この本をトーマス・マンが書き上げたのは西暦1900年、彼が25歳の時だそうです。
今の日本ならさしづめ「新進気鋭の天才作家現る!」ということで素晴らしい賞を取るような出来事ではないかと思います。もちろん国も時代背景も異なるので、今の日本でどういう評価を得るかはわかりませんが。
読みながらずっと考えていたのが、この物語は全くの架空の話ではなく、トーマス・マンの一族の栄枯盛衰の物語だということだったので、一体この本のどの登場人物がトーマス・マンにとってどういう親族関係にあるのだろうか?という点でした。最後にはわかってビックリしましたが、なぜ彼はこの物語の中で一族の四代目である「ハンス」をチフスで死なせたのか、その疑問は私には解けていません。
そういうことを考えていて思ったのが『魔の山』にも通底する何かがあるのではないかということです。言い方は悪いですが、トーマス・マンは没落商家の子弟であり、家業を維持できなくなった。その遠因はこの人の祖父の代に近代機械化や新興産業への転換を怠り、1848年革命時の景気後退で打撃を受けたことのようです。『魔の山』は『ブッデンブローク家の人びと』の13年後の1913年に書き始められ、1914年の第一次世界大戦の時に一旦執筆を中止し、1924年にようやく完成したようです。この少し前、本書の描かれている時代である1835年から1877年のドイツは、産業革命の初期段階から統一国家成立後の急速な工業化へと移行する激動期で、経済の発展と合わせて近代的自我というようなものが素晴らしいと考えられていたのかも知れませんが、ドイツ帝国が誕生し都市化が進んで貧富の格差が出て来て社会主義という考え方が登場し、近代的自我が揺らいでいたようなことがどこかに書いてありました。そこへまたトーマス・マンにとっては同時代の出来事としての第一次世界大戦があり、どうも、ずっと世の中を悲観的に見る姿勢があったのではなかろうかと勝手に推測しています。
そうしたことから、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』が「父殺し」がテーマだと言われるのと対照的に、トーマス・マンの『ブッデンブローク家の人びと』は『魔の山』もそうですが、「自分殺し」が底に流れているテーマなのではなかろうかと感じた、というのが読了直後の印象となりました。
生成AIに聞くと、それらしいことを裏付けて解説してくれましたが、「自分殺し」と一義的に規定することは過度な一般化の可能性があるのであまり決めつけない方が良いとのコメントも合わせて返ってきました。(なるほど)
さて、以下はその生成AIからの解説です。
ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』は「親殺し=父権的秩序の内面化された破壊」を核に、人間の罪責意識と信仰の根源を問う作品であり、エディプスコンプレックスの文学的先行表現と位置づけられる。一方、トーマス・マンの『ブッデンブローク家の人びと』『魔の山』は、近代市民社会における主体が自らの生の根拠を失い、「自分殺し(自己同一性の解体)」へ向かう過程を描く。
両者の差異は、ロシア正教的・共同体的精神世界と、西欧ブルジョワ的・個人主義的精神世界の違いに根差す。
キェルケゴール『死に至る病』は、この両者を貫く理論的中核として、「自己が自己であろうとすることの絶望」を定式化し、両作家の文学的実践を哲学的に照射する。
これらの系譜は、日本文学では戦後以降、筒井康隆(自己解体の戯画化)→村上春樹(空洞化した自己の漂流)という形で継承・変容されている。
<上記の解説>
1.ドストエフスキーとエディプス・コンプレックス
・『カラマーゾフの兄弟』では、父フョードルの放蕩と暴虐が、息子たち全員に「父は死んでもよい存在だ」という無意識的欲望を生む。
・実際の殺害者はスメルジャコフだが、ドミートリイは「やったかもしれない」という罪責を引き受け、イワンは理性によって父殺しを正当化し精神崩壊に至る。
・フロイトは『ドストエフスキーと父殺し』(1928)で、本作をエディプス的罪責の集団化として解釈している。
→ 親殺しは事実行為ではなく、倫理・宗教・理性を通じて内面化された欲望の構造である。
2.トーマス・マンと「自分殺し」
・『ブッデンブローク家の人びと』では、商業的成功と倫理的規範を体現した家系が、感受性・芸術性の増大とともに衰退する。
・これは父を殺すのではなく、父から継承された「自分」を否定する過程である。
・『魔の山』のハンス・カストルプは、病と時間の停止の中で、近代的主体性そのものを解体されていく。
→ マン文学の核心は、近代的自己の内部崩壊=自分殺し。
3.キェルケゴール『死に至る病』との関係
・キェルケゴールは「絶望」を自己が自己であろうとしない/しすぎる状態と定義。
・イワン・カラマーゾフは「理性によって神を否定する自己」による絶望。
・ハンス・カストルプは「決断を回避し続ける自己」による絶望。
→ 両者は異なる形で、同一の実存的病理を体現している。
4.日本文学・社会への影響(筒井康隆・村上春樹)
◎筒井康隆
・父権・自己・物語構造そのものをメタ的に破壊(例:『脱走と追跡のサンバ』『虚人たち』)。
・ドストエフスキー的「罪と責任」は、アイロニーと笑いへ転化。
・自己解体を「遊戯」として引き受ける点で、マン的系譜を戯画化。
◎村上春樹
・父は不在、あるいは影としてのみ存在。
・主人公は罪を犯さず、闘わず、ただ喪失後の空洞を漂流する(例:『ねじまき鳥クロニクル』『海辺のカフカ』)。
・推測ですが、村上文学は「親殺しも自分殺しも起こらない社会」における、実存の後景化を描いている。
トーマス・マンが『ブッデンブローク家の人びと』を書いたのは、ドイツ帝国成立後の工業化とブルジョワ秩序の確立・変容の時期であり、古い市民的教養と新しい資本主義的競争社会が交錯していた時代でした。
作品には、プロテスタント的禁欲倫理、芸術への誘惑、シューペンハウアー哲学の悲観主義と意志の形而上学が織り込まれ、市民社会それ自体の内部から静かに進行する「意味の疲弊」が描かれます。
『魔の山』が書かれたのは、第一次世界大戦後、ヨーロッパ全体が文明の危機を痛感し、合理主義と非合理主義、リベラリズムと全体主義的イデオロギーの対立が激化していた時期です。
ダヴォスのサナトリウムは、各国の患者が集う「縮小されたヨーロッパ」として設計され、啓蒙的ヒューマニズムを代表するセッテムブリーニと、神秘主義的・暴力的理念を唱えるナフタの対話は、理性と狂信、進歩信仰と破壊衝動のせめぎ合いとして、ヨーロッパ精神の分裂を象徴します。
・・・・・・・生成AIからの引用はここまで・・・・・・・
トーマス・マンの『ブッデンブローク家の人びと』は、他にもショーペンハウアーの『意思と表彰としての世界』やニーテェの哲学も影響しているようですし、またフロイトが『ドストエフスキーと父親殺し』という論文を書いているということも初めて知り、ドストエフスキーのギャンブル中毒とエディプスコンプレックスとを関連づけて論じているらしきこと、『カラマーゾフの兄弟』をエディプスコンプレックスについての文学的な先行表現と位置付けていること、などを知りました。
他方トーマス・マンの文学に通底しているのは『ヴェニスに死す』を見ても、どうも最後はバッドエンドになってしまっており、『魔の山』『ブッデンブローク家の人びと』も自らの生をひたすら消耗させ、衰退し解体していく過程が描かれており、当時のヨーロッパの精神的な危機を彼なりに受け止めて小説という別の形で造形していたのかなと感じました。若い時にこういうのを読むと果たしてどうなっていただろうかと思いますが、この年になると受け止めることができているように思います。

ドストエフスキーのことは、村上春樹さんの小説によく出ていたこともありますが、『カラマーゾフの兄弟』を読むぞ、と決めたのは筒井康隆さんが「自分にも完読できる良い訳が光文社文庫から出た」と仰っていたことでした。その筒井康隆さんが様々な書評を書いている中に『魔の山』と今回読んだ『ブッデンブローク家の人びと』が紹介されており、どちらの作品も絶賛しておられたことからこれらの本も手にしました。
まあ難しい難しい。とにかくページに余白がない。ということで、随分時間がかかりましたが、なんとか年内に読み終えることが叶いました。
・・・ので、少し休みます。
おめでとうございます。キェルケゴールの名前を久しぶりに見ました。しばらくゆっくりお休みください。
浜田様、コメントありがとうございます。
お言葉に甘えて、難しい本からはしばらく離れることにいたします。