村上春樹さんの『ねじまき鳥クロニクル 第1部』

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 知人の薦め(?)で、村上春樹さんの『ねじまき鳥クロニクル』に着手。
 先日伊勢神宮に参詣した折の行きのJR車中で、「第1部 泥棒かささぎ編」のおおむね半分ぐらいを読み、その後は断続的にパラパラと読んできた。
 この第1部のおしまいの方にノモンハンでの軍隊の活動が書かれてある。
 そこまでの現代物語とはまったく様相を異にする内容で、妙な違和感があるが、この小説を書くに際して、著者はノモンハンのことを相当調べたようであり、してみると、村上春樹さんは、実はそれを強く言いたいのかな?と思う。
 特に興味深かったのが次のような記述である。(主人公が世話になった人の遺品を届けにきてくれた元軍人の回想話の中の一節)
 「戦線がどんどん前に進んでいくのに、補給が追いつかんから、私たちは略奪するしかないのです。捕虜を収容する場所も彼らのための食糧もないから、殺さざるを得んのです。間違ったことです。 (中略) うちの部隊でもやりました。何十人も井戸に放り込んで、上から手榴弾を何発か投げ込むんです。 (中略) この戦争には大義もなんにもありゃしませんぜ。こいつはただの殺しあいです。そして踏みつけられるのは、結局のところ貧しい農民たちです。 (中略) そういう人を意味もなくかたっぱしから殺すのが日本の為になるとはどうしても思えんのです。」
 この言葉が実態かどうかはわからないが、かのローマの戦争・・・周辺を攻めるけれども、人を殺すこと自体が目的ではなく、ローマ文明を広げ、それによって国境地域の安定化を図ることが目的であり、そのため恭順すれば寛容で迎え入れ、ローマ人と同じ権利義務も付与していく政策。また周辺の安定化のため、軍とともに、必ずロジスティクスを確保し(当たり前のことであるが)、コツコツと道路を建設し、医療施設や入浴施設なども一緒に建設して都市を作っていく・・・という営みと比較すると、なんということか、と思ってしまう。
 村上春樹さんはそういうようなことを訴えたいと思ったのかも知れない。
 まだ、第2部、第3部が残っているので、以上の見方は間違った捉え方かも知れないが、途中経過で感じたことを記しておきたい。

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