FM東京をキーとする土曜夕方5時からの番組「Saturday Waiting Bar Avanty」を長らく聴いている。
会社の後輩に教えてもらった。
JAZZが流れるバーのカウンターで、各界の著名人や一流の人などの日常会話にちょっと聞き耳を立てる、という趣向になっている。
番組の進行は、主に謎の大学教授がやっている。(たぶん、次元大介役の小林清志さんではないかと思うのだが)
最近は時間が合わず、なかなか聴けなかったが、Podcastでやっていることを知り、ダウンロードしては都合のいい時間に時折聴いている。
今日、2007年11月17日にアップロードされた、女優の鶴田真由さんの会話を聴いた。
鶴田さんはなんでもインドが好きで、ある時、夫が仕事ででかけた1ヶ月のインド行に同道し、自分は断食やヨガ三昧の生活をし、最終的に合流して帰国されたらしい。
その会話の中で、インドで発明(発見?)された「0」について語っておられた。
0はインドで発明されたが、ゼロというのは何もない「空」の概念ではなく、プラスとマイナスのそれぞれの方向のものが同じだけの振れ幅で存在している状態なのだ、とか。
つまり色んなものが渾然と詰まっているが、それらがバランスよく、結果的に調和し循環しているというようなことらしい。
具体的に言うと、プラスの方向とは、たとえば「生きることの諸活動」。マイナス方向とは、「人の死」。
インドでは生と死が同じ重みで普通に共存している。(というのはよく聞くことではある)
たとえばガンジス川では、顔を洗ったり洗濯したりという日常生活が営まれている一方、その川に亡くなった人の遺体を流している。
当たり前の光景だという。(これもよく聞く話である)
生に関する振れ幅と同じだけ、死に関する振れ幅がある。
またたとえば、インドでは定価以上の価格で売りつけ、不当な利益を得る人が多いらしいが、その人たちが余剰な利益をお寺に寄進する、といったことも普通に行われているらしい。
我々から見ると、だましとったお金は自分の懐に入れる、のが普通であり(もちろん良くないことだが)、それを懐には入れず、さも善行をするかの如く寄進をするというのは、やってることが矛盾しているではないか?と思うが、彼らはそれが当たり前なのだという。
これは、聖と邪の振れ幅が同じ、という例だろうか。
ゼロとは何もない状態だと捉えていたが、そうではない、という。
何も無いのではなく、色んなものがあってそれらがバランスを持って循環しているのが、どうもインドのゼロだというふうに彼女は感じたらしい。
そういう見方に初めて触れた。
面白いなあと感じ、興味深く聴かせていただいた。
インドの人々の、善悪の捉え方が違う点までは共鳴できないが、仕事や生活のON状態とゆったりした時間を過ごすOFF状態をバランスよくとる、とか、陽の食物と陰の食物をバランスよく採る、といったような(規模が小さいけど)バランスを意識した生き方は、私たちにとっても大切なことだと思った。