昨日は職場の同僚を残して、午後7時半に退社。
年明けから約束していた友人との飲みに。
2月には会おう、3月には会おう、4月には・・・と言って伸ばし伸ばしになっていたが、ようやく実現し、それでも遅刻40分。
あかんなあ、と詫びを入れつつ、駅前の居酒屋で乾杯。
共通の思い出がある
三木聖子さんの「まちぶせ」に関わる思い出である。
夕暮れの教室で、同級生がいる中で、突如三木聖子さんの「まちぶせ」を二人で手拍子しながら歌っていたことである。その後石川ひとみさんがリバイバルしたが、「断然三木聖子のまちぶせがいいっ!」と長いことお互い思ってきた。
そしてその情景や「三木聖子のまちぶせがいいっ!」ていう思いは、あの秋の夕方、同じ教室で同じ時間を共有していたはずの、他の十数人の同級生にすら共有はできない感覚ではないかなと思う。
昨年暮に仙台へ出張した彼は、三木聖子さんのやっているスナックに偶然行き、三木聖子さんに会い、三木聖子さんの生の「まちぶせ」を聞くことができ、三木聖子さんの写真を撮った、というセレンディピティそのものの体験をしている。
その感動を分かち合える喜び。ちょっと誇らしい気持ちだ。
私の頭の中で、また中2の秋の教室のシーンがまざまざとよみがえって来た。
ありがたい。
ところで、彼と二人で飲むのは、それぞれの結婚が決まったとき以来、21年ぶり。
その後、お互いの子どもたちが小学校1年のときに立山山麓家族旅行村のバンガローで泊まって家族一緒に食事をしたときからしても、10年以上あいている。
それでも会えば、一気に中学時代の心と状況に戻ってしまい、私はあけすけに全開放となってしまう。それこそ、全部さらけだしてしまう安心感というかやすらぎ感というか甘えというか・・・たぶん甘えなんだろうなと思う。
仮面や飾りというようなものを人は年を経るに従い、知らず知らずに身にまとっていく。
人によってはそれが過度になり、それで自分を守ろうとする。
弱い人間ほど、まとうものが多く、そのうち自分でも何が飾りで何が自分の生身の姿かがわからなくなってしまうのではないか。
世間の人は知らないが、自分は弱い人間だとつくづく思う。
自分をあけすけにさらけだし、甘えられる(どんなアホなことを言っても、笑って見てくれている)間柄の友人がいる、ということは大変ありがたいことだ。
そういえば、中学の頃も私のやっていることを見守ってくれていたような気がする。
後ろで見守ってくれている羅針盤のような自立性を持っているのだ。
しかし、こちらからの甘えだけの依存ではなく、大事にしていかなければならない。
さて解散後、彼は1時間かけて富山市郊外の自宅へ歩いて帰って行った。
相変わらず、静かだがきりっとしたポリシーの持ち主だ。