。一体どういうことか。お金持ちの資産がさらに増殖したことを意味する。日本の個人金融資産は1950兆円だが、2割の家庭では資産がゼロである。この現在の状況が今後30年続くと、日本の「無産階級」は4割になる。大変な格差社会となる。既に東京23区内で見ると、所得の高い区は子どもの学力が高いという相関関係があり、それも一直線となっている。子どもには責任がないのに望む教育を受けられない状況になっている。

・資本主義の原理は自己利益の追求である。自己利益を追求した結果公益に寄与するということを整理したのがアダム・スミスである。自己利益を追求するためには私的所有権が前提になる。しかし、私的所有権を一部制約し、コモンズ(共有)の領域を少し増やすべきではないか。例えばインターネットなどは本来コモンズであるべきだが、一部の企業がプラットフォームとして私的所有していることが問題。所有権の上には生存権や知的財産権があるはずだが、イギリスのサッチャー首相は国が個人の生存権を保護しなくなった。新自由主義・自助努力主義である。この考え方が今日のビリオネアを生み出した。2030年には、大きく資産を増やした企業や個人への課税が強化される可能性がある。ドレイクという海賊ですら得た利益の半分を国家に寄付した。

・東インド会社に先立つスパイサー保証組合という組織に初めて「法人」という人格を認めた。これが永遠の命を認めた最初である。個人の相続も同じである。しかし法人格というあり方は役目が終わっているのではないか。一事業限りで解散し、また次の事業で集まるというあり方もあるのではないか。土地の利回り以上に稼いだ分は内部留保ではなく課税するというやり方もある。475兆円の内部留保は国民の生活向上に役立っていない。100%自己所有じゃなくてもうまくいく方法がある。

・今の状態は氷山にぶつかったタイタニック号である。このままでは沈むことはわかっているがみんな見ないふりをしている。その理由は、飛び出せば氷のような冷たい海に落ちてしまい、どのみち死ぬと思っているから、今の船の中にしがみついているのである。しかし、タイタニックを手放しても大丈夫という自信を持って多くの人が飛び出せば、そこに新しい船が作られる。利賀でやっていることも資本主義に対するアンチテーゼの一つである。ダニエル・ベルが『資本主義の文化的矛盾』という本で「元々資本とは関係ないと思われてきたものすら、資本に呑み込まれてきており、例えば芸術すら資本から独立できなくなっている」と言っており、もちろん、芸術家もお金が必要だし、売れることと成功することと能力が高いことや努力などが関係ないわけではないものの、芸術の独立的価値という側面も重要である。自信と勇気をもって資本主義の枠外へ飛び出す。

勝手に抄録は以上、ここまでです。世の中を見る見方に、また新しい視座をいただいたような気がします。まだまだ精進が必要です。

夏の雲と秋の雲が交差しそうな利賀大山房(旧中村体育館)

さて、シンポジウムの後は、昼食休憩を挟んで昨年から上演されている、鈴木忠志さんの新作「世界の果てからこんにちはⅡ」を観ました。内容は・・・今回は言及しないでおきます。というよりも、言及できるだけの頭の中の整理がまったくできていません。とりあえずここでは、来年こそ「世界の果てからこんにちはⅠ」を観させていただくべく決意しました、と言うに留めておきたいと思います。

(参考)最近のお二方のご著書

水野和夫先生と大澤真幸先生の近著
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福岡伸一さんの『生物と無生物のあいだ』

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2007年5月に一刷、10月に十一刷ということですから、ちょうど14年前に購入した本ですが、今頃、ようやく読了しました。PCR検査のことが書いてあるという話をどこかで目にし、その部分だけは昨年読んでいたのですが、そこだけ読んでもよくわからない状態でした。最近ある本で「動的平衡」のことが書いてあったことと、『生物はなぜ死ぬのか』という同じ講談社現代新書(小林武彦氏著)という類似書籍を手に取ったこともあり、関係づけながら読むと複眼・多面的に理解できるかも、と思い、慌てて書架から引っ張り出して一気に読みました。

この本の一番のテーマは「動的平衡」ということのようです。そして、生命においては、「動的平衡」を「乱すような操作的な介入を行えば、動的平衡は取り返しのつかないダメージを受ける」ので、生命科学をつかさどる医学者といえども「なすすべはない」といった慨嘆のようなことも書いてはありますが、それでも生命はとても力強い仕組みになっていることは巻を置いても強い印象となって残っています。

エントロピー増大の法則に沿えば、秩序は崩壊していく。しかし、その秩序を守るために、生物の内部に必然的に発生するエントロピー(様々な刺激で細胞などが変容・破壊されていく過程)を排出する機能を担っている、とのことで、エントロピーの法則によって生命体が壊れる前に一部を壊して自己複製でまた同じものを作ることが、強固な建築物を作るよりも維持しやすい、ということのようです。

ある意味、伊勢神宮が二十年ごとに建て替えられていることをも想起させられるような気がしました。

人の組織でも、同じようなことが言えるように感じます。組織文化というものがあり、長い年月その組織内で醸成される文化・風土・空気というものが、動的平衡を作っていき、それが組織の価値観として、成員の無言の前提となり、経営者もマネージャーも社員すらもその前提を当たり前のものとして判断・行動する。それが結果的に、何度でも検査不正を働いてしまう某自動車会社であったり、あるいは、どれだけ改善しようとしても赤字から抜け出せない企業体質であったり(潰したら銀行も困るからお金はなんとかなるという期待?)、動的平衡にはそのような良くない状態の維持もあるのではないかと思います。ソニーやリクルートのように、前例主義ではない、異質な人材を取り込む、といったことが企業活動の中に埋め込まれている企業はそうではなく、また高度成長時代の日本企業のように、作れば売れる時代であれば、悪しき動的平衡が問題になることはなかったのだろうと思いますが、これからは悪しき動的平衡を持つ企業はなんとかしなければならないのではないかと思います。

そうした動的平衡を崩すのは、内部の力ではなかなか困難であろうと思います。例えば中小企業診断士のような外部の経営に関する専門知識と高い志を持つ人が真剣に経営者と向き合い、誠心誠意変化を説くことで変化をもたらすきっかけが提供できるのかも知れません。その際よって立つ根拠は、まずは、その会社の創業の理念であったり、今の時代に改めて考え直すパーパス(企業の存在意義・存在目的)であったりするのかと考えています。

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ヴェネツィア共和国の一千年 塩野七生さんの『海の都の物語(上)』

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 購入したのは平成の初めころ。かれこれ30年以上塩漬けにしていた本ですが、今年の初めころに塩野七生さんがNHKのインタビューに応えてロックダウンしなかったヴェネツィアの話をしておられ、さらにほぼ同じ内容で文芸春秋の3月号に寄稿しておられたのを読んで、ヴェネツィア、勉強しなくてはと感じ、ようやく「上巻」を読みました。この本は文庫版の上巻だけで500ページ、下巻はさらにページ数が増え600ページという上下1100ページの大作です(今の新潮文庫は確か4分冊だったと思いますが)。しかも上巻の解説はかの『文明が衰亡するとき』をお書きになった高坂正堯さん。書かれた順番からすると、恐らく『海の都の物語(上)』⇒『文明が衰亡するとき』⇒『海の都の物語(下)』という時間軸になるのだろうと思います。さてその中からいくつか文章をピックアップさせていただきます。

p81 マキャベリの言葉にこういうのがある。「ある事業が成功するかしないかは、いつに、その事業に人々を駆り立てるなにかが、あるかないかにかかっている」つまり、感性に訴えることが重要なのである。・・・ヴェネツィアは、共和国である。民衆の支持が、絶対に欠かせない。民衆は、目先の必要性がないかぎり、感性に訴えられなければ、動かない。(筆者コメント(以下同)確かに、人は理屈では動かない、とよく言われますね)

p121 現実主義とは、現実と妥協することではなく、現実と闘うことによってそれを切り開く生き方を意味していた。・・・「現実主義者が憎まれるのは、彼らが口に出して言わなくても、彼ら自身そのように行動することによって、理想主義が、実際は実にこっけいな存在であり、この人々の考え行うことが、その人々の理想を実現するには、最も不適当であるという事実を白日のもとにさらしてしまうからなのです。」(言ってることとやってることに矛盾がある人・・・にはならないように自戒自戒)

p198 神はわれらとともにある、という確信は、往々にして、自分たちと同じように考えない者は悪魔とともにある、だから敵である、という狂信につながりやすい。私には、それが物欲をともなわない高貴なものであろうとも、絶対に同意するわけにはいかない。I教徒が始め、そしてK教徒に受け継がれた聖戦思想・・・」(ヴェネツィアが進路を変えたと言われている第四次十字軍に関する記述で。ジハードは十字軍に姿を変えて受け継がれたという見方。この「受け継ぎ」はなんとも悲しい。歴史は繰り返すということでしょうか。江戸の敵を長崎で討つ、みたいな話でしょうか)

p198 十字軍史の中で、もう一つ評判の悪い十字軍がある。フリードリヒ二世の率いた第五次十字軍である。この、完全に客観的に判断することのできた皇帝は、一戦も交えずにイェルサレムに入城し、外交交渉で、キリスト教徒たちの聖地巡礼の権利を、イスラム教徒側に認めさせた。だが、イスラム教徒を一人も殺さなかったがために、西欧ではひどく非難され、法王は彼を破門にし、キリスト協会の敵との烙印を押したのであった。この後に十字軍を率い、イスラム教徒に戦いを挑んで敗れ、イェルサレムに近づくこともできずに死んだフランスのルイ王は、聖人に列せられる。(塩野さんの目線ではなんとも不条理に映る、ということなのでしょう。私もそう感じますが、立場が違えばこういうことも正当化されるのかという典型的な事例かも知れません。詳しくは塩野七生さん著『皇帝フリードリヒ二世の生涯』でまた勉強しましょう)

p249 ヴェネツィアほど、中小の商人の保護育成に細心の配慮をした国はない。大企業による独占が、結局は国全体の経済の硬化につながり、それを防止するうえで最も効力あるのが、中小企業の健全な活動であることを知っていたのである。これを知り、実際に行ったのが、政府を握っていた大商人たちであったのが面白い。

以下は、高坂正堯さんの解説「ヴェネツィア、あるいは歴史の魅力」と題された一文からの抜粋です。

p503 欧米の優れた学者が現代の諸問題を考えるとき、彼の試行の背景には長い歴史に関する知識がある。彼らの使う概念には過去の現実に関する知識という肉がついている。だからこそ独創的な考えや深慮も生ずるのであろう。

p504 数百年あまりの蓄積と百年余りのそれとでは、そもそも勝負にならないと思って、時々ため息が出る。そこでまた気を取り直して、雑多なものの宝庫である歴史をひもとくことの重要性を一層強調しなくてはならない。・・・現在の日本の活力をなんとか二、三十年間、持ち続けることができたら、より本格的な文明も、優れた政治・外交も現れるかも知れない。(この文章が書かれたのは昭和55年頃、つまり、今から40年ほど前のことです。高坂さんが言っている「なんとか二、三十年間」という言葉からは、まさに現在の様子を見通していたかのような(もしかすると半ば観念したかのような)透徹したまなざしを感じます。)

p505 国家の文書を体系的に整理し、残すのは、今ではまともな国なら当然のこと。(え?これも前段と同じように予言のような言葉では・・・唖然)

これらの他にも塩野さん、高坂さんともに、横線を引いた箇所は沢山あるのですが、後は割愛とします。この勢いで高坂さんの『文明が衰亡するとき』のヴェネツィア編を読もうかどうかという段になっています。いや、それよか先に『海の都の物語』の下巻600ページに進むべきか。学び、先人の経験を知識として得、企業経営者や創業希望者などの役に立てるように知恵として活用する、そんなサイクルを目指してまたページをめくります。

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事業再構築補助金と『官僚たちの夏』の深い?関係

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(この投稿は、中陳個人の感想であり、歴史上の事実について誤った認識があるかも知れません)

令和2年度第3次補正予算により、経産省から新たに「事業再構築補助金」という補助金が出されました。この事業再構築補助金の申請を考えている事業者さんからの相談に備え、城山三郎さんの『官僚たちの夏」を初めて読みました。

というのは、1960年代、1970年代の頃、日本株式会社と揶揄されるくらいに、日本の官と民とが協力して、軽工業から重化学工業に脱皮し国際競争力を高めていったという歴史があり、今回の事業再構築補助金は、まさにそのような大きな産業構造の転換を目指しているのではないかと感じ、では、当時はちなみにそのような動きがどのように作られていったのかということを小説を通じて知ることができないだろうかと思ったのです。

当時は日米繊維交渉や鉄鋼交渉、自動車交渉など、様々な貿易摩擦が発生し、都度、官民一体となって交渉に当たり、量的な制限を課されつつも、より良いものをより安く提供できるよう技術革新などにも取り組んでいたのであろうと認識しています。そのような様々な動きの中で、経済人でもスター経営者が生まれたり、当時の通産省からはこの小説のモデルと言われる佐橋滋さんや少し下って天谷直弘さん、堺屋太一さんなどスター官僚を輩出していました。

目指すべき産業モデルも米国などに存在していた時代でした。しかし、今は、目指すべき産業モデルがなかなか見当たらず、みんなでGAFAMになれというわけにもいかず、しかし日本の産業構造を変えて、より生産性を向上させていく必要があると、現在の経産省の方々は考えているのではないかと思います。あくまで想像です。60年代70年代は産構審という会議体を通じて官民が協力していたと教わったことがあります。通産省、学者、民間がそうした場を通じて、文字通日本の産業構造をどうするかといったテーマで喧々諤々の議論が交わされていたものと思います。今も産構審は存在し、議論はなさっているようですが、当時とは位置づけが変わっているのか、あまり表に出てきていないような気がします。目指すべき産業構造や産業モデルが見当たらないからなのかも知れません。勝手な想像ですが。

事業再構築補助金では、まず「概要」に「日本経済の構造転換を促す」ことを目的とすると書いてありますが、この重要ポイント、案外見落とされているかも知れません。つまり「経済の構造を変える」ことに寄与しそうな事業に補助金を出す、と冒頭で明言してあるのです。また「公募要領」の審査項目には「リスクの高い、思い切った大胆な事業の再構築を行うものであるか」とあります。これらを総合して考えると、今の経産省が50年前の通産省のように、この1兆円を超える予算を活用して、新たな産業を興し、日本の産業構造をより生産性の高いものにシフトさせたいと考えているように思えてなりません。

さて、件の『官僚たちの夏』、主人公の思いとは裏腹に、肝いりで提案した法律案(特定産業振興臨時措置法案)はロクに審議もされずに廃案となったということでした。企業が自らリスクをとって世界と勝負していくべきとい自由経済論とのせめぎあいで負けたとか、もう官が一緒になってやっていかなければならないほど日本企業はひ弱ではなくなったとか、様々な考え方に敗れたというようなことで、官民一体となって産業構造の転換に取り組んでいたと思っていた私からすれば「あれ?」という感じでした。しかし、どうも、その法律は廃案になったものの、一方で「構造改善を図る企業に政府融資をとりつける体制融資で振興法の精神をある程度具体化した」(本書p316)とあることやIBMに対するコンピュータ業界の合従連衡が功を奏したといったことなど、その後の官民連携のいくばくかの部分は佐橋さんが描いたような道筋を法律とは別のところで進んでいたようです。

法律案の原案には次のようにあったそうです。「経済の変革期に当り、対外競争力を急速に強化するためには、産業再編成により、生産規模の適正化をはかることが必要である。この産業振興のための基準は、政府・産業界・金融界の協調によって定める。政令によって指定された産業は、この振興基準に従って、集中・合併・生産の専門化などの努力をする。金融機関は、この振興基準にそって資金の供給を行う。政府も、政府関係金融機関を通じて資金を補給するとともに、課税について減免措置をとり、また、振興基準による合併などについては、独占禁止法の適用除外とする。」

今回の事業再構築補助金についても、合併などによって新製品等を新市場に売っていくというものも含まれています。中小企業の企業規模を大きくして生産性を上げよという主張は、デービッド・アトキンソンさんの主張にも表れているところであり、今回の補助金にもそういう考え方が反映しているのかも知れません。当時の法案(とその後の動き)と今の補助金、狙いが似ているような気がします。『官僚たちの夏』を読んで、益々その意を強く持ちました。

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