トーマス・マンの『トニオ・クレエゲル』

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難解で文字ばかりの『魔の山』(教養小説と言われているそうですが)の次に、いきなり『ブッデンブローク家の人びと』に取りかかるのは精神的にもたないだろうなあと思い、箸休め的な気持ちで短編ならば、と手を出したのが『ヴェニスに死す』で、同名の映画を観たのち、続けてこの『トニオ・クレエゲル』を読み始めたのですが、いきなり「ハンス」という少年が登場し、『魔の山』のハンス・カストルプと同じ「名」であったため、少々混乱し、しかもやはり難しくなかなか読み進めることができなかったため、このままでは肝心の『ブッデンブローク家の人びと」を年内に読み終えられないのではないかと思い、一旦措きました。わずか120ページの短編なのですけどね。

ちなみにハンスはハンスでも、『魔の山』の主人公のハンス・カストルプとは全く関係のない人で、ハンス・ハンゼンというのがこのハンスの名前でした。主人公はもちろんトニオ・クレエゲルであり、トーマス・マンの自伝的な小説らしいので、著者本人が投影されているものと思われます。

16歳の頃の、数少ない友人との学校からの帰り道の情景を描いており、相手の友人はそれなりに愛想をしてくれるのですが、どうもこちらが思うほどにはこちらのことを思ってくれているわけではなく、相手(ハンス・ハンゼン)は他にも多くの友達がおり、トニオはその中の一人でしかないという片思い的な関係であるという悩み。そして世間とうまくわたりあっているハンスと違って自分は世間の一般の人達との関係をうまく結べないという悩み。
そのうち好意を抱く同級生の女子(インゲボルグ・ホルム)が表れるのだけど、妄想だけが膨らんでいってその娘とも現実の世界ではうまく関係が構築できない・・・という間に、場面は急展開し、祖母が亡くなり父も亡くなり、母は他の男の元へ行ってしまう。本人は南ドイツで生活しつつ、作品を世に出して「喝采と歓喜の声」に迎えられ、30歳くらいになった場面に急に変わるので、読んでいる私としてはどこで何がどう変わったかまたまた戸惑うわけです。
批判をしているということではなく、こちらの読解力の浅さを思い知らされた、というか、こういう本は一回読んでわかった気になるのはよろしくないのだろうなという感想を持った次第です。ということで
この時期(1903年頃)、トーマス・マンの年譜を見ると、随分多くの仕事をしていることがわかります。中盤に対話の相手として出てくるリザベタ・イワノヴナのことを「彼と同年くらい-つまり三十をちょっと越したくらい」と説明していますが、この本が書かれたのは彼が28歳の時なので、自伝的小説と言われていますが、28歳の人が30歳をちょっと越したくらいの自分を書くという不思議な「自伝」・・・16歳までのことは自伝かも知れませんが・・・と言わざるを得ません。
あえて言えば、一番最後のところに書いているリザベタさんへの手紙に自分は芸術家でもなく一般の人でもない、どちらにも属することのできない〝あわい〟の人として生きていくしかないというようなことを宣言しているのですが、それが「自伝的」と言われる意味なのかなあとも思いました。とはいえ、読解力の浅さは否めませんので、大きな勘違いかも知れません。
終盤に再び16歳の頃の友人と恋する人と邂逅するシーンが出てきたのは、伏線回収のように思えましたが、つかの間の安心しか得られず、結局LINE既読スルーみたいな扱いで、最後の決意表明になっていくところは、この人の精神的な成長だったのか、或いは文章にすることで彼らと会話できなかったことのやるせなさを解消するものだったのか。ちょっと肩すかしを食らったような印象でしたが、訳者・実吉捷郎さんの言葉遣いがとても細やかで、今の私たちが使わないような色々な単語を駆使されており、知らない言葉の数々に触れることができたのはありがたいことでした。

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トーマス・マンの『トニオ・クレエゲル』」への2件のフィードバック

  1. 中陳様 早速の更新ありがとうございます。このところ短編とはいえ頻度が上がっていますね。ますます期待しております。

    • 浜田様
      コメントありがとうございます。
      トーマス・マンは、読もうと思っていたものは全部読めましたのでこれで(将来の読み返しは別として)終了とします。
      この先は新年度に向けた仕事の準備もありますので、読書のペースは落ちると思いますが、少しまた重めのものにも取り組んでみようかと思っております。
      (誤って同じ返信を2回しているかも知れません。悪しからずご了承下さい)

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