スコット・フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』

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ここ最近アメリカの少し古い映画を観ています。先だってはスコット・アステアの「コンチネンタル」。びっくりしたのは、その当時(たぶん1930年代)のアメリカでは、左ハンドルの車と右ハンドルの車が共存していたことです。全編ダンスが多く、最近のインド映画かと思うところもありました。ま、あくまで私の個人的印象ですので、全然違うのでしょうけどね。

さて直近で観たのが「華麗なるギャツビー(グレート・ギャツビー)」です。スコット・フィッツジェラルドという人の原作です。

本はまだ途中ですが、色んな点が私にとっては不条理に感じられ、いわく言い難い後味が残っています。書かれたのが第一次世界大戦の七年ほど後。映画には何度もなっているようですが、私が観たロバート・レッドフォードのこれは1974年のものです。本の中に気になった文章があったので抜き書きしておきます。

「アメリカ人は、農奴たることはいやがらぬばかりか、進んでなりたがるくせに、貧農たることは昔からいつも頑固にこばもうとする人間なのである。」(新潮文庫p144)・・・意味不明。

「三十歳-今後に予想される孤独の十年間。独身の友の数はほそり、感激を蔵した袋もほそり、髪の毛もまたほそってゆくことだろう。」(同p225)・・・これはうまく韻を踏んだ気の利いた言葉のように感じましたので採録しました。

グレートギャツビー

映画の中では、男たちがいつも顔といわず首筋といわず汗をかいているのが気になりました。顔にあれだけ汗をかいているということは、シャツの背中も下着の中もびっしょり汗をかいているに違いないのですが、画面にはとにかく汗をかいている男たちの顔の大写しが多かったです。汗の意味は、真夏だという設定もあるのでしょうけど、それぞれがなにがしかの隠し事や後ろ暗いことがあり、緊張しているということを表現したのだ、というような説もあるようです。

現代アメリカを代表する作品だということなので、私の感じた不条理感、違和感はさておき、本の方も最後まで読み切って、何が「20世紀最高の文学の2位」なのか、考えてみたいと思います。日本語訳なので、米国の方々のような味わい方は難しいのでしょうけど。

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ドストエフスキー『未成年』

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数年前にドストエフスキーの『白夜』という短い小説を読みました。なんとも言えない幻想的な失恋小説でした。その時の個人的な印象を言えば、装丁の影響を受けたのか、どことなく日本の「雪女」を連想させられました。そこから改めてドストエフスキーに挑戦していこうと決意したのがこの投稿内容のきっかけになります。

ドストエフスキーは大学に入った年に、ちゃんとした小説を読まなければという思いで挑戦したものです。最初は肩慣らし(ロシア文学への心のハードルを下げるための練習)として『貧しき人々』を読み、人物の名称や表現に馴染んだ上で『罪と罰』に取り組みました。それからかれこれ40年近くを経て、7年前の2016年、一週間ばかし仕事からも世間からも離れられる機会がありこの機を逃してなるものかと思い『カラマーゾフの兄弟』を読みました。村上春樹さんの小説にはしばしばこの本のことが出てきていたので、随分前から気になっていたものです。さらにちょうどその頃亀山郁夫さんの新訳が話題になり、筒井康隆さんが亀山訳によってようやく読めたという主旨のことを仰っていたので、それでは、と私も挑戦しました。いわゆる五大長編の1と5だけを読んだことになります。

それで終わっても良かったのかも知れませんが、あと三作を読まないというのもどうかなと思い、『白痴』『悪霊』『未成年』のどれがいいかなあと検討。なんとなく『未成年』というのはあまり聞きませんし、他の二作の重そうなタイトル、巷間耳にするそれらの小説の重々しさに比べるとまだ軽いのではなかろうかという期待がありました。という安易な理由で『未成年』に取り組んだのが数年前。三、四十ページくらいのところであえなく挫折してしまいました。何が面白いんだろう?ということと、見開きに改行が一つもない文字びっしりのページの連続で、しかも言いたいことが伝わりにくい難解さ(ビジネス文書ではないという割り切りをすべきだったのでしょうけど)、ということで、ほうほうの体で逃げ出したという感じでした。

今年の初めだったと思いますが、丸谷才一さんが「読まれないドストエーフスキイ」と書いておられた『ステパンチコヴォ村とその住人たち』を偶然書店で見つけ、帯に「ドタバタ笑劇」とあったので、一気呵成に読みました。その勢いで5月に改めて『未成年』に挑戦し、約2カ月半かかって読み終えた次第です。

やはり前回同様何度も挫折しそうになりましたが、この間、他の小説には見向きもせずに取っ組み合いをしてきました。後になってわかったのですが、主人公には母の違う姉がいるのですが、その女性のことを「主人公が好意を持っている2人のうちの一人の女性」だと錯覚していました。確かに振り返って読み直してみると「姉」であるとはっきり書いてあるのですが、途中で忘れてしまっていました。そのくらい混乱する小説です。

しかし今回勉強になったことがあります。ロシアの名前のつけかたは、本人の名前・父の名前(少し変形)・苗字、という構成になっているようで、例えばこの小説の主人公であるアルカージー・マカローヴィチ・ドルゴルーキーは、苗字がドルゴルーキー、父の名前はマカール、本人の名前がアルカージー、となっています。姉のアンナ・アンドレーエブナ・ヴェルシーロワは、ベルシーロワが苗字の(たぶん)女性名詞、アンドレイが父の名前(父は、アンドレイ・ペトローヴィチ・ヴェルシーロフ・・・実は主人公アルカージーの実父でもある)、アンナが本人の名前、という具合です。それがしっかり頭に入っていれば、アンナ・アンドレーエブナがヴェルシーロフの娘であり、すなわち主人公と同じ父を持つ姉弟であることもすぐに理解できたはずなのに・・・という思いに駆られます。しかも同じ人物でも、呼ぶ人によって言い方が異なるため、それらが同一人物であるとちゃんと認識しないままに話しが進んでしまうこともあり、複雑な物語が余計わかりにくくなってしまいます。読み手の力不足ではありますが。

しかし後半から亀山郁夫さんがお書きになった参考図書「ドストエフスキー五大長編を解読する」などを時々眺めたこと、全巻終了後に、他の参考図書にも目を通すことで、もやもやっとしていたことが多少は見通しが明るくなったような気がします。中でもフランスに亡命したロシア人作家アンリ・トロワイヤの『ドストエフスキー伝』は直截的で「目から鱗」状態でした。これら参考図書にはとても助けられました。

未成年

最後にいくつか抜き書きを。

新潮文庫上巻p519「われわれは韃靼(タタール)族の侵略にさらされ、その後二百年というもの奴隷状態におかれました」・・・参考図書 NHK出版『世界史のリテラシー 「ロシア」はいかにして生まれたか タタールのくびき』

新潮文庫上巻p568「自分が公正な者は、裁く権利がある」・・・ラスコーリニコフ?

新潮文庫上巻p575「アルカーシャ、キリストはすべてを許してくださいます。おまえの冒涜も許してくださるし、おまえよりももっとわるい者だって許してくださるんだよ」・・・親鸞聖人悪人正機説?

新潮文庫下巻p142「笑いがもっとも確実な試験紙だ・・・赤んぼうを見たまえ、あかんぼうたちだけが完全に美しく笑うことができる」

新潮文庫下巻p265・・・マカール・イワーノヴィチ(主人公の名義上の父)の最後の言葉「なにかよいことをしようと思ったら、神のためにすることだ、人によく見られようと思ってしてはいけない」

さて、しばらくはドストエフスキーから一旦離れ、いずれまた未読の小説集と長編二作に戻ってきます。

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森本真樹さん著『躍動するアフリカ』

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地元の図書館に行ったら<新刊>というコーナーで目に入りました。早速借りてきて一読しました。著者や外交官で3度のアフリカ勤務をなさった方で、現在はエチオピアにあるAUの事務局で働いておられるとか。この方が2008年に当時のエチオピアのメレス首相から、日本には日本にしかできないことをやって欲しい、働く人を指導する指導者の教育である、との依頼を受け、カイゼンを通じた労働教育のプロジェクトを提供したということが書いてありました。ちなみにメレス首相曰く「普通の道路、橋やダムの建設なら、欧州や中国に依頼すれば良い」「規範を書くのは、欧州の人が得意」という風に、日本に依頼することと、欧州や中国に依頼することを区別していたようです。「重要なのは労働倫理です。これは日本が最も得意とする分野であり、日本人にしかできないもの」と仰っていたそうです。

時々知人たちと「日本人の良い所はどこだろうか?」という話題になることがあります。内省的? 思いやり? おだやか? 話し合いでものごとを決めようとする姿勢? どれも合ってるような感じはしますが、それらと逆の出来事にもしばしばお目にかかります。上の人の言うことに素直に従う従順さ・おとなしさ・・・悪く言えば隷従ということにもなりかねず、そういう労働者になるように仕立ててくれ、というのが本音の要請だったとしたら、それはそれで本質を突いていたのかも知れませんが、森本外交官たちが提案し導入したものがカイゼンであったということです。まず、仕事が終わったらきれいに片づける、ということから始めたということですし、カイゼンの本質は、自主性・自発性・チームワークといったボトムアップの取組のはずですから、自由の尊重や多様性重視や相互リスペクトといった価値観も5つのSなどと一緒に伝えられたのではないかと思います。

面白いなと思ったのは日本の蚊取り線香が現地の蚊にも結構効くので、そのおかげでマラリアの感染抑制にも効果があるとの記述でした。蚊取り線香の材料となっている除虫菊はケニアやタンザニア産らしいので、アフリカからすれば逆輸入なんでしょうか。現地で生産できればいいのかも知れません(日本にとっては加工賃が入らなくなるので良くないのかも知れませんが)。

また「アフリカでは、老人が一人亡くなることは、図書館が一つなくなるのとおなじことであると言われる」との記述もありました。老人=先輩は智恵の宝庫。ものの見方、経験、考えて来られたことなど、先輩たちから学ぶことは沢山あります。もうちょっと先輩たちを大事にしなきゃ、と反省。

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村上龍さん『希望の国のエクソダス』

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西暦2000年に刊行された村上龍さんの『希望の国のエクソダス』を読みました。
最近「日本を脱出せよ」といった言説がちらほら聞こえてきており、これがその嚆矢となるような小説だと誰かが言っていたことがきっかけです。
内容は日本そのものを脱出するものではないので上記のこととは全くのイコールではないものの、現在の体制から抜け出して自分たちの才覚で、ある種独立的な自治体を作り上げていくものであり、その意味では「脱出」に通ずるものがあるようにも思います。

村上さん曰く「人材の国外流出が本格的に始まってしまったら、たぶんこの国の繁栄の歴史が本当に終わるだろう」(文庫p101)。

村上龍『希望の国のエクソダス』

まだ仮装通貨の片鱗も見えてない時代に「イクス」という仮装通貨的なパワーを持つ「地域通貨」を登場させてみたり、坂本龍一さん(音楽家、2023年3月逝去)を風力発電所のブレードで音楽を奏でるための実験をさせたり(実際にそのようなことがあったかどうかは確認していませんが、唯一実在の人物が実名で登場しているくだりです。p385)、実験的な小説にしては今日の日本を見通したような、近未来社会経済小説と呼んでも良いような感じがします。

他にも「日本経済はまるでゆっくりと死んでいく患者のように力を失い続けてきたが、根本的な原因の究明は行われず、面倒な問題は先送りにされた」(p16)、「これまで通りのやり方で何とかなるだろうと思っていたのだ。メディアは、危機へのそういう曖昧な対処に加担していた。本質を見なくてもすむような有名人のゴシップや社会事件を(中略)興味本位に報道した。」(p17)、「過去の日本を歴史的に美化するような動きも目立った。」(p17)といった20年後の今のことかと思うような主人公の独白もありました。

冒頭登場するナマムギ君はパキスタンとアフガニスタンの国境付近で地雷処理をしながら、なぜ日本を離れてここにいるのかという記者の質問に対して「あの国には何もない、もはや死んだ国だ」と語り、さらに「すべてがここにはある、生きる喜びのすべて、家族愛と友情と尊敬と誇り、そういったものがある、われわれには敵はいるが、いじめるものやいじめられるものがいない」(p12)と人と人との間で生きるとはどういうことなのか(敵と戦うことを是とする気持ちはありません)を端的に語っているように思います。

小松左京さんが『日本沈没』を書きましたが、科学的な知見(ウェゲナーの大陸移動説や日本海溝の深さとマントルの移動など)を下地にしつつ、小松左京さんが伝えたかったことは、戦後も戦前と日本人の閉鎖性は変わっていない、この辺で国際人にならなければ大変なことになる、そのためには一回日本がなくなったらどうなるかという思考実験をしてみることで、目を開くきっかけになりはしないか、といったようなことを考えてあの小説をお書きになったということをどこかで読みました。
実は村上龍さんも同じような思いを抱いてこの小説を書いたのではないかと感じたのがつぎのくだりです。「日本人みんなが、何か共通なイメージっていうか、お互いに、あらかじめ分かり合えることだけを、仲間内の言葉づかいでずっと話してきたってことなんじゃないかな。その国の社会的なシステムが機能しなくなるってことは、その国の言葉づかいも現実に対応できなくなる。」(p122)ということを主人公の交際相手の経済記者に語らせています。

これからの時代、若い人が地方から東京へ、東京からオーストラリアなどの海外へ、集団脱出するような日本にならないよう「希望」が持てる国であり続けるにはどうしたら良いか。まずは私たち大人が楽しく、誠実に、正直に(嘘をつかず)、明日に希望を持って生きていくことが必須だと思います。ポンちゃん(主要登場人物の一人、中学生)が国会の証人喚問で語るセリフ「この国には難でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない」・・・こんなことを若い人に言わせない社会にしなければ。外国から日本を訪れる人たちが、日本は観光だけでなく働いてスキルを身につける上でもとても良い国だ、と言われるような国にしていかなければと思います。

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「価値観」の力

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ある仕事で、企業の経営者の相談相手として伴走的に関わるということをしています。「経営力再構築の支援」というような言い方がなされている業務です。「経営力再構築」とはどういう状態からどういう状態になることを指すのか、あまり明確な定義があるわけではないようですが、経営者がこれまで気づかなかった会社内の問題やなるべく考えないようにしていた問題などに、経営者が目を向け主体的に解決に取り組むことを目指しているようです。

その仕事を始めて約一年が経過しますが、いくつかの企業と取り組んでいる中で、「価値観教育」と「組織力強化」がとても大事であり、かつこれらの企業に共通した課題だなと最近感じています。そのうち「組織力強化」は組織の中間にいる人たちのマネジメント行動(もちろん「考え方」が前提として必要です)ができるようになることです。「価値観教育」については、社員が10名ぐらいの間は、大抵の場合は社長と社員がいつも同じ釜の飯を食べるといった、物理的にも心理的にも近い間柄のため、ことあらためて価値観を合わせるようなことは必要ないのですが、規模が大きくなって行ったり、中途入社の人が増えて行ったりすると、徐々に社長の思いや大事にしていることや行動基準のようなものが伝わりにくくなっていきます。そのうち組織の崩壊、なんてことにもなりかねません。

成長を志向し、組織力を強化していこうという企業にとっては、価値観をどうしていくかということが大きな課題になるようです。そんなことを感じながら、ハーバードビジネスレビューの2023年4月号「価値観」特集を読みました。

価値観という言葉の定義や、パーパス、企業理念、ミッション、ビジョン、バリュー、経営方針、行動指針など、企業の方針的なことを表す言葉は沢山あり、何が上位概念で何が下位概念かといったことも、言う人によって一様ではありません。この本では、コーポレートバリューという考え方を提唱しています。コーポレートバリューは、①企業が最終的な到達を目指す地点と、②企業および企業の構成員の心構え、の2つの要素で構成される、とのことです。①をパーパス或いはミッションと呼び、②をバリューと呼んでいます。パーパスは社会課題などを背景として自社が社会で果たすべき役割や社会に提供したい価値であり、企業が存続する限り追い求める高邁な理想、内発的に形成されるもの(但し、経営者の独りよがりの「やりたいこと」とは少し違う)であり、多様な人材が一つの組織に集まって協働する理由であり、バリューは、目指す地点(①)にどのように向かうかを規定するものであり、「心構え」だとあります。

目指す方向がずれている人、企業が望むような行動様式が取れない人、をどうするか、といった問題も発生しています。価値観の合わない人、というのが従来の言い方になるかも知れません。ここでは価値観=目標=ゴール(=パーパスやミッション+バリュー)という言い方なので、「目指す方向」というのがが近いように思いますが。そこを目指そうとせず、そのための「心構え」(お客様からの様々な刺激に対してどう反応・行動するかといった従業員に共通的に心得ておいてもらいたい行動の基準みたいなもの)が他の人と異なる場合は、どうするのか。価値観の合わない人は出て行ってもらう、というような簡単なわけにはいきにくい時代になっています。人手不足の問題もありますが、多様性がイノベーションを生む土壌であるということを考えると、そのような人をどうやって包摂していくのか、という難しい課題にも対応していくことがこれからは必要かも知れません。見ないふりをするのではなく、かといって退場してもらうのでもなく、しかし社内での他の従業員との軋轢を放置せず、いかに包摂して自社のパワーを高めていくか。難儀ですがこれからの企業にとって取り組む必要のある課題ではないかなと感じています。

さて、この冊子には、コーポレートバリューを組織内にうまく浸透させることがとても大事であるということや、そのための方法論なども書いてあり、ここでは省略しますが、実務の中でも参考にしていきたいと思っています。

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アドバイスという名の自慢話~中野信子さんの『脳の闇』より

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「アドバイスという名の自慢話」・・・やりがちです。それも無意識に。新聞に出ていたこの項目を見て書店に走りました。昨日の日経新聞の記事下広告。中野信子さんの『脳の闇』です。
曰く「一人では解決できない感情に対して安易にアドバイスを与えるという行為がどれほどその人をがっかりさせてしまうことか。」「お勉強がよくできた人ほど、また、承認欲求が満たされていない人ほど」「自分が問題を解いてあげなければ、という課題に一直線に向かっていってしまう」
近く予定しているある研修に必須の戒めが書いてありました。その職場ではお客様を承認欲求の対象にしてはならないことをお伝えしようと思いますが、私自身心せねばと改めて思っています。

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『社員30名の壁超え3つのステップ』

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経営支援の場面では、個人の方の創業からある程度の規模の企業の経営改善や今後の成長課題に関するこtなど、様々な悩みや課題に直面します。この本は、社長のリーダーシップで成長してきた企業が、さらに大きくなろうとした場合に直面する「組織力」について書かれたものです。

極端な言い方になるかも知れませんが、社長が全社員を見ることができ、全社員と気持ちを通わせる規模であれば発生しなかったような問題が、一定人数を超えると発生してしまうということがあります。昔はこんなことに頭を悩ます必要はなかったんだけどなあという声を時々聞きます。専門用語で言えば「スパン・オブ・コントロール」ということと関係しているのかも知れません。

さて、そういった事象は、見方を変えれば成長痛のようなものかも知れません。それを克服するためには社長がいなくてもちゃんと仕事が回るように仕組みを整えていくというプロセスであり、この本にはそのような手順が書いてあります。

1stステップは「理念の浸透」、2ndステップは「中期経営計画の共有」、3rdステップは「HRMの仕組み構築」とあります。このプロセスを順に踏んでいくことで、中間管理者が育ち、個々の従業員の成長ももたらすことができ、組織が大きくなっても基盤がしっかりした状態で仕事をし続けられるというものです。

現在取り組んでいる伴走支援の仕事においても、活用できそうなヒントをいただきました。

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塩野七生さんの『海の都の物語』

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塩野七生さんの『ローマ人の物語』の最終巻(文庫では42巻)にアッティラに攻められるイタリア北部の様子が描かれています。一部の人々は塔の上にのぼり、どこへ逃れれば助かるだろうかと考え、そこから遥か海の方に葦のはえている潟まで行けば、何もない所だから、奪われるような財物は何もないから助かるのではないか、と考え、移動した先が後のヴェネツィアになった、ということが書いてありました。『ローマ人』の次は『ヴェネツィア』だ、と決めていました。

学生時代に読んだ高坂正堯さんの『文明が衰亡するとき』という名著があります。私にとっては小室直樹さんの『危機の構造』や山本七平さんの『空気の研究』野中郁次郎さんたちの『失敗の本質』などと同じようなポジションの本です。塩野さんの『海の都の物語』は文庫上巻だけで521ページ、下巻はさらにボリュームがあって607ページ、両方合わせると1128ページという大作です。よって先に、もう一度『文明が衰亡するとき』を読んで肩慣らしをしてから、と思って(第二部 通商国家ヴェネツィアの栄光と挫折を)読み始めたところ、第一章の途中に「ヴェネツィアが海洋貿易にはっきり転換したのは、西暦1000年ごろアドリア海の海賊を退治してから後と言ってよいが、その遠征に至る外交過程はヴェネツィアの外交の巧みさを如実に示している。この過程は塩野七生氏の『海の都の物語』にあざやかに描かれているから、くわしくはそちらを読んで欲しい」とあり、さらにその章の脚注に「始めにヴェネツィアの歴史を知るために読むべき書物をあげておくと、日本では、塩野七生『海の都の物語』(中央公論社 昭五十五)、同続(昭五十六刊行予定)がある。ディティルの描写がすばらしく、それが全体像とつながっている。」という文章に遭遇してしまいました。本文中にも塩野さんの同著からの引用が何カ所かあり、こりゃ、なまくらしてはいけない、高坂さんが引用した本を先に読めということだなと思い、改めて、塩野さんの本から取り組もうと決意しました。

『ローマ人の物語』の二十五年前に書かれたのがこの『海の都の物語』です。私自身は文庫になって、1989年=平成元年にこの上下本を買っていましたが、なにせ分厚いので手にとっては挫折、の繰り返しでしたが、ローマの終焉を終え、ようやくそれに連なるものとして読み終えることができました。

第四次十字軍に関する記述の中にこんな一節がありました。文庫上巻のp198です。「神はわれらとともにある、という確信は、往々にして、自分たちと同じように考えない者は悪魔とともにある、だから敵である、という狂信につながりやすい。私には、それが物欲をともなわない高貴なものであろうとも、絶対に同意するわけにはいかない。」最近また世情を騒がせている新興宗教(?)の協議にも似たような考え方があるように聞いています。塩野さんは「絶対に同意するわけにはいかない」と強い口調で述べておられます。歴史を学び、そこから得られる智恵を活かしていこう(自分勝手ではなく、お互いを尊重し合って、人の自由を侵害しない限りにおいて自由であるというルールが共有できる社会を作っていく)と考えるからこそ、ほとばしり出てきた言葉ではないかなと感じます。私たちが歴史を学ぶ意義の一つが、そういうことではないかなと思います。

さてその記述に続いて、第五次十字軍のことについても少し書いてあります。そこでの主人公はフリードリッヒ二世という人物です。塩野さんの著作にも何年か前に文庫化されたものがあります。

高坂さんの『文明が衰亡するとき』のヴェネツィアの部は、選書で70ページあまりですが、ヴェネツィアの歴史、興隆から衰退に至る経緯をコンパクトに、しかし決して単純な因果論ではない書き方をしてある点がとても考えさせられます。ヴェネツィアは印刷術を商業化し、商業演劇を始め、海洋貿易で財をなし、簿記を取り入れて複式にし、商業銀行を創始した、など、今に通じる様々なものの始まりをなしていることが書かれていました。そして改めて塩野さんの著作を引き、個人の野心と大衆の専横とが結びつく危険を避けるため、個人に権力が集中しすぎないようにしつつ、安定したリーダーシップが発揮できる政治体制を作ったという主旨のことも書かれていました。もちろん、それを単純に礼賛しておられるわけではなく、叙述的な記載に徹しておられます。何か一方向に偏り過ぎないことが大事なことなのではないかということを高坂さんの記述からも感じます。

塩野さんの著作で読んでいないものもまだ沢山あります。楽しみは尽きません。

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司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』

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 司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』を読みました。
 そして、10年ほど前にNHKのテレビでやっていたドラマもようやく“追い見”しています。

 4年前にある先輩から経営戦略の参考になるので是非読んだら良いと言われており、チャレンジしたのですが、文庫版3冊目の途中で挫折してしまいました。その後昨年から再度挑戦しましたが、やはり3冊目の途中から読むペースが遅くなりました。何が原因か。一つは、正岡子規の命が燃え尽きるのを見たくないという気持ちが働いたのと、もう一つは、そこを越えた次に出てきた戦闘シーンの多さ、人が砲撃にあって沢山亡くなる、これでもかこれでもかというくらいに「突撃」と「殲滅(される)」の繰り返しに、この小説はいったいなんなんだろう? 司馬さんはなんのためにこのように人が次々と勝算のない突撃で意味もなく亡くなり続けるシーンを描いているのだろう? という疑問がわいてきたこと、だったのではなかろうかと思います。(指揮官たちは「意味もなく」とは考えていなかったと思いますが)
 司馬文学の金字塔と言われているくらいの『坂の上の雲』は日本が明治維新を経て、さらに瑞々しく希望あふれた豊かな国になっていく道程を描いたものだろうと勝手な想像をしていました。もちろん日露戦争を描いたものであることは承知していました。実は私の誕生日は、戦前は陸軍記念日と言われていたそうです。日本陸軍の生みの親たる大村益次郎さんの誕生日だったと聞いたことがあり、それに因んでかと思っていましたが、どうやら日露戦争・奉天会戦における戦勝記念日だったことから来ているようです。そのため、どんな戦争だったのかという関心もありました。経営戦略の勉強という観点とは別の意味でも読書欲をかきたてられた次第です。
 しかしタイトルにある「坂の上の雲」など私の眼には一向に見えてきませんでした。そして、日本という国を俯瞰するのみならず、戦いの相手だったロシアについてもじっくりと丁寧に、特にバルチック艦隊が母港を出て喜望峰を回り、マダガスカルで無為な時間を過ごし、東南アジア付近では疑心暗鬼になり、といったことを実に丁寧に読む者がその情景が目に浮かぶような丁寧さで書いてくれています。組織の統率、指揮官はいかにあるべきかということを、彼我の対比も含め、描いています。単に日本がどう、ロシアがどうという単純比較ではなく、日本の軍隊における(組織の意思決定の仕方・データの扱い方などの)良い点、だめな点、ロシア側の良い点、だめな点もかなり客観的に描かれていたと思います。組織論といっても、人それぞれに着目した、だれそれはこの時こういう発言をした、といった感じですが、一方で民族的な習性といったような、やや曖昧なことに原因を求めるような記述もありましたが。
 私の勝手な想像とは裏腹に、司馬さんの『坂の上の雲」は、決して希望あふれた豊かな国になっていく道程というよりは、太平洋戦争での滅亡の原因がこの成功体験の中にあった、ということを説明しようとしたものではなかったか、という気もします。特に陸軍に対しては「滅亡」という言い回しを何度か使っています。そして、司馬さんがこの小説の連載を始めた1968年といえば、太平洋戦争終結からまだ23年しか経っておらず、当事者も大勢生存していた時期であり、日露戦争の従軍者もおられたとのことであり、色々書きにくいこともあったのではないかと想像します。
 いったいなにが楽しくてこんなこと(突撃と殲滅の延々たる繰り返し)を書き連ねているのだろう?と思っていました。しかし司馬さんは相当つらい思いをしながら書いていたんではなかろうか、と最終巻のあとがきを読んで思いました。司馬さんは「あとがき」の最後にこんなことをさらりと書いています。「私の四十代はこの作品の世界を調べたり書いたりすることで消えてしまった。この十年間、なるべく人に会わない生活をした。友人知己や世間に生活人として欠礼することが多かった。古い仲間の何人かが、その欠礼について私に皮肉をいった。これはこたえた。(p358)」
 ただ司馬さんの作品の年譜を見ると、この十年ほどの時期に『竜馬がゆく』『『燃えよ剣』『尻啖え孫市』『功名が辻』『城をとる話』『国盗り物語』『俄 浪華遊侠伝』『関ヶ原』『北斗の人』『十一番目の志士』『最後の将軍』『殉死』『夏草の賦』『新史太閤記』『義経』『峠』『宮本武蔵』など、幕末や戦国時代のものを中心に、その後の大河ドラマの原作になった大作も沢山書いておられ、とてもエネルギッシュに作品群を世に出しておられ、四十代を日露戦争のあとなぜだけで浪費したわけではないということも事実としては押さえておきたいと思います。 

 さて、司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』から自戒としての抜き書きです。

・人間の頭に上下などはない。要点をつかむという能力と、不要不急のものはきりすてるという大胆さだけが問題だ(秋山真之)(文庫版二 p230~231)
・大海図に点々と軍艦のピンがおされている。軍艦が移動するごとにそれがうごく。たれの目にも状況把握が一目瞭然であり、状況さえあきらかであれば、つぎにうつべき手-たとえば艦船の集散、攻撃の目標、燃料弾薬の補給など-がどういう凡庸な、たとえば素人のような参謀でも気がつく。作戦室の全員が、書記ですら、刻々の状況をあたまに入れてそれぞれの分担を処理している。(文庫版二 p252)
⇒見える化の重要性と有効性
・マカロフの統率法は、水兵のはしばしに至るまで自分がなにをしているかを知らしめ、なにをすべきかを悟らしめ、全員に戦略目標を理解させたうえで戦意を盛りあげるというやりかたであった。(文庫版三 p326)
・命令があいまいであることは軍隊指揮において最大の禁物(文庫版四 p261)
⇒軍隊を企業に置き換えて読む
戦略や戦術の型ができると、それをあたかも宗教者が教条をまもるように絶対の原理もしくは方法とし、反復してすこしもふしぎとしない。(文庫版五 p50)
・日本軍の師団参謀たちの頭は開戦一年余ですでに老化し、作戦の「型」ができ、その戦闘形式はつねに「型」をくりかえすだけという運動律がうまれていまっていた。「型」の犠牲はむろん兵士たちであった。(文庫版七 p42)
⇒日本軍を大企業に置き換えて読む
・戦術家が、自由であるべき想像力を一個の固定概念でみずからしばりつづけるということはもっとも警戒すべきこと。情報軽視という日本陸軍のその後の遺伝的欠陥。(文庫版五 p355)
⇒これも陸軍を企業に置き換えて読む
一行動が一目的のみをもたねば戦いには勝てないというのがマハンの戦略理論であった。東郷がこの「目的の単一性」という原則に忠実であったのに対し、ロジェストウェンスキーが二兎を追うためにその行動原理がきわめてあいまいになっていることをマハンは指摘している。(文庫版七 p331)

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福岡伸一さんの『生物と無生物のあいだ』

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2007年5月に一刷、10月に十一刷ということですから、ちょうど14年前に購入した本ですが、今頃、ようやく読了しました。PCR検査のことが書いてあるという話をどこかで目にし、その部分だけは昨年読んでいたのですが、そこだけ読んでもよくわからない状態でした。最近ある本で「動的平衡」のことが書いてあったことと、『生物はなぜ死ぬのか』という同じ講談社現代新書(小林武彦氏著)という類似書籍を手に取ったこともあり、関係づけながら読むと複眼・多面的に理解できるかも、と思い、慌てて書架から引っ張り出して一気に読みました。

この本の一番のテーマは「動的平衡」ということのようです。そして、生命においては、「動的平衡」を「乱すような操作的な介入を行えば、動的平衡は取り返しのつかないダメージを受ける」ので、生命科学をつかさどる医学者といえども「なすすべはない」といった慨嘆のようなことも書いてはありますが、それでも生命はとても力強い仕組みになっていることは巻を置いても強い印象となって残っています。

エントロピー増大の法則に沿えば、秩序は崩壊していく。しかし、その秩序を守るために、生物の内部に必然的に発生するエントロピー(様々な刺激で細胞などが変容・破壊されていく過程)を排出する機能を担っている、とのことで、エントロピーの法則によって生命体が壊れる前に一部を壊して自己複製でまた同じものを作ることが、強固な建築物を作るよりも維持しやすい、ということのようです。

ある意味、伊勢神宮が二十年ごとに建て替えられていることをも想起させられるような気がしました。

人の組織でも、同じようなことが言えるように感じます。組織文化というものがあり、長い年月その組織内で醸成される文化・風土・空気というものが、動的平衡を作っていき、それが組織の価値観として、成員の無言の前提となり、経営者もマネージャーも社員すらもその前提を当たり前のものとして判断・行動する。それが結果的に、何度でも検査不正を働いてしまう某自動車会社であったり、あるいは、どれだけ改善しようとしても赤字から抜け出せない企業体質であったり(潰したら銀行も困るからお金はなんとかなるという期待?)、動的平衡にはそのような良くない状態の維持もあるのではないかと思います。ソニーやリクルートのように、前例主義ではない、異質な人材を取り込む、といったことが企業活動の中に埋め込まれている企業はそうではなく、また高度成長時代の日本企業のように、作れば売れる時代であれば、悪しき動的平衡が問題になることはなかったのだろうと思いますが、これからは悪しき動的平衡を持つ企業はなんとかしなければならないのではないかと思います。

そうした動的平衡を崩すのは、内部の力ではなかなか困難であろうと思います。例えば中小企業診断士のような外部の経営に関する専門知識と高い志を持つ人が真剣に経営者と向き合い、誠心誠意変化を説くことで変化をもたらすきっかけが提供できるのかも知れません。その際よって立つ根拠は、まずは、その会社の創業の理念であったり、今の時代に改めて考え直すパーパス(企業の存在意義・存在目的)であったりするのかと考えています。

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